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《嘉永五年道中日記》を読む【その5】

18日 府中宿(静岡県静岡市)→掛川宿(静岡県掛川市)約48km

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 ここ(府中宿)には番城(駿府城)、城主は本多対馬守。富士浅間社(静岡浅間神社、静岡市葵区宮ケ崎町102-1)がある。東海道で一番の宮である。鞠子天(神社?)があり、それは左甚五郎作という。そこより二丁、町は左側である。つぎに安倍川の渡し。16文。餅(安倍川餅)が名物である。役所から油紙の切手(この先の川越の通行許可証)を受け取り、安部川を越えて右の(事務所に)差し出した。

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(あべかわ餅 松柏堂)

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(広重 府中)




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(広重 府中あべ川の渡し)

 府中宿は駿府上下、徳川家康のお膝元である。東海道でも一番大きな宿場であったそうだ。さて、安倍川餅。新幹線の中でも販売されている静岡名物だ。きな粉をまぶした餅に砂糖をかけて食べる。江戸時代から安倍川の河畔で売られ、きな粉を上流で取れる金にたとえて「金な粉餅」と家康公が名付けたと言われているそうだ。

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(広重 丸子 とろろ汁)

 鞠子宿(丸子宿)へ一里半。ここに土橋がある。宇津ノ谷村峠がある。上がったり下がったり、ここには十だんごの名物がある。一連(一箱)3文。

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(宇津谷 十団子)

 鞠子(丸子)で有名なのは、「とろろ汁」だ。慶長元年(1596)創業の丁子屋は、いまもある。私も食べに行ったことがあるが、うまいが高く量が少ない。宇津谷(うつのや)峠の十団子も、現在販売されている名物。黄色・白・赤の小さな団子を10個づつ、麻糸や竹ぐしに刺して売っていたそうだ。現在は、宇津谷の慶龍寺で販売している。

 

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(広重 岡部)

 岡部宿へ二里。あさひな川は30間の板橋。次に鬼嶋村に20間の土橋がある。左の方角、田んぼの先にお城が見える。石高4万石、(城主は)本多豊前守。

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(広重 藤枝)

 藤枝宿へ一里二十九町。左側の十一屋元平にて昼食、92文。

鞠子宿から藤枝宿までは、500文(約5,000円)で籠(かご)に乗った。(籠代とは別に)32文の酒代(チップ)も払う。このあたりは、馬や籠は安いところである。次に瀬戸村、瀬戸川はこの年水が多く(橋ではなく)舟で渡る。

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(広重 嶋田)

 嶋田宿(島田宿)へ二里。次にいつた村、50町の「よけ地」(伝染病隔離地区)があり、またご朱印地もある。ここは50町の道である。土橋があり、向い嶋村である。

 次に大井川であるが、このとき(川渡しの)越え賃は、一人半掛りで87文(半高欄連台:手すり付きの連台)。川の中に駿州と遠州の国境がある。嶋田から金谷入口まで、川越えの代金と共に、100文払って馬に乗った。この馬は(ほかの仕事の)伝馬の帰りであった。

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(歌川豊国 大井川蓮台渡)

 大井川は、箱根の山越えと並んで東海道の二大難所であった。とくに大井川は、水かさが増せば川留めとなり、旅人は何日も足止めとなり費用がかさんだといわれる。

越すに越されぬ大井川の渡しだが、江戸時代の元禄期には、川越の料金の統一や川渡しの許可を出し、現場を管理する役人が置かれていた。旅人は川を渡るためには、「川札」を川合所で購入したそうだ。料金は川の深さ(水の多さ)や川幅によって異なった。

 水深が人足の股下の場合は48文、帯下で52文、帯上で68文、胸で78文、脇で94文。それ以上の水深になると川留めになり、旅人は足止めされた。(寛政年間)

 さらに「蓮台」と呼ばれる乗物で、川を渡る場合には、さらに高い料金を払ったようだ。嶋田宿と金谷宿の間にあるこの大井川は、川幅が12町(約1.3km)もあり、水量も多く、軍事上の目的のほか、当時の土木技術では架橋できなかったのかもしれない。

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(広重 金谷)

 

 金谷宿へ一里。続いて峠がある。下って菊川に12間の土橋がある。それより小夜中山(さよなかやま)であるが、「無間の鐘」の言い伝え(遠州七不思議)がある。のぼり下りで一里。この峠(小夜中山峠)に「あめの餅」(子育飴)の名物がある。一つ5文。下って行くと道の途中に「夜無石(夜泣石)」がある。

 

 言い伝えによれば、無間の鐘(無限の鐘)は小夜の中山、西宝寺にある鐘であった。その鐘をつくと運がむく、と言われていたが、それは命と引き換えともされていた。生きている者でこの鐘の音を聞いた者はないという、つくことの禁じられている鐘であった。「遠州七不思議」の一つ、無間の鐘伝説は、小夜の中山(現在の静岡県掛川市東山、粟ヶ岳)にあった伝説。

 一方、小夜の中山「夜泣石」も遠州七不思議の中の悲しい伝説。臨月の妊婦が久延寺に安産祈願の帰り、丸石の傍で休憩していたところ、山賊に斬り殺されてしまった。

母親の念が石にのり移り石が泣き、久延寺の和尚が泣き声に気がつく。石のそばで殺された妊婦をみつけ、赤ちゃん(音八)を寺で育てることにした。乳に困った和尚は、水飴を赤ちゃんに飲ませたという。それが「子育飴」の由来とか・・・。

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(広重 日坂 佐夜中山)

 

 日坂(にっさか)宿へ一里二十九町。この宿場は今年、正月3日に火事で焼けた。12間の板橋があるが、橋より上は焼けなかった。ここに「わらびもち」の名物がある。次に土橋がある。

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(広重 掛川)

 

 掛川周辺は、葛(くず)の産地であったことから、葛の粉を蒸して餅をつくった。しかし「きなこ」に塩をまぶしたもので、いまのように砂糖を入れ、黒蜜をかけた甘いものではなかったそうだ。

 

 掛川宿へ一里二十九町。右の旅籠・石原屋に8日宿泊。宿泊代180文。

 

 この日は、徒歩だけではなく、籠や馬にも乗り、約48kmと距離を稼いだ一行であった。

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コメント

あべかわ餅が うまそうです。食べたいですね。

投稿: 通りすがりの旅人 | 2012年6月16日 (土) 13時50分

通りすがかりさんrun
確かに「あべかわ餅」、うまそうですね。
江戸時代の旅日記や道中記を読んでいると、甘いものが貴重なこの時代、しかも歩き続けるためか、お菓子の名物がたくさん出てきておもしろいですよ。chick

投稿: もりたたろべえ | 2012年6月19日 (火) 14時44分

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