« ご近所グルメ すみだ《ありあけ》やっぱりチャンポン | トップページ | 《セザンヌ》新国立美術館で »

《日光街道》宿場を歩く【宇都宮宿】その2

 さて、日光街道は、江戸時代には奥州街道と日光街道の追分であった伝馬町で左折して細い清住町通りに入る。

Photo

街道筋には昔ながらの家並みが残る。株式会社上野(上野商会)さんの建物。

Photo_2 

この伝馬町に本陣跡の上野家がある。いまは広い駐車場で奥に屋敷があるが、松の木だけが往時をしのばせるものだそうだ。この本陣は、広さ200坪(661平方メートル)近い大きな建物であった。

Photo_3 

■宝勝寺(宇都宮市小幡1-3-10)

号は応地山蓮華院。時宗。鎌倉時代に宇都宮景綱が蓮池の底から拾い上げた阿弥陀如来仏のために草庵を建てたのが開基と伝わる。本多正純が宇都宮城主の時、この地に移転した。伝・恵心僧都作の日限(ひぎり)地蔵尊があり、お産にご利益があるといわれている。 

Photo_4

■延命院(宇都宮市泉町4)

真言宗智山派。山号は摩尼山。開基(創立者)は康平6年(1063)、藤原宗円が源義家の持仏を比叡山から奉拝して本尊とする天台宗宝錫寺を宇都宮城内に建立。永正元年(1504)、山城国醍醐寺の僧である良範が歴遊し、宝珠寺延命院とし真言宗に改宗。元和6年(1620)、本多正純が宇都宮城改修のため本寺を現在地(当時は西原郷)に移築。安永3年(1774)、幼少期の蒲生君平が当寺において修学。慶応4年(1868)、戊辰戦争宇都宮城の戦いにより、多くの建造物を焼失。昭和2年(1927)、本堂と庫裏を再建。

Photo_5 

■桂林寺(宇都宮市清住1-3-37)

曹洞宗。山号は松峰山。開基(創立者)は、応永三年(1396)宇都宮満綱。本多正純が宇都宮城主であった元和六年(1620)、松ケ峯から現在地に移転。墓地には蒲生君平の墓碑がある。また戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓もある。立派な寺院である。

2 

■真福寺(宇都宮市泉町4-17)

黄檗宗。「黄檗宗」は曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ。本山は宇治の黄檗山万福寺だ。17世紀後半(1654年)明の僧隠元によってもたらされた。宗風は臨済宗とほぼ同じだが、明代の仏教的風習が加味されているという。

1 2_2

4  5_2

宇都宮宿には、いくつかの昔ながらの民家が残っている。

Photo_6 

◆勝善神の碑

 松原町の新黒街道(22号線)と日光街道(119号線)の別れ道にある。神道の「馬頭観音」である。馬頭観音信仰が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるそうだ。

Photo_7 

◆児の手柏(宝の木)

国立栃木病院の敷地内にある。案内板によれば、この木は寛文十年(1670)頃、現在の宇都宮市宝木地区に六軒と呼ばれる集落があり、そこに広さ100㎡高さ約4mの古墳のような塚があり、そこに一老木があった。当時の住民は「宝の木」と呼んでいた。その後、六軒付近の集落が併合され、宝の木の名称に因んで宝木村となった。明治40年、宝木地区に宇都宮第十四司令部が設置された際、この木が庭木として寄贈移植された。

Photo_8 

■上戸祭公民館(東泉寺薬師堂)

Photo_9 Photo_10

◆高尾神社(妙吉塚と高地蔵)

 室町時代の京都の高僧・夢窓疎石の弟子であった僧・妙吉。足利直義の信任を得ていたものの、政変で京を追われ下野国にまで逃れたが、この宇都宮の地で亡くなったとされる。この塚が墓であると伝わる。地蔵は「妙吉安産子育高地蔵尊」と呼ばれ、近郊の人々の信仰を集めている。

Photo_13

Photo_14 

◆上戸祭の一里塚

 江戸から日光までの三十六里余(約140km)のこの(日光)街道は、「日光道中」と呼ばれ、江戸時代から徳川家康を祭る日光東照宮に参拝するための道として栄えた。

 江戸時代、五街道の一つであったこの街道には一里(約4km)ごとに塚を築き旅人に里程を知らせた。この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸(日本橋)から二十八里(約110km)であることを示すものである。なお、この一里塚は昭和五十八年度(1983)に一部修理整備したものである。(昭和五十九年三月 栃木県・宇都宮市)残念ながら右側(東側)の塚は壊れて現存するのは、左側(西側)だけだが、ヒノキが立派に植えられている。

Photo_15

Photo_16 

■光明寺(宇都宮市野沢町342)

号は寳珠山玉塔院光明寺。地名から野沢寺とも呼ばれる。ご本尊は大日如来。真言宗智山派。鎌倉時代に野沢大夫が僧・宥憲を招き石塚の地に玉塔院を建立、これが寺のはじまりで万治三年(1660)に焼失し、寛文十一年(1671)醍醐光台院より僧・早開が来住し現在地に移建、光明寺に改めた。将軍の日光社参の折、休憩所となった。天保四年(1833)伽藍を焼失するが後の僧・栄明によって本堂薬師堂が再建された。文政八年(1825)から明治二十年までの間、歴代住職は寺子屋を開いている。

 寺伝によれば、源義経を慕う静御前が当地を訪れ、守り本尊の薬師仏を納め手にしていた桜の杖を塚にさして義経の武運長久を祈願し、後に杖から芽が出て大木となった。 現在静御前ゆかりの薬師如来は秘仏で桜本薬師として奉安されている。

(また「静桜(御前桜)」と呼ばれる桜の木が、近所の民家の庭先にあるそうだ)

Photo_18

Photo_17 

◆ドライブイン大晃(旅の駅うつのみや大晃 宇都宮市上金井町580)

 宇都宮インターチェンジ近くにある老舗のドライブインである。自分も昭和の時代、バスの団体旅行の添乗員で、何度も利用させていただいた。中華料理の昼食が有名で、当時は何十台もの大型バスが駐車場に並んでいた。日光宇都宮道路ができてからは、宇都宮インターで降りることなしに日光・鬼怒川方面に行かれるようになり、客足は減ってしまったようだ。広い売店には、栃木県内の名産品を取り揃えており、いつまでも頑張ってほしいドライブインである。

Photo_19

◆高谷林の一里塚

 江戸(日本橋)から二十九里(約113.9km)の一里塚である。東側(右側)の塚には杉の木、西側(右側)には桜とヒノキが植えられている。日光まで26km。

Photo_11 Photo_12

6

|

« ご近所グルメ すみだ《ありあけ》やっぱりチャンポン | トップページ | 《セザンヌ》新国立美術館で »

江戸時代の旅」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/177442/54203947

この記事へのトラックバック一覧です: 《日光街道》宿場を歩く【宇都宮宿】その2:

« ご近所グルメ すみだ《ありあけ》やっぱりチャンポン | トップページ | 《セザンヌ》新国立美術館で »