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《日光街道》宿場を歩く【今市宿】その2

 瀧尾神社の先で今市宿は終わり、左側を走る国道119号に平行して、日光街道の杉並木が始まる。所々に集落があり、寺社が点在する。まさに江戸時代の旅を体験でき、街道歩きの醍醐味を満喫できる《日光街道》最大の山場である。

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◆杉並木公園(日光市瀬川)

この公園は、日光杉並木街道の保護と地域の文化を伝授するために整備された。

今市では杉線香の生産が盛んだが、その動力として、かつては水車が使われていた。また、米つきや粉ひきにも水車が利用され、市内に数多く水車を見ることができたそうだ。園内には、当時を懐かしみ、体験できるよう、水車を設置してある。

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 民家は歴史的に価値があり、貴重な文化遺産である天保元年(1830)に建てられた名主・旧江連家と、二宮尊徳の報徳仕法によるモデル住宅である「報徳仕法農家」の2棟を復元してある。

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◆朝鮮通信使今市客館跡(杉並木公園内)

江戸時代、善隣友好の朝鮮通信使は12回来日した。寛永十三年(1636)、同二十年(1643)、明暦元年(1655)の3回は、正史・副使・従事官の三使と部下たちの約200人が、日光を訪れ、日光東照宮や大猷院に国王からの進物を贈り、公式行事をおこなった。この3回共、将軍社参並みの扱いを受け、盛大な行列で日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに、1万余両(現在の約6億から10億円)を掛け豪華な客館を新築してもてなした。

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 平成十九年(2007)、朝鮮通信使来日400年を記念して、日韓両国の相互理解と友情を深めるため、公園内に記念碑が建立されている。

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◆報徳仕法農家(杉並木公園内)

慶応元年(1865)、報徳役所からの援助で、轟村(現日光市轟)に新築した大島金助の農家。間口7.5間(13.6m)、奥行き4間(7.3m)、建坪30坪(101.01㎡)、建築費用66両(約400万~660万円)である。木造茅葺(かやぶき)屋根平屋建てで、馬屋、土間、いろり付居間、納戸、座敷2間の合理的な間取りであった。江戸時代の農家にとって、まさにモデルハウスといえる。(現在は防災上の利用で屋根は茅葺ではなく銅板に変えられている)ちなみに、この家を利用して、「報徳庵」という手打ちそば屋を営業中だ。

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◆旧江連家住宅(杉並木公園内)

天保元年(1830)、南小倉村(現日光市小倉)に建築された江連家母屋を解体・移築した。江連家は、江戸時代に南小倉村の世襲名主を務めた家。建築面積は約91坪(302.84㎡)の木造茅葺屋根平屋建てで、間取りは馬屋、土間、いろり付居間のほか、いろり付茶の間や納戸等座敷が6間もあり、当時の名主や農民の暮らしぶりが見えてくる貴重な歴史資料である。(同じく現在は、防災上の利用で屋根は茅葺ではなく銅板に変えられている)

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お昼には少し早いが、せっかくなので「報徳庵」に行く。やはり今市は、手打ちそばである。報徳仕法の農家を移築した店舗である。もりそば(600円)の大盛(750円)と天ぷら盛合せ(550円)を注文。

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 そばは茶色味を帯び、粒が残っていて風味がよい。茹で加減は少しやわらかく腰がないが、おいしく食べられる。そばつゆは濃い目だ。天ぷらはカボチャ、なす、春菊、舞茸、ししとうにかき揚げ。まるで田舎のおばあちゃんの味だ。なかなか素朴でよい。それもそのはず、店員は近所のベテラン主婦たちだ。食べていると、みるみる満員になった。なるほど人気の店である。

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        そば処 報徳庵

        日光市瀬川383-1 TEL:0288-21-4973

        営業時間/4~10月11:00~16:00 11~3月 11:00~15:00(年中無休)

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(瀬川の馬頭尊)

◆瀬川の一里塚

報徳庵(杉並木公園)を出ると杉並木街道に復帰する。日光街道最後の一里塚である。江戸日本橋より三十四里(約133.5km)である。

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◆高龗(たかお)神社

杉並木公園の中にある。古びた静かな神社で農耕の神で雨をつかさどり、水源を祀る日本神話の神・高龗神を祭神とする。境内には多くの石仏がある。瀬川村の鎮守で天正年間(1573~92)の勧請だそうだ。

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愛宕山と彫られた石碑は延宝三年(1675)、男體山(男体山)の碑は嘉永六年(1853)。そのほか、石灯籠やかわいらしい童子像が残されている。

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◆瀬川の七本杉伐採痕

七本の杉が根の部分で癒着して大きな一本になっている。明治大正の暴風で倒木した上、老朽化したため近年切り倒されてしまい、根だけが残された。砦(とりで) のように見える。

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■瀬川の大日堂

杉並木の中、瀬川の集落を行くと、左手に「大日如来」の案内板。細い道を入ると大日如来堂と数体の石仏がある。創建は不明だが、ガイドブックによれば元禄期(1673~1704)には、あったらしい。宝正山長禅寺(天台宗)が廃寺となった跡地とのこと。大日如来を拝する大日信仰や庚申信仰が盛んであったおとを物語るように、多くの石仏が残っている。

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◆砲弾打込み杉

今市宿は戊辰戦争で激しい戦いがおこなわれた場所。この杉は官軍の打った砲弾が、杉並木を打ち抜いた跡が残っている。また、このあたりに「十文字の幕府軍陣地跡」があり、大鳥圭介軍が陣を設けたとあるが、見過ごしてしまった。

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■野口薬師堂(竜蔵寺跡)

杉並木の中を歩く。野口村の集落に古びた薬師堂がある。右下には東武に光線が走っている。石の釣鐘が置かれている。明和五年、村人が日光太郎山に銅の釣鐘を奉納したが、同時に地元の山王社に奉納するために石の釣鐘を奉納したが、なぜか運搬途中に上部がこわれ、この地に置かれたままだそうだ。

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 薬師堂の横に、如意輪観音を刻んだ十九夜塔が9体残る。一番左が天保十三年(1842)、左から二番目が文政三年(1820)、右から三番目が文化三年(1806)の銘がわかる。

また、薬師堂の裏には男根崇拝の金地仏がある。五穀豊穣を祈ったものだ。

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やがて七里村である。日光開山前に勝道上人が修行した生岡神社から日光山神橋まで「六町を一里として」七里あったことから、村の名がついたそうだ。

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◆日枝神社(山王社)と生岡神社(生岡大日堂)

平安時代から中世にわたり、大いに栄え勢力をもっていた山王社と生岡大日堂。明治の神仏分離により、日枝神社と生岡神社になった。日光街道からは、少し距離がある。街道筋には、「生岡山王」と刻まれた常夜灯(寛政三年1791)があり、生岡神社の石碑が残っていた。

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◆銀杏杉

杉の根の部分が大きく開いて、あたかも銀杏(イチョウ)の葉を逆さにしたように見えるので「銀杏杉」と呼ばれる。この先には大きな杉を伐採した跡(大砲止めの杉の伐痕)が残っている。

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◆明治天皇七里小休所

明治九年(1876)、東北巡幸の折、日光・中禅寺湖まで行かれた明治天皇が休憩した場所。手塚宅である。寺社建築の珍しい四方垂木の建築で、巡幸が決まり急いで新築したという話が伝わっている。

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◆尾立岩

歩いていると見逃してしまうようだが、ここは由緒ある場所だ。

「むかし日光の神、宇都宮に遷りますとき蛇体に現じ、大谷川を渡り此の岩の上に来たり、尾を空中に立ちて東を指してはしり、宇都宮の丸山にとゞまる。郡主奇異のおもひをなし、丸山に一社を建て大明神と崇め、此の岩を尾立岩と名づく」

 現在宇都宮にある「二荒山(ふたあらやま)神社」のはじまりである。いまでは、岩も旧国鉄の工事で分断されている。小さな祠に地蔵が祀られ、数体の石仏が残る。

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◆筋違橋

水のきれいな志度淵(しどぶち)川を渡る。筋違(すじかい)橋である。川が日光街道と筋違いに流れているのでこの名がついた。昔は、こどもがこの橋の下をくぐれば、麻疹(はしか)が軽く済むという信仰があった。「橋下」と「麻疹」の俗信という。いまでも橋の地下に地蔵尊が祀られている。

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 「おくの細道」での芭蕉が、日光(鉢石宿)での滞在を終え、那須・黒磯方面へ向かう途中に通ったのがこのあたりの道である。(曽良の随行日記より)

四月二日 

天気快晴。午前8時頃、宿を出る。裏見の滝(一里程西北)、含満が淵を正午頃迄見物。鉢石を立ち那須・大田原へ趣く。通常は今市へ戻って大渡から行くが、五左衛門が教えた通り、日光より廿丁程下り、左の方へ曲がり、大谷川を越え、瀬ノ尾・川室という村を通って大渡という馬継に至る。三里を少し越える。

 この「日光より二十丁程下り、左の方へ曲がる」道が、この筋違橋のところだ。

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◆異人石

道は宝殿地区である。日光モータースの工場の前に異人石と呼ばれる石がある。明治の初期に近くに住んでいた外国人が、石屋に頼んで大きな岩をすわりやすいように加工してもらい、毎日腰かけて街道を行く人々を鑑賞していたという。近所の方にいわれを訊

いてみたが、わからなかった。また、異人石の案内板も朽ち果てて倒れていた。

 異人石の反対側に「男體山(男体山)」の石碑が祀られていた。まもなく鉢石宿だ。

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コメント

古民家の蕎麦も 美味しそうですね。手打ちがいいですね。

投稿: 通りすがり | 2012年4月25日 (水) 22時14分

報徳庵のそばもうまかったですね。
個人的には、たぶん打ち方でしょうが、コシが足りない感じでした。でも味はよかったです。

投稿: もりたたろべえ | 2012年4月26日 (木) 10時26分

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