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2012年10月の31件の記事

ハロウィンの《東京スカイツリー》

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 死者の祭りとか収穫祭とか、なんやらかんやらの前夜祭とか、とにかくケルト人の風習が一人立して、かぼちゃのお祭りになった。よくわからないが、めでたいのか、そうでないのか?

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ともかく、《東京スカイツリー》でもハロウィン(Halloweenだからハロウィーンである)の飾り付けがにぎやかである。

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《甘太楼》の「タンタンメン」

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《甘太楼》(東京都墨田区向島3-46-13TEL03-36228932)でタンタンメンを食べた。挽肉とニラしか具材が入らない。細麺である。なかなか日本人に合う味付けだ。800円。

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もっと辛くてもいいかもしれない。やっぱりこの店は、絶妙の塩味の「タンメン」と懐かしい「味噌ラーメン」が売りだと思う。

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午後の紅茶《ESPRESSO TEA EARLGREY》

午後の紅茶の新製品。エスプレッソ・ティー(アールグレイ)、ミルクティーである。これはうまい。コクがある。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その3】

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1219日 由井(由比、静岡県静岡市清水区由比)→府中(静岡県静岡市)約29km

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薩埵峠 Wikipedia)

■(1219日)寺尾村(静岡県静岡市清水区由比寺尾)、左側の旅籠の裏、右に富士山が見える。次にさつた峠、上下(のぼりくだり)一里。

 

薩埵峠(さったとうげ)は、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。広重の『東海道五十三次』にもあるように、富士山の眺めが美しい。

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(広重 興津)

 

■ほら村(静岡県静岡市清水区)、ここより駿河半紙を作る(店々がある)。

■沖津(興津、同)より一里六町。右にせいけん寺(清見寺、静岡市清水区興津清見寺町418-1、臨済宗)があり、庭にはさぼてん・そてつがある。南に、みよ(三保)の松原が見え、風景はよい。

■江尻(同)より三里。ここに、ともい川があり、それより左に久能山への道がある。この間に村松龍かん寺(正しくは龍華寺、静岡県静岡市清水区村松2085。山号: 観富山、日蓮宗)があり、そてつが多い。

 

■久能より二里三十町。佐藤伊右衛門にて昼食、48文。

久能山へ参詣致すのには、(昼食をとった)伊右衛門方より、手形(拝観券)を発行してもらい、案内人を頼んだ。案内料は200文。麓(ふもと)から(表参道石段で)御玉屋(本殿石ノ間)まで十町(約1.1km)登る。中程に御見附(天望台)がある。この場所から南を見れば駿州・遠州の山々が東西に見え、山の間は七十五里(294.5km)にも及ぶ。西には大井川の水の流れが白く見える。それより門(一ノ門)の中へ入る。(門衛所にて)一人づつ(手荷物等を)改められ、(楼門から)上へ通る。それよりのぼると塔(五重塔、現存せず)があり、高さは十丈九尺(約33m)。右に東照宮様(家康公)がお手植えされた、みかんの木がある。それよりのぼって御玉屋(本殿)が南向きにある。それより御石の間(石ノ間)、拝観するのには200文かかる。

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(久能山東照宮社殿 久能山東照宮提供)

 

 晩年を駿府(静岡)で過ごした徳川家康が、元和2年(1616)に死去した後、遺言によってこの地に埋葬された。久能山東照宮は、家康公をお祭りする神社。

 家康没後、二代将軍秀忠は、ただちに久能山に家康公を祀る神社を造営することを命じ、1年7ヶ月というきわめて短期間のうちに社殿が建築された。久能山東照宮へは、昭和32年(1957)に日本平ロープウェイが開通する以前は、表参道石段を登るしかなかった。麓の石鳥居から1159段の石段である。

 909段あがった場所に一ノ門があり、ここからの眺望は、海も見渡せて絶景である。

 

 境内には、三代将軍家光により建立された五重塔が明治時代まで設置されていた。江戸時代の絵図や地図には、久能山のシンボルとして描かれ、30mを超える塔であり、すばらしい建築技術であったと伝わっている。明治初期の神仏分離令により、取払われ、現在は礎石が残るのみである。

 拝殿は、最高の建築技術・芸術が結集され、本殿と拝殿を石の間で接続した「権現造」様式で築かれた。神社建築におけるこの権現造様式は、久能山東照宮の造営により確立された。日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は、この久能山東照宮がモデルとされた。

 

■八幡(静岡市)より八町。ここに八幡宮(八幡神社、静岡県静岡市駿河区八幡山1-1)があり、石坂(石段)113段、矢大臣門は左甚五郎作である。

 

1219日、(府中)旅籠・大萬や清三郎に宿泊。宿泊代116文。

 

1220日 府中(静岡県静岡市)→金谷(静岡県島田市)約32km

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(広重 府中)

■(府中)町より北に御城がある。これは番城(駿府城)である。町より八町北に富士浅間(静岡浅間神社、静岡市葵区宮ケ崎町102-1があり、駿河の国一の宮である。末社は百社ある。神社の前に神楽堂があり、日本一である。鳥居のまわり(太さ)は75寸(2.3m)、高さは2丈(6.1m)。奥の院はせん間の親であり、石坂(石段)104段。府中と鞠子の間に、あべ川があり、渡るのに一人前45文である。

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(広重 藤枝)

■鞠子より二里九町。この間に、うつのや峠がある。■岡部より一里二十六町。

■藤枝(静岡県藤枝市)より二里九町。■嶋田(静岡県島田市)より一里。

この間に大井川がある。かち渡しは(川を渡るには)一人前384文である、手荷物は用心すべきである。

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(歌川豊国 大井川蓮台)

 大井川は防衛上の問題で架橋されなかった。川幅は12町(1.3km)、水深は平常時で二尺五寸(約76cm)あった。これが五尺(約150cm)の深さになると、すべての川越しが禁止されたそうだ。この大井川、年に50日程度は川留めがあり、最長は慶応四年(1868)の28日間であったそうだ。当然川留めになると、両岸の宿場(旅籠)は、超満員になり、近隣の宿場まで人があふれたようだ。まさに「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」というように、難所であった。

旅人は川を渡るためには、「川札」を川合所で購入したそうだ。料金は川の深さ(水の多さ)や川幅によって異なった。

 水深が人足の股下の場合は48文、帯下で52文、帯上で68文、胸で78文、脇で94文。それ以上の水深になると川留めになり、旅人は足止めされた。(寛政年間)

この旅の渡し賃384文は、しかし高い。おそらく蓮台利用と思われる。

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(広重 金谷)

1220日、金谷より一里二十九町。旅籠・松屋忠兵衛に宿泊。宿泊代224文。

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東京ソラマチ《フォンハイム》の「ロコモコ丼」

 東京スカイツリータウン・ソラマチのウエストヤード2階、フードマルシェの《フォンハイム》(von Heim)のお弁当。今回はロコモコ丼である。

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白いごはんの上に、デミグラスソースのかかった大きめのハンバーグ、アスパラのオイル和えにトマトとレタスたっぷりだ。650円。ハンバーグは、ボリュームがありおいしい。頼めば電子レンジで温めてくれるのもうれしい。

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 この店は、東京のブランド豚・東京エックスやおいしいソーセージ・ウィンナーでも知られている。

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牛丼の《吉野家》創業113年の歴史

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 1年に1回位しか食べない「牛丼」、老舗の《吉野家》である。いまは並で380円。たまに安売り競争をするようだが、現在は適正価格というところだろう。

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 調べてみて驚いたが、この《吉野家》は、明治32年(1899)、当時魚河岸のあった東京の日本橋で創業した。実に113年である。その後、市場移転に伴い、大正15年(1926)、築地に店を出している。昭和27年(1952)には早くも24時間営業を開始し、昭和33年(1958)には、会社組織にして、株式会社吉野家ができた。その後、紆余曲折を経て現在に至る。国内に1,190店舗、海外にも487店舗(2011年末現在)もある。

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 ところでこの牛丼も2002年頃、アメリカのBSE(狂牛病)問題で牛肉の輸入が禁止され、しばらく食べられない時期が続いた。たまたま出張でオーストラリアに行ったのでシドニー店で久しぶりに食べた。おいしかったことを覚えている。いつでも世界中で同じ味を出すというのも、大変な驚きである。

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シドニーでYOSHINOYAの牛丼を食す

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東京ソラマチ3F・タベテラス《宮武讃岐うどん》カレーうどん

 東京ソラマチの3階にあるフードコート・タベテラスにある讃岐うどんの名店。温かい「カレーうどん」480円を食べた。

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 タマネギや挽肉は入っている。なめらかな舌ざわり、辛さもあっておいしい。いつものことながら、体も温まるし、幸せな気分。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その2】

1215日 厚木(神奈川県厚木市)→小田原(神奈川県小田原市)約34km

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(北向観音 平塚市観光協会)

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(前島神社 平塚市)

■田村(平塚市)より一里。■四ノ宮(平塚市)、ここに観音堂(北向観音堂、平塚市四ノ宮3-14-18が北向きにある。次に山王社(前島神社:さきとりじんじゃ、神奈川県平塚市四之宮4-14-26があり、西向きである。一丈(約3m)まわりの椎の木がある。■八幡(平塚市)より十八町(約2km)。ここに八幡宮(平塚八幡宮、神奈川県平塚市浅間町1-6があり、南向きである。

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(広重 平塚

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(広重 大磯)

それより東海道に入る。

■平塚より二十六町(約2.8km)。■1215日、大磯より四里。宮代屋与三衛門にて昼食、100文。■梅澤(神奈川県中郡二宮町) ■前川(神奈川県小田原市) ■佐川(同)、ここに佐川があり、橋は長さ60間あまり。

1215日、小田原より四里八町。旅籠・福住屋源兵衛に宿泊。宿泊代232文。ここに、うゑろう丸薬屋(ウイロウ薬屋)が右側にある。次に大久保加賀守の御城(小田原城)がある。石高11万石。

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(ういろう ㈱ういろう提供)

 現在も続く「ういろう」である。元々は薬であり、薬業のかたわらに製造した和菓子・羊羹のういろうが、人気である。さて、この「㈱ういろう(神奈川県小田原市本町1-13-17)」には歴史がある。

 先祖は日本に帰化した中国・元の陳宗敬。戦国時代の永正元年(1504)、北条早雲により小田原に招かれた本家四代目の子・宇野定治(定春)を祖として小田原外郎家が成立し、外郎薬(ういろうぐすり)の製造が始まる。北条家滅亡後も外郎家は、豊臣家、江戸幕府の保護を受け続けたそうだ。

 江戸時代には痰(たん)切りをはじめ、万能薬として知られた。とくに二代目市川団十郎が、歌舞伎十八番「外郎売」で店や口上を紹介して人気を集めたようだ。

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(ういろう売り ㈱ういろう提供)

 熱海か塔の澤(箱根)へ湯治にお出でなさるるか、又伊勢御参宮の折からは、必ず間違いなされまするな。(江戸から上方へ)お登りならば右の方。お下りなれば左側。八方が八棟、三つ棟玉造り、破風(はふ)には、菊の桐のとうの御紋をご赦免あって、系図正しき薬でござる。

 

 (意訳)熱海や箱根に湯治に行く途中や伊勢参宮の折に小田原を通ったら、街道の右側に八棟造りの城郭建築の店がある。菊の御紋が許された由緒正しい薬である。

 

さて、この「ういろう」だが、胸腹痛、渋腹、胃痛、食中毒、消化不良、下痢、水中、宿酔、乗物酔い、日射病、口内炎、咳、痰のつかえなど、実に多くの効能が挙げられている。また、ういろうは「透頂香(とうちんこう)」とも呼ばれていた。

 

1216日 小田原(神奈川県小田原市)→三島(静岡県三島市)約37km

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(広重 小田原)

(小田原)福住屋より関所前まで金二朱(1/8両方、16万円として7,500円)にて、かごに乗る。ほかに百文の酒代(チップ)を出す。

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(広重 箱根)

■はた(畑、神奈川県足柄下郡箱根町) 立場(馬や人足の休憩場)のめうがや(みょうがや)畑右衛門にて小休止。ここに、雑煮餅の名物がある。次に箱根権現(箱根神社、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1が巳午(南南東)向きにある。この神社の前に富士の巻き狩りのときに用いた(大きな)釜が二つある。西に大池があり、次にさいの川原(賽の河原)地蔵がある。

■新谷町(同)、1216日昼食、杉屋利助にて116文。ここに御関所がある。この間に相模と伊豆の国境がある。■箱根より三里二十八町。■山中(静岡県三島市) 左に愛宕山がある。

1216日、三島より一里半、旅籠・かちや十左衛門に宿泊。宿泊代216文。

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(広重 三嶋)

賽の河原というこの地は、地蔵信仰の霊地として、江戸時代、東海道を旅する人々の信仰を集めたところ。その規模は大きく、多数の石仏、石塔が湖畔に並んでいた。

しかし、明治時代に入ると、仏教の排斥から多くの石仏が失われ、また芦ノ湖畔の開発で、その規模が縮小した。現存する石仏、石塔の中にも鎌倉後期と推定される塔を始め貴重なものがあるそうだ。

 

1217日 三島(静岡県三島市)に滞在

 

1217日、大雨にて(三島、旅籠・かちや十左衛門に)逗留。ここに伊豆の国の一の宮である三嶋明神(三嶋大社、静岡県三島市大宮町2-1-5が南向きにある。御朱印530石。

 

1218日 三島(静岡県三島市)→由井(由比、静岡県静岡市清水区由比)

 

■(1218日)八幡(静岡県駿東郡清水町)。■喜瀬川(静岡県沼津市)、ここに36間の板橋がある。

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■沼津より一里半。ここに山王社(山王神社/沼津日枝神社、沼津市平町7-24が南向きにある。水野出羽守御城がある。石高5万石。次に富士浅間(沼津浅間神社、沼津市浅間4が右にある。左は千本松原がある。■はら(原、沼津市)より三里八町。■柏原村(静岡県富士市)、立場がある。次に浮嶋ケ原、うなぎの名物がある。次に本吉原村、左にびしやもん(毘沙門天妙法寺、富士市今井毘沙門町2-7-1、日蓮宗、山号:香久山)がある、ここに24間の橋がある。それまでも間、浮嶋原は三里。原宿より吉原まで124文にて馬に乗る。

 

■吉原(静岡県富士市)より一里六町、1218日昼食、甲州や喜左衛門にて80文。

■本市場(同)、立場である。白酒の名物がある。それより土橋を渡る。栗のこ餅の名物がある。次に富士見峠、左に富士が見える。ここに茶屋がある。■岩淵村(静岡県富士宮市)。■蒲原(静岡県静岡市清水区蒲原)より一里。

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(広重 由井)

1218日、由井(由比、静岡県静岡市清水区由比)より二里十二町、旅籠・うどんや四郎兵衛に宿泊。宿泊代216文。この間に由井川がある。

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《岩手屋》のランチ

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 墨田区向島3丁目の《岩手屋》。かき揚げ丼、マグロ丼、豚生姜焼き丼など、ランチメニューにも定評がある店だ。(いわてや、東京都墨田区向島3-46-8TEL03-3623-3992

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 日替わりは、「ベーコン きのこオムレツ」780円。茶碗蒸と小鉢がつく。おかあさんの手料理という感じだ。やさしい味でおいしい。夜はうまい酒と気の効いたつまみが出るようだが、まだ行ったことがない。何度か行ってみたが、いつも満席、人気の居酒屋なのである。

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《天紫亭》旬のつまみ

 《天紫亭(てんしてい)》、正式名称は「魚河岸料理居酒屋 天紫亭 向島店」(東京都墨田区向島1-33-12第二東武館1FTEL03-3626-2107)だそうだ。スカイツリーの真ん前のため、最近はお昼からよく混んでいる。

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 さて旬のつまみである。まずは、「カワハギの刺身」。秋から冬にかけて、肝臓に栄養を蓄えるため、キモもつけて刺身を食べる。甘みがある。

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 「カキフライ」。大きめである。いま時分はうまい。

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 「じゃがいも餅」。一年中あるが、これは好物だ。300円で食べられる。

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 「フライドポテト」と「ハムカツ」。なつかしいメニューである。

やはり、魚河岸料理居酒屋というだけあって、海産物は新鮮でうまい。もちろん揚げ物もうまい。生ビールが、いまいちなのが難点だが、サラリーマンたちの憩いの場である。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その1】

私の住む所沢市に残る史料にある伊勢参宮の道中記である。『所沢市史 近世史料Ⅱ』にあるこの「安政四年伊勢参宮道中記」は、幕末も押し迫った安政四年(18571213日に武州所沢の下新井村(埼玉県所沢市下新井)を出発。総勢18名である。甲州街道の府中に泊まった後、厚木を経由、平塚から東海道に入り、伊勢から奈良、大坂、神戸、姫路を経て、山陽道で岡山へ。倉敷から船で四国・丸亀へ渡り、金比羅さんへ参詣した。帰路は京都を経由、滋賀・草津から中山道へ。途中、善光寺にも立ち寄り、翌年217日に所沢に帰った。実に64日間に旅である。

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 ところで、この時代、日本は歴史の上で大きく動いた。この旅の4年前の嘉永六年(1853)には、浦賀に黒船が来航し、開国を迫る。翌嘉永七年(安政元年)、日米和親条約を結ぶ。おそらく江戸から八里(約32km)離れた武州所沢でも黒船のうわさくらいは伝わっていたはずだ。

 そして、この旅の翌年・安政五年(1858)には、大老井伊直弼による安政の大獄がおこなわれ、開国に反対する尊王攘夷派は弾圧される。安政七年、この井伊直弼が、桜田門外の変で暗殺される。安政期には、また大地震も頻発した。江戸幕府の崩壊へと時代は、着実に進んでいた。

 

 さて、この道中記の冒頭には、旅に際しての戒め(注意事項)が列挙されている。

 

道中心得之事

一 大酒すべからず

一 諸勝負致すべからず

一 道づれけっして無用

一 渡し場出入急ぐべからず

一 馬方駕籠かき人足其外道中にて口論いさかへを制し慎むべし

一 旅人より食物あたへたり共むざとくうべからず

一 はたご安く共あやしきやどに泊るべからず

 

・お酒はほどほどに飲めば、疲労回復にもなる。飲み過ぎを戒める。旅先で博打など、賭けごとはいけない。身を崩す。

・「道づれ」とは、旅先で言い寄ってくる他人である。何かと理屈をつけ、同行しようとする者は、おそらく魂胆があり怪しいからだ。

・川の渡し場では、急いではならない。水かさが増せば渡し賃も高くなるし、危険が伴う。

・馬方や駕籠を担ぐ人足たちと口論やいさかいをしてはならない。

・旅人などから、むやみに食べ物をもらって食べてはならない。

旅籠は、宿泊代が安いからといって泊まってはならない。安いのにはわけがあるはずだ。

 

1213日 所沢下新井村(埼玉県所沢市下新井)→府中(東京都府中市)約17km

 

■下新井より一里。■久米川(東京都東村山市)より一里。■小川(東京都小平市)より二里。■1213日、府中(東京都府中市)より二里。(府中)旅籠・出丸屋弥平治に宿泊。宿泊代232文。(そのほかに)茶代1分(1/4両で約15,000円)を出す。ここに六所大明神(大国魂神社)あり、ご朱印五百石。

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(大国魂神社)

 府中の旅籠では、よほど主人と話がはずんだのか、宿泊代のほかに一分金のチップまで出した。

 

1214日 府中(東京都府中市)→厚木(神奈川県厚木市)約36km

 

■押立(府中市押立町) ここに玉川(多摩川)があり、橋代8文。■小野路(多摩市小野路町)より二里。■1214日、木曽(町田市)にて昼食、72文。ここに二川があり、北武蔵・南相模の国境がある。

■星の谷(神奈川県座間市)より一里半。ここに観世音(座間市入谷3-3583、通称・星の谷観音、妙法山星谷寺、真言宗大覚寺派、本尊:聖観世音菩薩)があり、お堂は、南向きで坂東(札所)八番である。西に星の井戸がある。(しかし)星は見えない。この間に有鹿明神(ありか神社)がある。次に相模川、橋代15文。

1214日、厚木より二里。旅籠・ゑびや庄五郎に宿泊。宿泊代216文。ここより17人になる。ほかには所澤吉五郎が一人来ていない。

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 旅の一行だが、厚木で合流して17名になった。総勢18名の内、所澤吉五郎が一人、まだ来ていない。

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《宇豆基野》東京スカイツリー店「男弁当」

 東京ソラマチ2階のフードマルシェにある《宇豆基野(うずきの)》。湯波の専門店だが、お弁当も数種類販売している。

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 がっつり系の「男弁当」を食べた。海苔弁当の上に、たくさんの具材が載る。左からウィンナー、帆立フライ、プチトマト、たらこ、焼き鮭、しいたけ煮物、ししとう、タマゴ焼き、ちくわきゅうり、ピーマン、エンドウ豆、牛肉、タマネギ、しば漬、山ごぼうである。なかなか食べ応えがある。1,050円。しかし、ボリューム以外は特徴に欠ける。

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 次回は湯波の入った「ゆば野菜丼」750円か「おからハンバーグ弁当」650円にしてみようと思う。

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東京ソラマチ《すみだ まち処》の「江戸切子」

 東京スカイツリータウン・ソラマチの5階に地元・墨田区のアンテナショップがある。《すみだ まち処》という下町の特産品や観光案内に特化したお店だ。なかめているとなかなかおもしろい。

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 江戸時代後期から脈々と受け継がれた「江戸切子」がすばらしい。ガラスの細工である。赤や黒、青が美しい。一つ一つ手作りである。墨田区内には職人さんが10名に満たないそうだ。ぐいのみで15,250円、グラスで7,350円からある。いいものは11万円は下らない。見ているだけでも感心する。

 調べてみたら、江戸切子の特徴は、菊や麻そして矢来と呼ばれる竹や丸太でつくった囲いの文様が多い。天保五年(1834)、江戸大伝馬町のビロード屋、加賀屋がガラスの表面に金剛砂を用いて模様を彫刻したのが始まりとのこと。

その後、明治政府の殖産興業策の一環で、日本でも本格的に硝子づくりが始まり、明治14年(1881)にはイギリスからカットグラスの技師を招聘して技術導入され、数名の日本人が教えを受け、近代的技法が確立されたそうだ。

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《プロント》で

 東京ソラマチ1階の東京スカイツリー駅側にある《プロント》。

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たまにミックスピザが食べたい。

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トルティーアと枝豆である。

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やっぱり生ビールがうまい。ここはおじさんの止まり木かもしれない。

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《神谷バー》ポスター「落ち込み」

 東武スカイツリーライン(東武伊勢崎線)車内限定の神谷バーのポスター。

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 落ち込み      解消するでしょう。

 神谷バーで電気ブランを3,4杯飲めば、前後不覚に陥り、たとえ「落ち込んで」いても、意識混濁または意識不明になるので大丈夫。それだけ強いお酒である、私にとっては。

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崎陽軒の《横濱チャーハン》

 ソラマチ2階のフードマルシェにある崎陽軒で《横濱チャーハン》を購入。いつもいつも「シウマイ弁当」では芸がないので、目にとまったチャーハンにする。540円。

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中身は、チャーハン、鶏のチリソース、筍煮、きゅうり漬け、昔ながらのシウマイである。率直にいって冷めたチャーハンは、やっぱりさほどおいしくはない。そこそこの味なのだが、少し残念。シウマイは、あいかわらずのうまさだ。浮気をしてはならない。食べたいもの(シウマイ弁当)を食べるべきだと、再認識した次第である。

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《生駒軒》@浅草雷門の「もやしそば」

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 おなじみ《生駒軒》のもやしそばである。人気メニューの一つらしい。熱々のあんかけである。630円。醤油ベースの味だ。うまい。

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 しかし中々冷めない。もやしや豚肉がいい感じだ。

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東京スカイツリータウン・ソラマチ《鶏めし 田吾作》

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 鶏めしである。徳島県産ブランド鶏の阿波尾鶏と新潟県産コシヒカリのみを使用し、創業明治6年・正田醤油(群馬県)のだし醤油で味付けした「白鶏めし」、宮内庁御用達関ヶ原たまり醤油(岐阜県)で味付けした「黒鶏めし」の2色のおむすびが自慢の特製鶏めし専門店だ。

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 この店にお得なお弁当を発見。500円のワンランチ弁当である。きちんと、売りの白鶏めしと黒鶏めしも入っている。揚げ物や煮物もうまいが、「黒鶏めし」が気に入った。これは間違いなくうまい。

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名酒・麦焼酎《百年の孤独》

 行きつけの《生駒軒》浅草雷門で、マスターから《百年の孤独》をご馳走になった。言わずと知れた幻の焼酎。大麦と麦麹でつくり、長期醸造、度数は40度である。

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 琥珀色をしていて、まるでウイスキーである。甘みさえ感じる。宮崎の黒木本店製造で、定価は2,900円。市場価格は7,500円から10,000円だが、とにかく手に入らない。飲むのは2回目なのだが、この芳醇な香りは、ロックに限る。大変貴重なものなので、2杯いただいて失礼した。「百年の孤独」は洋物の小説の題名らしい。なるほど、孤独をサカナに飲んでも絵になると思う。(画像:Yahoo提供)

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《嘉永五年道中日記》を読む【その33】最終回

219日秋間村(群馬県安中市)→高崎宿(群馬県高崎市)約40km推定

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(秋間村)ここは三軒茶屋という。二軒茶屋もある。ここには、はかた帯(を売る店)が多い。それより風切峠があり、のぼって右側に石尊大権現(群馬県安中市松井田町新堀)があり、それより左側に浅間山が見える。次に19間の板橋がある。次に三ノ倉村、それより春名山(榛名山)の大門、一の鳥居より十五町目の二軒茶屋の所に出る。林屋源之丞(茶屋)にて酒・餅の昼食を致した。

 

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(榛名湖 はるナビ)

 榛名山へ四里。ここに宿坊が多い。そのほか、お参りする所が多い。山内の岩屋は日本一である。

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(広重 榛名山冬景)

 室田宿(旧群馬県群馬郡榛名町、現群馬県高崎市)へ三里。つむぎやにて小休止。

 

 高崎へ三里二十八町。石高82千石、松平右京大夫様の御城下である。旅籠・油屋吉右衛門にて219日宿泊。宿泊代180文。

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(広重 高崎)

220日高崎宿(群馬県高崎市)→熊谷宿(埼玉県熊谷市)約43km

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(英泉 倉賀野)

 倉賀野宿(群馬県高崎市)へ一里十九町。この宿場のはずれより左に日光海道(日光街道だが、日光例幣使街道の誤り)が通る。次に烏川の船渡し10文。ここに、あんころもちの名物あり。

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(広重 新町)

 新町宿(旧群馬県多野郡新町、現群馬県高崎市新町)へ一里半。この間に神名川があり、ここは上州と武州の国境がある。

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(英泉 本庄)

 本庄宿(埼玉県本庄市)へ二里四町。ここにて昼食を致し、この間に石高23千石、安部虎之助御城下である。ここに岡部六弥太の石塔がある。(源義朝:源頼朝の父の家臣として保元・平治の各乱に活躍した岡部六弥太忠澄の墓、埼玉県大里郡岡部町字普済寺)

 

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(英泉 深谷:飯盛り女)

 深谷宿(埼玉県深谷市)へ二里二十九町。この間に、いつた村があり、ここに花ぞうりが有名な所である。

 

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(英泉 熊谷)

 熊谷宿(埼玉県熊谷市)へ三里。右側の旅籠・池田屋た兵衛にて220日宿泊。宿泊代224文。

 

221日熊谷宿(埼玉県熊谷市)→所沢下新井村(埼玉県所沢市下新井)約45km

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(熊谷寺 猫のあしあとより)

 (熊谷宿)ここに蓮正寺(正しくは熊谷寺、埼玉県熊谷市仲町43、山号:蓮生山当行院、浄土宗)、熊谷次郎の石塔がある。またここに奴稲荷(奴伊奈利神社、同熊谷市仲町43)があり、ほうそう除けの稲荷である。門前の寺で厄除けの筒お守りを100文にて出している。(販売している)

 

 奴伊奈利神社は、熊谷次郎直実の守護神(弥三左衛門稲荷)として、元久2年(1205)た熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に創建された。

 

 それより上岡村へ一里半。ここに左側、馬頭観音がある。

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(文殊寺 熊谷市提供)

 この間に野原文殊様(文殊寺、熊谷市野原623、曹洞宗、本尊は文殊菩薩)に参詣した。右の方角にあった。

 

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(箭弓神社 東松山市)

 松山宿(埼玉県東松山市)へ二里。それより八町ほど行くと箭弓稲荷(やきゅういなり)大明神大社である。別当の寺は福寿院である。それより通りまで八町ほどである。次に右は八王子へ行く道、左は川越へ行く道である。それより井草の渡し、6文。

 

 箭弓稲荷神社は、埼玉県東松山市箭弓町にある。その名前からプロ野球選手の信仰を集め、埼玉の西武ライオンズの選手たちも、多数訪れるという。

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(川越 川越市提供)

 川越町へ四里。石高17万石、松平大和守の御城下である。21日昼食、100文。ここ(川越)にて買い物致し、それより神谷村(埼玉県所沢市)ここにて小休止、72文。子の二月二十一日、七ツ時(16時頃)時分に、下新井村にめでたく帰る。

 

 先以是迄書印置候得共(まずもってこれまで書き記しおき候えども)、

誠ニ無筆茂同前々ニ而書置候(まことに無筆しげく同然にて書き置き候)。

若違ひ字落字御座候ハヽ(もし違い字落字ござそうらわば)、

御勘辨可被下候(ご勘弁くださるべく候)。

 まずもってこれまで書き記しましたが、まことに筆不精同様なのに書置きました。

もし誤字や脱字がありましたら、ご容赦ください。

 

 子の正月二日より二月二十一日までのところ、あらまし印(しる)しつかまつり候、以上。

嘉永五年(1852)正月2日から221日までの旅のことを、あらまし書き記しました、以上。

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 以上をもって、嘉永五年、1月・2月の50日間の旅は終了である。それにしても詳しく宿泊代、昼食代、橋の渡し賃や観光地の案内料などを記述したものだ。何しろ毎日の記録である。江戸時代の旅文化を研究する貴重な資料であると思う。

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昭和の中華食堂《生駒軒》浅草雷門の「みそラーメン」

 お馴染み《生駒軒》@浅草雷門である。なつかしい「みそラーメン」を食べた。もやしやタマネギ、にんじん、挽肉、ニラを炒めてのせてある。630円。

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 ここのみそラーメンは、信州味噌を使う。赤味噌ではない。炒めた野菜たちと麺のバランスも抜群のうまさだ。昔はこんなみそラーメンもあった、と思うほど、いまとなっては貴重な味かもしれない。

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《嘉永五年道中日記》を読む【その32】

217日坂木宿(長野県埴科郡坂城町)→追分宿(長野県軽井沢町)約40km推定

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 この間に鼠村(鼠宿)、ここに加賀三度岩という岩が左側にあり、大きな岩山である。ここを加賀守殿が(国許へ)お帰りの時、(通過したが、がけ崩れがあり)二度と出て来なくなったため、江戸と国許へ早馬を出して(行方不明になったことを)知らせたという。

 昔、三度の飛脚(毎月三度、定期的に大坂・江戸を往復した飛脚)が(この場所を通過中)ここにてこの岩が崩れて(たまたま通っていた)人馬とも即死したという場所である。(何事もなく無事に)めでたく通ることができれば、お喜びである。

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(上田紬 信州うえだ観光情報)

 上田宿(上田城下、長野県上田市)へ三里。ここは上田つむぎが名物である。石高53千石、松平伊賀守の御城下である。この間に国分寺(信濃国分寺、長野県上田市大字国分1125)が左に通り抜け、神か川に15間の板橋があり、半分は13間の土橋である。この川は竹間川(千曲川)へ合流するという。

 

 海野宿(うんの宿、旧長野県小県郡東部町、現・長野県東御:とうみ市)へ二里半。(この海野宿と次の田中宿の)両宿は伝馬の継ぎ立て(宿場の業務)を(毎月)15日に替わる。(両宿は2つで1つの宿場町で、半月交代で宿場をつとめる合宿:あいしゅくであった)

 

 田中宿へ十八町。大津屋にて昼食、50文。それより原っぱに出る。布引観音(釈尊寺、長野県小諸市大久保2250、天台宗、山号は布引山。布引観音とも呼ばれる。「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地。本尊は聖観世音菩薩)への道が右の方角にあると石碑(道標)が立つ。

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(布引観音 小諸市観光協会)

「牛に引かれて善光寺参り」伝説は、つぎのような話である。

 昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいた。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまった。老婆はたいそう腹を立てて、「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ」などと怒りながらその牛を追いかけた。ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつかない。そうするうちに、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまった。日は沈み、牛はかき消すように見えなくなった。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らす。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見える。その文字をよく見てみると

 うしとのみおもひはなちそこの道に  なれをみちびくおのが心を

と書いてあった。老婆はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かした。昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていた。たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないか。こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げた。そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれている。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのである。(参考:善光寺)

 

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(浅間山 小諸市観光協会)

 小諸宿(小諸城下、長野県小諸市)へ二里。入口に板橋が二箇所ある。石高15千石、牧野遠江守の御城下である。それより(宿場の)出口に25間に板橋がある。城下の山城屋九兵衛にて小休止。この間、左に浅間山が見える。それより川があり水が濁って流れている。それより一里の間、焼け野原である。

 追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)へ三里半。右側の布袋屋に宿泊。宿泊代は172文。

それより升方の茶屋(枡形の茶屋)が、宿場の西側入口に築かれている。

 

 追分宿の西の入口の枡形に、いまも茶屋「つがるや」が残っている。枡形とは、見通しがきかないよう、宿の入口に直角に曲がった道と土手を築いて、宿の警護に備えたもの。

 

 218日追分宿(長野県軽井沢町)→秋間村(安中宿、群馬県安中市)約40km推定

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(英泉 沓掛)

沓掛宿(長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ一里三町。この間に中の岳へ行く道がある。

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(広重 軽井沢

 軽井沢宿(長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側、旧軽井沢地区)一帯へ一里五町。この間碓井峠でのぼり十八町。ここに熊野三社大権現(熊野皇大神社、長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町字碓氷峠1)があり、神主20軒持ちである。ここは差置地であるという。それより信州・上州の国境である。次に一里下り、茶屋がある。ここは立場である。次に入口にうら番所がある。

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(英泉 坂本)

 坂本宿(群馬県安中市松井田町坂本)へ二里半。村田屋源之丞にて昼食、64文。

それより十町ほど行くと横川村。ここに板橋がある。御関所があり御役人様がいる。ここに茶屋がある。それより妙義山へ行く標識が立つ。右へ一里ほど行く(と妙義山)。次に新堀村、ここに昔、大當寺玄番駿河守の跡があり、いまは尾張様の御留守居役という。跡は寺であり、この寺を保大寺(所在不明)という。

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(広重 松井田)

 松井田宿へ二里半。この宿場の中程より左へ春名山へ行く道である。次に碓井川、橋代5文。それより矢衆峠という。

 秋間村(群馬県安中市)、旅籠・きにゆうや安兵衛に218日宿泊。宿泊代164文。

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十割そば《むさし》の「カレー丼セット」

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 東京スカイツリーの近く、十割そばの《むさし》(東京都墨田区押上2-2-1)である。ランチタイムの「カレー丼セット(せいろ付き)」840円を食べた。やっぱりおそば屋さんのカレーはうまい。

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 とろっとしている。タマネギが甘い。さほど辛くはない。なんともいえない味だ。

そばは、「十割」だから若干、ボソボソ感があるが、風味があってうまい。

 ランチタイムは、親子丼セット945円、カツ丼セット1,050円、天丼セット1,260円のほか、マグロ丼セット1,050円や生姜焼き丼セット945円もある。もちろんセットはせいろかかけ(そば)付きである。なかなかのものだ。

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《嘉永五年道中日記》を読む【その31】

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216日善光寺(長野県長野市大字長野元善町491-イ)→坂木宿(長野県埴科郡坂城町)約37km推定

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(善光寺 長野市地域ポータルサイト)

 それより朝、善光寺の開帳(お朝事、朝の勤行)に参詣いたし、ここにて数珠を22文で買う。それよりかいだん廻り(お戒壇巡り)をする。本尊より右に入り、結願して山門の西寺より出る。善光寺如来の正面には、義光義助の木像があり、弥生姫という木像がある。(正面には「御三卿」つまり、中央に善光寺開山の祖とされる本田善光卿像、向かって右に善光の妻弥生御前像、左は息子の善佐卿像が安置されている)

(善光寺は)御朱印千石、ここには宿坊も多く武蔵の国の宿坊は常智院(長野市元善町478TEL026-235-4012)といい、(本堂に向かって)右側にある。

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(御三卿 善光寺)

 前町にはさなだ帯(を売る店)が多くある。土産に買うのもよい。それより久保の橋土という女郎町(遊郭、鶴賀新地か?現在の住所で長野市東鶴賀町)がある。料金は二朱(16万円として約7,500円)。宿(藤屋)より三町ほど左に入り、二町目の隠宅藤屋があり、ここに5人泊まった。

 それより16日五ツ時(午前8時)にここを出発。次に丹波川の渡し、50文。丹波嶋まで一里。それより帰り道である。

 この旅でもあるように、江戸時代、伊勢参りと善光寺詣ではセットの場合が多かったようだ。また西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の(合計百番札所)番外札所となっており、その結願寺は秩父三十四箇所の三十四番水潜寺だが、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

善光寺は、山号:定額山で無宗派の単立寺院である。実際には山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。

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(お朝事 善光寺)

 日の出とともに本堂で始まるのが「お朝事(あさじ)」。善光寺全山の僧侶が出仕して勤めるおごそかな法要で、365日欠かさず行われている。かつては「お籠り朝詣で」といわれ、全国からの参詣者が本堂で一夜を明かし、翌朝のお朝事にそのまま参列することが一般的であったが、文化財保護の関係で、明治末期から本堂での寝泊まりが禁止され、現在では各宿坊が参詣者の宿泊手配と案内をおこなう。1月・2月のお朝事は、午前659分開始。

 有名な「お戒壇めぐり」は、本堂の内々陣の右手に入口がある。七段の階段をおり地下を進む。真っ暗である。右手で腰の高さで壁をなでて進む。暗闇の中を45mほど進むと、ご本尊の下あたりで「極楽の錠前」に触れることができる。この鍵に触れることでご本尊と結縁し、極楽浄土行きが約束される。暗闇の恐怖や他の人に足を踏まれたりして大変だが、ゆっくり歩くことで貴重な体験となる。

 篠ノ井追分へ二里。ここに角のひしやがある。(休憩)それより江戸道に入る。この間に竹間川(千曲川)矢城の渡し、同じくつなくりにて(渡る)22文。

 矢代宿(屋代宿、長野県千曲市)へ一里。大和屋弥兵衛にて昼食、64文。この間に小嶋村、さなだ帯を織り出す所がある。

 下戸倉(千曲市)へ一里半。この間に左側、大きな岩山がある。

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 坂木宿(長野県埴科:はにしな郡坂城町)へ一里半。右側の旅籠・ふじや又右衛門にて216日宿泊。宿泊代148文。

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《嘉永五年道中日記》を読む【その30】

嘉永五年(185212日、武州・所沢(埼玉県所沢市)の下新井村を出発した13名の一行。東海道を行き、目指すは、伊勢詣と高野山・奈良・大坂・京都である。寺社参りが中心だが、各地で名物を食べ、とくに甘いものには目がない。帰路は草津(滋賀)から中山道・木曽街道を通り、信州へ。帰りのハイライトである善光寺も、まもなくである。(この江戸時代の旅日記を現代語に訳し、必要な箇所では解説を入れた)

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214日岡田宿(長野県松本市)→小見宿(麻積:おみ、長野県東筑摩郡麻積村)約34km

(岡田宿)ここにて雪と雨が降った。次に安田峠がある。三十町(約3.3km)のぼり、上に茶屋が四軒ある。(峠の)下りは二十町(約2.2km)ある。

 刈谷原宿(旧四賀村、松本市)へ一里半。ここより(長野善光寺方面ではなく、東側の中山道の帰り道である)上田町に手荷物を回して(回送)もよい。

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(藤池百体観音)

 会田宿(同)へ一里十町。吉川屋吉蔵にて昼食、64文。この間に立峠(岩井堂立峠)があり、のぼりは一里、右側に喜一塚(松澤喜一塚:現存)がある。次、左に大きな岩山があり、ここに寺があり、百観音(藤池百体観音、松本市四賀)がある。ここより難所である。

 

 藤池百体観音であるが、江戸時代に、各地の三十三番札所めぐりが流行した。これは、観音が人々を救う際に、33の姿に変化することにちなみ、各地に33の札所が設けられ、これを巡礼するもの。当時、巡礼のため旅立つことはなかなか難しかったことから、藤池の百体観音は、西国三十三番・秩父三十四番・板東三十三番の札所にちなみ、百体の観音が作られたそうだ。

 

 青柳宿(長野県東筑摩郡筑北村)へ三里。

この間に岩谷の切通し(大切通し)があり、15間(27.3m)の間、ここに百観音があり、さらにまた(300m程度、麻績方面に進むと)切通し(小切通し)がある。

 

 この切通しは、善光寺街道随一の名所である。天正八年(1580)に青柳伊勢守頼長により切り開かれた。元禄十一年(1698)には「長さ十三間五尺、横八尺五寸、高一丈」と記され、その後享保元年(1716)、明和六年(1769)、文化六年(1809)と三回にわたって工事が行われた。周辺には百体観音が安置されていた。この先には小切通し(麻績村境)がある。

 二つの切通しの開通により通行が容易になり、「善光寺街道名所図会」には「是(これ)に依て旅人堵も并(とも)に牛馬の往来聊(いささか)も煩(わずら)はしき事なく野を越え山を越して麻績(おみ)宿に至る」と記されている。現在の大きさは長さ27m、幅3.3m、高さ6m

 

 小見宿(麻績宿:おみしゅく、長野県東筑摩郡麻績村)へ一里十町。左側の旅籠・宮尾弥四郎に214日宿泊。宿泊代148文。

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215日小見宿(麻績宿、長野県東筑摩郡麻績村)→善光寺(長野市大字長野元善町491-イ)約32km

小見宿(麻績宿)より猿ケ馬場という峠があり、のぼると池が右にある。ここに名物の柏餅があり、一つ3文である。(猿ケ馬場の柏餅は、広重の「二川」にもあるが、これは東海道、静岡の話で、別件である)雪道で難所である。

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(真田帯)

 次に中村、ここに「さなだ帯」(を売る店)がある。また、桑原村(長野県更埴市)にも同じ帯がある。それより稲荷山へ行く。

 

 猿ケ馬場峠(さるがばんばとうげ)は長野県千曲市と東筑摩郡麻績村を結ぶ峠である。標高は964m。最難関の峠道であるとされた。善光寺への重要な参詣路の1つだった。松本城下と善光寺を結び、古来から物資はだけでなく、多くの文人墨客、武人らが通行したという。

  

 稲荷山(長野県長野市)へ三里。ここには茶屋が多い。篠ノ井追分(同)へ一里。右側のひしや丈次郎にて昼食、72文。この店(旅籠か茶屋)に手荷物を置き(一人前6文を払う)、善光寺へ参詣いたし、またここへ帰った。

 

 篠ノ井追分宿は、幕府が制定した宿場ではないが、塩尻方面から善光寺へ到る善光寺街道と北国街道との分岐点にあたる間(あい)の宿で、茶屋が繁盛したという。

 

 丹波嶋(丹波島、長野県長野市)へ二里。丹波川三瀬つなくりにて(渡るのに)船賃52文を出す。

 

 丹波島宿は、善光寺を目前に犀川超えの渡しを控えた宿場。現在の丹波島橋南詰が、かつての渡し口。渡し舟は、「つなくり」といって岸から岸へ渡した綱をたぐりながら進んだ。  

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 善光寺へ一里。(善光寺の)前町の旅籠・藤屋平左衛門に215日宿泊。宿泊代164文。

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昭和の中華食堂《生駒軒》@浅草雷門「麻婆豆腐」

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 浅草雷門で「麻婆豆腐」を食べた。ラー油と唐辛子が効いている。山椒は使わないらしい。豆板醤や甜麺醤(てんめんじゃん)も隠し味で入る。まっ、それでも日本的な味で、そこそこうまい。定食で750円。

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 ところで《生駒軒》は、昭和47年(1972)頃から約40年も変わらずに店を構えているそうだ。跡継ぎがいないので、改築もしない「昭和の中華食堂」だ。

 レトロな店内は、細長くカウンター席(それもいまどき丸イス)と小さなテーブルが3つしかない。おそらくお店がきれいになったら行かないだろうと思う。

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《嘉永五年道中日記》を読む【その29】

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◆宮木宿(長野県上伊那郡辰野町)→岡田宿(長野県松本市)約378km

 (宮木宿より)このお間に川があり、12間の板橋がある。

 小野宿(上伊那郡辰野町)へ二里。この間は山あいにて人家は一切ない。それより中山道の塩尻宿へ出る。右の塩尻宿までに際し(妻子)、中山道の宿場を記す。

 

 みどの宿へ一里半。野尻宿へ二里半。須原宿へ三里九町。この間に浦島太郎の遺跡あり。ならびに、ねざめそばの名物あり。上松宿へ二里半。この間に木曽のかけはしあり。ここに発句(俳句)がある。

 掛橋や命をからむ蔦かづら(松尾芭蕉)

 福島宿へ一里半。この間に御関所あり。次にこの場所に木曽義仲の城跡あり。

 宮の越宿へ二里半。薮原宿へ一里半。ここに鳥居峠あり。奈良井宿へ一里半。贄川(にえかわ)宿へ二里。本山宿へ三十町。千場宿へ二十六町。塩尻宿へ一里。郷原宿へ一里半。村井宿へ一里半。(以上)右は小野宿からの距離。

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(寝覚の床 上松町観光協会)

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(越前屋そば店 歌麿)

 寝覚めの床(上松)の景色はすばらしい。奇岩である。この近くにそば屋がある。「嘉永元年創業 越前屋そば店」(長野県木曽郡上松町上松寝覚1710TEL0264-52-2081)である。

 

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(英泉 塩尻)

 塩尻宿へ二里。左側の角、旅籠・升屋惣右衛門にて昼食、64文。

 

 出川宿へ三里。この間に板橋三ヶ所あり。それより松本。

 松本町へ十八町。この町の入口にて小休止する。石高6万石、松平丹後守の御城下(松本城)である。この所に浅間という場所がある。そこに湯治場があり、よい所である。

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(松本城 新まつもと物語)

 松本城は、すばらしい。実に素朴なよさがある。そして浅間温泉。派手さはないが、なかなかよい温泉場だと思う。

 

 岡田宿(長野県松本市)へ一里。旅籠・大坂屋吉右衛門にて213日宿泊。宿泊代148文。

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《東京メトロ》マナーポスター「なぜ気づいてくれないの?」

 メトロのマナーポスターである。

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 なぜ気づいてくれないの?必要な人がいるのに。

Please pay attention when sitting in the courtesy seat, so someone who needs it can sit down.

 優先席は必要とされるお客様へお譲りください。

Please offer the courtesy seat when someone else needs it.

 おっしゃるとおりだ。こんなポスターが存在すること自体、世も末である。

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《嘉永五年道中日記》を読む【その28】

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211日勝負平(長野県飯田市)→飯嶋宿(長野県上伊那郡松川町)おそらく約40km

中山道を離れ、三州街道(伊那街道)を行く。(勝負平より)八町ほど下ると、御関所(阿智村)があり、一の瀬村という。ここに12間の板橋があり、それより女廻り道(女が歩く迂回路)がある。

 

 飯田町(長野県飯田市)へ百町。石高17千石、堀大和守の御城下(飯田市追手町)である。

 

 市田村(長野県下伊那郡高森町)へ一里八町。山吹追分(同)へ一里。山吹新田(同)へ十町。ここにて信州名物のそばを昼食に食す。72文。小休止。

 大島宿(長野県下伊那郡松川町)へ二十町。ここには宿屋が多い。

 片桐宿(同)へ十六町。この間に与田切川という川があり、その川は天龍川に注ぐという。

 

 現代のような「そば」、そば切りの歴史を調べると、信州と甲州の両方に発祥説があるそうだ。信州説は、 正保二年(1645)刊行の俳書「毛吹草」に、「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」とあり、また、松尾芭蕉十哲の一人、森下許六が宝永三年(1706)に出版した「本朝文選」(のちに「風俗文選」に改題)には、「蕎麦切りといっぱ(いうのは)、もと信濃ノ国本山(もとやま)宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」

 という、許六の弟子・雲鈴による記述がある。

  甲州説は、 尾張藩士天野信景による雑録「塩尻」(宝永年間=17041711)に、「蕎麦切りは甲州よりはじまる。はじめ天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食(めし)を売に米麦の少なかりし故、そばを練りてはたご(旅籠)とせしに、その後うどむを学びて今のそば切りとはなりしと信濃人のかたりし」とある。

 参考:「物語 信州そば事典」(中田敬三/郷土出版社)、そば総合情報サイト そばなび

 

飯嶋宿(長野県上伊那郡飯島町)へ二里。旅籠・扇屋角右衛門にて211日宿泊。宿泊代150文。

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212日飯嶋宿(長野県上伊那郡飯島町)→宮木宿(長野県上伊那郡辰野町)約37.7km

(飯嶋宿より)坂をのぼり広い平地になる。中田切川がやはり天龍川(天竜川)に注ぐ。

 上襖宿へ二里。この間に大田切川(太田切川)があり、この川も天龍川に注ぐ。

 

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(天龍峡 南信州ナビ)

 宮田宿(長野県上伊那郡宮田村)へ一里。この間に大田切川(太田切川)があり、この川も天龍川に注ぐ。次にをくろ川、10間の板橋がある。

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(高遠城 城門)

 

 稲部宿(長野県伊那市)へ二里。ここに宿屋は多いが茶屋はない。次に坂下という所、ここに茶屋がある。松屋徳兵衛にて昼食64文。ここは追分である。右は甲州江戸道で左は善光寺へ行く道である。それより右へ二里半ほど、高遠の御城下(高遠城)があり、石高33千石、(城主は)内藤駿河守である。坂下村のはずれに禅円寺(所在不明)、ここにお堂があり、西国秩父と坂東百番の観音がある。

 

 木の下宿(長野県上伊那郡箕輪町)へ二里。松嶋宿(同)へ三十町。この間の宮木入口に諏訪大明神が右の方にある。

 

 宮木宿(長野県上伊那郡辰野町)へ二里。右側の旅籠・上田屋儀右衛門にて212日宿泊。宿泊代148文。

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《神谷バー》の車内広告

 最新の東武スカイツリーライン(東武伊勢崎線)車内限定の広告は、

「電気ブラン+身の上相談」である。

下のコメントは「かなりいい加減です。」となっている。

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 さすがに神谷バーは、いつもごったがえしているので、深刻な話をする人はまずいない。身の上話をしても、きいている方は酔ぱらっていて、とてもまともには取り合わないだろう。それえほど電気ブランは、効く。私は3杯飲んで歩行不能になったことがある。しかし飲みやすいのである。

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《嘉永五年道中日記》を読む【その27】

29日 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)→中津川宿(岐阜県中津川市)約44.5km

 前日大雨が降った。それより十本峠がある。次に津馬瀬村藤上坂があり、きず薬を売る店がある。この店は。源三位・政公の屋敷跡から出たという。

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(広重 細久手)

 細久手宿(岐阜県瑞浪市)へ三里。この間に、くしざしもちを売る店あり。二つ刺し6文、名物である。

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(広重 大久手) 

大久手宿(大湫:おおくて宿、岐阜県瑞浪市)へ一里三十町。昼食64文。

 それより十三峠、ここに櫛屋があり、瀬戸物を焼く所がある。次にまきかね村、ここは立場(宿場の人馬の継ぎたて・交代をする場所)である。右側に大神宮様(所在不明)の石の灯籠があり、続いて坂がある。左側に西行法師の塚(西行塚、岐阜県恵那市長島町中野)がある。少し行くと、かけこしに出る。下って大井、24間の板橋がある。

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(広重 大井)

 大井宿(岐阜県恵那市)へ三里。この間に中津川、板橋32間である。これは(幕府の)天下普請である。次に土橋がある。

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(広重 中津川)

 中津(中津川)宿(岐阜県中津川市)へ二里。左側の旅籠・小松屋半次郎に29日宿泊。宿泊代132文。

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(栗きんとん すや)

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 中津川といえば、現代では「栗きんとん」である。名店がいくつかあるが、和菓子の中では一番好きな部類だ。江戸時代に存在したかどうかはわからない。

210日 中津川宿(岐阜県中津川市)→勝負平(長野県飯田市)※距離不明:「勝負平」が特定できない。飯田市の中心部で距離計算すると、この日の行程は60km以上になってしまう。雪の中、無理をしても徒歩だと140kmが限度と考えられる。

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(広重 落合)

 落合宿(中津川市)へ一里五町。ここに川があり20間の板橋がある。次に十石峠があり、登り下り五町。落合より二十二町登って茶屋があり、ここで狐こうやく(膏薬、名高い薬)を売っている。ここは、濃州・信州の国境である。

 「狐のこうやく」には、山中薬師と呼ばれる瑠璃山医王寺(中津川市落合1423-2)に伝わる伝説がある。

 昔々、山中の医王寺で和尚がいつものように庭掃除をしていると、狐が苦しそうにしているのを見つけた。抱き上げると、その狐の足には大きなトゲ。和尚がそれを抜いてやると、狐は嬉しそうに和尚の顔を見た後、山の中へ消えていった。ある晩、玄関の戸をたたく音がするので戸を開けると、そこにはこの間の狐がいた。助けてもらったお礼にと、狐はよく効く膏薬の作り方を教えに来てくれたのであった。和尚は教わったとおりに膏薬を作り、腰に貼ってみると、いつもの腰痛はどこへやら。喜んだ和尚が「御夢想狐こうやく」という看板を掲げて膏薬を売ると、村人はもちろん、遠くからわざわざ

買いに来る人が絶えなかったという。

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(英泉 馬籠)

 馬籠宿(旧長野県木曽郡山口村→2005年岐阜県中津川市へ編入)へ一里半。次に峠がある。それより下って元妻子という場所がある。橋場に茶屋がある。橋本屋、昼食64文。

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(広重 妻籠)

 妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)へ二里。それよりすぐ、みとのへ行く。この橋場より飯田道がある。右に入る道は女海道という。この間に峠がある。

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(妻籠宿 南木曽町観光協会)

 馬籠や妻籠には何度も行った。いまなお江戸時代の街道筋の街並みが残る。考えてみれば、この宿場は、いまでこそ観光客であふれているが、昔はあたり前のように山の中の静かな場所であったと思う。 

 蘭村(同)へ一里。ここは刺櫛(髪に刺す櫛)を多く生産している所である。

 廣瀬村(同)へ一里。ここには、あじろがさを作る所がある。それより木曽峠、ここに木曽領分と飯田領分の境がある。このとき雪が多く、五尺(約1.5m)ほど積もった。

 大平村(おおだいら、長野県飯田市)へ三里。ここもヒノキの網代笠を作る所である。それより飯田峠で、五十町である。

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 網代笠は、ヒノキをはじめ、タケ、マツ、スギ、イチイなどの経木(きょうぎ)を網代に組んでつくる笠で、平組みと綾(あや)組みの2種類がある。ヒノキの網代笠は、ヒノキガサ、ヒノキダマとよばれ、古く大和(やまと)国の大峰の修験者がもっぱら着装したので、ギョウジャガサともよばれた。その形態は円錐形で、現在は、軽快な日よけ笠、雨よけ笠として、おもに農山村で男子が着用している。

 勝負平村へ一里。左側の旅籠・中屋多兵衛に210日宿泊。宿泊代150文。

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