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渡辺崋山《日光街道》を行く『全楽堂日録』

Photo  『全楽堂日録(ぜんらくどうにちろく)』は、渡辺崋山の残した文政十三年(1830413日から天保四年(183336日までの約4年間の日記である。内容的にも豊かであり、史料価値も高いといわれている。渡辺崋山(わたなべかざん17931841)は、江戸時代後期の画家であり、儒学者・陽明学者で洋学者即ち思想家であり、三河(愛知県)田原藩の江戸詰め家老(政治家)である。その著作『慎機論(しんきろん)』等で鎖国政策を批判し、「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」により、幕府から国許蟄居(くにもとちっきょ)を命ぜられ、最終的には責任をとって自害している。

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この日録を書いた頃は、崋山38歳から41歳にあたる頃で、田原藩江戸詰めの役人として側用人や年寄職などを勤めており、いわば藩の中枢にいた。

 文政十三年4月、田原藩主・三宅康直が幕府の命により、徳川家康の命日に日光東照宮へ参詣する「日光御祭礼奉行」に任命された。崋山は多くの重臣たちと共に日光へ随行する。(第11代将軍・徳川家斉の時代)

 田原藩はもとより豊かではなかったが、日光参詣という思わぬ出費で資金不足に悩んだ康直は、生家である姫路藩酒井家に頼み資金を調達する。崋山は藩での役目もあってこの旅での現金出納を細かく記し、後々の参考にしようとした。また得意の画才を活かして道中の風景を写生して残している。(以下原文は『渡辺崋山集』第1巻日記・紀行〔上〕日本図書センター刊より、現代語に訳した)

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 文政十三年413日、風が強く長雨が降る中、藩主・三宅土佐守康直は日光御祭礼奉行に命ぜられ、私(渡辺崋山)も随行することになった。これより前の328日、この命が下ることを聞きつけ、田原藩江戸屋敷では想像もできなかったことで、藩の内情もきびしく、いかに資金を工面するか、藩の役人たちは大変困ってしまった。結局藩主の生家である姫路藩から家老・河合隼之助の尽力で、借金をすることになった。

 42日、家老・川澄又次郎、側用人・鷹見弥一郎と私(渡辺崋山)が藩主に呼ばれ日光祭礼奉行に任命されたことを正式に告げられた。それから皆で帳簿を出して、どうしたら資金が捻出できるか、昼夜を分けず議論をして11日になんとか見込みがついた。

江戸→千住宿→草加宿→越ヶ谷宿→粕壁宿→杉戸宿(泊)

413日夜明け前の午前4時頃、お供の者たちも揃って(現在の東京都千代田区三宅坂・田原藩上屋敷を)出発する。田安通り、まないた橋、小川町、猿楽町を通過、このあたりで夜が白々と明けてきた。土浦藩邸前、淀藩邸下を通り、昌平橋を渡って上野の山下町で休憩。千住橋を過ぎる頃、風がどんどん強くなり、輿(こし)の小窓を開けて外を見ると、隅田川は水量が多く眺めがよい。左右の岸には葦(あし)が茂り、間からかやぶき屋根が見えたりするのも心地よいものだ。

 千住宿の本陣には、幕府の儀礼式典を司る名家の宮原摂津守殿が休憩しているため、お殿様の藩主・三宅康直様は、脇本陣の下川八郎兵衛で休憩である。ここへ殿様の奥方と巣鴨様(巣鴨の田原藩下屋敷に住む三宅友信)が、お見送りにやって来た。同様に与力や同心たちも来た。彼らは見送りの礼に、殿様から小遣いをいただくが、その額が多いの、少ないのと文句をいっているのは、聞いていて大変いやしいこと限りないものだ。これが、いまの世の中の有様と思えば、別に驚くことでもない。

この脇本陣へ礼として金200疋(金2分=1/2両で約5万円)、手代の中村八太夫に100(25,000)、問屋場の役人へ100疋を渡す。ところでこの日光社参の副使(副団長)である和泉伯太(いずみはかた)藩主・渡辺備中守様は、いまだに到着していないが、時間が来たので出発することとした。東の方向には水戸街道の標識がある。

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(草加雨景:渡辺崋山)

 宵よりまどろまねば肩輿之中にて夢見る間に、二里八町行きて草加へいたる。雨なおやまず。このわたりは道の左右みな麦隴(ばくろう)水田にて、白鷺のたてるのみけしきありて奇のしるすなし。

 (今日は朝が早く)睡眠不足のため、輿の中で寝てしまい夢を見ている間に、二里八町(約8.7km)進み草加に到着。雨はまだやまない。このあたりの街道の左右は、みな麦畑と水田があり、白鷺が飛び立つ景色はあるが、特段、記述するようなものはない(素朴な)風景が続く。

草加の西に鵜沼(くぐぬま:見沼代親水公園)がある。その沼の周囲は23里あり広い。街道からは見えない。一里廿八町(約7km)で越ヶ谷宿に到着。お昼休みであり、ここで昼食をとる。この古い宿場は、粛々として雨も降っていて心細くなり、まるで紀貫之が京に上がる時を思い出させる。

私の末の弟は渡辺五郎といい、15歳であるが、今回はじめてお殿様のお供でこの旅に同行しており、気になっていたがこの休憩時に逢うことができた。疲れているような様子もなく安心した。

マクリ村(越谷市上・下間久里村)という所に鰻屋があった。小休止にしてお殿様の駕籠を止めてお供の人々も休憩した。鰻屋の名に恥じず、ここの鰻はおいしい。評判を聞きつけ江戸からも(人が)食べに来るそうだ。出されたお茶も大変おいしかった。奥座敷もきれいである。そこに儒学者の佐藤一斎先生の書が飾ってあった。

 雲行き明るくなりて晴れもやせんと思ふ。二里廿八町にして糟壁へいたる時、雲きれ風収りてこゝろよし。駕より下り立て煙くゆらしつゝ田圃の間を行く、又こゝろよし。糟壁にいたる。

 雲行きも明るくなって晴れてきそうだ。二里廿八町(約10.9km)で、まもなく粕壁(春日部宿)に着くころ、雲も切れて風も収まり心地よい。駕籠(輿)からおりてタバコの煙をくゆらせながら田んぼの間の道を歩く。気持のよいものだ。粕壁宿に到着。

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(杉戸宿 崋山)

 日が出てきて道のぬかるみもおさまってきた。岩槻の城はこの宿場から北へ三里(約12km)の距離にある。一里半(約5.9km)進むと杉戸宿である。杉戸宿の入口付近に弁天様の祠(ほこら)があった。小さな池のまわりに林があり、中に小さな庵が一つある。一人そこにとどまって風景を写生した。(愛宕神社と思われるがわからない)

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(杉戸宿 広重)

 

(杉戸宿の)本陣は海老原市八郎という家である。川澄氏、鷹見氏と本陣へ行く。田原藩目付兼勝手吟味役の斎藤式右衛門が、一行の宿の割り振りをするために杉戸へ先乗りをしている。(一行が出発した413日より前の)11日に、ここへ入り、宿の予約をしている。

 お殿様のご機嫌伺いに参上し、明日の出発時間を打ち合わせ、係りの御徒士目咐(お殿様出行の際、先導して警備をする係)へ申し渡す。本陣へ宿泊する家臣は、御納戸(衣服・調度品、献上された金銀諸物の係)二人、御近習(殿様出行の際、先駆け・警備を担当)二人、御取次(殿様と下級役人との取次ぎ係)、御賄役(料理の給仕係)、御徒士目咐、御料理人、御台所のものたちだ。そのほか、門番に小使いを置く。われわれの泊まりは、本陣の下の宿だが、よい宿である。

此宿の名はわすれたり。寛潔にて酒など打のみたるいとよし。鷹見氏、田原藩祐筆(文書の記録係)の松坂与十郎同宿にて、行すゑこしかたなど寝ながらものがたる。旅ごゝろなり。夜更て雨戸ひき明て空打ながめて、一日身謀唯在晴といえば人々笑ふ。

 宿泊した宿の名は忘れてしまった。清潔で、居心地がよく酒なども飲めて大変すばらしい。鷹見氏、松坂氏と同宿で、これから先のことや過ぎてしまったことなどを寝ながら話した。これこそ旅ならではである。夜更けに雨戸を開け放して、「今日一日、藩のために天下のために、この身をいかにすべきであるか、空はただただ晴れているばかりだ」と言うと、皆が笑った。

 本陣の主人・海老原氏に礼として300疋(3/4両、約75,000円)をあげるべく、田原藩の御賄(食糧係)・坂倉弥太羅に渡す。川澄氏がいうには、近頃、江戸に参府する際の街道での大名の宿泊の礼は、200疋(約50,000円)が相場であるらしいので、(はじめから300疋を出さずに)まず試しに200疋出してみたらいかがかとのこと。弥太羅はやむをえず、200疋出してみたところ、主人は納得しない。そこで仕方なく100疋増額して(300疋:約75,000円)を渡した。ああ嘆かわしいことだ。

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