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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その3】

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1219日 由井(由比、静岡県静岡市清水区由比)→府中(静岡県静岡市)約29km

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薩埵峠 Wikipedia)

■(1219日)寺尾村(静岡県静岡市清水区由比寺尾)、左側の旅籠の裏、右に富士山が見える。次にさつた峠、上下(のぼりくだり)一里。

 

薩埵峠(さったとうげ)は、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。広重の『東海道五十三次』にもあるように、富士山の眺めが美しい。

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(広重 興津)

 

■ほら村(静岡県静岡市清水区)、ここより駿河半紙を作る(店々がある)。

■沖津(興津、同)より一里六町。右にせいけん寺(清見寺、静岡市清水区興津清見寺町418-1、臨済宗)があり、庭にはさぼてん・そてつがある。南に、みよ(三保)の松原が見え、風景はよい。

■江尻(同)より三里。ここに、ともい川があり、それより左に久能山への道がある。この間に村松龍かん寺(正しくは龍華寺、静岡県静岡市清水区村松2085。山号: 観富山、日蓮宗)があり、そてつが多い。

 

■久能より二里三十町。佐藤伊右衛門にて昼食、48文。

久能山へ参詣致すのには、(昼食をとった)伊右衛門方より、手形(拝観券)を発行してもらい、案内人を頼んだ。案内料は200文。麓(ふもと)から(表参道石段で)御玉屋(本殿石ノ間)まで十町(約1.1km)登る。中程に御見附(天望台)がある。この場所から南を見れば駿州・遠州の山々が東西に見え、山の間は七十五里(294.5km)にも及ぶ。西には大井川の水の流れが白く見える。それより門(一ノ門)の中へ入る。(門衛所にて)一人づつ(手荷物等を)改められ、(楼門から)上へ通る。それよりのぼると塔(五重塔、現存せず)があり、高さは十丈九尺(約33m)。右に東照宮様(家康公)がお手植えされた、みかんの木がある。それよりのぼって御玉屋(本殿)が南向きにある。それより御石の間(石ノ間)、拝観するのには200文かかる。

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(久能山東照宮社殿 久能山東照宮提供)

 

 晩年を駿府(静岡)で過ごした徳川家康が、元和2年(1616)に死去した後、遺言によってこの地に埋葬された。久能山東照宮は、家康公をお祭りする神社。

 家康没後、二代将軍秀忠は、ただちに久能山に家康公を祀る神社を造営することを命じ、1年7ヶ月というきわめて短期間のうちに社殿が建築された。久能山東照宮へは、昭和32年(1957)に日本平ロープウェイが開通する以前は、表参道石段を登るしかなかった。麓の石鳥居から1159段の石段である。

 909段あがった場所に一ノ門があり、ここからの眺望は、海も見渡せて絶景である。

 

 境内には、三代将軍家光により建立された五重塔が明治時代まで設置されていた。江戸時代の絵図や地図には、久能山のシンボルとして描かれ、30mを超える塔であり、すばらしい建築技術であったと伝わっている。明治初期の神仏分離令により、取払われ、現在は礎石が残るのみである。

 拝殿は、最高の建築技術・芸術が結集され、本殿と拝殿を石の間で接続した「権現造」様式で築かれた。神社建築におけるこの権現造様式は、久能山東照宮の造営により確立された。日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は、この久能山東照宮がモデルとされた。

 

■八幡(静岡市)より八町。ここに八幡宮(八幡神社、静岡県静岡市駿河区八幡山1-1)があり、石坂(石段)113段、矢大臣門は左甚五郎作である。

 

1219日、(府中)旅籠・大萬や清三郎に宿泊。宿泊代116文。

 

1220日 府中(静岡県静岡市)→金谷(静岡県島田市)約32km

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(広重 府中)

■(府中)町より北に御城がある。これは番城(駿府城)である。町より八町北に富士浅間(静岡浅間神社、静岡市葵区宮ケ崎町102-1があり、駿河の国一の宮である。末社は百社ある。神社の前に神楽堂があり、日本一である。鳥居のまわり(太さ)は75寸(2.3m)、高さは2丈(6.1m)。奥の院はせん間の親であり、石坂(石段)104段。府中と鞠子の間に、あべ川があり、渡るのに一人前45文である。

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(広重 藤枝)

■鞠子より二里九町。この間に、うつのや峠がある。■岡部より一里二十六町。

■藤枝(静岡県藤枝市)より二里九町。■嶋田(静岡県島田市)より一里。

この間に大井川がある。かち渡しは(川を渡るには)一人前384文である、手荷物は用心すべきである。

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(歌川豊国 大井川蓮台)

 大井川は防衛上の問題で架橋されなかった。川幅は12町(1.3km)、水深は平常時で二尺五寸(約76cm)あった。これが五尺(約150cm)の深さになると、すべての川越しが禁止されたそうだ。この大井川、年に50日程度は川留めがあり、最長は慶応四年(1868)の28日間であったそうだ。当然川留めになると、両岸の宿場(旅籠)は、超満員になり、近隣の宿場まで人があふれたようだ。まさに「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」というように、難所であった。

旅人は川を渡るためには、「川札」を川合所で購入したそうだ。料金は川の深さ(水の多さ)や川幅によって異なった。

 水深が人足の股下の場合は48文、帯下で52文、帯上で68文、胸で78文、脇で94文。それ以上の水深になると川留めになり、旅人は足止めされた。(寛政年間)

この旅の渡し賃384文は、しかし高い。おそらく蓮台利用と思われる。

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(広重 金谷)

1220日、金谷より一里二十九町。旅籠・松屋忠兵衛に宿泊。宿泊代224文。

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