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《日光街道》宿場を歩く【鉢石宿】その1

 いよいよ《日光街道》最後の宿場、鉢石(はついし)宿である。長さは五町余り(約545m)で、上鉢石・中鉢石・下鉢石に分かれ、人口は985人、旅籠は19軒であった。(天保14年)旅籠の数が少ないのは、日光山内に参拝者を泊める宿坊が80箇所近くあったためである。いよいよクライマックスの日光である。

 杉並木が終わる。クラッシックな建物のJR日光駅。少し先には山小屋風の東武日光駅がある。都内からは、東武鉄道が早くて安いので断然便利なためか、東武日光駅前の方が開けていて、お土産屋さんや食堂が立ち並ぶ観光地の風景だ。このあたりに鉢石宿の木戸(入口)があった。

■龍蔵寺(日光市御幸町396

瑞雲山正見院。天台宗。本尊は阿弥陀如来。

本堂の右手に「重慶阿闍梨(しげよしあじゃり)塔」と彫った墓碑がある。この重慶が庵を結んだのが寺の始まりと伝わる。重慶は畠山重忠の子で、元久三年(1206)、重忠が北条政子の父・時政に滅ぼされて後、日光に逃れて僧になったそうだ。したがって龍蔵寺の開基は、1206年以降となる。

境内には戊辰戦争で戦死した芸州藩(広島県)の藩士の墓もある。静かな寺だ。

◆稲荷神社(日光市稲荷町1丁目)

健保六年(1218)、京都伏見の稲荷大社の御分霊を勧請し、村の鎮守としたのが始まり。正一位。主祭神は稲倉魂命(うがのみたまのみこと)。

 江戸時代の寛文二年(1662)、関東地方一帯に降り続いた大雨により、稲荷川が決壊し、濁流が一気に村を襲い、死者行方不明者148名、被災者915名、流失家屋300軒余の壊滅的な大災害を受けた。このため、被災者は幕府の援助を受け、稲荷川流域から現在地に集団移住し、稲荷神社も遷座した。現在の社殿は小規模ながら江戸期の建造物である。

 境内には、御鎮座780年祭の記念事業(平成10年)として、庚申塔(こうしんとう)3基、青面金剛(しょうめんこんごう)13基、弁財天1基、梵字(ぼんじ)2基の石碑が集められている。年代は元禄二年(1689)から天保十五年(1844)まで江戸時代に村人たちが建立したものだ。

◆西行戻り石

西行〔元永元年(1118)~文治六年(1190)〕は、平安時代から鎌倉時代初期の歌人である。文治二年(1186)、西行は東大寺再建の資金調達のため、奥州藤原氏のもとへ旅をし、その帰路、日光山へと旅をした。目的は日光の僧たちとの知恵比べであったが、事前に察知した日光権現が、小童(小さなこども)に姿を変えて西行を待つ。

以下、西行と小童のやりとり。

・西行「まず木に登りたければ、猿の子供だと思えば早く登れる」

・小童「犬のようなお坊さんを見たと思えば(猿はこわがってなおさら早く登れる)」

・西行「あなたはこれからどこへ行くのですか」

・小童「冬に育つ夏枯草を刈り(麦刈り)に行きます」

・西行「それは何の草ですか」

・小童「あなたは仏の道に通じる知恵のある方(聖智の人)なのですか?世の中に広く知られている麦という草をお知りにならならいとは」

と、手をたたいて笑えば、西行は驚き、このようないやしい小さなこどもさえ知恵賢き場所なので、日光山へ入ることはかなわないと思い、ここから帰った。よって『西行の戻り石』と名づけた。ちなみに「麦」は、秋に芽生え冬を越え、初夏に開花して実を結ぶ冬の作物である。

 この小童が休んでいたのがこの石の上であったそうだ。西行にまつわるこの種の逸話は、ほかの地域にも伝承しているが、なかなかおもしろい。

 で、西行はつぎのような歌を詠み、引き返したそうである。

ながむながむ散りなむことを君もおもへ黒髪山(男体山)に花さきにけり

■虚空蔵尊

稲荷神社の先には、古びた石段と石の鳥居の虚空蔵尊がある。寛永十七年(1640)、神橋右岸の磐裂神(いわさくしん:虚空蔵尊の別名)を分祠(ぶんし)し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀った。御宮造・本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財の指定を受けている。境内には太子堂もある。

 また境内には「日光型庚申塔」が7基集められている。寛文二年(1662)から延宝八年(1680)のものである。

◆本陣跡 入江本陣と高野本陣

御幸町に入ると街道の右側に、手打ちそば「魚要(うおかね)」がある。本陣・入江喜兵衛の跡である。本陣でありながら、蒸菓子(まんじゅう)と麩和餅を製造していて日光東照宮にも御用として献上していたそうだ。

 街道右側の大野屋旅館の先が、本陣・高野源蔵跡地である。空地になっており工事車両が置かれていた。発見できなかったが、この敷地には日光を訪れた松尾芭蕉の句碑が残っているそうだ。有名な「あらたうと青葉若葉の日の光」の推敲前の句である。

 あらたふと木の下闇も日の光

さて「元祖日光酒饅頭」文化元年(1804)創業の湯沢屋の茶寮(和風喫茶)で休憩。

歩き疲れたので甘いものがほしい。湯沢屋セットを注文。蒸かし立て酒饅頭、水羊羹に箸休めのしそ巻き唐辛子、おいしい緑茶が付いて600円だ。満足。

■湯沢屋茶寮(日光市下鉢石町946TEL0288-54-0038

営業時間/10001600(不定休)

◆鉢石

街道右側、中鉢石町の日本生命と三ツ山羊羹駐車場の間の小道を下ると鉢石の史跡である。勝道上人が托鉢の際、持ち歩く鉄鉢(お弁当箱)をこの岩盤の上に置き、つねに日光連山を拝したことからこの岩を鉢石と呼び、この地を鉢石宿と呼んだ。

 日光市教育委員会の案内板によれば、地中から地表に突き出た岩盤の一端が鉢を伏せたような形のため、古来より「鉢石」と称されている。また「鉢石」の由来については、勝道上人が日光山開山の時、このあたりにはじめて人家を建て鉢石町と名付けた。この町の北、大谷川の両岸に鉢の形をした岩があり、地名としたと記述がある。

まだ午前中なので、お土産を購入。老舗「ひしや」の羊羹である。11,500円。朝9時から売り出し、完売すると店を閉めてしまう。ほとんど午前中で売り切れとなるそうだ。家に帰ってから食したが、評判通り抜群にうまい。とくに砂糖が凝固した羊羹のカドが最高である。

■ひしや(日光市上鉢石町1040TEL0288-54-0623

※羊羹の写真は、日光老舗名店会提供

※入江本陣跡の「魚要」は、「うおよう」さんでした。本文を訂正してお詫びします。自家製粉の手打ちそばで湯波そば元祖の店です。

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コメント

後付け?だとしても 言い伝えって面白いですね

あ その羊羹なにかテレビでみたような(^・^)

投稿: ikkun | 2012年5月 1日 (火) 15時36分

ikkunbeer
羊羮のひしやは、有名な店です。確かに高いけれどうまいです。

投稿: もりたたろべえ | 2012年5月 1日 (火) 22時48分

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