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《嘉永五年道中日記》を読む【その33】最終回

219日秋間村(群馬県安中市)→高崎宿(群馬県高崎市)約40km推定

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(秋間村)ここは三軒茶屋という。二軒茶屋もある。ここには、はかた帯(を売る店)が多い。それより風切峠があり、のぼって右側に石尊大権現(群馬県安中市松井田町新堀)があり、それより左側に浅間山が見える。次に19間の板橋がある。次に三ノ倉村、それより春名山(榛名山)の大門、一の鳥居より十五町目の二軒茶屋の所に出る。林屋源之丞(茶屋)にて酒・餅の昼食を致した。

 

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(榛名湖 はるナビ)

 榛名山へ四里。ここに宿坊が多い。そのほか、お参りする所が多い。山内の岩屋は日本一である。

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(広重 榛名山冬景)

 室田宿(旧群馬県群馬郡榛名町、現群馬県高崎市)へ三里。つむぎやにて小休止。

 

 高崎へ三里二十八町。石高82千石、松平右京大夫様の御城下である。旅籠・油屋吉右衛門にて219日宿泊。宿泊代180文。

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(広重 高崎)

220日高崎宿(群馬県高崎市)→熊谷宿(埼玉県熊谷市)約43km

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(英泉 倉賀野)

 倉賀野宿(群馬県高崎市)へ一里十九町。この宿場のはずれより左に日光海道(日光街道だが、日光例幣使街道の誤り)が通る。次に烏川の船渡し10文。ここに、あんころもちの名物あり。

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(広重 新町)

 新町宿(旧群馬県多野郡新町、現群馬県高崎市新町)へ一里半。この間に神名川があり、ここは上州と武州の国境がある。

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(英泉 本庄)

 本庄宿(埼玉県本庄市)へ二里四町。ここにて昼食を致し、この間に石高23千石、安部虎之助御城下である。ここに岡部六弥太の石塔がある。(源義朝:源頼朝の父の家臣として保元・平治の各乱に活躍した岡部六弥太忠澄の墓、埼玉県大里郡岡部町字普済寺)

 

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(英泉 深谷:飯盛り女)

 深谷宿(埼玉県深谷市)へ二里二十九町。この間に、いつた村があり、ここに花ぞうりが有名な所である。

 

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(英泉 熊谷)

 熊谷宿(埼玉県熊谷市)へ三里。右側の旅籠・池田屋た兵衛にて220日宿泊。宿泊代224文。

 

221日熊谷宿(埼玉県熊谷市)→所沢下新井村(埼玉県所沢市下新井)約45km

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(熊谷寺 猫のあしあとより)

 (熊谷宿)ここに蓮正寺(正しくは熊谷寺、埼玉県熊谷市仲町43、山号:蓮生山当行院、浄土宗)、熊谷次郎の石塔がある。またここに奴稲荷(奴伊奈利神社、同熊谷市仲町43)があり、ほうそう除けの稲荷である。門前の寺で厄除けの筒お守りを100文にて出している。(販売している)

 

 奴伊奈利神社は、熊谷次郎直実の守護神(弥三左衛門稲荷)として、元久2年(1205)た熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に創建された。

 

 それより上岡村へ一里半。ここに左側、馬頭観音がある。

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(文殊寺 熊谷市提供)

 この間に野原文殊様(文殊寺、熊谷市野原623、曹洞宗、本尊は文殊菩薩)に参詣した。右の方角にあった。

 

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(箭弓神社 東松山市)

 松山宿(埼玉県東松山市)へ二里。それより八町ほど行くと箭弓稲荷(やきゅういなり)大明神大社である。別当の寺は福寿院である。それより通りまで八町ほどである。次に右は八王子へ行く道、左は川越へ行く道である。それより井草の渡し、6文。

 

 箭弓稲荷神社は、埼玉県東松山市箭弓町にある。その名前からプロ野球選手の信仰を集め、埼玉の西武ライオンズの選手たちも、多数訪れるという。

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(川越 川越市提供)

 川越町へ四里。石高17万石、松平大和守の御城下である。21日昼食、100文。ここ(川越)にて買い物致し、それより神谷村(埼玉県所沢市)ここにて小休止、72文。子の二月二十一日、七ツ時(16時頃)時分に、下新井村にめでたく帰る。

 

 先以是迄書印置候得共(まずもってこれまで書き記しおき候えども)、

誠ニ無筆茂同前々ニ而書置候(まことに無筆しげく同然にて書き置き候)。

若違ひ字落字御座候ハヽ(もし違い字落字ござそうらわば)、

御勘辨可被下候(ご勘弁くださるべく候)。

 まずもってこれまで書き記しましたが、まことに筆不精同様なのに書置きました。

もし誤字や脱字がありましたら、ご容赦ください。

 

 子の正月二日より二月二十一日までのところ、あらまし印(しる)しつかまつり候、以上。

嘉永五年(1852)正月2日から221日までの旅のことを、あらまし書き記しました、以上。

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 以上をもって、嘉永五年、1月・2月の50日間の旅は終了である。それにしても詳しく宿泊代、昼食代、橋の渡し賃や観光地の案内料などを記述したものだ。何しろ毎日の記録である。江戸時代の旅文化を研究する貴重な資料であると思う。

Mm

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コメント

懐かしい 社員旅行で 榛名湖近辺のゴルフ場で ゴルフしました(^^) やる人だけ(笑)贅沢な昔でした

投稿: ikkun | 2012年10月12日 (金) 18時31分

あ お疲れさまでした(*⌒▽⌒*)

投稿: ikkun | 2012年10月12日 (金) 18時32分

ikkunbeer
コメントありがとうございました。
この「嘉永五年道中日記」は、現代語訳等はありません。取り掛かって5ヶ月もかかって読みました。本文にも書きましたが、貴重な旅の史料ですね。

投稿: もりたたろべえ | 2012年10月13日 (土) 09時57分

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