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2012年2月の23件の記事

「かにたま定食」食べた《菜根譚》で

Photo  東京スカイツリーも程近い《菜根譚(さいこんたん)》のランチは、「かにたま定食」。カニ、タケノコ、椎茸、長ネギの入った、ふわっとタマゴでくるんだ定食である。片栗粉でとろみをつけた「あん」が薄味でおいしい。

 実際には本物のカニは少量で、カニカマも入っていた。まあカタイことは言いっこなし。おかあさんが愛情を込めてつくってくれる感じの料理だった。

《菜根譚》の料理人のおねえさんは、なんと言っても「銀座アスター」の出身だから、パスタよりも中華料理がお得意なのかもしれない。カニや椎茸などをしっかり丸め込んで、それでいてタマゴにふわふわ感がある。900円。プラス100円でコーヒー(紅茶)付き。

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 東京では、もうすぐ三月なのに雪が降った。(それだけでニュースになる)寒いが、こんなやさしい昼食もたまにはいいものだ。

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渡辺崋山《日光街道》を行く『全楽堂日録』

Photo  『全楽堂日録(ぜんらくどうにちろく)』は、渡辺崋山の残した文政十三年(1830413日から天保四年(183336日までの約4年間の日記である。内容的にも豊かであり、史料価値も高いといわれている。渡辺崋山(わたなべかざん17931841)は、江戸時代後期の画家であり、儒学者・陽明学者で洋学者即ち思想家であり、三河(愛知県)田原藩の江戸詰め家老(政治家)である。その著作『慎機論(しんきろん)』等で鎖国政策を批判し、「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」により、幕府から国許蟄居(くにもとちっきょ)を命ぜられ、最終的には責任をとって自害している。

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この日録を書いた頃は、崋山38歳から41歳にあたる頃で、田原藩江戸詰めの役人として側用人や年寄職などを勤めており、いわば藩の中枢にいた。

 文政十三年4月、田原藩主・三宅康直が幕府の命により、徳川家康の命日に日光東照宮へ参詣する「日光御祭礼奉行」に任命された。崋山は多くの重臣たちと共に日光へ随行する。(第11代将軍・徳川家斉の時代)

 田原藩はもとより豊かではなかったが、日光参詣という思わぬ出費で資金不足に悩んだ康直は、生家である姫路藩酒井家に頼み資金を調達する。崋山は藩での役目もあってこの旅での現金出納を細かく記し、後々の参考にしようとした。また得意の画才を活かして道中の風景を写生して残している。(以下原文は『渡辺崋山集』第1巻日記・紀行〔上〕日本図書センター刊より、現代語に訳した)

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 文政十三年413日、風が強く長雨が降る中、藩主・三宅土佐守康直は日光御祭礼奉行に命ぜられ、私(渡辺崋山)も随行することになった。これより前の328日、この命が下ることを聞きつけ、田原藩江戸屋敷では想像もできなかったことで、藩の内情もきびしく、いかに資金を工面するか、藩の役人たちは大変困ってしまった。結局藩主の生家である姫路藩から家老・河合隼之助の尽力で、借金をすることになった。

 42日、家老・川澄又次郎、側用人・鷹見弥一郎と私(渡辺崋山)が藩主に呼ばれ日光祭礼奉行に任命されたことを正式に告げられた。それから皆で帳簿を出して、どうしたら資金が捻出できるか、昼夜を分けず議論をして11日になんとか見込みがついた。

江戸→千住宿→草加宿→越ヶ谷宿→粕壁宿→杉戸宿(泊)

413日夜明け前の午前4時頃、お供の者たちも揃って(現在の東京都千代田区三宅坂・田原藩上屋敷を)出発する。田安通り、まないた橋、小川町、猿楽町を通過、このあたりで夜が白々と明けてきた。土浦藩邸前、淀藩邸下を通り、昌平橋を渡って上野の山下町で休憩。千住橋を過ぎる頃、風がどんどん強くなり、輿(こし)の小窓を開けて外を見ると、隅田川は水量が多く眺めがよい。左右の岸には葦(あし)が茂り、間からかやぶき屋根が見えたりするのも心地よいものだ。

 千住宿の本陣には、幕府の儀礼式典を司る名家の宮原摂津守殿が休憩しているため、お殿様の藩主・三宅康直様は、脇本陣の下川八郎兵衛で休憩である。ここへ殿様の奥方と巣鴨様(巣鴨の田原藩下屋敷に住む三宅友信)が、お見送りにやって来た。同様に与力や同心たちも来た。彼らは見送りの礼に、殿様から小遣いをいただくが、その額が多いの、少ないのと文句をいっているのは、聞いていて大変いやしいこと限りないものだ。これが、いまの世の中の有様と思えば、別に驚くことでもない。

この脇本陣へ礼として金200疋(金2分=1/2両で約5万円)、手代の中村八太夫に100(25,000)、問屋場の役人へ100疋を渡す。ところでこの日光社参の副使(副団長)である和泉伯太(いずみはかた)藩主・渡辺備中守様は、いまだに到着していないが、時間が来たので出発することとした。東の方向には水戸街道の標識がある。

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(草加雨景:渡辺崋山)

 宵よりまどろまねば肩輿之中にて夢見る間に、二里八町行きて草加へいたる。雨なおやまず。このわたりは道の左右みな麦隴(ばくろう)水田にて、白鷺のたてるのみけしきありて奇のしるすなし。

 (今日は朝が早く)睡眠不足のため、輿の中で寝てしまい夢を見ている間に、二里八町(約8.7km)進み草加に到着。雨はまだやまない。このあたりの街道の左右は、みな麦畑と水田があり、白鷺が飛び立つ景色はあるが、特段、記述するようなものはない(素朴な)風景が続く。

草加の西に鵜沼(くぐぬま:見沼代親水公園)がある。その沼の周囲は23里あり広い。街道からは見えない。一里廿八町(約7km)で越ヶ谷宿に到着。お昼休みであり、ここで昼食をとる。この古い宿場は、粛々として雨も降っていて心細くなり、まるで紀貫之が京に上がる時を思い出させる。

私の末の弟は渡辺五郎といい、15歳であるが、今回はじめてお殿様のお供でこの旅に同行しており、気になっていたがこの休憩時に逢うことができた。疲れているような様子もなく安心した。

マクリ村(越谷市上・下間久里村)という所に鰻屋があった。小休止にしてお殿様の駕籠を止めてお供の人々も休憩した。鰻屋の名に恥じず、ここの鰻はおいしい。評判を聞きつけ江戸からも(人が)食べに来るそうだ。出されたお茶も大変おいしかった。奥座敷もきれいである。そこに儒学者の佐藤一斎先生の書が飾ってあった。

 雲行き明るくなりて晴れもやせんと思ふ。二里廿八町にして糟壁へいたる時、雲きれ風収りてこゝろよし。駕より下り立て煙くゆらしつゝ田圃の間を行く、又こゝろよし。糟壁にいたる。

 雲行きも明るくなって晴れてきそうだ。二里廿八町(約10.9km)で、まもなく粕壁(春日部宿)に着くころ、雲も切れて風も収まり心地よい。駕籠(輿)からおりてタバコの煙をくゆらせながら田んぼの間の道を歩く。気持のよいものだ。粕壁宿に到着。

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(杉戸宿 崋山)

 日が出てきて道のぬかるみもおさまってきた。岩槻の城はこの宿場から北へ三里(約12km)の距離にある。一里半(約5.9km)進むと杉戸宿である。杉戸宿の入口付近に弁天様の祠(ほこら)があった。小さな池のまわりに林があり、中に小さな庵が一つある。一人そこにとどまって風景を写生した。(愛宕神社と思われるがわからない)

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(杉戸宿 広重)

 

(杉戸宿の)本陣は海老原市八郎という家である。川澄氏、鷹見氏と本陣へ行く。田原藩目付兼勝手吟味役の斎藤式右衛門が、一行の宿の割り振りをするために杉戸へ先乗りをしている。(一行が出発した413日より前の)11日に、ここへ入り、宿の予約をしている。

 お殿様のご機嫌伺いに参上し、明日の出発時間を打ち合わせ、係りの御徒士目咐(お殿様出行の際、先導して警備をする係)へ申し渡す。本陣へ宿泊する家臣は、御納戸(衣服・調度品、献上された金銀諸物の係)二人、御近習(殿様出行の際、先駆け・警備を担当)二人、御取次(殿様と下級役人との取次ぎ係)、御賄役(料理の給仕係)、御徒士目咐、御料理人、御台所のものたちだ。そのほか、門番に小使いを置く。われわれの泊まりは、本陣の下の宿だが、よい宿である。

此宿の名はわすれたり。寛潔にて酒など打のみたるいとよし。鷹見氏、田原藩祐筆(文書の記録係)の松坂与十郎同宿にて、行すゑこしかたなど寝ながらものがたる。旅ごゝろなり。夜更て雨戸ひき明て空打ながめて、一日身謀唯在晴といえば人々笑ふ。

 宿泊した宿の名は忘れてしまった。清潔で、居心地がよく酒なども飲めて大変すばらしい。鷹見氏、松坂氏と同宿で、これから先のことや過ぎてしまったことなどを寝ながら話した。これこそ旅ならではである。夜更けに雨戸を開け放して、「今日一日、藩のために天下のために、この身をいかにすべきであるか、空はただただ晴れているばかりだ」と言うと、皆が笑った。

 本陣の主人・海老原氏に礼として300疋(3/4両、約75,000円)をあげるべく、田原藩の御賄(食糧係)・坂倉弥太羅に渡す。川澄氏がいうには、近頃、江戸に参府する際の街道での大名の宿泊の礼は、200疋(約50,000円)が相場であるらしいので、(はじめから300疋を出さずに)まず試しに200疋出してみたらいかがかとのこと。弥太羅はやむをえず、200疋出してみたところ、主人は納得しない。そこで仕方なく100疋増額して(300疋:約75,000円)を渡した。ああ嘆かわしいことだ。

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いつも落ち着くところは炒飯(チャーハン)

 何度か記事にも書いたが、昼食で迷うと炒飯(チャーハン)をよく食べる。ささやかな幸せである。いってみれば、自動販売機で前の人がとり忘れたおつりの小銭を手にしたり、朝飲んだお茶に茶柱が立っていたなどと、同じレベルの幸せかもしれない。

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 やっぱり浅草雷門の《生駒軒》がうまい。

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 業平橋の《有明》のチャーハンも捨てがたい。

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 本所吾妻橋の《祥龍坊》の中国人シェフ特製のチャーハン。まずまず。

 

 

 

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ご近所グルメ すみだ《小葉生煎》焼き小籠包

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 小籠包(しょうろんぽう)はうまい。上海名物の焼き小籠包の店が、東京スカイツリーに近い吾妻橋に最近できた。(下北沢に1号店があり、ここは2号店だそうだ)

 焼き小籠包は生煎(シェンチェン)という。小麦粉を半分発酵させてつくった皮で、豚挽肉の餡(あん)を包み、平鍋という大きな鉄板の上で油と水で蒸し焼きにするものだ。底の部分に焦げ目をつけるのがポイントだそうだ。

 熱々なので食べ方にも流儀がある。小さな小籠包をレンゲの上にのせる。上部に箸で穴をあけ、中のスープ(肉汁)をすする。これがうまい。残った部分は、酢や黒酢にしょう油をつけて食べる。(写真は店内にある食べ方の案内)

 持ち帰りが主流だが、店内でも食べられる。しかし4480円と安くはない。直径5cmと小さいので4個なんてペロリだからだ。正直、高いと思う。

    小葉生煎老舗(東京スカイツリー店) ※閉店※

    東京都墨田区吾妻橋3-2-4

    TEL0366588230

    営業時間/11002000(不定休)

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ご近所グルメ すみだ《麺屋ジュン》業平橋に開店

 東京スカイツリーからも程近い業平橋に、博多ラーメンの《麺屋ジュン》が、先月オープンした。昼はラーメン屋で夜は飲み屋(もつ鍋など)になるようだ。さて、どんなものかと、行ってきた。小さなお店である。

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 看板の「らーめん」を注文。600円。博多ラーメンである。白濁した豚骨スープ。背脂も浮く。具材は万能ネギ、メンマ、豚角煮だ。麺は当然ながら細麺である。したがって茹で時間も短く、注文してから5分以内にどんぶり登場。

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 確かにスープは豚骨をよく煮込んであり、クセもなくうまい。麺は普通の細麺で、やわらかめだ。通常、博多ラーメンの店では麺の茹で具合(カタ、バリカタ、ヤワ、コナオトシなど)をきくが、店が忙しかったためか、すぐに出てきた。

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量が少なめなので、替え玉(100円)も注文。とくに豚の角煮は、抜群にうまい。これなら夜も期待できる。もつ鍋に自信がありそうだ。どうやら焼酎の銘柄も数種ある。お店でいただいた名刺には「呑み処 麺屋ジュン」とあった。

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    麺屋 ジュン

    東京都墨田区業平橋1-13-1(ジョナサンとサンドラック前の細い路地)

    TEL0336265232

    営業時間/11301430 17302300L.O 2230

    不定休だが、当面は土曜休み

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たまに食べたい《松屋》の「牛めし」

 考えてみたら、もう1年以上も牛丼や牛めしを食べていなかった。別に「吉野家の牛丼と松屋の牛めしは、どちらがうまいか」などと、議論するつもりはない。世の中の「牛丼戦争」では、牛丼(並)の値段は《すき家》280円、《なか卯》280円、《松屋》280円、《吉野家》380円となっている。あまり低価格競争をすると、お互いに首を絞めるだけで、消費者だけが徳をするようでいただけない。

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 コストを下げるために、牛肉は国産ではなく、アメリカ・カナダ・オーストラリア産を使う。たまねぎも中国産が多い。ここでも別段、「食の安全」の議論をするつもりはないが、たとえば材料の納入業者をたたいて仕入値を下げたりしていないか、心配だ。

 何年か前、アメリカ産牛肉が輸入禁止になり、日本国内で牛丼が食べられない時期があった。たまたまオーストラリアのシドニーに出張があり、思いがけず「YOSHINOYA」を見つけて、久々に牛丼(BEEF BOWL)を食べておいしかったことがある。(以前の記事)

シドニーでYOSHINOYAの牛丼を食す

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というわけで、松屋で牛めしの大盛(いまは380円)を食べた。おいしかった。

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ご近所グルメ 浅草 佐賀ラーメン《美登里》で「ちゃんぽん」

 以前にも紹介した浅草・千束通り近くの、佐賀ラーメン《美登里(みどり)》に、

ちゃんぽんが登場したとのことで、遅ればせながら行ってきた。この店は、東京でも唯一佐賀ラーメンを看板にする専門店で、前回は「味自慢ラーメン」を食べた。最近、ちゃんぽんと皿うどんがメニューに加わったと、地元のラーメン通にきいた。

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    前回の記事

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-99ef.html

■佐賀ラーメン 美登里

■東京都台東区浅草4-24-1

TEL0358085560

■営業時間/11301500 18002100 (水曜定休)

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 店内のお品書きによれば、この店の「ちゃんぽん」は、魚介の具が入らない野菜ちゃんぽんで、スープは鶏ガラベースのあっさり系。麺の分量は約170g(豚骨ラーメンは130g)とのこと。カウンターから厨房が丸見えなので、しばらく調理の過程を見学する。大きな中華鍋で野菜をしっかり炒めている。具材はキャベツ、細もやし、タマネギにかまぼことさつま揚げ、豚バラ肉である。本当に焦げ目がつくくらいの強火である。

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 しばらくすると大盛りの野菜の載ったどんぶり。スープは鶏ガラのあっさり系というものの、結構濃い目だ。確かに魚介類(イカ、エビなど)は入っていない。野菜の甘みが効いている。麺は中太麺でやわらかめだ。なかなかうまい。普通のラーメンよりボリュームがある。780円。個人的には長崎で食べる海鮮ちゃんぽんが好みだが・・・。

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すみだ観光まちびらき

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 墨田区を歩いていたら見かけたポスター。「すみだ観光まちびらき」である。

東京スカイツリーの開業に合わせ、墨田区が盛り上がろうとしている。

 区内のたくさんの地元キャラも応援している。

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宇都宮 餃子のニュース《宇都宮餃子館》

 先頃発表になった平成23年の1世帯あたりの餃子年間支出(購入)額で、これまで15年間トップの座にあった「宇都宮市」(3,737)が、2位に転落。1位は浜松(4,313円)であった。どうやら東日本大震災の影響で、宇都宮の餃子購入額が激減したことが原因という。

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しかし総務省のこの統計は、都道府県庁所在市と政令指定都市を対象にスーパーなど小売店で購入した生や加工の餃子購入費に限られている。冷凍の餃子は、冷凍食品に分類され、宇都宮に80店舗近くある餃子専門店で買われた持ち帰りの餃子や店内で食べられたものは、外食と分類されカウントされていない。大騒ぎするほどのニュースではない。(201221日読売新聞)

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ブログの取材で宇都宮へ。宇都宮餃子館の駅前中央店へ行く。餃子セット(1,000円)を注文した。結構バラエティーに富んでいて焼き餃子、揚げ餃子、蒸し餃子、スープ餃子にごはんとお新香、杏仁豆腐である。

はっきりいって、これだけ餃子ばかりだと少し飽きる。焼きと蒸しとスープの各餃子は、そこそこうまいが、揚げ餃子は硬くてもうひとつ。宇都宮という所は、餃子専門店が多いだけあり、探せばおいしい店がきっとあるはずだ。

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焼き餃子・揚げ餃子

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蒸し餃子

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スープ餃子

    宇都宮餃子館 駅前中央店

    栃木県宇都宮市宮みらい1-6JR宇都宮駅前)

    TEL028-637-1000

    営業時間/06302300(年中無休)

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ご近所グルメ すみだ《三好弥》ランチはハンバーグとシューマイ

 東京スカイツリーの近く、街の洋食屋《三好弥(みよしや)》のランチである。本日はハンバーグと揚げシューマイ。キャベツとマカロニサラダにお新香、みそ汁がついて大盛ごはんで700円。(ごはんは少なめの小で650円)

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 ハンバーグは注文が入ってから、ご主人がペタペタとつくる。やわらかい。特製デミグラス・ソースがかかっていて、やさしい味だ。これに揚げシューマイが3個。キャベツの千切りと自家製マカロニサラダがうまい。下町の人情あふれる洋食だと思う。どんなに世の中がかわっても、いつまでも残っていてほしい店である。

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《日光街道》宿場を歩く【宇都宮大明神】二荒山神社

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宇都宮の中心に二荒山(ふたあらやま)神社がある。もちろん、日光街道が多くの旅人や参勤交代の大名行列などで賑わっていた頃、門前町としても栄えていた。江戸時代の旅人たちもこの神社で旅の安全を祈願し、おそらく門前の茶屋で休息をとっていたであろう。現在と同じ明神山の高台にある神社(当時は宇都宮大明神)からは、宿場はもちろん近くの山々の眺望もよかったらしい。

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 また、幕末の戊辰戦争のときも庶民が押し寄せ、宇都宮城や街中での新政府軍と旧幕府軍の戦いを注目していた。残念ながらこの戦いにより、宇都宮大明神の社殿等は、焼失してしまった。

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 二荒山神社の創建は仁徳天皇41年(伝353年)と伝わるため、1659年も前である。主祭神は、崇神天皇の第一皇子で毛野国の開祖・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)である。

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 江戸時代には「宇都宮大明神」とも「日光山大明神」とも呼ばれていた。なお、『日光道中絵図(笹原新田より宇都宮宿まで)』によれば、祭神は、大己貴命(おほなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、健御名方命(たけみなかたのみこと)であった。(江戸期)

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 なお延喜式神名帳に記載され、名神大社に列し、神階は正一位、下野国一宮であり、かなりの格をもつ神社である。

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 ところで祭神の豊城入彦命は武徳にも優れ、藤原秀郷、源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康など著名な武将らも戦勝を祈願し、種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられている。 平将門の乱では藤原秀郷がこの神社で授かった霊剣で将門を討ったと伝わる。また平家物語によれば、屋島の合戦において、那須与一は平家船上の扇の的を射る際に、「日光権現、宇都宮大明神、那須温泉大明神」に祈ったとそうだ。

※『日光道中絵図』:国立公文書館デジタルアーカイブより

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《日光街道》宿場を歩く【宇都宮宿】その1

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 宇都宮宿は、雀宮宿から二里一町、約7.9kmである。日光街道でも一番栄えていた宿場であった。宿内の人口は6,457人、42軒の旅籠があった。また城下町でもあり、門前町でもあったため、門前や寺社地域の人々を加え、人口15,500人であった。(天保14年)

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 日光街道を行くと、宇都宮市不動3丁目の不動前の交差点で、左斜めに入る道になる。

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小さな不動堂が建っている。中には50cmほどの大日如来の化身である大日大聖不動明王像が、けわしい表情で安置されている。

(宇都宮市の案内板より)

江戸時代の初めころ、宇都宮城主本多正純(ほんだまさずみ)は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。

不動堂は初め、この場所より旭陵(きょくりょう)通りを少し入った辺りにありましたが、後にここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。

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☆蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺい・ちょくせいひ)

明治三年(1870)、宇都宮藩知事が、蒲生の遺功(死後に残された業績)をたたえ、碑を建てたもの。

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☆新町のケヤキ

江戸から宇都宮城下への入口にあたる場所に立つ。樹高43m、枝張り東西34m・南北31m、周囲7.9mで樹齢は800年以上といわれる。昔から旅人の目印となっていた。

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■台陽寺(宇都宮市新町1-6-12)西原山円門院。曹洞宗。

慶長十年(1605)、宇都宮藩主・奥平家昌が大中寺(下都賀郡大平町)の11世宗寅(寅寛大和尚)を招いて宇都宮城内に建立。その後、元和五年から八年(16191622)、藩主・本多正純時代に、城下町割り(改修)により、現在地に移設した。享保六年(1721)には本堂を再建したが。昭和二十年(1945)7月に宇都宮大空襲で焼失。

現在の本堂は終戦後に再建されたもの。

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不動前通りから入って山門の手前には子安地蔵堂が建っている。この地蔵尊は宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵であり、最初は宇都宮城内にあった。その後、大正九年(1920)にここ台陽寺に移され、子育て地蔵として地元の住民たちの篤い信仰を集めている。

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☆熱木(ねぎ)不動尊

初代下野の国司宇都宮宗円(初代・藤原宗円)が、天皇の命を受けて奥州征伐に遠征、城山村多気山頂上に陣を張ったときに、戦勝を祈願して不動尊像三体を造成したという内の一体で、世にも得難い不動明王で願い事叶うという伝説がある。そんな由緒があるようにはとても思えない。現在は、近隣の自治会の公民館(集会所)のようだ。

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■一向寺(宇都宮市西原2-1-10)清照山専修院。時宗。

健治二年(1276)、宇都宮景綱の開基。本尊は阿弥陀如来像(銅造、重要文化財)

別名汗かき阿弥陀といわれている。境内には戊辰戦争ゆかりの墓碑がある。

<戊辰戦争六道口戦死者慰霊碑>

 近年造られた六道口戦死者の慰霊碑。

<官修墓/倉田弥重墓>

宇都宮藩士倉田弥重の墓。830日早朝、田島を出発した西軍は、会津を目指し進軍。沼山集落付近で東軍と交戦し、東軍は敗走するも、宇都宮藩士の五番隊長、倉田弥重が狙撃され戦死、享年42歳。傍には「倉田家」の墓があるので、倉田家の菩提寺として、この一向寺に墓が建立された。

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■報恩寺(宇都宮市西原1-3-13)山号:松嶺山。臨済宗。

開山は宇都宮藩藩主・奥平家昌の正室・仙遊院(本多忠勝の娘)、創建年は寛永十六年(1639)といわれる。

1639年には、家昌を継いだ後、幼少のため一時古河に所替えとなった奥平忠昌が、後継の本多正純を継いで宇都宮藩主となっていた。寺域には宇都宮氏の五輪塔があるが、その由来は不詳である。

戊辰戦争(宇都宮城の戦い)では、寺域に近い六道の辻が主戦場となり、その戦火で本堂を焼失している。現在の本堂は、その後再建したものである。

山門茅葺の唐門は、寛永十六年創建時そのままの状態といわれ、宇都宮市に残る最古の木造建築物と推定される。宇都宮市指定文化財となっている延命院地蔵堂は18世紀初頭の建築であるが、これも古い木造建築であるといわれている。

 境内には戊辰戦争(宇都宮城の戦い)で亡くなった宇都宮藩士の墓や薩摩藩、長州藩、大垣藩の戊辰薩藩戦死者墓・戦死烈士之墓がある。また戦死烈士之墓の前には、寺域であるが鳥居が建てられている。とくに<薩摩藩戦死者之墓>は、境内入って直ぐに、官修墓地と向かい合って、目立っている。

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■戊辰之役戦死墓(宇都宮市六道)

 会津の飯寺で宇都宮藩兵の戸田三男隊に捕われた長岡藩の山本帯刀は、死を覚悟し、自らの愛刀と部下の持っていた軍用金を集め、戸田に渡し「これを貴藩に提供す、相当の費用に当てられんこと」と嘆願し従容として死に就いた。戸田は帰藩後、有志の賛同を得て旧幕府軍戦死者の墓地を整理して建碑。(山本の愛刀は二荒山神社から護国神社に移管され、現存する)碑文によると、『六道口において官軍と幕府軍との間で大激戦があり、付近には多数の死体が散乱していた。官軍の戦死者は報恩寺に葬られて立派な墓碑が建立されたが、幕府軍は賊の名をもって呼ばれた。その幕府軍の戦死者は土地の人々により仮埋葬されたまま、供養もされずにいたが、明治7年宇都宮藩士戸田三男等各士族と付近の住民によって墓碑が建立された』とある。

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■六道閻魔堂

 このあたりは、江戸時代に壬生や佐野、楡木などから宇都宮城下へ向かう六本の道が集まっていたので、仏教でいう六道と呼ばれていた。元禄十四年(1701)、光琳寺の専誉上人がお堂を建て、高さ2.4mほどの閻魔大王を祀った。しかし明治はじめの戊辰戦争で焼けてしまい、明治三十九年(1906)に建て直したもの。

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 さて日光街道は、旧町名でいえば南新町→熱木町→「歌橋町」→「大黒町」→「蓬莱町」と続く。蓬莱町には昔なつかしい建物で、質屋「米兵商店」が残っている。

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さらに、「茂破町」→「材木町」と続き、裁判所前を右折すると、「新石町」で、このあたりが日光街道(日光道中)と奥州街道(奥州道中)の追分である。日光街道は左折するが、まっすぐJR宇都宮駅方向に進むと「伝馬町」となり、本陣跡上野家の敷地だ。

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☆旧町名(宇都宮市提供)

○歌橋町:うたのはしまち

昔、この辺りに住んでいた人が歌を詠み、その歌が万葉集(まんようしゅう)に載)ったという伝説により、町名が起こったといわれている。古くは、宇田橋町(うたのはしまち)とも書かれていた。江戸時代には日光街道沿いに七のつく日に市(いち)がたち、賑わったという。

○材木横町:ざいもくよこちょう

この付近は、日光街道沿いの材木町から西へ延びた町人町であったので、材木横町と呼ばれるようになったという。大運寺(だいうんじ)の門前町として開け、町内には傘屋・桶屋・粉挽き屋(こなひきや)などが軒を並べていた。明治時代の初め頃、境町(さかいちょう)となった。

○大黒町:だいこくちょう

この付近に、古くから三面大黒天が祀(まつ)られていたので、大黒町と呼ばれるようになった。江戸時代には日光街道沿いに町家が並び、宿屋が多かったという。また、七のつく日には市(いち)がたち、賑わいをみせた。

○蓬莱町:ほうらいちょう

この付近に、古くから蓬莱観音(ほうらいかんのん)を祀ったお堂があったので、蓬莱町と呼ばれるようになったと伝えられている。江戸時代には日光街道沿いに町家が並び、七のつく日には市がたち、賑わいをみせた。

○伊賀町:いがまち

この付近は、宇都宮城下の西端に位置した武家屋敷町で、宇都宮氏の時代に芳賀伊賀守ゆかりの土地であったことから、伊賀町の名が付けられた。江戸時代には、楡木・栃木へ通じる六道口(ろくどうぐち)を警備する役人の屋敷が置かれていた。

○材木町:ざいもくちょう

この付近は、宇都宮城の北西に位置した町人町で、特に藩の御用材を商う材木問屋が軒を並べていたことが、町名の起こりと伝えられている。町の中ほどから東の城内へ通じる道には不明門(あかずのもん)と呼ばれた木戸番所があった。

○茂破町:もやぶりちょう

この付近は、宇都宮城主・本多正純が日光街道を開くまでは、竹薮(たけやぶ)や雑草の生い茂る原野であったところを、「茂(も)を破(やぶ)って」町づくりしたことから、茂破町と呼ばれるようになった。江戸時代には、二のつく日に市(いち)がたち賑わいました。明治時代の初めになって、茂登町(もとまち)と改められた。

○新石町:しんこくちょう

この付近は、元和五年(1619)年頃下町の米屋3軒が移転してきたことから、はじめは西石町(にしこくちょう)と呼ばれ、後に新石町と呼ばれるようになったという。町の南側には日光街道を往来する荷物の重さを調べる貫目改所(かんめあらためじょ)が置かれていた。

○伝馬町:てんまちょう

この付近は、元和五年(1619)、宇都宮城主・本多正純による城の大改修のときに、下町にあった問屋場が移転された所。日光街道と奥州街道の分岐点にあたり、荷を運ぶ人馬(伝馬:てんま)が備えられていたことから、この町の名が生まれた。町内には大名の泊まる本陣をはじめ、たくさんの旅籠屋(はたごや)が軒を並べ、城下では最も賑やかな所であった。

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《日光街道》宿場を歩く『宇都宮城』

 《日光街道》の宇都宮宿は、宿場町であると同時に、城下町でもあり、宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった。城は残念ながら慶応四年(1868)、戊辰戦争で焼失してしまったが、宇都宮城址公園として再現されつつある。

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 宇都宮城は、天守閣はない平城だが清明台櫓(せいめいだいやぐら)と富士見櫓が復元されて美しい。また石垣はなく高さ10mの土塁が続いている。

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宇都宮城の基を築いたのは、平安時代後期に藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれている。中世の鎌倉時代以降には、宇都宮氏が代々城主を務めた。近世に入ると、宇都宮氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、江戸時代には譜代大名の居城となった。

 とくに徳川家康の側近であった本多正純は、城と城下町の大改修をおこない、宇都宮の街並みの原型をつくったといわれている。

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 近世、宇都宮城の最大の特徴は、「将軍の日光社参における宿城」となったことである。日光社参は、徳川将軍(あるいは大御所や将軍家嫡子の大納言)による日光東照宮参詣のことで、幕府の権威を全国に知らしめる重要な公式行事であった。

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最初の日光社参は、元和三年(1617)徳川秀忠であり、最後は天保十四年(1843)の徳川家慶であったが、幕府の財政が逼迫するまで、合計19回実施された。その内16回が第四代家綱までに集中しており、とくに家康を崇拝していた第三代家光は10回と歴代最多であった。

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模型では、堀に囲まれた中心が将軍の宿泊する本丸である。なお清明台櫓は、天守閣の役割をしていたようだ。

宇都宮城といえば「釣天井事件」といって、城主・本多正純が日光社参から帰る秀忠を、からくり仕掛けの天井をつくって落下させ暗殺しようとしたという話がある。これは正純が、急に出羽(秋田県)に配置換えになったことから生まれた創作で、講談や芝居の題材になったことからよく知られている。史実ではない。

(参考:宇都宮市教育委員会文化課『宇都宮城』、宇都宮市都市開発部公園管理課『宇都宮城址公園』パンフレット)

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《日光街道》幸手宿に伝わる将軍吉宗の弁当

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 江戸時代、日光東照宮へ家康の命日に合わせて何人かの将軍が、参詣した。江戸城を出発して、「日光御成街道」を行き岩槻城で1泊後、幸手(埼玉県)で日光街道に入った。そして幸手の由緒ある聖福寺昼食休憩をした。享保十三年(1728414日には、第8代将軍・徳川吉宗が実際に食べた記録が残っているそうだ。

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 この時の昼食のレシピをもとに、地元の割烹料理店『ときわや』が料理を再現しているそうだ。幸手商工会さん撮影の写真を見ると、いかにも質素な野菜中心のものだ。

メインは焼き豆腐だ。レンコン、インゲン、ヤマイモの煮しめ、たけのこも煮物である。玄米のごはんに漬物はダイコン、ショウガ、小梅。汁物は小松菜や豆腐のお吸い物らしい。(おいしいらしい)

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 しかし、疑問なのが吉宗の好物「鯛の刺身」をつけていることだ。(もちろん当時のレシピにはない)

江戸時代の幸手では、海の魚の刺身など食べられるはずがない。内陸部でしかも交通事情の悪い時代である。せいぜい川魚を食べるか、海のものでも塩漬けでなければ無理なはず。もちろん、割烹料理店なので現代人の舌に合うように、アレンジしてお刺身をつけたのだろう。でもこれはどうだろうか。江戸の食文化、しかも将軍の昼食を再現するのであれば・・・。

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《日光街道》宿場を歩く【雀宮宿】

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 雀宮(すずめのみや)宿は石橋宿から一里二十三町、約6.4kmである。人口は268人、旅籠は38軒で、宿場の長さは南北に五町二十間(約580m)と、やや小さなものであった。(天保14年)現在の栃木県宇都宮市雀宮町である。

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 現在、ベビー子供服の西松屋前に「雀宮本陣跡」の碑が残っている。本陣小倉家跡である。先祖は阿波守守信(あわのかみもりのぶ)と称し、天正年間(1573頃)には宇都宮家に仕え、真岡城主にもなった。しかし宇都宮家の没落後、雀宮に土着して、代々名主と本陣を勤めた。当時の本陣門は、埼玉県和光市に移築されているそうだ。

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(小倉家本陣門写真:『雀宮地域の文化財』より)

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 この本陣跡の向かいで、雀宮駅から来る道の角には、「仮本陣芦谷(あしや)家」が残っている。長い板塀に囲まれた門、屋敷である。多くのガイドブックでは“脇本陣”とされているが、地元では仮本陣という。格は上である。芦谷家は、歴代芦谷治左衛門(あしやじざえもん)を襲名し、名主・旅籠・農業を営んでいた。現在の建物は嘉永元年(1848)の再建。明治14年(1881)には、明治天皇が上段の間でご休息された。

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 日光街道を進むと、馬頭観音がお堂に祀られている。安政五年(1858)のものだ。さて、日光街道でもしばしば馬頭観音を見てきた。牛馬などの家畜や重い荷物を運ぶ馬の病気防止や安全を祈願するため、石に刻んで信仰された観音様である。馬頭観音の下には「馬力神」と刻まれた小さな石塔がある。愛馬の供養のために馬の守護神を彫ったものに違いない。

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 地名のもとになった雀宮神社である。日光街道に面して鳥居が立っている。

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☆雀宮神社(宇都宮市雀宮町289

長徳三年(997)、八幡太郎義家(源義家)によって創建された。(よくある話だが、奥州征伐の折、この神に戦勝を祈願し、帰り道に勝利を祈念して社殿を造営したという)

Photo_9  正徳三年(1713)には東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅額が下賜された。この額が社頭にあったため、将軍家をはじめ諸大名は、この神社の前で下乗して参拝したと伝わる。その勅額はいまでも本殿(神殿)に保存されている由緒ある神社だそうだ。

ご祭神は、ミモロワケノキミを主神にスサノオノミコトとオオヤマズミノミコトを祀る。(勅額写真:『雀宮地域の文化財』より)

産土型(うぶすながた)神社として五穀豊穣祈願、感謝の祭り、共同体(村)の安寧が神社の中心だが、家内安全、商売繁盛、病気平癒、怨敵退散、学業合格祈願、交通安全等の勧請型(かんじょうがた)神社としても崇拝されている。(雀宮神社由緒書より)

 八幡太郎義家こと源義家は、平安時代後期の武将だ。鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府の足利尊氏の祖先にあたる。前九年の役(1062)、後三年の役(1083)で活躍。奥州(東北地方)を支配し朝廷に反逆していた安倍一族を滅ぼした。(奥州征伐)

 ※多くのガイドブックや日光街道関係のブログには、雀宮神社創基の伝承として「藤原実方(さねかた)」の話が載っている。平安時代の貴族で歌人としても知られる藤原実方は、藤原行成(ゆきなり)と宮殿で争い、行成の冠を投げ落としたことで帝の怒りに触れ、陸奥守に左遷されてしまう。この地まで後を追って来た妻が亡くなってしまい、社殿を建て祀った。2年後、陸奥の任地で実方も亡くなり、「雀」に姿を変え飛んできて社殿に入った。そこで夫婦共に祀られた。これが雀宮神社のはじまりという。

(神社に掲示されている、氏子総代の『由緒ある雀宮神社』平成224月には、藤原実方の記載は一切ない)

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雀宮神社の前、日光街道には「東京から100kmポスト」が建っている。ここから日光までは約40kmである。

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 雀宮駅へ戻る途中に地蔵堂があった。小さな地蔵菩薩が中に安置されている。

福寿地蔵尊と比丘尼仏

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地蔵尊は、宝暦十年(1760)に窮乏の苦境から逃れる切実な願いを込めて祀られた。地蔵尊の横には「宝暦十年」と彫られていた。

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また、ここに享保年間(1725頃)にこの地で亡くなった尼僧の冥福を祈って建てられた比丘尼仏があるとのことで探した。向かって右側のこわれかけた小さな石像だ。向かって左側には、かわいらしく愛想のある小さな地蔵がある。

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近くに「南無妙法蓮華経」と彫られた石塔がある。これも古い。日蓮宗の布教塔と思われる。近くに日蓮宗の寺院があるはずだが、不明。

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ちなみにJR雀宮駅は、20113月にリニューアルされ、最新式の駅舎になった。いよいよつぎは、宇都宮宿である。

※参考資料:雀宮郷土史研究会・雀宮地区まちづくり推進協議会発行『雀宮地域の文化財』

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《東京スカイツリー》と梅の花

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 寒い日が続く中、久々に青空である。東京スカイツリー敷地内に植えられた梅の花もようやくふくらみ始めた。スカイツリー本体の内部工事もまもなく終了する。

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東京ソラマチと呼ばれる街区のビルディングの工事も急ピッチで進んでいる。マクドナルドやスターバックス、ファミリーマートなどは、ロゴマークも付き、ひと目でわかるようになってきた。522日の開業まで、あと3ヶ月だ。

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 ここにはレストランやファッション、雑貨など310店舗の専門店が入る。1階から5階にはショップが、67階にはレストランが入店するという。

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ご近所グルメ すみだ《江戸むら咲》ハンバーグがリニューアル!!

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 東京スカイツリーの真下にある焼肉屋さん《江戸むら咲》のランチ。ハンバーグがリニューアルした。あらかじめデミグラス・ソースがかかっている。付け合せも山盛りのフライドポテトのみになったが、あいかわらずボリュームがあり、しかもおいしい。

サラダ、ライス、スープ、お新香、コーヒー(紅茶)付きで900円。満腹だ。

「黒毛和牛100%ジューシー 自家製ハンバーグ」と表記されている。なるほど看板に偽りなし、といったところである。

※内容がかわってしまい、とてもおすすめできません。(2012年10月追記)

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《日光街道》宿場を歩く【石橋宿】その2

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 石橋宿には昔の町並みがいくつか残っている。愛宕神社から石橋駅への四つ角までに、味のある民家が数軒あった。

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 駅前には、「かんぴょう」を扱う店もあった。

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 手打ちそばの清水蕎麦屋は、いかにもうまそうな店の造りをしている。

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開雲寺である。金剛力士像2対を配した山門を入ると、右に鐘楼、左に地蔵堂がある。正面には本堂が構え、左手奥に書院、その手前が庫裏で、右手奥には護摩堂が鎮座する堂々とした寺である。

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■開雲寺(下野市石橋284-1)石橋山阿弥陀院開雲寺。真言宗智山派。

宝亀十二年(781)、下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師により、薬師如来を御本尊に「瑠璃光院東光寺」として開山された。境内東北南の三面には濠を巡らした七堂伽藍の大山であった。文亀二年(1502)、宇都宮左少将成綱朝臣が多功岩見守満朝に命じて、東光寺を現在地に移し、伽藍を再興、澄海上人を請じて、阿弥陀如来を御本尊として安置し、「円明山開雲寺」と改称した。

江戸時代の慶長九年(1604)には徳川将軍より寺領七石の朱印を賜わり、日光廟造営後、徳川将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となる。

慶安二年(1649)、宇都宮城主奥平忠昌が将軍の休泊所として御殿所を構築し、寛文四年(1664)に寺に寄与し、以後「御殿所開雲寺」と称する。さらに忠昌は寛文十一年(1671)、

石燈篭一基を寄進し、この燈篭は山門を通り左手に現存する。また、この当時を物語る絵図面も残っており、開雲寺の興隆を偲ぶことができる。

しかし、江戸時代も末期を迎え世相不穏の中、開雲寺も嘉永三年(1850)には類焼によって殿堂を焼失、さらに再建の最中、嘉永六年(1854)に失火、再び殿堂を焼失してしまった。翌年には仮の建物を建築したが、以後開雲寺は、昭和46年(1971)に本堂が、そして昭和62年(1987)に書院・記念堂・庫裡が落慶するまでの一世紀以上にわたり仮住まいを続けることになる。

 明治に入ると、元年より、真岡県・日光県等が統合され栃木県となるまでの約四年間、開雲寺に仮庁舎がおかれ、また明治九年(1876)、明治天皇の奥羽御巡幸に際しては御休憩されるなど、近代化の流れの中でも重要な役割を果たしてきた。

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 街道を行く。大谷石の塀のある屋敷だ。火に強く削りやすく軽い大谷石は、見た目もきれいだ。

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 「石橋あやめ園」の看板がある。時期ではないので行かないが、地元では有名とのこと。このあたりの地名は「通古山(とおりこやま)」とあり、かつて下古山(しもこやま)村であったが、日光街道が出来て人通りが多くなってきたので現在の地名になったそうだ。

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 東京から95km、宇都宮まで13kmの道路ポストがある。このあたりで「上三川町(かみのかわまち)」に入る。古くは“上之川”であって「之」が「三」に変化したようだ。

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 下野警察署(旧石橋警察署)の先に、ラーメン屋やそば屋であった「本陣」の兜武者が廃墟となって残っている。実に異様な風景だ。

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 しばらく行くと、大谷石の土蔵があり、「肖像画」店の店先に蛙と小さな「日光街道」の道標がある。

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 続いて街道の右側に小さな鞘堂地蔵尊(さやどうじぞうそん)がある。

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天授六年(1380)、宇都宮基綱と小山善政の軍勢が、激戦を繰り広げ、宇都宮軍が敗北し300余が討ち死にした。これを「茂原合戦」というらしい。その際、村人たちが亡くなった兵士たちの刀の鞘を集め、地蔵堂を建て供養したのが始まり。その後いつしか、この地蔵は安産にご利益があると信仰され、男の子なら白、女の子なら赤いひもを2本つくり、奉納するようになった。

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 このあたりの地名は「上三川町鞘堂」である。

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 村の鎮守であった星宮神社が町はずれにある。案内板等説明が一切ないため、由緒はわからないが、古いお社である。石橋宿も終わる。

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 歩き続けると、「茂原観音入口」の石碑がある。ここから2kmもあるためあきらめる。

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 自衛隊の駐屯地である。

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《日光街道》宿場を歩く【石橋宿】その1

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 小金井宿から石橋宿まで、一里十八町、約5.9kmである。現在の栃木県下野市石橋地区にあたる。宿場の人口は414人、旅籠は30軒と記録が残る。(天保14年)前回は小金井駅からJR宇都宮線に乗って帰宅したため、今回は石橋駅で下車し、日光街道を小金井駅方面に少し戻るところからスタートである。

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 小金井から石橋あたりは、栃木の特産品「かんぴょう」(夕顔)の生産地である。かんぴょうは、夕顔の実を長く削り、天日に干してつくる。史料にもよるが、全国のかんぴょう生産量は、384トン。栃木県産は、下野市・小山市・壬生町が主な産地で、全国の95%以上を占めている。そこで「夕顔の橋」まで戻り、石仏群を見学。(写真:栃木県干瓢商業協同組合)

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 夕顔の橋の石仏10体は、地蔵菩薩や如意輪観音などだが、磨耗が激しくて年代などの文字が読めない。おそらく近郊から、この街道に集められたものだろうが、いわれがわからない。資料によれば、「享保三年(1718)」や「延享四年(1747)」の年代が刻まれた石仏があるという。またここは、星宮神社への入口である。

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☆☆街道歩きの昼食は、「ラーメン 味番人」に決めた。

当店いちおしの「野菜あんかけラーメン」840円を注文。とにかく、熱々なので、冬場は最高だ。具材は白菜、キャベツ、きくらげ、ピーマン、パプリカ、もやし、長ネギ、ニンジン、インゲン等、季節の野菜が満載。中太麺はやわらかめだが醤油ベースのスープにマッチしておいしい。片栗粉のあんかけ仕立のため、最後まで冷めない。

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調理場では、ご主人が健闘中だ。どうやら全国のラーメンを食べ歩き、麺やスープも

こだわりをもって、一生懸命つくっている感じが伝わってくる。女性客が多いのにはびっくり。ラーメン(味噌・醤油・塩)に唐揚げと餃子のつくサービスセットが、飛ぶように売れている。交通が不便な場所なので車でしか行けそうもないが、間違いなくおすすめのラーメン屋さんだ。

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■ラーメン 味番人

■栃木県下野市下石橋321-1(JR石橋駅から徒歩約10~15分)

TEL:0285-53-7456

■営業時間/10:30~14:00 18:00~23:00(月曜休み、祝日の場合は営業)

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☆グリム童話の姉妹都市「旧石橋町」

 JR石橋駅前にはドイツ・ヘッセン州の旧シュタインブリュッケン村との姉妹都市記念の塔が建っている。また石橋には「グリムの森」という娯楽施設がある。これはグリム兄弟が生まれたシュタインブリュッケン(シュタイン:石、ブリュッケン:橋)との交流を通じ、グリムの童話を基礎に夢とロマンのまちづくりを目指すものだ。石橋町は合併により下野市となったが、シュタインブリュッケン村も周辺の村と合併し、現在はディーツヘルツタールとなっている。

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 さて日光街道に戻るが、石橋宿の入口に村社であった愛宕神社がある。天平三年(759)の創建とされる。

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 石橋駅に入る街道の角近く西側(日光に向かい左側)に、本陣の伊沢越前守宅跡がある。現在、伊東屋薬品店がある場所だが、小さな伊沢家の屋敷神だけが残っている。

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東側には伊沢茶舗があるが、問屋場の伊沢出雲守宅だ。(多くのガイドブックには、このお茶屋を本陣跡と記載しているが、誤りである)

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また脇本陣であったのが、伊沢写真館である。この石橋の宿の役人を務めた伊沢家は、中世の下野宇都宮氏の有力武将・多功氏一族に仕え、この石橋の地で農民になった由緒ある家柄であるそうだ。

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☆孝謙天皇神社(下野市上大領)

石橋駅からは日光街道を横切り、直線で1.6kmもある。町はずれの小さな神社だ。

 神社前にある氏子の方々が建てた案内板「孝謙天皇神社由来」によれば、下野薬師寺の別当に弓削道鏡が配流されたのを孝謙天皇があわれみ、この地に来たが病没したとも伝わる。実際、孝謙天皇は平城京で崩御されており、道鏡と共に都から左遷された女帝付きの高級女官が、天皇の遺骨を分骨して運んできたか、もしくは道鏡が遺髪や遺品を持参し、「西光寺」(廃寺)に安置し供養したらしい。その後、村人たちがお骨(舎利塔)を御神体に祀り、孝謙天皇神社と改めたそうだ。いずれにせよ、歴史ロマンは謎である。

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《日光街道》宿場を歩く【小金井宿】

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86km

 小金井宿は新田宿からわずかに二十九町、約3.2km。人口は767人。旅籠43軒であった。(天保14年)現在の行政区は、栃木県下野市である。2006年1月に、河内郡南河内町、下都賀郡国分寺町、同石橋町が合併してできた市だ。

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 ここ小金井宿の最大の見所は「小金井の一里塚である。保存状態がきわめてよく、日光街道(日光道中)では唯一、国指定史跡になっている。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは、慶長九年(1604)。江戸日本橋を基点に一里(約3.92m)ごとに築かれたのが、一里塚だ。「小金井一里塚」は、日本橋から22番目のもので、江戸から二十二里(約86.4km)の地点である。現在の計測では、実際の距離は90km以上あるという。

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 一里塚は五間(約9.1m)四方の四角形に築かれ、榎(えのき)が植えられたが、いまでは変形して丸塚となってしまい、日光に向かって左の西塚には何代目かの榎が、右の東塚には榎とくぬぎが植えられている。右と左の塚の間が、日光街道の五間(約9.1m)の道幅で、現在の地表の約80cm下にあったことがわかっている。

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 旅人にとって一里塚は、道のりの目安となり、荷物や人を運ぶ(人足、馬引き、籠屋)料金の基準となっていた。

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どっしりとした、たたずまいを見せる慈眼寺がある。

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■慈眼寺(下野市小金井1-26-2)金剛乗院多宝山。真言宗智山派。

山門を入ると、右側に大きな布袋尊、石仏が数体ある。十九夜塔、二十三夜塔、二十六夜塔などである。

 境内の赤い千手観音堂は、江戸時代の建物。堂内には弘法大師作の千手観世音菩薩、延命地蔵菩薩、毘沙門天が安置されている。下野西国二十三番札所として、縁結び・安産・子育ての観音様として信仰されているそうだ。

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建久七年(1196)、下野の豪族・新田義兼公の開基により新田一族の祈願所として建立され、七堂伽藍のある東国の名刹寺院として、代々新田氏に保護されてきた。

 応永年間には醍醐の俊海僧正を迎え、中興第一世とした。それにより、京都醍醐寺の直末寺院となり末寺十数ヶ寺を有し、室町幕府の保護を受けて、寺門は大いに隆盛を極めた。

 江戸時代にはいって、慶安二年(1649)、徳川家光より、先規の例に習い、御朱印二十石を賜ると共に、これまで学問と修行の道場として活動してきた慈眼寺が、公式に常法談林として認められた。

 また、日光街道が整備され、とくに日光東照宮完成後、日光社参の将軍家は、慈眼寺を昼食所として定めた。それによって、将軍家とは、深い関係を持つに至った。

 その一例として、『宇都宮藩史録』の中に、享保十三年(1728)吉宗公の御時の記述がある。

四月十三日将軍家江戸発駕、岩槻城(城主永井伊豆守)泊

同 十四日御昼休幸手、古河城(城主本多中努太夫)泊

同 十五日御昼休、小金井慈眼寺、山城守名代日向守(宇都宮城主・戸田日向守忠眞)御迎トシテ参上、慈眼寺(入御ノ節、門前ニ於テ御目見、上意有之、相済テ宇都宮帰ル、

同 十六日宇都宮城出御

同 十七日御祭礼

同 十八日日光山出御、宇都宮城泊

同 十九日宇都宮城、出御 小金井慈眼寺ニ於テ御昼休

(訳文)

4月13日将軍一行、江戸を(籠で)出発し、岩槻城に宿泊/14日幸手宿で昼食休憩、古河城に宿泊/15日小金井宿慈眼寺にて昼食休憩、(将軍到着時、慈眼寺門前で宇都宮城主があいさつ後、城へ戻る)宇都宮城宿泊/16日宇都宮城出発/17日東照宮にて祭礼/18日日光山出発、宇都宮城宿泊/19日宇都宮城出発、小金井宿慈眼寺にて昼食休憩。

 また古文書によると、慈眼寺の住職は、毎年正月、江戸城に年始に参内することを許されていた。寺社奉行から拾万石大名の待遇をうけ、宿は江戸湯島天神門前町伊勢屋彦七旅館と定められており、二十日間を要する大行事であったようである。

安永五年(1777)には、将軍家治公の御来山を戴き、将軍家との関係も益々深くなり、

諸堂の改築もおこなわれた。

「寺宝」として祖弘法大師御遺告二十五条巻物(長さ九米余)や雨乞いの龍(左甚五郎作)、徳川家光寄進の葵紋打出し青銅三重杯、十一面観世音軸、御朱印箱(慶安二年八月二十四日良善頂之、徳川家光公より歴代将軍の御朱印証と御朱印書上帳)等がある。

 また、野口英世博士の恩師の墓が慈眼寺にある関係で納められた英世観音もある。

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 慈眼寺の隣には金井神社(下野市小金井1-26-16)がある。

村社とある。古くから村の鎮守様であったのだろう。鳥居をくぐると本殿までの参道にたくさんの赤い灯籠が立ち並び、壮観である。

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『金井神社 本殿案内板』より

 本殿の建築様式は一間社三方入母屋造といい、壁面には透彫りや丸彫りなどの立派な彫刻が施されています。この彫刻は江戸末期(1800年代)の製作と考えられ、作者は磯部氏系統の彫刻師であろうと推定されています。本殿の素材にはけやきが用いられており、素木造で彩色はありません。屋根はこば葺きで壁面には当時の人々の名前が刻

まれており、両側には彫刻の施された脇障子が付いています。

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 しばらく日光街道を進む。小金井宿の中心に本陣跡の大越家の門が残っている。塀は特産の大谷石である。栃木県宇都宮市の北西部・大谷町一帯で採掘される大谷石は、やわらかく加工しやすく、耐火性にすぐれ軽量のため、このあたりでは外壁や土蔵に多く使用されている。

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 宿場町らしい古い家並みもある。旧呉服屋だが、先の東日本大震災で工事中。

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 やがて右手に、いまは小さな蓮行寺の山門が見える。

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■蓮行寺〔れんぎょうじ〕(栃木県下野市小金井2936)珠栄山。日蓮正宗。

650年も前に建てられた古刹だが、どうやらたびたびの火災で再建されている。現在の建物は、まだ新しい。境内のすぐ後ろを東北新幹線が走っている。

 正平15年(1360)、開基は日蓮正宗大石寺第5世法主日行上人。江戸時代には将軍の日光社参の際、宇都宮藩主は蓮行寺にて出迎えていたそうだ。文政6年(1823)、火災で焼失し、再建される。

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 江戸時代の旅行ガイドブック『諸国道中商人鑑』の「小金井宿」のページである。

小金井宿中程 御泊宿(おとまりしゅく)加賀屋小間物屋定宿

控本陣 藤屋宇右衛門

小金井宿問屋場向 御茶漬 御休泊所 御酒肴

(菱屋亀右衛門)

まもなく自治医大駅になる。小金井宿を終える。

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《日光街道》宿場を歩く【新田宿】

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 新田宿は栃木県小山市羽川(はねかわ)地区である。小山宿からは一里十一町、約5.1km。宿場は、現在の小山市立羽川小学校(小山市羽川125)の先、JAのガソリンスタンドあたりから銅市金属工業(ドーイチ:小山市羽川466)あたりまでの1kmほどの距離だ。人口は244人、旅籠は11軒と日光街道の中でももっとも小さな宿場である。(天保14年)

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 芋柄新田とか大町新田とも呼ばれた古い宿場の面影は、ほとんどない。街道を行くと、本陣跡の門を残す青木邸があった。

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 しばらく行くと、吉田神社跡の石碑があり、散らかっている工務店の横を入ると、そこに羽川薬師堂がある。

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■羽川薬師堂(小山市羽川)

江戸中期、隣の宿場・小金井にある慈眼寺末寺の玉性院という寺が新田宿にあり、玉性院の住職が、宿場の安寧を願うべく薬師如来を祀った御堂を建立したという。時期は不明だが、玉性院は廃寺となり、この薬師堂だけが残された。(吉田神社の由来は不明)

十九夜塔と雨引観音の石碑がある。

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 街道の右側に橿原(かしはら)神社がある。江戸時代には氏神様の星宮神社であったが、明治五年(1872)、九州の宮崎神宮からご祭神を勧請して橿原神社と名を改めて創建された。明治39年(1906)、近くを走る汽車からの飛び火で神殿が焼失したが、大正三年(1914)に再建された。また近年、東北新幹線の着工に伴い昭和49年(1974)、銅板葺きにして西側の現在地に移転した。(神社の説明板より)

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 4号線現在の日光街道からドーイチ(銅市金属工業)の倉庫の脇の小道に入る。細い旧道が本来の街道だ。ここに石仏群がある。新田宿の出入口であったそうだ。

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 屋根のある小さなお堂には、新田宿講中建立の寛政12年(1800)の道標。観世音の石柱で左面には「左 おざく道」とある。おざくとは鹿沼市石裂(おざく)の石裂山(879m)のことで、近世中期から明治頃まで、勝道上人開山の「おざく山信仰」として、人気の庶民信仰であった。また、石仏の中には六十六部供養塔があり、「左 おざく こくふんし」とあるそうだ。こくふんしは、下野国分寺を指す。「六十六部」とは、法華経を66回書写して、全国の1国1箇所の霊場を66箇所巡礼する修行者のことだ。室町時代に始まり江戸時代まで続いた。

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居酒屋《やるき茶屋》のランチ

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 夜は時々お邪魔する《やるき茶屋》だが、ランチタイムも営業中だ。ここのランチも悪くない。刺身定食900円、鶏竜田揚定食800円、生姜焼定食750円、天ぷら定食800円、焼魚定食800円、日替定食700円と、メニューがあるなかで、海鮮丼800円を注文した。

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 海鮮丼のネタは、タコ・サーモン・甘エビ・マグロ・タイ・ハマチと、それほど種類が豊富なわけではないが、味噌汁、小鉢、漬物が付く。ネタは新鮮だ。

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たまには居酒屋のランチもよい。看板には「元気の出るお昼のお献立」とあるが、別に食べたからといって元気がでるわけではない。(やるき茶屋業平橋店)

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《日光街道》宿場を歩く【小山宿】その2

Photo_23小山宿からは離れるが、中世から江戸初期まで小山には城があった。その名も祇園城跡(ぎおんじょうあと)」である。正確な築城年代は不明だが、築城が藤原秀郷とも小山政光ともいわれる。康暦二年(1380)から永徳二年(1382)の小山義政の乱の後、再興され、小山氏の居城となった。祇園社(ぎおんしゃ)(現在の須賀神社)を城守りとしたため、この名があると伝えられている。

戦国時代、小山氏は天正18年(1590)、天下統一を果たした豊臣秀吉によって領地を没収されてしまう。江戸時代のはじめごろ、わずかな期間だが、慶長十三年(1608)本多正純3万3千石の城となる。しかし正純は元和五年(1619)、宇都宮に転封になり、祇園城(小山城)は廃城となった。 

したがって初期を除き、日光街道が賑わった江戸時代に城はなかったことになる。(祇園城跡:小山市)

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現在の小山市役所の後方に「小山御殿」があった。小山評定の吉例に習い、徳川将軍家日光社参時の休憩・宿泊所として、17世紀はじめに設けられた。土塁は二重、番所(見張り)は16箇所もあり厳重な施設だった。大風により建物の一部が壊れたこともあり、小山御殿は天和二年(1682)、古河藩によって解体された。

 宿場町を歩いてみる。古い町並みも少し残っていた。

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 小山製材木材株式会社(小山市天神町2-7-26)。

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 脇本陣跡。「明治天皇行在所跡」で明治8年奥州巡行と10年も御還幸の際、御在所になった。問屋場は道路向かいだったが、いまは銀行になっていて何も痕跡はない。

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小山のまちの駅「思季彩館(しきさいかん)」(小山市中央町3-5-3)。小山の特産品・おみやげの販売をする。観光案内も兼ねる。建物は、旧八百忠の商家造りと石蔵を利用していて趣がある。(営業時間/09:00~19:00 月曜定休)

 さて、小山宿には道すがらお寺が多い。

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■常光寺(小山市中央町3-11-28)浄土宗。

寛延元年(1748)に造られた「かなぶつ様」と呼ばれる青銅の阿弥陀如来像があり、台座の一部に破損したところがあるらしい。(実際に行ってみたら、この阿弥陀如来像が台座を残して消えていた。修復中なのだろうか)これは慶応四年(1868)4月17日戊辰戦争のときに大鳥圭介軍の流れ弾が当たったといわれる痕である。市指定文化財。

そのほか将軍綱吉の信任が厚かった浄土宗大本山増上寺の住職・祐天上人自刻の百万遍の数珠がある。諸国行脚中「怪談累(かさね)が淵」で有名な累の亡霊を救ったときに用いた数珠と六字名号を保管している。市の重要文化財である。

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■光照寺 (小山市城山間3-6-10)山号は衆徳山無量院。時宗。

一遍上人像が合掌の姿で迎えている。永仁五年(1297)の開創。本尊は阿弥陀如来。激しい戦いが展開された戊辰戦争での政府軍死者2名の墓碑がある。この時は旧幕府軍の勝利だった。

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■興法寺(小山市本郷町2-7-37)天台宗。

徳王山妙楽院。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉祥二年(849)天台宗三世・慈覚大師円仁が、都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に妙楽院を結んだのがはじまり。小山氏の祈願所であった。江戸時代には、第57世貫首・日光輪王寺宮・門跡公弁法親王が、しばしば休泊し、阿弥陀三尊像厨子などを寄進している。境内には十九夜塔や馬頭観音の石仏が残っている。

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 宿場の中に村社である愛宕神社がある。その先には老舗の和菓子屋があった。

☆村社・愛宕神社(小山市本郷)

貞応二年(1223)、小山城主小山朝政が、祇園城(小山城)の鬼門守護のため、京都の愛宕神社より勧請して創建。

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☆蛸屋(たこや)總本店(小山市本郷町2-8-26)

創業元禄十一年(1698)、伊達藩の仙台で始まった店だが、戦争疎開でこの地へ。お土産に小山評定最中「天下一の夢」と小山評定羊羹を購入。

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■天翁院(小山市本郷町1-9-41)祇園山万年寺。曹洞宗。

広い敷地をもつ格式ある禅寺である。久寿二年(1155)小山政光の開基。境内の奥には小山一族の墓がある。入口には高さ27m、枝張り8mもある、樹齢400年以上のコウヤマキの大木が出迎えてくれる。江戸時代の謎の俳人・菜花亭種好の句碑がある。まさに見たままを句にした写実性なのか、なんとなく味がある句だ。

 むっくりと 勝(すぐ)れて白し 春の不二

 よろづ代の 筑波の山や 秋のいろ

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☆☆小山の町外れ、喜沢で昼食である。

「県内最強 極太 自家製麺」「元気とお肉がてんこ盛 ジパング麺」、そんな幟(のぼり)やキャッチフレーズに誘われて、街道歩きのスタミナ補給は、ラーメン専門店《ジパング軒》である。

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 濃厚豚骨、背油、ニンニク、たっぷり野菜(もやし・キャベツなど)、ガッツリお肉のコピーが、メニューに踊る。名物「ジパング麺」を食べた。580円税別(税込609円)。

とにかく大きいチャーシューが2枚。野菜も大盛りで、見るからに盛り上がっている。スープは、豚骨しょう油味。ニンニクもつぶのまま、大量だ。背油も多い。麺は自家製の極太らしいが、それほど太いとは思わなかった。テーブルの上に置く黒胡椒や辛味噌で自由に味付けをするらしい。もやしやネギなどの野菜も自由に(さらに)トッピングできる。正直なところ、やっと完食した。普通盛りでこの程度。特別な味ではなかったが、インパクトのあるラーメンで間違いなし。元気になる。

    ジパング軒

    栃木県小山市喜沢1464-1(おやまゆうえんハーヴェストウォークに近い)

    TEL:0285-38-6605

    営業時間/11:00~24:00(年中無休)

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ところで江戸時代の旅行ガイドブック『諸国道中商人鑑』の小山宿から旅籠を紹介してみよう。

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 料理御茶漬御泊宿(りょうり・おちゃづけ・おとまりやど)、小山中町札場

 茶問屋忠兵衛

中町の札場(決まりごとや注意事項の高札を宿場の入口や中心部に掲示した場所)にあった。どうやら1階では製茶業と茶販売をおこない、2階が旅籠の様子。

 江戸深川講中定宿、小山中町東側中程、御泊宿 御本陣向かい

 柏屋清吉

深川の講(団体)指定の宿だった柏屋。本陣の向かいにあった。

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 街道を行く。喜沢1200番地、アイダエンジニアリング(株)の手前に観音堂がある。

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■観音堂(薬師堂)

境内右側に石仏。台座にのる、念仏供養の地蔵菩薩は享保三年(1718)建立で、「右 奥州海道、左 日光海道」とある。道しるべであったわけだが、街道ではなく《海道》と彫られている。

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 途中、樹齢400年以上といわれる3本のケヤキがある日枝神社(小山市喜沢)があった。ケヤキはすべて高さ30m以上もある。この地は祇園城の北の守りで砦があった。

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 小山宿から約3.4km、喜沢東の交差点へ。「喜沢の追分」である。

☆喜沢の追分

県道粟宮喜沢線(265号)から県道小山壬生線(18号)が、分岐する。左が壬生道で喜沢追分から壬生宿を経て楡木宿で日光例幣使街道と合流し、今市宿で再び日光街道と合流して日光へ至る街道だ。『おくのほそ道』で松尾芭蕉と曽良は、粕壁に1泊、間々田で2泊目、そしてここ喜沢追分から壬生方面に向かい、歌枕の室の八島(栃木県惣社町大神神社)を目指した。この壬生道は宇都宮経由の日光街道に比べ、5km程短いこともあり、江戸時代の庶民には、日光参拝に利用されることも多かったという。

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喜沢追分には石仏がある。明治27年(1894)の馬頭観音、日清日露中支出征馬碑に「左 壬生道」、「右 宇都宮道」の供養塔(道標)がある。つぎは新田宿である。

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