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《日光街道》宿場を歩く【今市宿】その1

 大沢宿から今市宿へは、距離にして二里(約7.9km)。今市宿から日光街道終点の鉢石(はついし)宿までも同じ二里(約7.9km)である。今市宿の人口は1,122人、旅籠は21軒(天保14年)であった。今市宿は、日光街道(日光道中)をはじめ、壬生道(例幣使街道)と会津西街道が合流する交通の要所であり、当時はかなりの賑わいをみせていたが、明治初年の戊辰戦争の戦火を受け、町並みはほぼ燃え尽きてしまった。したがって江戸時代を彷彿させるモニュメントは、ほとんど残っていない。ただ地元の行政が、「今市宿」をアピールするため、「市縁ひろば」をつくったり、水車や古民家を復元した「杉並木公園」を設置するなど、町おこしには積極的である。

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◆追分の変わり杉

追分地蔵の向かいにある杉である。奇形枝も多数出ている。この街道屈指の太さの杉とのこと。

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◆報徳二宮神社(日光市今市743

二宮尊徳が残したこの地での功績を称え、明治31年神社が創建された。本殿裏には、志半ばにして70歳で亡くなった尊徳の墓がある。

御祭神二宮尊徳は、晩年日光神領の復興に尽力し、今市の報徳役所にて死去した。その遺徳を敬仰する地元をはじめとする全国の崇敬者によって、尊徳の終焉の地である由緒を持つこの地に神社を創建したのを始まりとしている。明治26年起工し、同30年に社殿を竣工、311114日に鎮座祭を執行し、今日まで学問・経営の神として、人々に親しまれている。

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 二宮尊徳は天明七年(1787)、現神奈川県小田原市栢山の中農の家に生まれた。再三にわたる酒匂川の氾濫で、田畑財産は流され、両親と死別して一家離散の困窮に陥ったが、24歳のとき独力で一家の再興を果たした。薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージは、その頃のものである。

 この経験を元に、奉公先の小田原藩・家老服部家の財政再建を成功させ、武士として登用された尊徳は、その後小田原藩領・下野国桜町(栃木県二宮町)をはじめとする烏山・下館・相馬といった約600の村や藩の経済復興開発に一生を捧げた。

 晩年の嘉永六年(1853)、徳川幕府、老中水野忠邦の命を受け旧日光神領89カ村の復興に尽力し、安政三年(1856)、今市の報徳役所にて70歳で逝去。手厚く埋葬された。

 尊徳の建て直しの方法は、「報徳仕法」と呼ばれ普遍性をもつことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され、弟子たちによって継承された尊徳の思想は「報徳運動」として実践されている。(参考:報徳二宮神社 社務所)

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 意外に知られていないが、二宮尊徳は、実は大男であった。身長は六尺というから約180cm以上で、体重は二十五貫(約94kg)だった。(江戸時代の平均身長は男157cm、女146cm)平均寿命が50歳という江戸時代、70歳まで生きた生命力や数々の偉業を成し遂げた背景には、人並みはずれた「体力」があったことを忘れてはならない。

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■如来寺(日光市今市710

星顕山光明院如来寺。浄土宗。室町時代中期に創建された。本尊は、平安中期に造られたと伝わる阿弥陀如来坐像。境内には、木造地蔵菩薩立像(車止め地蔵)、暁誉上人の五輪塔(ともに市指定文化財)などの数多くの文化財がある。

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寛永九年(1632)徳川家光が日光社参にあたり、御殿を造営し宿所にあてて滞在し、朱印寺領三十石を寄進された。以後家光は、慶安元年(1648)まで三度宿泊休憩所にあてられた。家綱の社参の折にも宿泊所になった。寛文五年(1665)御殿は残らず寺に下付された。また、安政3年(1856)には二宮尊徳翁が亡くなったときに、葬儀が行われた寺でもある。落ち着いた立派な寺だ。

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■蔵助地蔵・玄樹院(日光市今市1126)※写真右が蔵助地蔵

二宮神社のほど近い一角に下寺玄樹院(仏頂山玄樹院大乗寺)がある。この入口に蔵助地蔵という首のない石地蔵がある。近年地中から掘り出されたもので、室町時代の弘治三年(1557)の銘がある。今市では最古の石仏だそうだ。

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 またこの蔵助地蔵の前には、年代は不明だが南無阿弥陀仏の石碑と六地蔵がある。

 日光街道の春日町交差点を右折して、会津西街道の大谷(だいや)川の手前に如来寺の墓地となっている区画があり、回向庵がある。

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■回向庵(日光市瀬川145

回向庵は、江戸時代初期に如来寺の僧侶の住居として建てられた。境内には、享和元年(1802)に造られた地蔵菩薩や子育延命地蔵が祀られている。六地蔵には手作りの白い毛糸の帽子によだれ掛けを見に着け、お堂の中の大きな子育延命地蔵は、赤い布をまとい、近隣の人々の熱い信仰がうかがわれる。

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そのほかに、戊辰戦争における今市攻防戦で戦死した土佐・佐賀両蕃官軍の兵士24名の墓や、国定忠治の軍師と呼ばれた日光円蔵のものと伝えられるお墓がある。

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日光街道に戻る。先の春日町の交差点には、日光・鬼怒川地区で有名なお土産屋さんが道路をはさんで2軒。「日光みそのたまり漬」と「日光ろばたづけ」だ。たまり醤油で漬けた漬物で、どちらもおすすめである。とくに「らっきょう」漬物はうまい。もちろん両店共、自家製の味噌や醤油も販売している。

◆日光みそのたまり漬(日光市今市487TEL0288-21-0002

◆日光ろばたづけ(日光市今市481TEL0288-21-1188

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◆市縁ひろば(日光市今市600-1

警察署跡地に今市宿を小規模に再現したイベントスペースが、市縁ひろばだ。今市観光協会の建物の2階には「かたくり亭」というそばの食堂がある。敷地内にはそばの手打ち道場もあった。ここで小休止。

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■浄泉寺(日光市春日町572

浄土宗。上町の薬師様。元亀三年(1572)の草創と伝わる。慶長年間(15961615に日光から今市宿(現在春日町)に移り、如来寺の末寺として瑠璃光山清光院浄泉寺に改められたといわれる。

 慶安四年(1651)大猷院殿(三代将軍・家光)の御宝棺(ご遺骸)が日光山に向かわれるとき御小休になっている寺。境内には小児の夜泣き止めで信仰をあつめた沢蔵司(たくぞうす)稲荷があり、子育て稲荷あるいは「そば喰い稲荷」ともよばれる。由緒あるお寺とお稲荷さんであるが、境内が荒廃していて見る影もなく残念である。

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 尊徳以来、沢蔵司稲荷に関して、二宮家はこの稲荷信仰があつく、子息弥太郎は安政六年(1859)二月に寄進した玉垣にその子金之丞(三歳)・延之輔(一歳)の名を刻み、文久二年(1863)には節約した金十二両を永久修復料として寄進。地元民への貸し金利子を積み立て、一割の利子のうち三分を世話料と雑費に、残り七分を複利計算で稲荷の維持管理にあてる御修復永久増益仕法を創設した。その後、仕法は大正時代の中頃まで続き、稲荷は仕法跡として今市市文化財に指定された。

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◆市神

現在は瀧尾神社境内に鎮座する神様。江戸時代に今市宿ができ、やがて定期的に六斎市が立つようになって迎えられた商売の神である。

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◆瀧尾神社(日光市今市531

天応二年(782)、勝道上人が日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に、当所、琵琶ヶ窪(池)の笄(こうがい)の森に之を祀るに始まる。その後、人皇第百弐代・後花園天皇寛正元年(1460)改築し今日の神域が整った。明治十年、近郷18村(現在の日光今市市)の郷社に列せられた。主祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)。

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 現在は「かざぐるま」を祀る神社として有名。四季の風に乗った神様のお力をかざぐるまで受け止めて、運力を高めるという。赤のかざぐるまは、厄除け・健康長寿、黄色は金運・商売繁盛・合格、桃色は方位除け・縁結びにご利益がある。

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◆報徳役所跡

嘉永六年(1853)、二宮尊徳は幕府の命により日光御神領仕法を開始した。宿舎は、はじめ日光桜秀坊を借用、今市三郎右衛門方の隠居所に移ったが、仕法実施上、役所設置が不可欠となり、安政二年(1855)、相馬侯の献納した五百両より子息弥太郎が建設した。尊徳は、安政三年10月ここで逝去された。

明治元年(1868)戊辰戦争により弥太郎が福島県中村に去るまで、役所は24年問にわたり日光仕法の中心として重要な役割を果たしたが、書庫を残し建物は取り壊された。跡地に報徳社小代加藤氏宅を移した振興会館がある。

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