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2012年3月の21件の記事

《生駒軒》@浅草雷門の「チャーシュウ麺」

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 浅草雷門の《生駒軒》。本日はチャーシュウ麺を食べた。なんとも分厚い焼豚が4枚も載っている。麺の分量も多い。ラーメンのどんぶりより、一回り大きい。

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 ここはラーメンがおいしいので、チャーシュウ麺もしかり。

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 それにしても量が多い。これもまた、おなかいっぱい食べてほしいという親心。下町のマスターとおかあさんのあったかい気持が伝わってきた。

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ラーメン・ノスタルジー《中屋食堂》@栃木県日光市今市

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 ブログの取材で日光市今市を歩く。思いもかけず発見した昭和の食堂である。ほとんどシャッターの閉まった商店街にある《中屋食堂》。店構えからして、こういう店のラーメンはうまいはずだ。

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 店内に入ると、おばあちゃんが一人で店番をしている。ラーメンを注文。ほどなく運ばれてきたどんぶりは、昭和そのものだ。ナルトが2枚、チャーシュー、メンマ、ホウレン草、海苔が載る。400円。安い。

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 スープは鶏がらと煮干だろうか、伝統的な味である。おそらく地場のしょう油だろうか、甘みがある。そしてやわらかめの中細麺。もう何十年も変わらぬ味だろうと思う。

こんなお店が残っていることが、無性にうれしい街だ。

    中屋食堂

    栃木県日光市今市758-1

    TEL0288-21-1329

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《生駒軒》@浅草雷門の「スタミナ丼」

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 下町浅草の《生駒軒》で、「スタミナ丼」を食べた。

豚肉、タマネギ、にんじん、ピーマンを炒めて、特性のタレで味付け、ごはんの上にかけてある。どんぶりものだ。これはうまい。

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 タレはマスターに訊いても教えてくれない。企業秘密だ。食べてみると、しょう油、味噌、ニンニク、ショウガなどが入っているようだ。甘辛で深い味わいである。ここ生駒軒には、「焼肉ライス」という人気メニューがあるが、どうやら同じ特性タレを使っているらしい。スープとお新香がついて750円。

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《日光街道》宿場を歩く【徳次郎宿】その2

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 現在の徳次郎の交差点から「中徳次郎宿」である。宿場の長さは二町五十一間(約311m)あった。ここには、旅籠であった池田家の建物が現存している。大谷石の立派な塀に囲まれ、屋根はスレート葺きに改築されているが、土台の母屋は江戸時代そのままである。

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◆智賀都神社(宇都宮市徳次郎町2478

 日光街道、中徳次郎を歩いていると、大きなケヤキがすぐ目に入る。歴史ある智賀都(ちかつ)神社である。創建は宝亀九年(778)、日光三社(二荒山神社祭神)の分霊を千勝森に勧請したのが始まりと伝えられている。徳次郎六郷(西根、門前、田中、上町、下町、中町)の鎮守として信仰され、江戸時代に入ると徳川家の崇敬社となり、社領の寄進などがおこなわれ保護されていた。鳥居の両脇のケヤキは推定樹齢700年の大木で栃木県指定天然記念物に指定。例祭の屋台奉納は3年に1度行われ、屋台は江戸時代から明治時代に造られた、全体に彫刻が施された華麗なもので宇都宮市指定有形文化財に指定。

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◆智賀都神社の「けやき(2)

西側のけやきは天に向かうように、東側のけやきは天を受ける枝を広げている。

推定樹齢は約700年で、高さは甲40m、乙40m、幹の太さは甲8m、乙7.3m

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 なお、境内には江戸時代「安永二年(1773)」の銘のある倒れた石鳥居からつくった常夜灯がある。(昭和5495日鳥居倒れる・・・と彫られていた)

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◆宝木用水(二宮堰公園)

新堀(宝木)用水は、この二宮堰を始まりとして徳次郎、宝木地区を経て、宇都宮の中心部を流れている川で、宇都宮市民にとって大変関わりの深い川です。

 この新堀は江戸時代末期に、二宮金次郎(後の尊徳)、その弟子の吉良八郎と村の人々の協力によって造られた人工の川です。

 第一期工事(徳次郎新堀)は徳次郎地区を潤しただけで宝木地区は土地が高いため、台地に水を引き上げることが出来ませんでした。そこで宝木用水は、地区の人々が台地に水を引くため、自分達で資金を集め、二宮金次郎の設計、弟子の吉良八郎の指導によって、第二期工事として完成されたものです。

 この二宮堰は田川から新堀、宝木用水へ水を引き込むという、とても大切な役割をはたしているところで、当時の面影がうかがえる場所でもあります。

 先人たちの思いがこめられたこの歴史ある川を、私たちも大切にしていきましょう。

以上、二宮堰公園の案内板(宇都宮市)より

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(二宮堰ができるまで)

文政六年(1823)、佐藤伝平が田川からの分水の設計をし、工事を始めたが中止。

文政八年(1825)、徳次郎の領民が、宇都宮藩に新堀開削を願い出て、田川から分水し、姿川まで通水することに成功したが、堀が崩れて流れがとまる。

文政十年(1827)、再び願い出て、改修したが又土手が崩れて流れがとまる。

嘉永五年(1853)、宇都宮領(徳次郎)が幕府領になったのを機に所管である真岡代官所に新堀開削を願い出る。二宮金次郎により徳次郎新堀が完成する。しかし、宝木地区は土地が高いため水を引けない。

安政二年(1856)、二宮金次郎、宝木地区の開削の設計をする。翌年死亡したため工事を中止する。

安政五年(1859)、宝木地区の村民は費用を調達し、吉良八郎の監督により六月に完成する。

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 この二宮堰公園は、文化遺産として当時の現場を木材や石で再現しており、とてもきれいな公園である。偉大な二宮尊徳が実践した土木仕法がわかりやすく表現されていることは、うれしい限りだ。

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◆徳次郎の六本杉

 しばらく行くと道路の中央分離帯に6本の杉が植えてある。どうやら平成14年に植えられたらしい。昔の杉並木を再現する試みだ。

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 いよいよ日光街道は、上徳次郎宿へ入る。宿場の長さは三町十四間(約353m)であった。

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 本陣跡の舘野邸である。舘野邸は、横に3軒ならんでいて、当時から力をもっていた家柄だとわかる。

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 日光街道の右側(東側)に「六本木(西石那田)の一里塚」が残る。江戸から30番目の塚で三十里だから約117.8kmである。左側(西側)の塚は失われてしまったようだ。

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左側には十九夜塔がある。如意輪観音像で天保十一年(1840)の年代が彫られている。近くに石仏が3体ある。左は馬頭観音で、おそらく街道のこのあたりで倒れた愛馬を供養するものであろう。

道はまもなく「石那田」である。昔は石が多く、「石難」と書き開墾に苦労した土地のようだ。

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 街道からパスタ専門店《すぱ屋》の手前の道を入る。二宮尊徳ゆかりの「石那田堰」の遺跡である。

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◆石那田堰(いしなだせき)

 嘉永五年(1852)、二宮尊徳の監督下でここ石那田に堰を設置した。徳次郎六郷の田畑に水を供給し、飲料水など人々の生活にも役に立つ六郷用水を引いた。現在は跡しか残っていないが、偉大な尊徳の功績を物語るものだ。二宮金次郎の石像が、田川を見つめている。

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◆馬力神の祠(ほこら)

 馬の守護神「馬力神」の碑が建つ。年代は確定できないが、おそらく幕末から明治期のものだと思われる。

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◆石那覇田八坂神社

 京都の八坂神社(祇園社)から勧請された牛頭天王(ごずてんのう)を祀る。717日から24日までおこなわれる天王祭は、疫病除けとして地元の6地区の屋台が繰り出す。屋台は江戸時代末期から明治にかけてつくられた彫刻屋台(天王祭付祭屋台)で有名である。京都の「祇園祭り」が疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩くが、同様の起源であると考えられる。

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◆金勢様の祠

道祖神と金勢(金精)明神の習合した祠である。宝暦三年(1753)、文化七年(1810)、天保五年(1834)の石燈篭がある。金勢(金精)明神は、いわゆる男根崇拝の信仰で五穀豊穣や安産・子育て、下の病気平癒などに御利益があるとされている。

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◆海老王子(えびうち)

 しばらく行くと「海老王子」というバス停がある。このあたりの地名だ。以前、母の出身である東京都八王子市に行ったと時に調べてみたら、「八王子」という地名は、牛頭天王(ごずてんのう:スサノウノミコト)とその七男一女の子供たちである8人の王子を祀る「八王子神社」からきていた。ここ石那田にも牛頭天王を祀る八坂神社がある。したがって王子は石那田八坂神社に由来するが、「海老」については不明だ。このあたりの地名に「恵美内(えびうち)」があるのだが、読みは同じでも意味がまったくわからない。

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◆うらない仏(ほとけ)

日光街道、石那田町の道路沿いにある仏様である。全身にかけられた赤い布は、自分の体の悪い所と同じ場所に布を巻くと完治するといわれているためだ。また、この石仏の台座には3個のまんじゅう型の石が置かれ、人々が願いをかけ、どれかの石を持ち上げてみて、軽く感じられれば願いはかなうという「うらない仏」の言い伝えがある。

 日光街道関連のガイドブックには、この石仏が大谷石でできているため、風化が激しく仏像名がはっきりしないいが、「阿弥陀」であろう、という推察が多い。しかしどう見ても阿弥陀仏の特徴はなく、「地蔵菩薩」である。

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 このうらない仏の横には、庚申供養塔などの石柱が4体ある。庚申信仰は、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、その夜は眠らずに言行をつつしみ、長寿を祈る信仰で、この集まりを庚申待(こうしんまち)という。この信仰のもとは、中国の老子にもとづく道教の説による。人の体内にいる三尸(さんし)の虫(霊物)が、庚申の夜に天にのぼって、その人の罪を天帝に告げるために、寿命をちぢめられると言い伝えられてきた。そのために夜通し精進する。

 庚申供養塔には、すべての悪いものを追い払う力がある青面金剛(しょうめんこんごう)や、その使いである三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)と二羽の鶏(にわとり)、上方には日待(ひま)ち、月待(つきま)ちを表す日月(じつげつ)が浮きぼりされているのが特徴。当初は青面金剛や三猿像を彫っていたものが多かったが、次第に簡略化され「庚申塔(庚申供養塔)」あるいは「庚申」と文字のみを彫り付ける形式が増えてきたようだ。

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◆上小池の一里塚

 街道の東側(右側)の塚はない。西側(左側)の塚も案内板はなく、松の大木が植えられている小高い塚が残る。江戸(日本橋)から31番目の一里塚で、距離は約121.7kmである。日光まで20kmを切った。

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◆新渡神社(宇都宮市上小池499

 広い敷地に大きな杉がある。低い鳥居が印象的。ご神体は石の不動尊という。新渡(にわたり)神社と読むが、この「ニワタリ」と名の付く神社は、おもに福島・山形・宮城・栃木・茨城に100社以上あるようだ。「鶏(にわとり)」に関係するもので、おおむね、こどもの百日咳の折、鶏の絵を描いて納めると完治するといわれている。

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《東京スカイツリー》個人入場券、まもなく発売開始

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 まだまだ寒い。東京スカイツリーの下には、まだ梅が咲いている。

さて、まもなく天望デッキ(350m)の個人入場券の発売が始まる。WEB(ピア)または指定代理店・東武トラベルでの店頭販売だが、いずれも抽選である。かなり倍率も高くなるはずで、開業直後に個人入場券を手に入れるのは至難の技?

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 と思うと、まだまだ入手するチャンスはある。東武トラベルで販売する東京スカイツリーとセットの旅行商品を購入する方法だ。東京方面からだと、日光・鬼怒川に1泊するセット旅行(スカイツリー入場券付)もあるが、安いのは「東京スカイツイリーにのぼってみよう!下町散策プラン」3,800円がお得だ。東武鉄道のフリー乗車券や水上バス乗船券(片道)、オリジナルグッズ付。もちろん日付指定のスカイツリー入場券付で、東武トラベルのみで受付をしている。問合せてみると、開業直後はきびしいが、5月や6月でもまだ空席があるようだ。

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 東京スカイツリー下の商業街区(ソラマチ)の工事も順調だ。もうすぐ全貌が見えてくるはずだ。

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業平橋駅が《とうきょうスカイツリー》駅に

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 522日の開業に向けて、317日に東武線の業平橋駅がとうきょうスカイツリー駅に名称変更された。16日までと工事中の駅舎はかわらないが、名前がかわっただけで、見物客が増えた。

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《日光街道》宿場を歩く【徳次郎宿】その1

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 徳次郎宿は「とくじら」と読む。奈良時代、日光で大きな勢力をもっていた久次郎(くじら)一族が、日光二荒山神社から御神体を勧請して智賀都(ちかつ)神社を建て住みついた。彼らは、本家の久次郎に対して「外久次郎(そとくじら)」と称した。それが変化して「とくじら」となったそうだ。(宇都宮市徳次郎町)

 なお、徳次郎宿は宇都宮宿から二里十三町(約9.3km)の距離である。人口653人に対して旅籠は72軒もあった。(天保14年)また宿場は、上・中・下の3宿から成り、日光に近い上徳次郎、続いて中徳次郎、江戸側の下徳次郎であった。

 そして、このあたりは下徳次郎・中徳次郎・上徳次郎に加え、門前村・田中村・西根村を合わせて「徳次郎六郷」と呼ばれていた。

 宇都宮から徳次郎宿に入ると、杉や松などの並木が残っている。また旅人の目印となった一里塚も各所で修復復元されており、古い町並みこそ姿を消しているが、300から500m級の山々にも囲まれ、江戸時代の街道の雰囲気を体験できる。

 残念ながら徳次郎宿を歩いた日は、かなり強い雨であった。その日は今市までの踏破を予定していたものの、冬に戻った寒さと雨の冷たさに体力を消耗して、つぎの大沢宿まで歩くのが精いっぱいであった。

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 バス停「下徳次郎」あたりが下徳次郎宿だ。宿内の長さは三町十二間(約349m)であった。残念だが、昔の家並みはまったく残っていない。

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 山王団地入口の交差点に大谷道の道標がある。ここを左折すると、江戸時代に人気のあった大谷観音への道であった。いまは、この道も廃止されている。

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 しばらく行くと街道沿いに鳥居のような屋根付きの石門があり、入って行く。この鳥居には宝暦元年(1751)の銘がある。奥には薬師堂と三体の石仏がある。

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 石仏は、左から六面幢[どう]六地蔵(享保十六年1731)、十九夜塔(文久三年1863)、馬頭観音(文化元年1804)である。

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珍しいのは「六面幢六地蔵」で、六地蔵石幢、六面幢、燈籠式六地蔵などとも呼ばれる。石を六面に加工して、それぞれの面に6種類の地蔵を浮き彫りにしている。なぜ六面なのかといえば、仏教の六道(りくどう)に由来する。人間は常に悪行を犯し六道に輪廻転生(りんねてんしょう)する存在で、こうした人間を救おうとする地蔵の本願から六地蔵が分身した。六道とは地獄()、餓鬼()、畜生()、修羅(闘争)、人間、天上(喜悦)をいう。この石仏は、六面部分の石が台座の石に比べてかなり新しい。おそらく六面の地蔵面が摩耗したか破壊されたため、修復したものと思われる。

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◆徳次郎城跡

 薬師堂の反対側の道を入る。徳次郎城跡の案内看板がうれしい。道が右に曲がるところに城跡の案内があり、小さな鳥居と祠(ほこら)がある。城跡は雑木林にあり、堀跡や二の丸跡は確認できる。平城である。宇都宮城主22代・宇都宮国綱の家臣・新田徳次郎昌言が、宇都宮城の北方の守りとして、天正四年(1576)から十三年(1585)頃に築城したと考えられ、慶長二年(1597)、宇都宮氏滅亡に伴い廃城となった。

 徳次郎宿の地名であるが、この城の城主「新田徳次郎昌言」に由来するという説もあるが、やはり日光の久次郎(くじら)一族関連の説の方が、奈良時代と古いため有力ではないだろうか。

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◆田中道の道標

 徳次郎の交差点手前、左側の細い道に建つ小さな道標である。上部は朽ち欠けているが、かろうじて「神社入口約五丁」と読める。神明神社(神明宮)まで約545mとの意味だ。(神明神社は後述)

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 徳次郎の交差点である。このあたりから「中徳次郎」である。日光街道はまっすぐ進むが、神明神社を訪ねるために左折する。

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◆痣(あざ)地蔵堂

 交差点を左折後、細い道を右に入ると小さなお堂が見える。痣(あざ)地蔵堂である。

由来の説明板によれば、中徳次郎宿の本陣某氏が智賀都神社の東側、田川沿いの地を開墾している際、土中から地蔵が見つかった。直ちに智賀都神社の南広場に安置したが、その後文化四年(1794)、本陣入江氏によって元神宮寺という石屋根のお堂に移されたといわれている。この地蔵は痣地蔵と呼ばれ、「あざ」「いぼ」で困っている人がお願いをすると、不思議にも治るといわれ、近隣の村々はもちろん、遠く東京・福島・群馬方面からもお参りする人々が多数いた。その後、荒廃したお堂から公民館等に移転安置されたが、最近の平成612月、地蔵堂を建立するに至った。(案内板より)

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◆神明神社(神明宮)宇都宮市徳次郎町1594

 国道293号を北に入り、日光宇都宮有料道路沿いの畑の中に建つ神社。奈良時代の宝亀二年(771)建立といわれる。このあたりが昔、徳次郎の中心であった。五穀豊穣、災難防止の神である。

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この神社には「おしんめさまのこま犬」という古くからの言い伝えがある。お神明様の狛犬といった意味で、狛犬を持ち上げてみて、軽く上がれば願いがかない、重くて動かないと願いはかなわないというもの。この占いがよく当たるとのことで、多くの人でにぎわったそうだ。(現在、残念なことに、この狛犬は鍵のかかったお堂の中にあり、願いごと成就の占いをすることはできない)

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《生駒軒》@浅草雷門「オムライス」

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 浅草の《生駒軒》で、マスター自慢の「オムライス」を食べた。オムレツとごはんが融合した日本の洋食文化である。昔の中華料理店なので、オムライスをはじめ、トンカツもつくる。

 オムライスは伝統的なチキンライスがベースになっている。鶏肉、タマネギ、ニンジンを加え、よく炒めてケチャプ味だ。しっかり味がついている。これをタマゴで包み込む。うまい。なつかしい下町の逸品である。浅草には「グリル・グランド」、「ヨシカミ」、「ステーキハウスのぶ」など、オムライスの有名店がたくさんあるけれど、生駒軒も捨てがたい。800円。

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《ありあけ》の「あんかけ焼きそば」と「ラーメン半炒飯」

 東京都墨田区業平橋の《ありあけ》。東京スカイツリーを見上げながら、またまたランチに行く。

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 連れは、あんかけ焼きそばを注文。実はうまい。850円。

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 今日の気分でこちらは、ラーメン+半チャーハンセット。850円。考えてみたらいつも同じようなものを食べている。もちろんうまい。

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《セザンヌ》新国立美術館で

 モネ・マネ・セザンヌ・ルノワールにゴッホを加えると、日本人の好きな印象派の展覧会だ。またまた人を呼べる催しが、328日から新国立で始まる。「セザンヌ-パリとプロヴァンス-」である。日本最大級のセザンヌ作品90点が集まるそうだ。

 エクサンプロヴァンスにあるセザンヌのアトリエも再現してしまうそうだ。本物を見学しているので、こっちには興味はないが。

 以前にも書いたことがあるが、やはりセザンヌといえば、「サン・ヴィクトワール山」である。本当は白い石灰岩の山なのだが、画家の審美眼によって様々な着色がされ、まるで生きている山のようである。人物画や静物画もあるのだけれど、やはりセザンヌの緑(グリーン)が印象的な山の風景画が好きだ。

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《日光街道》宿場を歩く【宇都宮宿】その2

 さて、日光街道は、江戸時代には奥州街道と日光街道の追分であった伝馬町で左折して細い清住町通りに入る。

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街道筋には昔ながらの家並みが残る。株式会社上野(上野商会)さんの建物。

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この伝馬町に本陣跡の上野家がある。いまは広い駐車場で奥に屋敷があるが、松の木だけが往時をしのばせるものだそうだ。この本陣は、広さ200坪(661平方メートル)近い大きな建物であった。

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■宝勝寺(宇都宮市小幡1-3-10)

号は応地山蓮華院。時宗。鎌倉時代に宇都宮景綱が蓮池の底から拾い上げた阿弥陀如来仏のために草庵を建てたのが開基と伝わる。本多正純が宇都宮城主の時、この地に移転した。伝・恵心僧都作の日限(ひぎり)地蔵尊があり、お産にご利益があるといわれている。 

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■延命院(宇都宮市泉町4)

真言宗智山派。山号は摩尼山。開基(創立者)は康平6年(1063)、藤原宗円が源義家の持仏を比叡山から奉拝して本尊とする天台宗宝錫寺を宇都宮城内に建立。永正元年(1504)、山城国醍醐寺の僧である良範が歴遊し、宝珠寺延命院とし真言宗に改宗。元和6年(1620)、本多正純が宇都宮城改修のため本寺を現在地(当時は西原郷)に移築。安永3年(1774)、幼少期の蒲生君平が当寺において修学。慶応4年(1868)、戊辰戦争宇都宮城の戦いにより、多くの建造物を焼失。昭和2年(1927)、本堂と庫裏を再建。

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■桂林寺(宇都宮市清住1-3-37)

曹洞宗。山号は松峰山。開基(創立者)は、応永三年(1396)宇都宮満綱。本多正純が宇都宮城主であった元和六年(1620)、松ケ峯から現在地に移転。墓地には蒲生君平の墓碑がある。また戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓もある。立派な寺院である。

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■真福寺(宇都宮市泉町4-17)

黄檗宗。「黄檗宗」は曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ。本山は宇治の黄檗山万福寺だ。17世紀後半(1654年)明の僧隠元によってもたらされた。宗風は臨済宗とほぼ同じだが、明代の仏教的風習が加味されているという。

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宇都宮宿には、いくつかの昔ながらの民家が残っている。

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◆勝善神の碑

 松原町の新黒街道(22号線)と日光街道(119号線)の別れ道にある。神道の「馬頭観音」である。馬頭観音信仰が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるそうだ。

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◆児の手柏(宝の木)

国立栃木病院の敷地内にある。案内板によれば、この木は寛文十年(1670)頃、現在の宇都宮市宝木地区に六軒と呼ばれる集落があり、そこに広さ100㎡高さ約4mの古墳のような塚があり、そこに一老木があった。当時の住民は「宝の木」と呼んでいた。その後、六軒付近の集落が併合され、宝の木の名称に因んで宝木村となった。明治40年、宝木地区に宇都宮第十四司令部が設置された際、この木が庭木として寄贈移植された。

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■上戸祭公民館(東泉寺薬師堂)

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◆高尾神社(妙吉塚と高地蔵)

 室町時代の京都の高僧・夢窓疎石の弟子であった僧・妙吉。足利直義の信任を得ていたものの、政変で京を追われ下野国にまで逃れたが、この宇都宮の地で亡くなったとされる。この塚が墓であると伝わる。地蔵は「妙吉安産子育高地蔵尊」と呼ばれ、近郊の人々の信仰を集めている。

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◆上戸祭の一里塚

 江戸から日光までの三十六里余(約140km)のこの(日光)街道は、「日光道中」と呼ばれ、江戸時代から徳川家康を祭る日光東照宮に参拝するための道として栄えた。

 江戸時代、五街道の一つであったこの街道には一里(約4km)ごとに塚を築き旅人に里程を知らせた。この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸(日本橋)から二十八里(約110km)であることを示すものである。なお、この一里塚は昭和五十八年度(1983)に一部修理整備したものである。(昭和五十九年三月 栃木県・宇都宮市)残念ながら右側(東側)の塚は壊れて現存するのは、左側(西側)だけだが、ヒノキが立派に植えられている。

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■光明寺(宇都宮市野沢町342)

号は寳珠山玉塔院光明寺。地名から野沢寺とも呼ばれる。ご本尊は大日如来。真言宗智山派。鎌倉時代に野沢大夫が僧・宥憲を招き石塚の地に玉塔院を建立、これが寺のはじまりで万治三年(1660)に焼失し、寛文十一年(1671)醍醐光台院より僧・早開が来住し現在地に移建、光明寺に改めた。将軍の日光社参の折、休憩所となった。天保四年(1833)伽藍を焼失するが後の僧・栄明によって本堂薬師堂が再建された。文政八年(1825)から明治二十年までの間、歴代住職は寺子屋を開いている。

 寺伝によれば、源義経を慕う静御前が当地を訪れ、守り本尊の薬師仏を納め手にしていた桜の杖を塚にさして義経の武運長久を祈願し、後に杖から芽が出て大木となった。 現在静御前ゆかりの薬師如来は秘仏で桜本薬師として奉安されている。

(また「静桜(御前桜)」と呼ばれる桜の木が、近所の民家の庭先にあるそうだ)

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◆ドライブイン大晃(旅の駅うつのみや大晃 宇都宮市上金井町580)

 宇都宮インターチェンジ近くにある老舗のドライブインである。自分も昭和の時代、バスの団体旅行の添乗員で、何度も利用させていただいた。中華料理の昼食が有名で、当時は何十台もの大型バスが駐車場に並んでいた。日光宇都宮道路ができてからは、宇都宮インターで降りることなしに日光・鬼怒川方面に行かれるようになり、客足は減ってしまったようだ。広い売店には、栃木県内の名産品を取り揃えており、いつまでも頑張ってほしいドライブインである。

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◆高谷林の一里塚

 江戸(日本橋)から二十九里(約113.9km)の一里塚である。東側(右側)の塚には杉の木、西側(右側)には桜とヒノキが植えられている。日光まで26km。

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ご近所グルメ すみだ《ありあけ》やっぱりチャンポン

 東京スカイツリーの地元、業平橋の《ありあけ》である。演歌歌手のマスター(有明貴志さん)がつくるチャンポンは、やっぱりうまい。さすがに九州出身の努力人、自分の力で築いてきた料理人である。

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 チャンポン(900円)は、中太の専用麺を使う。具材は豊富だ。小エビ、アサリ、イカゲソ、かまぼこ、さつま揚げにキャベツ、タマネギ、もやし、いんげん、ニンジンが入る。これを大きな中華鍋で(強火で)炒める。スープは白濁した豚骨である。かなり濃い目の味付けだ。東京の下町で食べられる長崎チャンポンの正統派。

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    ありあけ

    東京都墨田区向島1-29-10

    TEL0338290534

    営業時間/11301500 18002330

    日曜:11301500 17002230(年中無休)

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《イタリアンダイニングすぱ屋》宇都宮

 日光街道を取材中に見つけたお店である。日光市(今市)の手前、119号線の宇都宮市石那田(いしなだ)町にある。レギュラーランチをいただく。好みのパスタを選べる。

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メニューは・・・

●明太子すぱ3種(明太子イカと青じそ/明太子・半熟タマゴとのり/明太子のクリーム・小エビとブロッコリ)

●赤いトマトソース5種(シーフードいっぱい/ナスとベーコンのぴりから/モッツァレラチーズのトマト/小トマトとチーズ/トマトクリーム・小エビとブロッコリ/生パスタ・トマトソース・ナスとチーズ)

●ペペロンチーノすぱ3種(シーフードいっぱい/半熟玉子のせ/ベーコンとホウレン草)

●白いクリームすぱ3種(ホタテとホウレン草/厚切りベーコンの生パスタのカルボナーラ/カルボナーラ)

●和風しょう油すぱ3種(シーフードいっぱい/緑野菜とベーコン/半熟玉子とベーコン)である。

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そこで「生パスタ トマトソース ナストチーズ」を注文。濃厚なソースである。トマトにバジル、ニンニクが効いている。かなりしっかりした味だ。これはうまい。生パスタは、ゆでたて細めのうどんといった食感だ。ミニサラダが、またうまい。新鮮野菜である。これに各種ソフトドリンクが付いて、1,090円税込み。

サーブしていただく若い女性ウエイトレスの笑顔がステキだ。従業員はみな明るく、声も出ていて気持のよい接客を味わえる店である。

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    イタリアンダイニングすぱ屋

    栃木県宇都宮市石那田町456-2

    TEL0286692651

    営業時間/〔月~金〕11001530 17002130

〔土・日・祝〕11002130 無休

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《石焼らーめん火山》

日光街道を歩いていて宇都宮の郊外で見つけたラーメン屋さんである。《石焼らーめん火山》という。石のどんぶりに煮立ったラーメンで、まさに火山の噴火のような感じだ。大変ユニークだ。

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定番の「石焼野菜しょうゆらーめん750円(税込み787円)」を食べた。韓国料理で使用する石焼ビビンバの石のどんぶりが使われる。熱々に熱して運ばれて来る。そこへ熱いスープを店員さんが注いでくれる。じっと待つこと2分。グラグラ煮える。

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どんぶりをよく混ぜる。野菜は白菜、もやし、キャベツ、キクラゲ、ニラ、にんじん、タマネギだ。これに豚バラ肉が入る。スープは豚骨でとったしょう油味。中太麺である。石焼どんぶりから小さな茶碗に取って食べる。(そうしないと熱くてたべられない)

まずまずの味だ。残ったスープには、ごはんを入れて〆である。おまけに杏仁豆腐が付く。

見事に奇をてらったラーメンだ。栃木県宇都宮市を本拠に、県内に11店舗、埼玉県4店舗、群馬県5店舗、宮城県5店舗、新潟、福島、山形、秋田、神奈川、千葉にもある。なぜか東京にはない。おそらく手間がかかりすぎるため、大消費地の都会では対応できないと思う。

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    石焼らーめん火山 戸祭店

    栃木県宇都宮市上戸祭町536-6

    TEL0286210718

    営業時間/11002200(金土祝前日は2300まで)

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東武鉄道の新作《ポスター》

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ニッコー!

アサクサ!

スカイツリー!

外国人を起用した東武鉄道の新作ポスターを浅草駅で見かけた。

4コマ写真で、なかなかビビットな仕上がりである。

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ご近所グルメ すみだ《ありあけ》野菜ラーメン

 ここもまた、東京スカイツリーの真下である。中華料理《ありあけ》、チャンポンが有名な店だ。おすすめは「野菜ラーメン」だ。キャベツ、にんじん、もやしをいい具合に炒めてある。刻み長ネギも入る。

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 麺がやわらかめなので、硬めが好きな方は、調理前に希望を言った方がよい。700円。

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    ありあけ

    東京都墨田区向島1-29-10

    TEL0338290534

    営業時間/11301500 18002330

    日曜:11301500 17002230(年中無休)

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《銀座線》新型車両がもうすぐ

 地下鉄銀座線に20124月、新型車両が登場するそうだ。銀座線といえば、東洋初の地下鉄として昭和2年に上野と浅草間が開通した。その頃走っていたのが1000系(型)だが、今回4月からの新車両も新1000系である。

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 車内の照明はLEDだそうだ。

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 車体はアルミニウム合金だそうだ。

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 なんとなく4月が待ちどうしい。

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渡辺崋山《日光街道》を行く『全楽堂日録』3

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石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿→徳次郎宿→大沢宿

    415日、朝は霧である。石橋宿を出て一里半(約5.9km)、雀宮宿という所で夜

が明けた。ここで休憩。お殿様の駕籠は、雀宮神社の鳥居の内側へ降ろし、行列のみんなはお茶を飲んだりして休む。そして雀宮神社へ参拝する。神社の本殿は石を置いた屋根である。境内には杉の木立が生い茂り、人々がお参りをしているような様子はない。大変神々しくもの静かである。

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(雀宮神社)

また駕籠(輿)の中で眠っている間に宇都宮宿に着いた。江戸を出てここまで、

これほど人家が密集している所はなかった。(宇都宮の)町はおよそ七町(約770m)の長さで、(江戸の千住から続く)奥州道中(街道)と日光道中(街道)が、ここで分かれる交通の要所であって人々の往来も激しい。

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(宇都宮宿 広重)

 本陣は○○(空字)という。この本陣へ(われわれが休憩するために入ったところ)、宇都宮藩主・戸田因幡守殿(戸田忠温とだただよし)から岩茸を旅の慰めとして差し入れられた。岩茸一箱を贈られた礼として、(届けに来た)使いの者へ金200疋(約50,000円)を渡した。(岩茸:いわだけはゆでて酢の物として食べる、貴重なご馳走である)さてこの宇都宮の地は、タバコ入れと干瓢(かんぴょう)が名物と聞いたので、さっそくお土産にタバコ入れを20個ばかり購入した。

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(智賀津神社)

 本陣を出発。日光の山々が手に取るように見渡せる。写生をする。ここから山がとても近くなり、徳次郎(とくじら)宿に着くと、左右が山ばかりである。ここの山々は、それほど高くはないが、垣根のようにしっかり組まれていて、日光山に連なっているように見える。(徳次郎の)宿場は、粛々として古い寺のような雰囲気である。(徳次郎宿は)上と下の2箇所に宿場がある。徳次郎明神(智賀津神社)の森は、樹木が生い茂り森が黒く見える。この日は晴れわたり暑い。午後3時頃(未ひつじ下がる頃)、大沢宿に到着。

    本来、徳次郎宿は、上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の3宿から成る宿場町であるが、崋山は上と下の2箇所と記述している。

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(日光道中絵図 下徳次郎宿)

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(日光道中絵図 中徳次郎宿)

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(日光道中絵図 上徳次郎宿)

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(渡辺崋山 大沢宿)

(大沢宿の)本陣○○(空字)にて髪の月代(さかやき:おでこの上部)を剃って

もらい、入浴をして明日の準備をする。髪結いは夫婦でおこなっており、奥方は月代を剃り、夫が髪を結ってくれる。石橋宿とこの宿(大沢宿)は、大変さびしい宿場で人も素朴である。

東海道を歩くと、1日や2日進んでもなかなか女の人の髪型や容姿は、都めいてきれいなままだが、奥地の古河からこのあたりは、人の心も姿形も変わっていて田舎っぽい感じがするように思われる。(了)

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(日光道中絵図 大澤宿)

    以上で崋山の記述は終わり、日光街道や日光山の写生図が描かれている。日光に入った後は、公式行事で忙しかったのだろうか、記録はない。

なお、崋山の日光社参の記述は、大沢宿で終わっているが、『全楽堂日録』には日光

地区の風景を写生した絵が掲載されている。「神祖廟(日光東照宮)」や「華厳の滝」である。

★資料:『渡辺崋山集』第1巻日記・紀行〔上〕日本図書センター刊

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(渡辺崋山 日光東照宮)

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(渡辺崋山 華厳の滝)

現代でも同じだが、日光街道を進んでくると、宇都宮宿は街道でも一番の賑いである。崋山の記述に宇都宮城や二荒山神社(当時は宇都宮大明神)がないのは不思議なくらいだ。

確かに崋山の記したように「徳次郎宿」に入ると、左右に300m級の低い山々が続く。

この山々が、垣根のように組み合わり、日光連山に続いているように見える。

実際に日光街道を歩いてみると、徳次郎宿あたりから大沢宿へは、まだ杉並木の道が残っている。周囲の山々も近く、昔の家並みこそ姿を消しているが、宿場町の風情を感じることができる。江戸時代の街道旅を追体験できる。

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ほっとする《生駒軒》@浅草雷門

 下町浅草にあるなじみの中華料理店、《生駒軒》に顔を出す。マスターと奥さんの似顔絵が登場。HISAYOさんの作品で、実物より若干若めに描かれているが、ほのぼのとした絵で愛情があふれている。

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 この似顔絵については、作者のHISAYOさんと「でんでん丸」さんのブログにも紹介されている。「もりたたろべえ」も登場する。ありがたいことだ。まさにブログの輪。

絵描き屋のきんちゃん(Hisayoのアトリエ)

でんでん丸さん

 それでは話のついでに、《生駒軒》浅草雷門の好物、ベスト5を紹介しよう。

1位 ラーメン:本当に昔ながらの昭和のラーメン。

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2位 炒飯:これぞ正統派のチャーハン。

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3位 餃子:絶対にビールが欲しくなる逸品。

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4位 ソース焼きそば:これまたビールを注文したくなる。

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5位 焼肉ライス:豚バラを独特のタレで炒める。ボリュームに驚く。

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同列

5位 カレーライス:中華料理店のカレーはうまい(自論)

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 みなさんも浅草へおでかけの節は、《生駒軒》へ行ってみよう。満腹になるばかりかほっとすること間違いなし。

    生駒軒 浅草雷門

    東京都台東区雷門1-12-1

    TEL0338446853

    営業時間/11301500 17002030(水曜定休)

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渡辺崋山《日光街道》を行く『全楽堂日録』2

Photo 杉戸宿→幸手宿→栗橋宿→(利根川)→中田宿→古河宿→(野木宿→間々田宿→)小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿(泊)

    414日、天気は晴れなのかそうでないのかはっきりしない。夜明けには雨が降っ

ている。(寅時)午前4時頃、出発。輿(こし)の中で眠ってしまい、どこを通ったのか、わからない。小屋堀(杉戸町下高野)、茨嶌(杉戸町茨島:ばらしま)、高野村(幸手市)、幸手宿で夢から覚める。街道の道端には、麦畑が続き(豊作で)豊かな年で喜ばしい。

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(渡辺崋山 筑波山)

輿から降りて左側の堤を見ると、丘のようだ。頂上部分が青い黛(まゆずみ)のような山が見える。筑波山である。写生をする。坂がある。内郷摩(幸手市内国府間)、高須加(高須賀)、坂を越える。外高須加(外国府間)、逆川橋(権現堂川と江戸川を結ぶ川にかかる橋)がある。このあたりは小右衛門村(栗橋町小右衛門)。この川は利根川に逆らって流れているため、逆川と呼ばれている。

栗橋宿である。名物の粟もちは、有名なだけあってうまい。栗橋宿の本陣へ、田原藩取次格元締役・生田何右衛門が先乗りして、(一行が利根川を渡るための)船の用意を頼んでいた。古河藩の船奉行に礼として200疋(約50,000円)、船頭へ2朱(50疋、12,500円)、船で働く水夫(水主:かこ)の親分へ100疋(25,000円)、名主・年寄・きも入り(庄屋)・馬さし(人馬の指図をする宿場役人)たちへ200疋、船積人足へ100疋、町船惣頭へ50疋(12,500円)、町船の者へ30疋(7500円)、茶船の者へ30疋(7500円)、本陣へ100疋など、およそ22朱(212,500円)を支払う。

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(栗橋より利根川を見る)

古河藩が田原藩のために「御馳走船」という赤く塗った楼船(屋形船)を用意してくれた。こどもたちが10名ほど船で近づく。また役人たちが迎えに出てくれて、舟奉行は平伏し、お殿様は「大義である」と言って乗船された。御家老、御用人、御供頭、御刀番、御近習、御医師、御坊主、押、御草取、御鑓二すじ、御長刀、御長柄傘、御茶、弁当御船に乗る。そのほかは、思い思いに我先にと船に乗り川を渡る。

今日は最近の雨で水かさが増し、川の流れの勢いは走る馬のようで、両岸は、霞んで見える。そもそもこの利根川は、関東第一の大河であり、その源流は上野国、沼田から出るといい、あるいは越後の国から来るともいう。栗橋の関所は、利根川の西側にあり、幕府からの使者でなんとか衛門が勤めている。一行が渡り終えると、なんとか衛門がいうのは、全員が渡り終わり、足の痛み等で遅れる人もいなかったとのこと。

 一里半(約5.9km)で古河宿に至る。このあたりから古河までは、街道が松林に囲まれ昼なお暗い道である。この松並木が生い茂っている町は中田宿である。見慣れない家々が多い。江戸を出発して栗橋に至る間、まわりの景色は稲田や麦畑ばかりであったが、この宿(栗橋宿・中田宿)に来て、利根川という大河があり目が覚める思いだ。中田宿から松原に入り、景色は一変する。熊沢蕃山の墓がある鮭延寺という寺があるそうだ。この寺へ行くには松原を右に入り78町(0.760.87km)もあるようで、一行の行列に遅れてしまうので行かない。

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(古河城明治3年)

 古河宿は、昔、許我とも古我とも書いた。藩主・土井利位(どいとしつら)様の城下である。古河城は町の左にあり、街道からは見えない。本陣にて休憩をとり、皆昼食を食べる。川澄氏が(節約を)考えて、本陣への礼を200疋(約50,000円)のところ、100疋(25,000円)渡すことで済ませた。

 かやうの琑々(ささ)たる思いどもいやしき事どもを記すは、今の御風儀の無下におとりたるを、後のいましめにもとなり、すべてこの日記のこゝろ也。    

このようなこまごまとした、いやしいことなどを書き残すというのは、いまの世の中が、何の配慮もなく無駄使いする風潮にあるため、後のいましめとしたいからであり、これらすべてが、この日記(全楽堂日録)の執筆目的である。

 空は晴れ、暑い。駕籠(輿)から降りて鷹見氏、側取次勝手係・鈴木氏、松坂氏と松の林の下に腰掛ける。瓢(瓢箪:ひさご、ふくべ)の酒を飲むと旅の疲れを忘れるようだ。この松の下で、老婆が茶店を開いていて街道を行く人々に茶を提供している。旅情が感じられ大変趣き深いことだ。

 小山宿から一里半(約5.9km)、宿場の北に小山判官(小山義政)の城跡がある。新田宿から小金井宿へ廿九町(約3.2km)で出る。小金井の道から半里(約1.8km)程東に千柴(下野市国分寺町柴)という所があるという。また東北の方向に薬師寺村がある。昔、大きな寺院があり、淳仁天皇の天平五年(761)、はじめて戒壇(僧尼に戒律を授ける場所)をこの薬師寺と筑前の観世音寺に設置したことが、仏教史書の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に記載されている。およそ日本で戒壇のある寺は、南都(奈良)の東大寺とこの二つの寺しかない。弓削道鏡も称徳天皇(孝謙天皇)が崩御された後、この地に左遷され下野薬師寺の別当となった。

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(石橋宿 愛宕神社)

 石橋宿に到着。宿泊する。(お殿様が泊まる本陣に出かけ、仕事が終わって)本陣から戻る頃は午後8時頃(戌のとき)であった。〔文中には「辰のとき」と記載があるが、これでは午前8時頃となってしまい、戌を辰と誤記したと思われる〕

 宿に戻り、酒などを飲み入浴する。

鷹見氏を見つけて「私の鑓(やり)のさやが割れて刃先があらわになっているのは、いったいどうしたことですか」と質問した。(崋山の)鑓持ちの男と鷹見氏の草履取りの男が、松原を通過中、ふざけて大名の鑓持ち奴(やっこ)の姿を真似していたところ、誤って鑓を地面に落としてしまい、さやをこわしてしまった。いかに身分の低い者といえども、自分たちのつとめをおろそかにするとは何事かと叱った。男たちは詫びた。これは何か悪いことの起こる前兆ではないかと、鷹見氏が不安にかられているようだ。

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《文庫本》自動販売機があった

 とある私鉄の駅で見かけた《文庫本》の自動販売機。時代も進んできたものだと思う。ただ、私は本を購入する場合、ほとんど手に取って中をパラパラ読んでから買う。たとえベストセラーであっても、内容が乏しくて自分には合わないこともある。

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 もちろん資料等で必要な場合、とくに古書などはアマゾンで書名のみで購入することもあるが、やっぱり中身がわからないので自動販売機で文庫本は買えない。

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