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《日光街道》宿場を歩く【大沢宿】その2

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 途中で街道歩きの昼食である。今市は「そば」である。水がおいしいことに加え、寒冷地の気候があり、そば粉もとれる。そこで以前からネットで調べておいた店に向かう。

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水無(みずなし)の「湧水庵(ゆうすいあん)」である。今市の手打ちそばでは、つねにベスト5に入る。日光街道から小道にはずれ、10分ほど歩く。山の入口で小川が流れる静かな場所だ。ほかに民家もない。お昼より少し早いと思ったが、店内はほぼ満員。

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 限定の鴨そば(つけ汁)を注文する。そばはそば粉のツブが黒く残っていて風味がよい。コシもある。あたたかいつけ汁ですする。鴨の肉と焼いた香ばしい長ネギのつゆ。これは評判にたがわずうまい。帰りに広い駐車場には車が満杯だった。40席近くのキャパはあるはずだが、やはり人気の店である。鴨そば(つけ汁)800

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    そば処 水無 湧水庵(栃木県日光市水無309 TEL0288-26-3355

    営業時間/11001500(年中無休)

森友地区に入る。

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■来迎寺(日光市森友1116

浄土宗。盛朝山光明院。本尊は阿弥陀如来。山門を入ると十九夜塔が4体並んでいる。如意輪観音のお顔が、それぞれほほえましい。左から二番目が宝永二年(1705)、三番目が享保二十一年(1736)の銘がある。江戸中期から親しまれてきたようだ。

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(男体山)

◆男體山(男体山)常夜燈道標

街道沿いの民家の庭先にあるが、道路から見える。「男體山(なんたいさん)」と刻まれ、寛政九年(1797)の年代も彫られているそうだ。男体山は、日光国立公園にある標高2,486mの名山である。古くから山岳信仰の聖地として知られ、日光二荒山神社の奥宮がある。現在でも「男体山登拝講社大祭」があり、7月末から8月上旬には山の神霊(大国様)を称え、所願成就を祈願して登山する祭りがある。この道標は男体山へ向かう講の信者たちを励ましたものと想像できる。

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◆森友瀧尾神社(日光市森友995

神護景雲元年(767)称徳天皇の御世、田心姫命(たごりひめのみこと)が日光に入る折、途中休息をされた場所を「腰掛の地」といい、森友にあった。建長四年(1242)、その地に祠(ほこら)を建立して田心姫命を御祭神に祀ったことが、神社の創建と伝わっている。神社は大正五年、現在地に遷座された。縁結びと子宝にご利益がある大きな「しめ縄」が本社の前に掛かっている。境内には安産・子宝の腰掛石が安置されている。地域で愛され続ける神社である。

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◆森友の桜杉

再び杉並木の中を行く。杉の木の途中に桜の木が寄生している。

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◆並木ホテル(七本桜の一里塚)

日光市が設置している案内板には、つぎのように書かれている。

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〔特別史跡・特別天然記念物〕日光杉並木街道の一里塚(今市七本桜)

江戸から日光までの三十六里余(144km)の街道は「日光道中」と呼ばれ、その昔東照宮に詣でるための街道として栄えた。

 街道には一里毎に塚を築き、その上に大樹が植えられて旅人に里程を知らせたが、この杉並木区間では一里塚に杉が植えられているのが特色である。特にこの塚上の杉は根元がくさって空洞が出来、大人四人位は入れるところから、並木ホテルと呼ばれている。

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 確かに大きな杉の空洞部分は、大人なら4人どころか56人は大丈夫だ。内部は雨宿りの際に焚かれた焚き火で炭になっている。どっしりした杉である。「並木ホテル」というよりも「杉旅籠」とか「旅籠杉」の方がしっくりする。

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◆和尚塚(日光市今市58周辺)

慶応四年(18684月から5月、戊辰戦争、今市の戦闘における幕府軍戦死者を合祀した墓である。今市宿東木戸方面に野晒しであった遺体を地元の人々が埋葬した、無名戦士の墓といわれている。塚そのものは以前からあったが、今市攻防戦を通じ幕府軍(東軍)の戦死者は約100名で、散乱していた20数名の遺体を付近の住民が、ここに埋葬し冥福を祈ったと伝わる。あるいは今市宿下木戸に晒された首級(その数は16もしくは27ともいわれる)を葬ったという言い伝えもある。いまでも花がそなえられ、手を合わせる住民の方がいるそうだ。

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◆追分地蔵尊

例幣使街道と日光街道の分岐点(追分)にある。大きな赤い「地蔵尊」の提灯と、これまた大きな地蔵の坐像(石造地蔵菩薩坐像)が安置されている。以前は今市の如来寺にあったものが、寛永二年(1625)この追分に移された。この地蔵の制作年代は、断定できないが、鎌倉から室町時代の作と推定されている。像の高さは2.9mもある。迫力がある。

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 地蔵の手前、左側に二十三夜信仰の「お三夜様」とデキモノに効く「くさ地蔵」がある。そのほか、境内には寛政六年(1794)の道しるべ(石塔)があり、「右かぬま道、左宇つの宮道」と刻まれている。

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 お三夜様(サンヤサマ)は、二十三夜講といい、月待ち信仰の一つ。満月を中心に月の形がちょうど半分になる夜だからとも、また地蔵縁日たる24日の前夜だからともいわれているが、娯楽の少なかった頃、信仰をかねて集落の女性たちが、ご馳走を持ち寄って集まり、団欒にふけった日をいう。安産・子育ての信仰であり、供物と線香を供え祈願した。(参考:追分地蔵尊説明板)

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コメント

絶対いけない こうした神社等を紹介して頂けるのは嬉しいですねえ(笑)

投稿: ikkun | 2012年4月12日 (木) 10時14分

ikkunbeer
コメントありがとうございます。
もう少しで日光街道も踏破できます。考えてみれば長い道のりでした。

投稿: もりたたろべえ | 2012年4月13日 (金) 10時25分

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