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《嘉永五年道中日記》を読む【その32】

217日坂木宿(長野県埴科郡坂城町)→追分宿(長野県軽井沢町)約40km推定

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 この間に鼠村(鼠宿)、ここに加賀三度岩という岩が左側にあり、大きな岩山である。ここを加賀守殿が(国許へ)お帰りの時、(通過したが、がけ崩れがあり)二度と出て来なくなったため、江戸と国許へ早馬を出して(行方不明になったことを)知らせたという。

 昔、三度の飛脚(毎月三度、定期的に大坂・江戸を往復した飛脚)が(この場所を通過中)ここにてこの岩が崩れて(たまたま通っていた)人馬とも即死したという場所である。(何事もなく無事に)めでたく通ることができれば、お喜びである。

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(上田紬 信州うえだ観光情報)

 上田宿(上田城下、長野県上田市)へ三里。ここは上田つむぎが名物である。石高53千石、松平伊賀守の御城下である。この間に国分寺(信濃国分寺、長野県上田市大字国分1125)が左に通り抜け、神か川に15間の板橋があり、半分は13間の土橋である。この川は竹間川(千曲川)へ合流するという。

 

 海野宿(うんの宿、旧長野県小県郡東部町、現・長野県東御:とうみ市)へ二里半。(この海野宿と次の田中宿の)両宿は伝馬の継ぎ立て(宿場の業務)を(毎月)15日に替わる。(両宿は2つで1つの宿場町で、半月交代で宿場をつとめる合宿:あいしゅくであった)

 

 田中宿へ十八町。大津屋にて昼食、50文。それより原っぱに出る。布引観音(釈尊寺、長野県小諸市大久保2250、天台宗、山号は布引山。布引観音とも呼ばれる。「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地。本尊は聖観世音菩薩)への道が右の方角にあると石碑(道標)が立つ。

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(布引観音 小諸市観光協会)

「牛に引かれて善光寺参り」伝説は、つぎのような話である。

 昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいた。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまった。老婆はたいそう腹を立てて、「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ」などと怒りながらその牛を追いかけた。ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつかない。そうするうちに、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまった。日は沈み、牛はかき消すように見えなくなった。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らす。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見える。その文字をよく見てみると

 うしとのみおもひはなちそこの道に  なれをみちびくおのが心を

と書いてあった。老婆はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かした。昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていた。たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないか。こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げた。そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれている。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのである。(参考:善光寺)

 

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(浅間山 小諸市観光協会)

 小諸宿(小諸城下、長野県小諸市)へ二里。入口に板橋が二箇所ある。石高15千石、牧野遠江守の御城下である。それより(宿場の)出口に25間に板橋がある。城下の山城屋九兵衛にて小休止。この間、左に浅間山が見える。それより川があり水が濁って流れている。それより一里の間、焼け野原である。

 追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)へ三里半。右側の布袋屋に宿泊。宿泊代は172文。

それより升方の茶屋(枡形の茶屋)が、宿場の西側入口に築かれている。

 

 追分宿の西の入口の枡形に、いまも茶屋「つがるや」が残っている。枡形とは、見通しがきかないよう、宿の入口に直角に曲がった道と土手を築いて、宿の警護に備えたもの。

 

 218日追分宿(長野県軽井沢町)→秋間村(安中宿、群馬県安中市)約40km推定

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(英泉 沓掛)

沓掛宿(長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ一里三町。この間に中の岳へ行く道がある。

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(広重 軽井沢

 軽井沢宿(長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側、旧軽井沢地区)一帯へ一里五町。この間碓井峠でのぼり十八町。ここに熊野三社大権現(熊野皇大神社、長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町字碓氷峠1)があり、神主20軒持ちである。ここは差置地であるという。それより信州・上州の国境である。次に一里下り、茶屋がある。ここは立場である。次に入口にうら番所がある。

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(英泉 坂本)

 坂本宿(群馬県安中市松井田町坂本)へ二里半。村田屋源之丞にて昼食、64文。

それより十町ほど行くと横川村。ここに板橋がある。御関所があり御役人様がいる。ここに茶屋がある。それより妙義山へ行く標識が立つ。右へ一里ほど行く(と妙義山)。次に新堀村、ここに昔、大當寺玄番駿河守の跡があり、いまは尾張様の御留守居役という。跡は寺であり、この寺を保大寺(所在不明)という。

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(広重 松井田)

 松井田宿へ二里半。この宿場の中程より左へ春名山へ行く道である。次に碓井川、橋代5文。それより矢衆峠という。

 秋間村(群馬県安中市)、旅籠・きにゆうや安兵衛に218日宿泊。宿泊代164文。

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