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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その9】

1229日、30日、11日伊勢3泊 御師・三日市太夫次郎邸滞在

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1229日、山田町 三日市太夫次郎邸に八つ時(午後2時~3時頃)に到着する。(一行)18人にて、(初穂料・宿泊代など)5両(約30万円)を払う。ほかに一人前200文(2,000円~3,000円)の山役銭(入山料・通行料を指すが、多分にチップの意味合いがある)を払う。御師より(名所旧跡を巡る)案内人を出してくれるそうだ。

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(おすぎお玉:伊勢名所図会より)

■外宮より内宮へ五十町。両宮とも南向きである。(外宮と内宮の間のあいの山には)おすぎお玉(小屋掛けをして歌や三味線を弾く女芸人)が多い。

 

■内宮より朝熊山(あさまやま)へ七十二町。(同行の)御師益谷大夫(手代?)に金二朱(16万円として、1朱=1/16両なので、約7,500円)を払う。

晦日(1230日)に外宮へ参詣し、末社も多い。それより天岩戸へ参り、続いて阿古根稲荷、鳥居が多い。それより内宮へ参詣し、次に朝熊山へ参詣する。

■朝熊山、本尊は虚空蔵である。ここに萬金丹の本家(野間家)がある。ここより五町ほど下って、豆腐屋喜右衛門(旅籠・茶屋)にて昼食、これは御師のご馳走である。

 

萬金丹は朝熊山で作られた薬で、胃痛、腹痛、解毒、気つけ、そのほかの諸症状に効く便利な薬であった。

なかでも、朝熊山の金剛証寺の門前の野間家の「萬金丹」は朝熊詣でに欠くことのできない伊勢土産品になり全国にその名を広めた。

 明治維新によって西洋医学が登場するまで、伊勢の萬金丹は全国の家庭や旅の常備薬としてもてはやされていた。

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(二見が浦:志摩市観光協会)

左は御師道(山田方面)、右は二見ヶ浦への道である。それより少し下って二見が浦への近道がある。それより御師邸へ戻り、宿泊する。

 

■午(うま)年正月一日(11日)、外宮と内宮へ参り、それより御師邸へ帰り、町々へ遊びに出る。

12日、二見が浦へ御師邸より百町。二見町松坂や新助にて昼食。ここに立岩が二つあり、しめ縄を張ってある。戌亥の方(北西)の岩は大きく、辰巳の方(南南東)の岩は小さい。少し手前に岩穴がある。それより御師邸に帰り、出発致した。

 

 三日市大夫次郎(みっかいちたゆうじろう)は、山田の代表的御師(おんし)で、檀家数は35万戸から50万戸といわれる。檀家の所在地は、関東から東北、遠くは北海道松前や佐渡も含まれる。江戸や京都も含まれる。各地に御師の手代が派遣され、檀家を増やしていた。また伊勢神社を勧請したこともあったようだ。

 

 伊勢参宮には江戸中期で年間100万人が訪れたという。また御師の数は、江戸中期600から700家を数えたそうだ。御師は、自宅を宿坊として参宮者を泊めていた。三日市太夫次郎邸宅跡は、伊勢市岩渕一丁目224号、伊勢税務署北付近。

 

 御師の活動としては、各地を回って、「伊勢講」の信者たちへの大神宮の神札・お祓い札(大麻:たいま)の配布がある。檀家が伊勢に参って天下泰平、五穀豊穣の祈願をすべきところを、御師が代行して祈願した証を配る。さらに大麻に次ぐ商品として、音物(いんもつ)と呼ばれた伊勢みやげの販売があった。伊勢暦、伊勢おしろい、杉原紙、鳥子紙、炭、帯、櫛、海苔、茶、干し鮑など軽量で運びやすい品々である。いずれにせよ、御師の手代が、各村々を回り、布教活動を広めていったわけだ。

(参考:「江戸時代と伊勢参り」神崎宣武)

 

 各村々にあった「伊勢講」は、本来、伊勢神宮を信仰する宗教的な意味があったが、次第に伊勢へ旅する互助会的な組織に変貌する。農民・庶民たちは、毎月一定額を積み立てる。抽選で1年か2年ごとに、村から何人かが、その積立金で伊勢への旅に出る。この伊勢講の成立にも、おそらく御師の営業活動が深く関係していただろう。

 

 さて、檀家が山田の御師宅に到着すると、まず清めの入浴。髭を剃り、月代(ささやき)を剃って髪を整え、羽二重の着物に着替える。夕食は大変豪華なもので、鯛、鮑(あわび)、海老などが食卓に並んだ。上等な灘の酒も付く。御師の館では、神楽も見学した。そして絹の布団に寝た。

 翌日は、外宮や内宮などの見学で、これも御師が案内人を付け、時には駕籠を使うこともある。出先の昼食も御師の手配で、古市の遊郭で遊ぶのも手代が付き添い案内したようだ。

 檀家の国許への土産は、手代が宅配の手配をし、帰りには宮川まで手代が送り、茶屋で別れの酒宴を開く。これだけの徹底したサービスであるため、庶民は法外な料金を納得して払ったのであろう。

 

 したがって「御師」は、地方への営業展開をして、伊勢へのツアーを造成する旅行業者でもあり、宿泊業者でもあった。しかも伊勢では、船や駕籠の手配や昼食の手配、案内人の手配もおこなう。オプションとして古市の遊郭手配もある。萬金丹の店では、販売手数料も稼いだに違いない。そういった意味ではまさに「総合旅行業者・観光業者」の先駆けでもあった。

 

 ところで伊勢神宮であるが、外宮が豊受大御神(とようけおおみかみ)をお祀りしている。豊受大御神は食物・穀物を司る神である。衣食住から、ひろく産業の守護神としてあがめられている。内宮は皇大神宮ともいい、御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、つまり皇室の御祖先の神で、日本人の総氏神とも言われている。

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(三日市大夫次郎邸復元図 穂積和夫:季刊大林より転載)

  三日市大夫次郎邸の敷地は、間口約55m、奥行約130m、総面積約1800坪(5,940㎡)。建物の総床面積は約800坪(2,640㎡)あった。

 

 門前両脇には、隅櫓(すみやぐら)を設け、大きな長屋門を構え、屋根を連ねていくつもの棟が建ち並んでいた。

 客室棟は5棟あった。神楽殿もあった。古図面の調査によれば、客室は広さ4畳から16畳の部屋が32室あり、ほとんどが庭に面していたようだ。

 客室の総畳数は広間と廊下を除き288.5畳。この数値から、豪華な絹の布団を敷き、ゆったり余裕をもつために、一人3畳を必要とすると仮定して、約96名分となる。

 農閑期の正月から4月までの4ヶ月間に、伊勢参宮が集中したということから、(4ヶ月で120日間で96名×120で)三日市大夫次郎邸には少なくとも約12,000人が宿泊したと推測できる。

 

 ところで、現代の観光旅館の収益構造は、宿泊料67%、飲食代(宴会費)14%、売店10%、その他付帯収入9%となっている。(本間和幸「ホテル・旅館業界レポート」平成13年の例)圧倒的に宿泊料の占める割合が多い。

 ところが御師邸の収益構造は、初穂料64.9%、神楽料21.9%、止宿料(宿泊料)13.2%となっていた。(三重大学・菅原洋一氏の研究)初穂料は文字通り、伊勢神宮へ納める金銭の意味合いのため除外すれば、「神楽」のために支払う金額が、宿泊料よりも多いことがわかる。これは、正直なところ驚いた。

(参考:「季刊大林」№43 『御師』1998年、この詳細な研究が大いに役に立った。

■三日市大夫次郎邸に見る近世伊勢御師邸建築/菅原洋一 、■伊勢信仰のシンボリックな建築 御師『三日市大夫次郎』邸の想定復元  建築監修:菅原洋一、復元:大林組プロジェクトチーム)

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