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《日光街道》宿場を歩く【鉢石宿】その2

 日光街道を歩く旅もいよいよゴールが見えてきた。「日光」の中心である。その前に少し日光の歴史を見直しておこう。

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 日光の歴史は、天平神護二年(766)、勝道上人が霊峰・男体山の登頂を志し、大谷川(だいやがわ)を渡って、現在の神橋の対岸に四本龍寺(しほんりゅうじ)を創建した時に始まるといわれている。

 山々の神々と仏が習合した独特の信仰(神仏習合)を築きつつ、次第に領地を有する寺社勢力の道を歩むこととなった。とくに鎌倉幕府の信仰を得るに至り、日光の地位は、関東における守護の聖地にまで高められたといわれ、日光の歴史の中でももっとも華やかな一時期を形成したといわれている。

 しかし、一千年にも及び築かれてきた信仰の聖地は、戦国領主たちの覇権争いに巻き込まれ、全国統一を成し遂げる戦国領主・豊臣秀吉による日光山の寺社領没収により、一気に疲弊の時を迎えた。

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 徳川初代将軍・家康の死後、その遺骸が日光に遷葬され、元和三年(1617)に東照宮に神(東照大権現)として祀られるにいたり、日光はそれまでの神仏習合の霊地に加え、徳川家の祖廟を祀る霊地として、江戸幕府の権威を支える重要な政治的地位をもつにいたった。そして、家康を祀る東照宮の社殿や仏閣は、三代・家光がおこなった寛永十三年(1636)の大造替により、現在見られる華麗で荘厳な造りとなった。

 日光への将軍家の社参や、諸大名、公家による参詣が頻繁におこなわれるようになると、江戸からの街道や宿場、門前町も必然的に整備され、さらに一般庶民の参詣の人気も高まり、日光は江戸時代を代表する聖地になった。

(参考:日光観光協会「日光郷土センター」掲示に一部加筆)

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 さて、日光・鉢石宿での昼食は名物で、やはり「そば」に決めた。

評判のよい「江戸っ子」に入り「舞茸天ざる」850円を食べる。

そばは、手打ちである。北海道ホロコナイの粉と地元のそば粉をブレンドしているそうだ。風味がよい。

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舞茸は、地元の福田農園のものだ。からっと揚がっている。観光地の食堂には違いないが、きちんとそばを打ち、調理して提供している。年配の女性と娘さんの接客も家庭的で気持がよい。

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■江戸っ子 (日光市中鉢石町916TEL0288-54-0293)湯葉料理、薬膳料理の店。 

■営業時間/11001500(不定休)

 さて日光東照宮への参道である日光街道もまもなく終点。神橋手前、古い建物の日光物産商会の先左側に板垣退助の像が建つ。日光金谷ホテルへ行く坂である。

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◆板垣退助像

 明治元年(1968429日、宇都宮から退却して日光山に陣を構える旧幕府軍と新政府軍が、今市付近で激突した。新政府軍のすさまじい砲火に、大鳥圭介率いる旧幕府軍は日光山内に退却。翌日、日光山の僧二人が新政府軍の大軍監・谷干城(たにたてき)を訪問し、「これ以上の戦を続ければ多くの犠牲者を出し、神廟東照宮も消失するでしょう。是非追撃を中止してもらいたい」と懇願した。谷は僧たちの申し出を了承し、新政府軍参謀・板垣退助の決断によって休戦となり、日光山は戦火を免れた。その後、旧幕府軍は会津に逃れて再決戦に臨む。(戊辰戦争のエピソード)

右側には、天海大僧正の像がある。

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◆天海大僧正像

天文五年(1536)~寛永二十年(1643)。比叡山や奈良の寺々に学び、各地で修行。関ヶ原戦後、徳川家康の知遇を得、比叡山の復興など宗教行政に参画した。家康の死に際して、導師を務め、神仏両道を融合した「東照大権現」を定め、久能山から日光山に改葬するなど功労が大きい。家康の死後は、秀忠、家光にも仕えた。上野に寛永寺を創設し、関東天台宗第一世となり徳川家廟所と定めるなど、江戸天台宗の祖として尊敬を集め、平安時代の天台の僧・良源とともに両大師としてまつられている。ところで天海は107歳まで生きたことになるが・・・。

 いよいよ日光街道のゴール地点、神橋に到着。何度も見てきたが、感慨はひとしおである。

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◆神橋

聖地日光の表玄関を飾るにふさわしい朱塗りに映える美しい神橋は、昔は「山菅の蛇橋」などと呼ばれていた。日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、平成1112月に世界遺産に登録された。

 橋の長さは28m、巾7.4m、高さ(水面より)10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ、乳の木と橋板の裏は黒漆塗りで、その他は朱に塗られている。

 奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋と尊ばれ、寛永十三年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなった。

 昭和57年(1982)男体山頂鎮座1200年祭実施に際し、昭和48年(1973)よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より今回の大修理がおこなわれた。山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我が国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられている。

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●神橋の伝説

 奈良時代の末、下野の人・勝道上人は、その伯父・大中臣諸清たちと、深く尊崇する霊峯二荒山(男体山)の登頂によって鎮護国家、人民利益のための大願をたてた。

 天平神護二年3月(766年)、勝道上人一行は大谷川にたどりつき川を渡ろうとしたが、大谷川の激流のため渡る方法がなく、困り果てていた。上人は一心に祈念を凝らすと、川の北岸にひとりの神人が現れた。その姿は夜叉のようで、身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に二匹の蛇をまき、上人に向かって「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である。汝を彼の岸に渡すばし」といいながら手にもった蛇を放つと、赤と青二匹の蛇は、たちまち川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり、背に山菅が生えたので、上人一行は早速この橋によって急流を渡ることができたという。ふり返って見ると、神人も蛇橋もすでに消え失せてしまっていたので、上人は合掌して、深沙大王の加護に感謝し。それ以来この橋を「山菅の蛇橋」と呼んだという。

(「神橋」の説明文より)

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◆星の宮 磐裂(いわさく)神社

神橋の手前、日光金谷ホテルへの坂の途中にある。勝道上人は、磐裂神(明星天子)のご加護を得て日光開山を完遂することができた。その神様への恩に報いるため、大同四年(809)創建したと伝わる。日光山最古の社。奈良時代から中世まで修験者の霊場として栄え、戦国武将のあつい尊崇も受けた。その後一時衰微したが、東照宮の鎮座に伴い再び徳川幕府の庇護を受け、社殿改修がおこなわれた。現在は東町と呼ばれる上中下鉢石町・御幸町・石屋町・松原町の鎮守である。

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◆深沙王堂(蛇王権現堂)

神橋前の日光橋を渡ると小さな祠(ほこら)がある。伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一行が大谷川(だいやがわ)を渡れないでいる時に、二匹の蛇を放って一行を助けた「深沙(じんじゃ)大王」を蛇王権現として祀っている。深沙大王は、毘沙門天の化身である。橋渡しの神という信仰から縁結び、蛇信仰から商売繁昌にご利益があるといわれる。

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◆太郎杉

神橋近くの老杉群の中で、この樹がもっとも大きく優れた姿であることから「太郎杉」と呼ばれている。樹齢は550年、樹高43m、目通り周囲5.75m。昭和30年代、道路拡張計画のため伐採の危機になる裁判で注目を集めた。

 日光二社一寺の玄関口、神橋たもとの国道120号の交通渋滞緩和や事故防止を目的に、「太郎杉」など老杉15本を伐採する道路拡張を国・県が計画。反対する東照宮は計画の取り消しを求めて昭和39(1964) 8月、宇都宮地裁に提訴。 9年間にわたる訴訟となり、東照宮の全面勝訴となった。「自然の価値」が司法の場で認められ、環境問題の「先駆的な裁判」と位置づけられている。

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◆日光杉並木寄進碑

書き下し文にすると、つぎのようになる。

下野国日光山山菅の橋(神橋)より、同国都賀郡小倉村(例幣使街道)、同国河内郡大沢村(日光街道)、同国同郡大桑村(会津西街道)に至る。二十余年を歴(へ)て、杉を路辺の左右ならびに山中、十余里に植え、以って東照宮に寄進し奉る。

慶安元年(1648)四月十七日 従五位下 松平右衛門大夫人源松平正綱

以上、日本橋からこの神橋まで、約三十五里十九町余でおよそ約140kmを踏破したことになる。歩き始めが9月であったので8ヶ月を要した。23回日帰りをした。

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コメント

日光街道 踏破おめでとう御座います。お疲れ様でした。楽しく読みました。

投稿: 通りすがりの旅の者 | 2012年5月 3日 (木) 18時43分

通りすがりさん、ありがとうございます。日光街道は8ヶ月かかりました。感慨無量ですね♪

投稿: もりたたろべえ | 2012年5月 3日 (木) 20時26分

お疲れ様でした
て簡単には言えないですね?

ここも 善光寺と同じで行ったこと無いて云う人あまり居ない気がします(近いのでしょうか?)

投稿: ikkun | 2012年5月 7日 (月) 15時45分

ikkunbeer
「日光」は都内から特急で2時間。近いですよ。関東では小学校の林間学校は日光が定番です。

投稿: もりたたろべえ | 2012年5月 8日 (火) 09時57分

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