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渡辺崋山《日光街道》を行く『全楽堂日録』2

Photo 杉戸宿→幸手宿→栗橋宿→(利根川)→中田宿→古河宿→(野木宿→間々田宿→)小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿(泊)

    414日、天気は晴れなのかそうでないのかはっきりしない。夜明けには雨が降っ

ている。(寅時)午前4時頃、出発。輿(こし)の中で眠ってしまい、どこを通ったのか、わからない。小屋堀(杉戸町下高野)、茨嶌(杉戸町茨島:ばらしま)、高野村(幸手市)、幸手宿で夢から覚める。街道の道端には、麦畑が続き(豊作で)豊かな年で喜ばしい。

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(渡辺崋山 筑波山)

輿から降りて左側の堤を見ると、丘のようだ。頂上部分が青い黛(まゆずみ)のような山が見える。筑波山である。写生をする。坂がある。内郷摩(幸手市内国府間)、高須加(高須賀)、坂を越える。外高須加(外国府間)、逆川橋(権現堂川と江戸川を結ぶ川にかかる橋)がある。このあたりは小右衛門村(栗橋町小右衛門)。この川は利根川に逆らって流れているため、逆川と呼ばれている。

栗橋宿である。名物の粟もちは、有名なだけあってうまい。栗橋宿の本陣へ、田原藩取次格元締役・生田何右衛門が先乗りして、(一行が利根川を渡るための)船の用意を頼んでいた。古河藩の船奉行に礼として200疋(約50,000円)、船頭へ2朱(50疋、12,500円)、船で働く水夫(水主:かこ)の親分へ100疋(25,000円)、名主・年寄・きも入り(庄屋)・馬さし(人馬の指図をする宿場役人)たちへ200疋、船積人足へ100疋、町船惣頭へ50疋(12,500円)、町船の者へ30疋(7500円)、茶船の者へ30疋(7500円)、本陣へ100疋など、およそ22朱(212,500円)を支払う。

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(栗橋より利根川を見る)

古河藩が田原藩のために「御馳走船」という赤く塗った楼船(屋形船)を用意してくれた。こどもたちが10名ほど船で近づく。また役人たちが迎えに出てくれて、舟奉行は平伏し、お殿様は「大義である」と言って乗船された。御家老、御用人、御供頭、御刀番、御近習、御医師、御坊主、押、御草取、御鑓二すじ、御長刀、御長柄傘、御茶、弁当御船に乗る。そのほかは、思い思いに我先にと船に乗り川を渡る。

今日は最近の雨で水かさが増し、川の流れの勢いは走る馬のようで、両岸は、霞んで見える。そもそもこの利根川は、関東第一の大河であり、その源流は上野国、沼田から出るといい、あるいは越後の国から来るともいう。栗橋の関所は、利根川の西側にあり、幕府からの使者でなんとか衛門が勤めている。一行が渡り終えると、なんとか衛門がいうのは、全員が渡り終わり、足の痛み等で遅れる人もいなかったとのこと。

 一里半(約5.9km)で古河宿に至る。このあたりから古河までは、街道が松林に囲まれ昼なお暗い道である。この松並木が生い茂っている町は中田宿である。見慣れない家々が多い。江戸を出発して栗橋に至る間、まわりの景色は稲田や麦畑ばかりであったが、この宿(栗橋宿・中田宿)に来て、利根川という大河があり目が覚める思いだ。中田宿から松原に入り、景色は一変する。熊沢蕃山の墓がある鮭延寺という寺があるそうだ。この寺へ行くには松原を右に入り78町(0.760.87km)もあるようで、一行の行列に遅れてしまうので行かない。

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(古河城明治3年)

 古河宿は、昔、許我とも古我とも書いた。藩主・土井利位(どいとしつら)様の城下である。古河城は町の左にあり、街道からは見えない。本陣にて休憩をとり、皆昼食を食べる。川澄氏が(節約を)考えて、本陣への礼を200疋(約50,000円)のところ、100疋(25,000円)渡すことで済ませた。

 かやうの琑々(ささ)たる思いどもいやしき事どもを記すは、今の御風儀の無下におとりたるを、後のいましめにもとなり、すべてこの日記のこゝろ也。    

このようなこまごまとした、いやしいことなどを書き残すというのは、いまの世の中が、何の配慮もなく無駄使いする風潮にあるため、後のいましめとしたいからであり、これらすべてが、この日記(全楽堂日録)の執筆目的である。

 空は晴れ、暑い。駕籠(輿)から降りて鷹見氏、側取次勝手係・鈴木氏、松坂氏と松の林の下に腰掛ける。瓢(瓢箪:ひさご、ふくべ)の酒を飲むと旅の疲れを忘れるようだ。この松の下で、老婆が茶店を開いていて街道を行く人々に茶を提供している。旅情が感じられ大変趣き深いことだ。

 小山宿から一里半(約5.9km)、宿場の北に小山判官(小山義政)の城跡がある。新田宿から小金井宿へ廿九町(約3.2km)で出る。小金井の道から半里(約1.8km)程東に千柴(下野市国分寺町柴)という所があるという。また東北の方向に薬師寺村がある。昔、大きな寺院があり、淳仁天皇の天平五年(761)、はじめて戒壇(僧尼に戒律を授ける場所)をこの薬師寺と筑前の観世音寺に設置したことが、仏教史書の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』に記載されている。およそ日本で戒壇のある寺は、南都(奈良)の東大寺とこの二つの寺しかない。弓削道鏡も称徳天皇(孝謙天皇)が崩御された後、この地に左遷され下野薬師寺の別当となった。

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(石橋宿 愛宕神社)

 石橋宿に到着。宿泊する。(お殿様が泊まる本陣に出かけ、仕事が終わって)本陣から戻る頃は午後8時頃(戌のとき)であった。〔文中には「辰のとき」と記載があるが、これでは午前8時頃となってしまい、戌を辰と誤記したと思われる〕

 宿に戻り、酒などを飲み入浴する。

鷹見氏を見つけて「私の鑓(やり)のさやが割れて刃先があらわになっているのは、いったいどうしたことですか」と質問した。(崋山の)鑓持ちの男と鷹見氏の草履取りの男が、松原を通過中、ふざけて大名の鑓持ち奴(やっこ)の姿を真似していたところ、誤って鑓を地面に落としてしまい、さやをこわしてしまった。いかに身分の低い者といえども、自分たちのつとめをおろそかにするとは何事かと叱った。男たちは詫びた。これは何か悪いことの起こる前兆ではないかと、鷹見氏が不安にかられているようだ。

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