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2012年4月の19件の記事

《日光街道》宿場を歩く【鉢石宿】その1

 いよいよ《日光街道》最後の宿場、鉢石(はついし)宿である。長さは五町余り(約545m)で、上鉢石・中鉢石・下鉢石に分かれ、人口は985人、旅籠は19軒であった。(天保14年)旅籠の数が少ないのは、日光山内に参拝者を泊める宿坊が80箇所近くあったためである。いよいよクライマックスの日光である。

 杉並木が終わる。クラッシックな建物のJR日光駅。少し先には山小屋風の東武日光駅がある。都内からは、東武鉄道が早くて安いので断然便利なためか、東武日光駅前の方が開けていて、お土産屋さんや食堂が立ち並ぶ観光地の風景だ。このあたりに鉢石宿の木戸(入口)があった。

■龍蔵寺(日光市御幸町396

瑞雲山正見院。天台宗。本尊は阿弥陀如来。

本堂の右手に「重慶阿闍梨(しげよしあじゃり)塔」と彫った墓碑がある。この重慶が庵を結んだのが寺の始まりと伝わる。重慶は畠山重忠の子で、元久三年(1206)、重忠が北条政子の父・時政に滅ぼされて後、日光に逃れて僧になったそうだ。したがって龍蔵寺の開基は、1206年以降となる。

境内には戊辰戦争で戦死した芸州藩(広島県)の藩士の墓もある。静かな寺だ。

◆稲荷神社(日光市稲荷町1丁目)

健保六年(1218)、京都伏見の稲荷大社の御分霊を勧請し、村の鎮守としたのが始まり。正一位。主祭神は稲倉魂命(うがのみたまのみこと)。

 江戸時代の寛文二年(1662)、関東地方一帯に降り続いた大雨により、稲荷川が決壊し、濁流が一気に村を襲い、死者行方不明者148名、被災者915名、流失家屋300軒余の壊滅的な大災害を受けた。このため、被災者は幕府の援助を受け、稲荷川流域から現在地に集団移住し、稲荷神社も遷座した。現在の社殿は小規模ながら江戸期の建造物である。

 境内には、御鎮座780年祭の記念事業(平成10年)として、庚申塔(こうしんとう)3基、青面金剛(しょうめんこんごう)13基、弁財天1基、梵字(ぼんじ)2基の石碑が集められている。年代は元禄二年(1689)から天保十五年(1844)まで江戸時代に村人たちが建立したものだ。

◆西行戻り石

西行〔元永元年(1118)~文治六年(1190)〕は、平安時代から鎌倉時代初期の歌人である。文治二年(1186)、西行は東大寺再建の資金調達のため、奥州藤原氏のもとへ旅をし、その帰路、日光山へと旅をした。目的は日光の僧たちとの知恵比べであったが、事前に察知した日光権現が、小童(小さなこども)に姿を変えて西行を待つ。

以下、西行と小童のやりとり。

・西行「まず木に登りたければ、猿の子供だと思えば早く登れる」

・小童「犬のようなお坊さんを見たと思えば(猿はこわがってなおさら早く登れる)」

・西行「あなたはこれからどこへ行くのですか」

・小童「冬に育つ夏枯草を刈り(麦刈り)に行きます」

・西行「それは何の草ですか」

・小童「あなたは仏の道に通じる知恵のある方(聖智の人)なのですか?世の中に広く知られている麦という草をお知りにならならいとは」

と、手をたたいて笑えば、西行は驚き、このようないやしい小さなこどもさえ知恵賢き場所なので、日光山へ入ることはかなわないと思い、ここから帰った。よって『西行の戻り石』と名づけた。ちなみに「麦」は、秋に芽生え冬を越え、初夏に開花して実を結ぶ冬の作物である。

 この小童が休んでいたのがこの石の上であったそうだ。西行にまつわるこの種の逸話は、ほかの地域にも伝承しているが、なかなかおもしろい。

 で、西行はつぎのような歌を詠み、引き返したそうである。

ながむながむ散りなむことを君もおもへ黒髪山(男体山)に花さきにけり

■虚空蔵尊

稲荷神社の先には、古びた石段と石の鳥居の虚空蔵尊がある。寛永十七年(1640)、神橋右岸の磐裂神(いわさくしん:虚空蔵尊の別名)を分祠(ぶんし)し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀った。御宮造・本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財の指定を受けている。境内には太子堂もある。

 また境内には「日光型庚申塔」が7基集められている。寛文二年(1662)から延宝八年(1680)のものである。

◆本陣跡 入江本陣と高野本陣

御幸町に入ると街道の右側に、手打ちそば「魚要(うおかね)」がある。本陣・入江喜兵衛の跡である。本陣でありながら、蒸菓子(まんじゅう)と麩和餅を製造していて日光東照宮にも御用として献上していたそうだ。

 街道右側の大野屋旅館の先が、本陣・高野源蔵跡地である。空地になっており工事車両が置かれていた。発見できなかったが、この敷地には日光を訪れた松尾芭蕉の句碑が残っているそうだ。有名な「あらたうと青葉若葉の日の光」の推敲前の句である。

 あらたふと木の下闇も日の光

さて「元祖日光酒饅頭」文化元年(1804)創業の湯沢屋の茶寮(和風喫茶)で休憩。

歩き疲れたので甘いものがほしい。湯沢屋セットを注文。蒸かし立て酒饅頭、水羊羹に箸休めのしそ巻き唐辛子、おいしい緑茶が付いて600円だ。満足。

■湯沢屋茶寮(日光市下鉢石町946TEL0288-54-0038

営業時間/10001600(不定休)

◆鉢石

街道右側、中鉢石町の日本生命と三ツ山羊羹駐車場の間の小道を下ると鉢石の史跡である。勝道上人が托鉢の際、持ち歩く鉄鉢(お弁当箱)をこの岩盤の上に置き、つねに日光連山を拝したことからこの岩を鉢石と呼び、この地を鉢石宿と呼んだ。

 日光市教育委員会の案内板によれば、地中から地表に突き出た岩盤の一端が鉢を伏せたような形のため、古来より「鉢石」と称されている。また「鉢石」の由来については、勝道上人が日光山開山の時、このあたりにはじめて人家を建て鉢石町と名付けた。この町の北、大谷川の両岸に鉢の形をした岩があり、地名としたと記述がある。

まだ午前中なので、お土産を購入。老舗「ひしや」の羊羹である。11,500円。朝9時から売り出し、完売すると店を閉めてしまう。ほとんど午前中で売り切れとなるそうだ。家に帰ってから食したが、評判通り抜群にうまい。とくに砂糖が凝固した羊羹のカドが最高である。

■ひしや(日光市上鉢石町1040TEL0288-54-0623

※羊羹の写真は、日光老舗名店会提供

※入江本陣跡の「魚要」は、「うおよう」さんでした。本文を訂正してお詫びします。自家製粉の手打ちそばで湯波そば元祖の店です。

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《ありあけ》の「タンメン」もうまい!

 東京スカイツリーの真下、とうきょうスカイツリー駅からも近い《ありあけ》。ランチはタンメンである。

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 なんといっても塩加減がちょうどいい。ささっと野菜や豚肉を炒めて麺の上にのせてある。下町の味。元気が出るから不思議だ。

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■長崎ちゃんぽん ありあけ

■東京都墨田区向島1-29-10

TEL0338290534

■営業時間/11301500 18002330

(日曜日は2230まで)年中無休

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ハンバーグなら《モンブラン》 吾妻橋店

 浅草にもあるハンバーグ専門店《モンブラン》 吾妻橋店でランチである。

和風ハンバーグ(980円)を食べる。大根おろしと醤油のソースがうまい。

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付け合せもコーンとインゲンにパスタ。クラッシックなスタイルである。ライスと味噌汁が付く。以前にも書いたが、この店のハンバーグは世界の味が楽しめる。

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ご近所グルメ 浅草《モンブラン》なんだかなつかしい【ハンバーグ】

    モンブラン 吾妻橋店

    東京都墨田区吾妻橋2-*2-5

    TEL03-5608-2155

    営業時間/11001430 17002200(月曜定休)

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春を感じる《蕗の薹(ふきのとう)》の天ぷら

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 近所の居酒屋で《蕗の薹》の天ぷらを食べた。3月、4月にしか出回らない旬のものだ。少しばかり苦味があるが、歯ごたえ抜群。何ともいえないうまさである。

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 蕗の薹は、ふきの花の部分で、やわらかい内に収穫して食べる。季節を感じる食べ物は最高である。

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《日光街道》宿場を歩く【今市宿】その2

 瀧尾神社の先で今市宿は終わり、左側を走る国道119号に平行して、日光街道の杉並木が始まる。所々に集落があり、寺社が点在する。まさに江戸時代の旅を体験でき、街道歩きの醍醐味を満喫できる《日光街道》最大の山場である。

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◆杉並木公園(日光市瀬川)

この公園は、日光杉並木街道の保護と地域の文化を伝授するために整備された。

今市では杉線香の生産が盛んだが、その動力として、かつては水車が使われていた。また、米つきや粉ひきにも水車が利用され、市内に数多く水車を見ることができたそうだ。園内には、当時を懐かしみ、体験できるよう、水車を設置してある。

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 民家は歴史的に価値があり、貴重な文化遺産である天保元年(1830)に建てられた名主・旧江連家と、二宮尊徳の報徳仕法によるモデル住宅である「報徳仕法農家」の2棟を復元してある。

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◆朝鮮通信使今市客館跡(杉並木公園内)

江戸時代、善隣友好の朝鮮通信使は12回来日した。寛永十三年(1636)、同二十年(1643)、明暦元年(1655)の3回は、正史・副使・従事官の三使と部下たちの約200人が、日光を訪れ、日光東照宮や大猷院に国王からの進物を贈り、公式行事をおこなった。この3回共、将軍社参並みの扱いを受け、盛大な行列で日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに、1万余両(現在の約6億から10億円)を掛け豪華な客館を新築してもてなした。

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 平成十九年(2007)、朝鮮通信使来日400年を記念して、日韓両国の相互理解と友情を深めるため、公園内に記念碑が建立されている。

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◆報徳仕法農家(杉並木公園内)

慶応元年(1865)、報徳役所からの援助で、轟村(現日光市轟)に新築した大島金助の農家。間口7.5間(13.6m)、奥行き4間(7.3m)、建坪30坪(101.01㎡)、建築費用66両(約400万~660万円)である。木造茅葺(かやぶき)屋根平屋建てで、馬屋、土間、いろり付居間、納戸、座敷2間の合理的な間取りであった。江戸時代の農家にとって、まさにモデルハウスといえる。(現在は防災上の利用で屋根は茅葺ではなく銅板に変えられている)ちなみに、この家を利用して、「報徳庵」という手打ちそば屋を営業中だ。

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◆旧江連家住宅(杉並木公園内)

天保元年(1830)、南小倉村(現日光市小倉)に建築された江連家母屋を解体・移築した。江連家は、江戸時代に南小倉村の世襲名主を務めた家。建築面積は約91坪(302.84㎡)の木造茅葺屋根平屋建てで、間取りは馬屋、土間、いろり付居間のほか、いろり付茶の間や納戸等座敷が6間もあり、当時の名主や農民の暮らしぶりが見えてくる貴重な歴史資料である。(同じく現在は、防災上の利用で屋根は茅葺ではなく銅板に変えられている)

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お昼には少し早いが、せっかくなので「報徳庵」に行く。やはり今市は、手打ちそばである。報徳仕法の農家を移築した店舗である。もりそば(600円)の大盛(750円)と天ぷら盛合せ(550円)を注文。

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 そばは茶色味を帯び、粒が残っていて風味がよい。茹で加減は少しやわらかく腰がないが、おいしく食べられる。そばつゆは濃い目だ。天ぷらはカボチャ、なす、春菊、舞茸、ししとうにかき揚げ。まるで田舎のおばあちゃんの味だ。なかなか素朴でよい。それもそのはず、店員は近所のベテラン主婦たちだ。食べていると、みるみる満員になった。なるほど人気の店である。

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        そば処 報徳庵

        日光市瀬川383-1 TEL:0288-21-4973

        営業時間/4~10月11:00~16:00 11~3月 11:00~15:00(年中無休)

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(瀬川の馬頭尊)

◆瀬川の一里塚

報徳庵(杉並木公園)を出ると杉並木街道に復帰する。日光街道最後の一里塚である。江戸日本橋より三十四里(約133.5km)である。

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◆高龗(たかお)神社

杉並木公園の中にある。古びた静かな神社で農耕の神で雨をつかさどり、水源を祀る日本神話の神・高龗神を祭神とする。境内には多くの石仏がある。瀬川村の鎮守で天正年間(1573~92)の勧請だそうだ。

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愛宕山と彫られた石碑は延宝三年(1675)、男體山(男体山)の碑は嘉永六年(1853)。そのほか、石灯籠やかわいらしい童子像が残されている。

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◆瀬川の七本杉伐採痕

七本の杉が根の部分で癒着して大きな一本になっている。明治大正の暴風で倒木した上、老朽化したため近年切り倒されてしまい、根だけが残された。砦(とりで) のように見える。

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■瀬川の大日堂

杉並木の中、瀬川の集落を行くと、左手に「大日如来」の案内板。細い道を入ると大日如来堂と数体の石仏がある。創建は不明だが、ガイドブックによれば元禄期(1673~1704)には、あったらしい。宝正山長禅寺(天台宗)が廃寺となった跡地とのこと。大日如来を拝する大日信仰や庚申信仰が盛んであったおとを物語るように、多くの石仏が残っている。

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◆砲弾打込み杉

今市宿は戊辰戦争で激しい戦いがおこなわれた場所。この杉は官軍の打った砲弾が、杉並木を打ち抜いた跡が残っている。また、このあたりに「十文字の幕府軍陣地跡」があり、大鳥圭介軍が陣を設けたとあるが、見過ごしてしまった。

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■野口薬師堂(竜蔵寺跡)

杉並木の中を歩く。野口村の集落に古びた薬師堂がある。右下には東武に光線が走っている。石の釣鐘が置かれている。明和五年、村人が日光太郎山に銅の釣鐘を奉納したが、同時に地元の山王社に奉納するために石の釣鐘を奉納したが、なぜか運搬途中に上部がこわれ、この地に置かれたままだそうだ。

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 薬師堂の横に、如意輪観音を刻んだ十九夜塔が9体残る。一番左が天保十三年(1842)、左から二番目が文政三年(1820)、右から三番目が文化三年(1806)の銘がわかる。

また、薬師堂の裏には男根崇拝の金地仏がある。五穀豊穣を祈ったものだ。

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やがて七里村である。日光開山前に勝道上人が修行した生岡神社から日光山神橋まで「六町を一里として」七里あったことから、村の名がついたそうだ。

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◆日枝神社(山王社)と生岡神社(生岡大日堂)

平安時代から中世にわたり、大いに栄え勢力をもっていた山王社と生岡大日堂。明治の神仏分離により、日枝神社と生岡神社になった。日光街道からは、少し距離がある。街道筋には、「生岡山王」と刻まれた常夜灯(寛政三年1791)があり、生岡神社の石碑が残っていた。

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◆銀杏杉

杉の根の部分が大きく開いて、あたかも銀杏(イチョウ)の葉を逆さにしたように見えるので「銀杏杉」と呼ばれる。この先には大きな杉を伐採した跡(大砲止めの杉の伐痕)が残っている。

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◆明治天皇七里小休所

明治九年(1876)、東北巡幸の折、日光・中禅寺湖まで行かれた明治天皇が休憩した場所。手塚宅である。寺社建築の珍しい四方垂木の建築で、巡幸が決まり急いで新築したという話が伝わっている。

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◆尾立岩

歩いていると見逃してしまうようだが、ここは由緒ある場所だ。

「むかし日光の神、宇都宮に遷りますとき蛇体に現じ、大谷川を渡り此の岩の上に来たり、尾を空中に立ちて東を指してはしり、宇都宮の丸山にとゞまる。郡主奇異のおもひをなし、丸山に一社を建て大明神と崇め、此の岩を尾立岩と名づく」

 現在宇都宮にある「二荒山(ふたあらやま)神社」のはじまりである。いまでは、岩も旧国鉄の工事で分断されている。小さな祠に地蔵が祀られ、数体の石仏が残る。

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◆筋違橋

水のきれいな志度淵(しどぶち)川を渡る。筋違(すじかい)橋である。川が日光街道と筋違いに流れているのでこの名がついた。昔は、こどもがこの橋の下をくぐれば、麻疹(はしか)が軽く済むという信仰があった。「橋下」と「麻疹」の俗信という。いまでも橋の地下に地蔵尊が祀られている。

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 「おくの細道」での芭蕉が、日光(鉢石宿)での滞在を終え、那須・黒磯方面へ向かう途中に通ったのがこのあたりの道である。(曽良の随行日記より)

四月二日 

天気快晴。午前8時頃、宿を出る。裏見の滝(一里程西北)、含満が淵を正午頃迄見物。鉢石を立ち那須・大田原へ趣く。通常は今市へ戻って大渡から行くが、五左衛門が教えた通り、日光より廿丁程下り、左の方へ曲がり、大谷川を越え、瀬ノ尾・川室という村を通って大渡という馬継に至る。三里を少し越える。

 この「日光より二十丁程下り、左の方へ曲がる」道が、この筋違橋のところだ。

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◆異人石

道は宝殿地区である。日光モータースの工場の前に異人石と呼ばれる石がある。明治の初期に近くに住んでいた外国人が、石屋に頼んで大きな岩をすわりやすいように加工してもらい、毎日腰かけて街道を行く人々を鑑賞していたという。近所の方にいわれを訊

いてみたが、わからなかった。また、異人石の案内板も朽ち果てて倒れていた。

 異人石の反対側に「男體山(男体山)」の石碑が祀られていた。まもなく鉢石宿だ。

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《日光街道》宿場を歩く【今市宿】その1

 大沢宿から今市宿へは、距離にして二里(約7.9km)。今市宿から日光街道終点の鉢石(はついし)宿までも同じ二里(約7.9km)である。今市宿の人口は1,122人、旅籠は21軒(天保14年)であった。今市宿は、日光街道(日光道中)をはじめ、壬生道(例幣使街道)と会津西街道が合流する交通の要所であり、当時はかなりの賑わいをみせていたが、明治初年の戊辰戦争の戦火を受け、町並みはほぼ燃え尽きてしまった。したがって江戸時代を彷彿させるモニュメントは、ほとんど残っていない。ただ地元の行政が、「今市宿」をアピールするため、「市縁ひろば」をつくったり、水車や古民家を復元した「杉並木公園」を設置するなど、町おこしには積極的である。

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◆追分の変わり杉

追分地蔵の向かいにある杉である。奇形枝も多数出ている。この街道屈指の太さの杉とのこと。

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◆報徳二宮神社(日光市今市743

二宮尊徳が残したこの地での功績を称え、明治31年神社が創建された。本殿裏には、志半ばにして70歳で亡くなった尊徳の墓がある。

御祭神二宮尊徳は、晩年日光神領の復興に尽力し、今市の報徳役所にて死去した。その遺徳を敬仰する地元をはじめとする全国の崇敬者によって、尊徳の終焉の地である由緒を持つこの地に神社を創建したのを始まりとしている。明治26年起工し、同30年に社殿を竣工、311114日に鎮座祭を執行し、今日まで学問・経営の神として、人々に親しまれている。

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 二宮尊徳は天明七年(1787)、現神奈川県小田原市栢山の中農の家に生まれた。再三にわたる酒匂川の氾濫で、田畑財産は流され、両親と死別して一家離散の困窮に陥ったが、24歳のとき独力で一家の再興を果たした。薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージは、その頃のものである。

 この経験を元に、奉公先の小田原藩・家老服部家の財政再建を成功させ、武士として登用された尊徳は、その後小田原藩領・下野国桜町(栃木県二宮町)をはじめとする烏山・下館・相馬といった約600の村や藩の経済復興開発に一生を捧げた。

 晩年の嘉永六年(1853)、徳川幕府、老中水野忠邦の命を受け旧日光神領89カ村の復興に尽力し、安政三年(1856)、今市の報徳役所にて70歳で逝去。手厚く埋葬された。

 尊徳の建て直しの方法は、「報徳仕法」と呼ばれ普遍性をもつことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され、弟子たちによって継承された尊徳の思想は「報徳運動」として実践されている。(参考:報徳二宮神社 社務所)

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 意外に知られていないが、二宮尊徳は、実は大男であった。身長は六尺というから約180cm以上で、体重は二十五貫(約94kg)だった。(江戸時代の平均身長は男157cm、女146cm)平均寿命が50歳という江戸時代、70歳まで生きた生命力や数々の偉業を成し遂げた背景には、人並みはずれた「体力」があったことを忘れてはならない。

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■如来寺(日光市今市710

星顕山光明院如来寺。浄土宗。室町時代中期に創建された。本尊は、平安中期に造られたと伝わる阿弥陀如来坐像。境内には、木造地蔵菩薩立像(車止め地蔵)、暁誉上人の五輪塔(ともに市指定文化財)などの数多くの文化財がある。

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寛永九年(1632)徳川家光が日光社参にあたり、御殿を造営し宿所にあてて滞在し、朱印寺領三十石を寄進された。以後家光は、慶安元年(1648)まで三度宿泊休憩所にあてられた。家綱の社参の折にも宿泊所になった。寛文五年(1665)御殿は残らず寺に下付された。また、安政3年(1856)には二宮尊徳翁が亡くなったときに、葬儀が行われた寺でもある。落ち着いた立派な寺だ。

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■蔵助地蔵・玄樹院(日光市今市1126)※写真右が蔵助地蔵

二宮神社のほど近い一角に下寺玄樹院(仏頂山玄樹院大乗寺)がある。この入口に蔵助地蔵という首のない石地蔵がある。近年地中から掘り出されたもので、室町時代の弘治三年(1557)の銘がある。今市では最古の石仏だそうだ。

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 またこの蔵助地蔵の前には、年代は不明だが南無阿弥陀仏の石碑と六地蔵がある。

 日光街道の春日町交差点を右折して、会津西街道の大谷(だいや)川の手前に如来寺の墓地となっている区画があり、回向庵がある。

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■回向庵(日光市瀬川145

回向庵は、江戸時代初期に如来寺の僧侶の住居として建てられた。境内には、享和元年(1802)に造られた地蔵菩薩や子育延命地蔵が祀られている。六地蔵には手作りの白い毛糸の帽子によだれ掛けを見に着け、お堂の中の大きな子育延命地蔵は、赤い布をまとい、近隣の人々の熱い信仰がうかがわれる。

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そのほかに、戊辰戦争における今市攻防戦で戦死した土佐・佐賀両蕃官軍の兵士24名の墓や、国定忠治の軍師と呼ばれた日光円蔵のものと伝えられるお墓がある。

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日光街道に戻る。先の春日町の交差点には、日光・鬼怒川地区で有名なお土産屋さんが道路をはさんで2軒。「日光みそのたまり漬」と「日光ろばたづけ」だ。たまり醤油で漬けた漬物で、どちらもおすすめである。とくに「らっきょう」漬物はうまい。もちろん両店共、自家製の味噌や醤油も販売している。

◆日光みそのたまり漬(日光市今市487TEL0288-21-0002

◆日光ろばたづけ(日光市今市481TEL0288-21-1188

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◆市縁ひろば(日光市今市600-1

警察署跡地に今市宿を小規模に再現したイベントスペースが、市縁ひろばだ。今市観光協会の建物の2階には「かたくり亭」というそばの食堂がある。敷地内にはそばの手打ち道場もあった。ここで小休止。

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■浄泉寺(日光市春日町572

浄土宗。上町の薬師様。元亀三年(1572)の草創と伝わる。慶長年間(15961615に日光から今市宿(現在春日町)に移り、如来寺の末寺として瑠璃光山清光院浄泉寺に改められたといわれる。

 慶安四年(1651)大猷院殿(三代将軍・家光)の御宝棺(ご遺骸)が日光山に向かわれるとき御小休になっている寺。境内には小児の夜泣き止めで信仰をあつめた沢蔵司(たくぞうす)稲荷があり、子育て稲荷あるいは「そば喰い稲荷」ともよばれる。由緒あるお寺とお稲荷さんであるが、境内が荒廃していて見る影もなく残念である。

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 尊徳以来、沢蔵司稲荷に関して、二宮家はこの稲荷信仰があつく、子息弥太郎は安政六年(1859)二月に寄進した玉垣にその子金之丞(三歳)・延之輔(一歳)の名を刻み、文久二年(1863)には節約した金十二両を永久修復料として寄進。地元民への貸し金利子を積み立て、一割の利子のうち三分を世話料と雑費に、残り七分を複利計算で稲荷の維持管理にあてる御修復永久増益仕法を創設した。その後、仕法は大正時代の中頃まで続き、稲荷は仕法跡として今市市文化財に指定された。

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◆市神

現在は瀧尾神社境内に鎮座する神様。江戸時代に今市宿ができ、やがて定期的に六斎市が立つようになって迎えられた商売の神である。

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◆瀧尾神社(日光市今市531

天応二年(782)、勝道上人が日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に、当所、琵琶ヶ窪(池)の笄(こうがい)の森に之を祀るに始まる。その後、人皇第百弐代・後花園天皇寛正元年(1460)改築し今日の神域が整った。明治十年、近郷18村(現在の日光今市市)の郷社に列せられた。主祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)。

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 現在は「かざぐるま」を祀る神社として有名。四季の風に乗った神様のお力をかざぐるまで受け止めて、運力を高めるという。赤のかざぐるまは、厄除け・健康長寿、黄色は金運・商売繁盛・合格、桃色は方位除け・縁結びにご利益がある。

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◆報徳役所跡

嘉永六年(1853)、二宮尊徳は幕府の命により日光御神領仕法を開始した。宿舎は、はじめ日光桜秀坊を借用、今市三郎右衛門方の隠居所に移ったが、仕法実施上、役所設置が不可欠となり、安政二年(1855)、相馬侯の献納した五百両より子息弥太郎が建設した。尊徳は、安政三年10月ここで逝去された。

明治元年(1868)戊辰戦争により弥太郎が福島県中村に去るまで、役所は24年問にわたり日光仕法の中心として重要な役割を果たしたが、書庫を残し建物は取り壊された。跡地に報徳社小代加藤氏宅を移した振興会館がある。

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《とうきょうスカイツリー駅》リニューアルオープンと記念乗車券

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 本日、東京スカイツリーの真下、《とうきょうスカイツリー駅》が、リニューアル・オープンした。スカイツリーに直結した駅(旧業平橋駅)である。

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 そして記念乗車券が5,000枚発売されたので、購入した。

「改札口は、東京スカイツリーへのエントランス」である。

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 ただしホームは狭いままだ。構造上の問題で、横に広げることはできないようだ。でもスカイツリーに行くのに、歩いてすぐ。便利な駅だ。

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《つぼ八》の「新タマネギフライ」

 遅くまでやっている居酒屋《つぼ八》の季節メニューで「新タマネギフライ」を食べた。甘みがあってサクサクしていて、抜群にうまい。塩をかけてつまむのだが、生ビールに合う。ささやかな幸せである。

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《東京スカイツリー》きれいです

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 ライトアップされた東京スカイツリーである。開業まであと35日。実は先日、内覧会でスカイツリーに登った。天望デッキ(350m)からは下界がよく見えた。その上の天望回廊だが、あまり感動しなかった。(揺れるし、窓の視野が狭い)

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 こでまりの花が、スカイツリーの真下で咲いている。春である。

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日光《あさやレストハウス》でおいしい「ゆばラーメン」

 ブログの取材で先日、日光へ行ってきた。昼食は神橋前の《あさやレストハウス》でいただいた。「ゆばラ-メン」を食べた。おみやげ屋さんの2階がレストランだが、あなどるなかれ、きちっとしたラーメンである。

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 とくに麺は「日光銘水老麺(にっこうめいすいらーめん)」といって、日光のおいしい水を使用し、たくみの技で丹精込めてつくりあげたそうだ。太目の平打ち麺である。スープは、あっさりした鶏ガラで、さっぱりしたしょう油味。いんげん、メンマ、チャーシュー、刻み長ネギに「ゆば」が入る。山菜の包みゆばは、下味がついていてうまい。

そのほか、平ゆばも食感がよい。

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    あさやレストハウス

    栃木県日光市上鉢石町1111(東照宮神橋前)

    TEL0288-54-0605

    営業時間/09001600(年中無休)

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《野口鮮魚店》久々の「特選海鮮ちらし丼」

 下町の小さな魚河岸《野口鮮魚店》で、久々に特選海鮮ちらし丼を食べた。ネタはハマチ、マグロ、中トロ、タマゴ焼き、トロ、エビ、イクラ、ホタテ、イカ、タコ、スズキ、サーモン、小肌、アナゴと14種類。

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なかなか新鮮でうまい。納得の1,000円。

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野口鮮魚店

東京都墨田区駒形4-6-9(本所吾妻橋駅から徒歩5分)

TEL0356080636

営業時間/11301900(木曜・祝日休み)

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《日光街道》宿場を歩く【大沢宿】その2

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 途中で街道歩きの昼食である。今市は「そば」である。水がおいしいことに加え、寒冷地の気候があり、そば粉もとれる。そこで以前からネットで調べておいた店に向かう。

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水無(みずなし)の「湧水庵(ゆうすいあん)」である。今市の手打ちそばでは、つねにベスト5に入る。日光街道から小道にはずれ、10分ほど歩く。山の入口で小川が流れる静かな場所だ。ほかに民家もない。お昼より少し早いと思ったが、店内はほぼ満員。

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 限定の鴨そば(つけ汁)を注文する。そばはそば粉のツブが黒く残っていて風味がよい。コシもある。あたたかいつけ汁ですする。鴨の肉と焼いた香ばしい長ネギのつゆ。これは評判にたがわずうまい。帰りに広い駐車場には車が満杯だった。40席近くのキャパはあるはずだが、やはり人気の店である。鴨そば(つけ汁)800

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    そば処 水無 湧水庵(栃木県日光市水無309 TEL0288-26-3355

    営業時間/11001500(年中無休)

森友地区に入る。

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■来迎寺(日光市森友1116

浄土宗。盛朝山光明院。本尊は阿弥陀如来。山門を入ると十九夜塔が4体並んでいる。如意輪観音のお顔が、それぞれほほえましい。左から二番目が宝永二年(1705)、三番目が享保二十一年(1736)の銘がある。江戸中期から親しまれてきたようだ。

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(男体山)

◆男體山(男体山)常夜燈道標

街道沿いの民家の庭先にあるが、道路から見える。「男體山(なんたいさん)」と刻まれ、寛政九年(1797)の年代も彫られているそうだ。男体山は、日光国立公園にある標高2,486mの名山である。古くから山岳信仰の聖地として知られ、日光二荒山神社の奥宮がある。現在でも「男体山登拝講社大祭」があり、7月末から8月上旬には山の神霊(大国様)を称え、所願成就を祈願して登山する祭りがある。この道標は男体山へ向かう講の信者たちを励ましたものと想像できる。

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◆森友瀧尾神社(日光市森友995

神護景雲元年(767)称徳天皇の御世、田心姫命(たごりひめのみこと)が日光に入る折、途中休息をされた場所を「腰掛の地」といい、森友にあった。建長四年(1242)、その地に祠(ほこら)を建立して田心姫命を御祭神に祀ったことが、神社の創建と伝わっている。神社は大正五年、現在地に遷座された。縁結びと子宝にご利益がある大きな「しめ縄」が本社の前に掛かっている。境内には安産・子宝の腰掛石が安置されている。地域で愛され続ける神社である。

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◆森友の桜杉

再び杉並木の中を行く。杉の木の途中に桜の木が寄生している。

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◆並木ホテル(七本桜の一里塚)

日光市が設置している案内板には、つぎのように書かれている。

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〔特別史跡・特別天然記念物〕日光杉並木街道の一里塚(今市七本桜)

江戸から日光までの三十六里余(144km)の街道は「日光道中」と呼ばれ、その昔東照宮に詣でるための街道として栄えた。

 街道には一里毎に塚を築き、その上に大樹が植えられて旅人に里程を知らせたが、この杉並木区間では一里塚に杉が植えられているのが特色である。特にこの塚上の杉は根元がくさって空洞が出来、大人四人位は入れるところから、並木ホテルと呼ばれている。

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 確かに大きな杉の空洞部分は、大人なら4人どころか56人は大丈夫だ。内部は雨宿りの際に焚かれた焚き火で炭になっている。どっしりした杉である。「並木ホテル」というよりも「杉旅籠」とか「旅籠杉」の方がしっくりする。

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◆和尚塚(日光市今市58周辺)

慶応四年(18684月から5月、戊辰戦争、今市の戦闘における幕府軍戦死者を合祀した墓である。今市宿東木戸方面に野晒しであった遺体を地元の人々が埋葬した、無名戦士の墓といわれている。塚そのものは以前からあったが、今市攻防戦を通じ幕府軍(東軍)の戦死者は約100名で、散乱していた20数名の遺体を付近の住民が、ここに埋葬し冥福を祈ったと伝わる。あるいは今市宿下木戸に晒された首級(その数は16もしくは27ともいわれる)を葬ったという言い伝えもある。いまでも花がそなえられ、手を合わせる住民の方がいるそうだ。

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◆追分地蔵尊

例幣使街道と日光街道の分岐点(追分)にある。大きな赤い「地蔵尊」の提灯と、これまた大きな地蔵の坐像(石造地蔵菩薩坐像)が安置されている。以前は今市の如来寺にあったものが、寛永二年(1625)この追分に移された。この地蔵の制作年代は、断定できないが、鎌倉から室町時代の作と推定されている。像の高さは2.9mもある。迫力がある。

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 地蔵の手前、左側に二十三夜信仰の「お三夜様」とデキモノに効く「くさ地蔵」がある。そのほか、境内には寛政六年(1794)の道しるべ(石塔)があり、「右かぬま道、左宇つの宮道」と刻まれている。

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 お三夜様(サンヤサマ)は、二十三夜講といい、月待ち信仰の一つ。満月を中心に月の形がちょうど半分になる夜だからとも、また地蔵縁日たる24日の前夜だからともいわれているが、娯楽の少なかった頃、信仰をかねて集落の女性たちが、ご馳走を持ち寄って集まり、団欒にふけった日をいう。安産・子育ての信仰であり、供物と線香を供え祈願した。(参考:追分地蔵尊説明板)

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《日光街道》宿場を歩く【大沢宿】その1

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 大沢宿は、手前の徳次郎宿から二里十四町(約9.4km)である。この江戸から19番目の宿場は、南北に四町四間(約440m)の長さがあり、人口は278人、旅籠は41軒を数えた。(天保14年)規模の割に旅籠が多いのは、天保4年(1843)以降、宿で飯盛女を抱えることが許可されたためである。

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◆王子神社(日光市大沢町)

 諸説あるが、創建は鎌倉時代の正治二年(1200)源頼朝を祀って開かれたそうだ。旧大沢宿の鎮守として大切にされてきた。境内の「大イチョウ」は、高さ23.5m、周囲4m、枝張りは東西南北各5mで、推定樹齢は約240年とされ、天然記念物に指定されている。

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 社殿に向かって左には、文化九年(1812)の常夜灯や宝暦七年(1757)の石灯籠がある。右には明和四年(1767)の常夜灯がある。また、こまいぬには安政七年(1860)の銘がある。

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■龍蔵寺(日光市大沢町831-3

 大沢山密巌院龍蔵寺。真言宗智山派。本尊は大日如来。開基はわからないが、江戸時代四代将軍・家綱以後の日光社参では、「大沢御殿」(後述)に代わって将軍の休憩所になった由緒ある寺だ。利用した将軍は、寛文三年(1663)家綱、安永五年(1776)家治、天保十四年(1843)家慶で、おもに昼食休憩や装束を着替える場所に使った。

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 境内には樹齢100年以上の太さ1mの「六尺藤」があり、五月には見事な花を咲かせることで有名である。なお、龍蔵寺は日光街道に面する場所(大沢小学校)にあったが、明治初年に現在地に移転している。以前の大沢宿・龍蔵寺は、明治六年大教舎として開校されたのが、現大沢小学校のはじまりである。

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◆大沢の古杉

 松平正綱が杉並木を寄進する以前からあった杉である。大沢宿の木戸があった場所。

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◆八坂の枝喰い杉

 二本の根の部分が癒着して二股に分かれた杉がで、別の木を食い込んでいるように見える。小さな八坂神社の鳥居前にある。

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 八坂神社は、小さな鳥居と神輿の蔵があった。夏祭りには山車も出るらしいが、ひっそりとした社だ。京都祇園の八坂神社の流れを汲むと思われる。

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◆大沢の四本杉

 八坂神社から程近い、並木の切れる角に植えられた4本の杉。四角形の土地に均衡を保つ。お互いに倒木を防ぐ植樹方法らしい。

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◆大沢御殿跡

 日光街道を進むと「御殿工場入口」のバス停があり、信号は大室入口である。右斜めに入る279号線を2300m行くと、雑木林に囲まれた広大な野原がある。ここが大沢御殿跡である。三代将軍・家光の日光社参に際して、幕府は休憩のための大沢御殿を建設した。(寛永四年1627、完成)この場所は中世、土豪の大沢氏の居城であった城跡である。

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 大沢御殿の敷地は2,730坪(約9000㎡)という広大な広さで、1町(109m)四方。杉の樹木で囲まれ、堀をめぐらした。中ノ口、忍口、裏口があった。外側には御殿番の役人・安西氏が居を構えて守っていた。

 家康を崇拝していた徳川家光の日光社参は、元和九年(1623)から慶安元年(1648)まで、都合10回実施されたが、この御殿を利用したのは、寛永五年(1628)から同十七年(1640)におこなった社参6回中4回である。四代家綱も最後に慶安二年(1649)、この御殿を利用した。将軍は、この地で装束を整え、日光参拝へ趣いた。

 明治以降は、御殿番の子孫・安西氏が、この土地を購入し、材木業を営んでいた。そのため「御殿工場」と呼ばれ、いまでもバス停にその名が残る。

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◆大沢の一里塚(水無の一里塚)

 江戸日本橋から32番目の一里塚。約125.7kmである。大きな杉が植えられている。

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◆延命地蔵と石仏群

 下水無バス停近くに延命地蔵尊を祀る祠がある。ここには右に5体、左に7体の石仏が安置されている。地蔵や十九夜塔であるが、左の地蔵には延享三年(1746)の銘が読める。

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 また祠の左側の手前には、六面憧六地蔵がある。古いもので江戸時代と思われるが、信者によって触られたのであろうか、六面の地蔵の顔も、ほとんど磨耗していた。

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 水無からシドミ原へ。途中、左手に「日光甚五郎煎餅」で有名な石田屋の工場がある。この甚五郎煎餅は、ソフトな塩味で、日光や鬼怒川の旅館に泊まると、お茶うけでよく出される銘菓である。

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《神谷バー》の新作ポスター2

 東武スカイツリーライン(伊勢崎線)車内の神谷バーの広告。

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 電気ブラン + 愚痴     二日酔いの可能性大

 電気ブランは結構きつい。3杯も飲めばかなり酔う。愚痴をいいながらだと、間違いなく翌日は撃沈だ。

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《日光街道》宿場を歩く【徳次郎宿】から【大沢宿】へ

 まもなく【大沢宿】、杉並木寄進碑がある。

◆杉並木寄進碑

寄進碑の碑文にはつぎのように刻まれている。

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下野国都賀郡小倉村、同国河内郡大沢村、同国同郡大桑村、この三箇所より日光に至る、20余年の間、街道の左右ならびに山中10余里に杉を植え、もって東照宮へ寄進奉る

慶安元年(1648417日 松平正綱

 杉並木街道とは、日光街道・例幣使街道・会津西街道の三街道の全長37kmの両側にわたって約12,500本の杉がそびえる「日光杉並木街道」である。世界一長い並木道としてギネスブックにも掲載されているこの杉並木は植栽されてから、実に387年が経過している。日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている貴重な文化

遺産だ。

杉並木は、徳川家康の忠臣・松平正綱が日光東照宮に寄進するため植栽したもので、寛永2年(1625)頃から23年余りの歳月を費やした一大事業であった。植栽された杉は約20万本と推定される。栃木県教育委員会文化財課の調査によれば、平成204月現在、12,477本が現存している。

 なぜ松平は街道沿いに杉を植えたのだろうか。家康への恩義の念で、おそらく街道を日光東照宮の参道に見立て、おごそかな雰囲気を演出するために杉を植えたものと思われる。熊野杉(現在の和歌山県熊野)の苗を現地から取り寄せ、植え続けたのである。

寄進碑にある「慶安元年417日」は、家康の33回忌にあたる。植栽を終了した日だ。そして松平正綱は、この碑文を林羅山に書かせたが、完成をみることなく慶安元年6月に亡くなった。

 松平正綱(天正四年1576~慶安元年1648)は、近江出身で元禄元年(159216歳から家康に仕え、近習筆頭人、勘定頭など、側近として重用された。家康の臨終に際しても、遺言を聞き、久能山埋葬から日光改葬、2代将軍秀忠の日光社参などにも同行した。その後、嘉永二年(1625)に22,100石の大名となり、相模玉縄藩を領した。その後、3代家光にも仕えたが、一時失脚もした。しかし生涯、家康の側近であったことは変わることがなく、杉並木を植え続けた姿勢は実にすばらしいと思う。

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 江戸時代、並木は日光奉行の管理下にあり、手厚く保護されていた。杉の枯損木や根返りがあると、村役人は奉行所に必ず届けた。そして、役人の実地検分の上、伐採許可の印が根元に付けられ伐採された。さらに、伐採した杉は奉行所に搬送し、その跡に苗木の植え付けなどが義務づけられていた。また、街道筋の村々には、道普請や下草刈り、並木敷き内の清掃なども課せられていたのであった。

 明治政府の近代化政策で、全国で土木工事が行われるようになり、この地域でも、道路の屈曲を直すために倉ヶ崎・大桑間で約1,000本の杉並木が伐採された。また、井上大蔵卿の発言から始まった財政再建のために杉並木の全伐が実行されようとしたが、貴重な文化遺産を支持する、時のイギリス公使バークスの進言によって難を逃れることができた。

 明治38年、杉並木は国から日光東照宮に「下げ戻し」となり公共的利用を目的に保護されることになる。第2次世界大戦時、戦艦用材として全国的に老木・巨木の供木運動が行われ、杉並木も伐採の危機に直面したが、多くの反対意見が輩出し、2本の供木だけで免れた。1992年版のギネスブックに掲載されてから、世界でもっとも長い並木道(Longest Avenue)として、世界中に知られるようになった。世界一長い並木道は、今市地域に集まる3つの街道からなっている。この並木道は、「日光杉並木」として知られている。

 総延長は35.41km22マイル)、日光街道16.52km10.27マイル)、例幣使街道13.17km8.18マイル)、会津西街道5.72km3.55マイル)で構成されている。

これは現存している並木杉の端から端までを測ったもので、通常は、杉並木寄進碑から寄進碑までの距離を合計した約37kmと紹介されている。

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隅田公園の満開の桜と《東京スカイツリー》

 寒い日が続く中、なんとか隅田公園の桜も満開である。

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 東京スカイツリーの開業もあと45日。

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 浅草の人の流れも変わってくるだろう。

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《東京メトロ》マナーポスター「キャリーバック」

 東京メトロ(地下鉄)のマナーポスターの新作である。

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 なぜ後ろを、気にしないの?

前向きは いいことだけど。

Something behind you may need your attention.

キャリーバックの取り扱いに、ご配慮ください。

Please be considerate of others when pulling your rolling luggage.

 確かにキャリーバックは危ない。何度も足を引っ掛けられたことがある。

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《東京スカイツリー》と隅田公園の桜

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 完成した東京スカイツリーが見える隅田公園。今年は寒さが続き、桜の開花が遅い。

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 日当りのよい場所では、見頃の桜もある。全般的には三部咲きといったところで、おそらく満開は、47日・8日の週末と思われる。

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《神谷バー》の新作ポスター

 《神谷バー》の新しいポスターが、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)車内限定で登場した。

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電気ブラン+相席=お友達が増えそうです。 

 確かに神谷バーは、いつも混みあっている。「相席」は当たり前だ。お友達が増えるかどうかは、あなた次第だ。 

 

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