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2012年11月の32件の記事

昭和の中華食堂《生駒軒》@浅草雷門の「回鍋肉(ホイコーロー)」

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 炒めた豚肉が主役で、ニンニク、生姜に豆板醤、味噌などで味付けをする。キャベツや白菜がおいしい。やや辛い気もするが、ごはんが進むのである。生駒軒では「A定食」といって、スープにお新香、ライス付で750円。

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 本来の中国の回鍋肉は、ニンニクの芽を使い、かなり辛い豆板醤を使うそうだ。これが日本的に変容したようだ。まずは、おすすめの料理である。

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浅草《宝来楼》季節の「牡蠣そば」

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 浅草(東京都台東区浅草1-1-7TEL03-3841-3796)の老舗《宝来楼》で、この時期だけの「牡蠣(かきそば」を食べた。1,080円。

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 生牡蠣に片栗粉をからめたあんかけラーメンである。しいたけ、にんじん、長ネギもいい。この店は鶏ガラでしっかりダシをとっているので、スープもうまい。麺は自家製のタマゴ麺で歯ごたえがよい。熱々をたべ暖まった。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その14】

110日かむろ(和歌山県橋本市学文路)→高野山(和歌山県伊都郡高野町)約25km

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■(かむろ)ここにかるかや石塔古跡がある。

■かねより一里。この間に廿間の橋がある。

■かみや(伊都郡高野町西郷神谷)より六十町。ここに(高野山の)宿坊より迎えが出て、茶屋にて御馳走に酒を出す。ここより宿坊まで案内人がつく。それよりだんだん(道がきつく)難渋する。次に親ふみ子ふみという岩がある。それよりいろは坂といって四十八町の内に四十八曲がりがある。この上に清めの不動がある。次に女人堂があり、それより女人禁制である。

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高野山細見大絵図より高祖院 江戸時代)

110日、高野山(和歌山県伊都郡高野町) 二階堂高祖院に宿泊。ここまで四ツ時(午前11時頃)到着。これより案内人がつき、(高野山の山内をめぐる)奥の院へ行く道に、右にじゃ柳がある。次に姿見の井(井戸)、それより大名衆の石塔がならぶ。次にむぎうの橋(御廟橋か)、川を日本六玉川(玉川)という。それより弘法大師堂(弘法大師御廟)は南向き、ご朱印25千石。(高野山には)宿坊の数は600軒。弘法様(奥の院)より帰りの時、橋がある。それより四町ばかり南に大きな伽藍(壇上伽藍)がある。それより宿坊に帰り、先祖代々のために金一分と百文(一分は1/4両なので約15,000円と1,000円で16,000円)を出して位牌を立て(拝んでいただき)10日の夜、焼香いたした。(高祖院、和歌山県伊都郡高野町大字高野山580

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(弘法大師御廟 高野山観光協会)

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(壇上伽藍 高野山観光協会)

11日の朝、出発。

111日高野山(和歌山県伊都郡高野町)→三日市(大阪府河内長野市三日市町)42km

 

■三軒茶屋より一里。松屋惣八にて昼食、48文。この間に紀伊川、船渡し12文。

■橋本より二里。ここに紀伊と河内の国境がある。

■若井峠(紀見峠)より二里。

111日、三日市(大阪府河内長野市)より三里。旅籠・油屋庄兵衛に宿泊。宿泊代180文。

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 高野山は標高1,000mに広がる宗教都市である。平成16年(2004)に「紀伊産地の霊場と参詣道」として世界遺産(文化遺産)に登録されている。実際に行くと、こんな山奥に見事に町ができていて驚く。幼稚園から大学まである。弘法大師・空海が開いた真言宗の修行の場であるが、いまなお独特の宗教文化を伝えている。

 また宿坊に三度ほど泊まったことがある。部屋、トイレ、風呂などそうじが行き届き、気持がよい。精進料理の食事もおいしい。般若湯といって、酒やビールも飲めるからうれしい。いま朝の勤行も強制ではない。すがすがしい気持になるためにも、宿坊に宿泊することをおすすめしたい。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その13】

18日当摩寺(奈良県葛城市當麻)→吉野(奈良県吉野郡吉野町)約29km

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■二條山當麻寺、ご朱印300石、本尊は蓮の曼荼羅。開帳(拝観)するのには1組につき100文。

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(当麻寺 葛城市提供)

 

 當麻寺(当麻寺、奈良県葛城市當麻1263)は山号二上山、高野山真言宗、浄土宗。

本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、中将姫が写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、中将姫を常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっているそうだ。

 

■高田(奈良県大和高田市)より五十町。ここに京都門跡の出先がある。

■八木(奈良県橿原市)より一里。この間に右に天香具山、左に耳成山が見える。

 

 大和三山である。奈良県北部、橿原(かしはら)市にある畝傍山(うねびやま、199m)、天香久山(あめのかぐやま、152m)、耳成山(みみなしやま、140m)。奈良盆地の南部に藤原宮跡を囲むように、北の耳成山を頂点として三山がある。

 

■安部(奈良県桜井市)より一里。ここに文殊菩薩(安倍文殊院、奈良県桜井市阿部645、安倍山、華厳宗、本尊は文殊菩薩)がある。堂は南向き、ご朱印30石。堂の右に奥行き四間ばかりの岩穴があり、中に弘法大師がつくった地蔵がある。それより南に文殊の加持井戸がある。

 

 この安倍文殊院は、陰陽師・安倍晴明の出生地とも陰陽道の修行をした場所とも伝わっている。獅子に乗った木彫極彩色の本尊文殊菩薩は、快慶の作。総高7mあり文殊様では日本最大で重要文化財に指定され、学問、智恵の授かる仏様として知られ、受験生の参拝も多く見られるそうだ。

 

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(飛鳥坐神社 JR西日本)

■あすかより八町。ここに大神宮(飛鳥坐神社:あすかにいますじんじゃ、奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708)がある。これは六ヶ村の氏神様であり、末社が88箇所ある。

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(橘寺 明日香村地域振興公社)

■立花寺(橘寺、奈良県高市郡明日香村大字橘、天台宗、正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」、本尊は聖徳太子・如意輪観音)より八町。ご朱印6石。ここは聖徳太子の誕生所である。

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(岡寺 明日香村地域振興公社)

■岡寺(奈良県高市郡明日香村806、真言宗豊山派。山号は東光山、寺号は龍蓋寺:りゅうがいじとも称する。本尊は如意輪観音。西国三十三箇所第7番札所)より五十町。薬や源太郎にて昼食、80文。(岡寺は)ご朱印30石、奥の院に、るりの井戸がある。

■多武の峯(多武峰談山神社:たんざんじんじゃ、奈良県桜井市多武峰319)より八町。この場所は女人禁制。本社(本殿の祭神は)藤原鎌足公である。神社には仏様も多い。東照権現があり、ご朱印3千石。宿坊は42箇所、十三重の塔がある。(寺の)前の茶屋へ荷物を預けて参詣すべし。

 

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(談山神社 オンラインアルバムZorg)

 談山神社は、明治初期の神仏分離以前は寺院であり、「多武峯妙楽寺」といった。当時は、女人禁制の地で、女性は入山できなかった。神社の祭神は藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。桜と紅葉の名所である。徳川家康により3千石を寄進され復興し、本殿は日光東照宮造営に際してモデルとなったことは知られている。しかし、ここに家康を祀った東照権現があったかどうかは定かではない。

■四軒茶屋(奈良県桜井市)より一里半。ここにて大和の国、一目に見えて風景がよい。この間に高取の城が見える。植村駿河守のお城で石高3万石。

■龍の畑より一里。この間に千股峠(奈良県吉野郡吉野町千股)があり、上り下りで十八町。

■上市(奈良県吉野郡吉野町)より一里。ここに吉野川、桜の渡しがあり、渡し賃は一人前10文。ここにて左に芋山、右に瀬山が見える。この間に桜が多い。

18日、吉野(同)より一里。旅籠・福知や政之丞にて宿泊。宿泊代180文。

 

19日吉野(奈良県吉野郡吉野町)→かむろ(和歌山県橋本市学文路)約37km

 

■(吉野)ここにかねの鳥居がある。次に蔵王大権現堂、十八間(32.7m)四方で南向き、柱は72本。一本つつじの柱がある。この木のまわりは8尺(2.4m)、長さ(高さ)は31尺(9.4m)ある。ご朱印は1100石余り。宿坊の数は百軒、古跡やお参りする所が多い。源義経公の駒(馬)つなぎ松や駒の足跡が岩に残る。弁慶が石に釘を通したものが光っている。楠公の陣鐘がある。

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(吉野 金峯山蔵王堂 吉野山観光協会)

 吉野山と義経については、数々の物語がある。要約する。木曽義仲を討ち、一ノ谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦などで功をあげた義経に対し、兄・頼朝は、弟の活躍を喜ぶどころか、自分の身が危うくなるという危機的心情にあったようだ。やがて頼朝は義経追討の兵を出す。追い詰められた義経は、静御前や弁慶などの家来を連れて吉野へ。おなかに子を宿していた静御前は、京に返すことにした。(実際には鎌倉まで連れて来られ、出産したものの、子は殺される)

 やがて吉野山を下ることに決めた義経は、奥州を目指す。頼朝が敷いた広く強固な包囲網のため、義経の逃避行に用意された地は、理解者・藤原秀衡が統治する平泉を措いて他になかった。しかし秀衡の病死。もはや義経は、自害するしかなかった。

 

■月田(奈良県吉野郡吉野町)より一里。吉野川、柳の渡し、一人前10文。

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(吉野川 五條市観光協会)

■六田(同)より一里。

■土田(奈良県吉野郡大淀町土田)より一里。この間にかのう筆拾の岩が吉野川の中にある。

■阿田(奈良県五條市)より一里。この間にうの(宇野)峠があり、上り下り廿町ほどである。

■右野(奈良県五條市宇野)より一里。

■五條(同)より二里。帯や次郎兵衛にて昼食、80文。ここに天下の御陣屋(五條陣屋、代官所)があり、石高35千石。この間にま土(まつち)峠がある。峠を下って大和と紀伊の国境、川にある。

■橋本(和歌山県橋本市)より一里。この所までもどるべし。吉野川の船渡しがある。

■三軒茶や(同)より一里。

19日、かむろ(和歌山県橋本市学文路)より一里。旅籠・米や才右衛門にて宿泊。宿泊代180文。

 

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 学文路(かむろ)は和歌山県北東部の橋本市。旧学文路村。紀ノ川南岸に臨み、高野山参詣路の不動坂道の上り口にあたり、浄瑠璃で知られる石童丸(いしどうまる)にちなむ苅萱(かるかや)堂で有名。南海電鉄高野線の学文路駅があり、この駅の入場券は受験のお守りとして人気だそうだ。

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昭和の中華食堂《生駒軒》@浅草雷門で「カレーそば」

 だんだん寒くなってきた。あったかいもの、できれば汁ものを食べたい。

というわけで、《生駒軒》で「カレーそば」630円を注文。

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 この店は、ラーメンもうまい。カレーライスもうまい。だから両方ミックスのカレーそばも当然うまい。麺の分量が多いのでおなかいっぱいになる。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その12】

16日三輪(奈良県桜井市三輪)→奈良(奈良県奈良市)約18km

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■(三輪)ここに大和の国の一の宮、三輪大明神(大神神社、奈良県桜井市三輪1422)が西向きにある。ご朱印は80石。矢大臣門を出て一の鳥居がある。

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(大神神社 桜井市観光協会

 

 三輪明神、三輪神社とも呼ばれる大神神社は、日本最古の神社ともいわれる。本殿がなく三輪山そのものをご神体とする古神道の形態である。

 

 

■柳本(奈良県天理市)より一里。ここに織田大和守の城があり、石高1万石。ここに大和明神(おおやまと神社、奈良県天理市新泉町星山306)がある。

■丹波市(同)より一里。この間に岩上大明神(岩上神宮、奈良県天理市布留町384)がある。 

市の本(天理市櫟本:いちのもと)より半里。ここに観音あり。ほかに在原業平の誕生地(在原神社、奈良県天理市櫟本町市場)がある。

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(在原神社 天理市提供)

 在原業平(ありわらのなりひら)の生誕地については、諸説ある。天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸があり、在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道(横大路、竜田道)が伸びている。

 筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、  

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

■柿の本より半里。ここに柿本人麻呂の誕生地がある。

 

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(柿本寺跡・歌塚 天理市提供)

 天理市櫟本(いちのもと)町は、柿本人麻呂の生地であると伝えられ、歌聖ゆかりの歌塚が建っている。任地の石見国で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻である依羅娘女(よさみのおとめ)が持ち帰って葬ったものという。

 現在の碑は享保17(1732)に建てられた。また、このあたりは柿本氏の氏寺である柿本寺(しほんじ)の跡にあたる。(天理市)

 

■帯とけより一里。ここに帯とけ寺、子安地蔵(子安山帯解寺、奈良県奈良市今市町734。日本最古の安産祈願霊場)がある。

16日、奈良より二十八町。旅籠・ゑん判や右衛門にて昼食および宿泊。280文。

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17日奈良(奈良県奈良市)→当摩寺(奈良県葛城市當麻)約30km

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(東大寺大仏殿 奈良公園QuickGuide)

 

 (奈良)この所は名所が88か所もあり、お参りする所が多い。案内料、1組につき150文(で支払い案内人を頼む)。

 春日大明神(春日大社、奈良市春日野町160)は南向き、東大寺大仏殿(奈良市雑司町406-1)も南向きである。大仏より東に鐘堂があり、鐘のまわり二丈八尺(6.3m)、丈(高さ)一丈五尺(4.5m)、厚さ九寸五分(0.3m)。かんをふ寺(元興寺、奈良市中院町11)の塔(五重塔)は高さ廿四丈(72.7m)で登るのには6文(払う)。

大仏より南の塔(興福寺の五重塔)があり、高さは拾六丈(48.5m、実際は50.1m)。春日社に石灯籠、かね灯籠が多い。灯籠の油を一まわり付けるのに三石六斗(約649リットル)必要。鹿が多い。北を見ると三笠山がある。麓(ふもと)にかのめ石がある。春日明神けんにて二つわり(?)。それより奈良の刀という。次に手向山がある。猿沢の池には魚が多い。北に南円堂(興福寺)がある。西国九番の観音(霊場)である。庭には八重桜があり、奈良の都の八重桜という歌は、これである。(いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重:ここのへに 匂ひぬるかな)奈良名物の油煙の墨、そのほか刀の脇差があるが、何物も買うべからず。

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(興福寺五重塔 奈良公園QuickGuide)

 

元興寺の五重塔跡は、奈良時代から残る創建遺構で、寺伝によると一辺9.65メートル総高は72.7メートルで、東寺五重塔より大きいと伝えられる超大型塔があった。安政六年(1859)に、観音堂などとともに焼失。現在まで再建されていない。

 一行の旅は、安政五年(1858年)であったため、大きな五重塔が焼失する1年前に見たことになる。

奈良の土産であるが、墨はいまでも有名だ。さすがに刀はないが、包丁なども土産店で売っている。

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(牡丹獅子墨 錦光園)

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(三条小鍛冶宗近本店)

■奈良より廿八町。

■法花寺(法華寺、奈良市法華寺町882)より十八町。ご朱印300石。

■西大寺(奈良市西大寺芝町1-1-5 )より八町。本尊十一面観音、ご朱印300石。

■菅原天神(菅原天満宮、奈良市菅原町518 )より八丁。ご朱印300石。この間に謡(謡曲)にうたわれた蓬莱山の大池がある。

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(唐招提寺 もりたたろべえ)

■正大寺(唐招提寺、奈良市五条町13-46)より八町。ご朱印300石。堂の柱木を逆さにしてある。七堂伽藍がある。

■西の京(薬師寺、奈良市西ノ京町457)より一里。本尊は薬師如来である。

■郡山(奈良県大和郡山市)より一里。ここに松平甲斐守の御城があり、石高15万石。ここに源九郎稲荷源九郎稲荷神社、奈良県大和郡山市洞泉寺町15)、大和で一番である。ご朱印30石。この間にとみこ川、昔話のじじばば洗濯川という川がある。

■小泉(同)より十八町。ここに片桐石見守の御城がある。石高1万石。入口に庚申(金輪院小泉庚申堂、大和郡山市小泉町834)があり、これは大和一という。

■法龍寺(法隆寺、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1)より八町。ご朱印1300石。ここに峯薬師がある。(法隆寺は敷地が広く)四町四方にお参りする所が30か所もある。一本の杉を掘りぬいてつくった仁王門がある。

■たつた(龍田、生駒郡斑鳩町)より一里。黒屋伊兵衛にて昼食、80文。たつた川、橋代2文。ここに龍田大明神(龍田神社、生駒郡斑鳩町龍田1-5-3)があり、ご朱印30石。この間に大和川、橋代2文。

■だるま寺(達磨寺、奈良県北葛城郡王寺町本町2-1-40)より二里。だるま大師(ゆかりの地)。ご朱印53石、お参りする所が多い。

■染井寺(石光寺、奈良県葛城市當麻町)より六町。本尊は弥勒、中将姫である。ここに糸かけ桜、染の井戸がある。

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(石光寺 葛城市)

慈雲山石光寺は、牡丹の寺として有名だが、中将姫(747775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある。右大臣藤原豊成(704765)の娘、中将姫は17歳で出家、当麻寺にこもるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。 そして石光寺の庭に井戸を掘り、糸を浸したところ五色に染まった。それが染の井で、傍らの桜の枝にかけたのが糸掛け桜。中将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという。

 

17日、当麻寺へ五十町。旅籠・玉や徳兵衛にて宿泊。宿泊代180文。

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東京ソラマチ《ニュー・クイック》ハンバーグ弁当とセット

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 《ニュー・クイック》のハンバーグ弁当(299円)にマカロニサラダ(118円)をつけて、さらにワンタンスープ(105円)の豪華(?)な昼食である。しめて522円(消費税込み)。

 

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 そういえば、若い頃なら、「ラーメン・炒飯(半炒飯ではない)」、「かつ丼・たぬきそば」など、セットで食べたものだ。いま考えると恐ろしくなる。まるでエンゲル係数のために働いていたようだ。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その11】

14日 大の木(三重県津市一志町大仰)→新田(三重県名張市新田)約32km

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一行は、これより「初瀬(はせ)街道」を行く。古代からの道で壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている。

 三重県松阪市の六軒から津市、伊賀市、名張市、(奈良県)宇陀市を通り、奈良県桜井市までの十四里十七町(約56.8km34日)ルートである。

■大の木(津市一志町大仰)より一里。この間に大の木川、橋代2文。次に右に大日如来あり。(一志町日置、平楽寺の木造金剛界大日如来座像)

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(平楽寺 津市観光協)

■二本木(津市白山町二本木)より一里。

■中野村(中ノ村、津市白山町)より一里。

■かへど(かいと:垣内、津市白山町垣内)より一里。

■青山(伊賀市奥鹿野)より一里。それより青峠(青山峠)三里。上に茶屋がある。ここに伊勢と伊賀の国境がある。地蔵がある。次に石地蔵、弘法大師の作であり、盗賊と犬除けである。

 岩壁に彫られた磨崖仏で、弘法大師一夜の作という伝説から、青山大師とも呼ばれている。青山峠越えの道中安全を祈る旅人に崇拝されてきた。隣に六地蔵もある。

 また地蔵の向かい側に伊賀茶屋があったそうだ。

14日、伊賀茶屋より一里。何や三右衛門にて昼食、72文。

■伊勢地(現在の表記は伊勢路)より一里。この間に左側、村の鎮守である鹿島明神がある。ここに蟲喰(むしくい)の鐘がある。大道より少し回り道になるが、寄るほどのこともない。

 この鎮守は、大村神社(伊賀市青山)であると思われる。延喜式にも記されている、由緒ある神社で、国の重要文化財に指定されている宝殿や、日本三大奇鐘のひとつと言われる「虫喰鐘」、地震の神様と言われる「要石社」などがある。

「虫喰鐘」とは、江戸時代前期につくられた鐘で、上部のぼつぼつした飾りが虫が喰ったように腐食していることから「虫喰鐘」と言われているそうだ。 

 この鐘には、ある娘がとても大切にしていた鏡を、鐘を造るときに溶かして流し込んでしまったため、娘が虫となって鐘を喰いつくすようになったとも、鐘を造る材料を全国で集めていて、ある夫婦が亡くなった娘の忘れ形見である鏡を奉納したところ、亡くなった娘の亡霊が現れて、その晩からつり鐘が、虫が喰ったようにぼろぼろと腐食してしまったとも言われている。

■安保(阿保)より一里。

 阿保宿は、上野街道と八知街道が分岐する交通の要衝であった。上野・名張とともに藤堂藩からこの伊賀の地で3ヵ所許された商業の町。

 

14日、新田(名張市新田)より一里半。旅籠・井筒や孫右衛門にて宿泊。宿泊代180文。

15日 新田(三重県名張市新田)→三輪(奈良県桜井市三輪)約44km

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■名張より一里八町。(この宿場の)出口に柳瀬川がある。

■かたか(鹿高)より一里。(この宿場の)出口に鉄砲の的場がある。この間に伊賀と大和の国境がある。

■三本松より一里。(この宿場の)入口に元が1本の三本松がある。(元々は1本の松だが、幹が3本に分かれたもの)次に峠がある。この間に大野村、五丈四尺(16.4m)の弥勒観音が岩に刻んである。寄るほどのことはない。

 大野寺は室生寺の”西の大門”。修験道の祖役行者が開き、空海が堂を建立したと云われる。

 大野寺の前にある磨崖仏は、鎌倉初期に後鳥羽上皇の発願で、興福寺の僧雅縁が刻んだもの。承元三年(1209)に落成したもの。実際の高さは13.8m  

■山辺より一里半。ここに山辺(山部)赤人の古跡(墓)がある。次に福地村、ここに小田見次郎の御陣屋があり、石高3千石。

■灰原(奈良県宇陀市榛原町)より一里半。油屋三左衛門にて昼食、80文。

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(長谷寺 JR東海)

■はせ(長谷)より一里。吉野屋平左衛門にて小休止。ここに西国八番の観音がある。(長谷寺、奈良県桜井市初瀬731-1、山号:豊山(ぶざん)、真言宗豊山派総本山、本尊:十一面観音(重要文化財)。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所。日本でも有数の観音霊場として知られる。大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所。また古くから「花の御寺」と称されている。)ほかにもお参りする所が多い。仁王門の中には京間で82間(約163m)の回廊がある。

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(長谷寺回廊 ウィキペディア)

 長谷寺の風情ある昔ながらの門前町を抜けると、仁王門である。399段の長い長い回廊を登ると、舞台造りの本堂にたどり着く。背景の山々の木々など、ここからの眺めはすばらしい。西国札所八番のこの寺は、江戸時代にも庶民の信仰を集めた、人気のスポットであったことは想像にかたくない。

■黒崎村。まんじゅうの名物がある。

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(女夫饅頭 やまとびと提供)

この饅頭は、女夫饅頭(めをとまんぢゅう)という。最近復刻製造されたそうだ。これは、かつてお伊勢まいりの要路であり長谷寺に参拝する人々でも賑わった初瀬街道の参道筋の桜井市黒崎という地域に伝えられていたもので、道行く人々が必ずお土産に持ち帰ったという。(やまとびと提供)

■しをんじ(慈恩寺)

■追分(桜井市慈恩寺追分)より十八町。ここに三條古鍛冶宗近の刀鍛冶がある。それより少し行くと三輪明神(大神神社)がある。右に行くべし。

 

 「三条小鍛冶宗近」といえば平安時代からの名刀鍛冶。徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」が知られている。

15日、三輪(奈良県桜井市三輪)より一里。旅籠・竹田屋甚七にて宿泊。宿泊代180文。

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東京ソラマチ《浅草今半》「牛肉弁当」

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 東京スカイツリーのソラマチ2階のフードマルシェ。お弁当を販売するお店がたくさんある。今日は、明治二十八年創業の浅草の老舗《浅草今半》である。

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 「味と心のお弁当」、牛肉弁当に決めた。1,050円。山形牛を使用している。さすがに今半、甘辛のやや濃い目の味付けだ。やわらかい牛肉、味のしみた焼き豆腐。冷めても十分うまい。

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 オレンジ色の掛け紙には、雷門をはじめ、正月の仲見世、5月の三社祭り、11月の酉の市、310月の金龍の舞、7月のほおずき市、12月の羽子板市のイラスト。なかなか楽しい趣向である。

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《松本竣介》薄幸の画家

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 ユニークな展覧会を開催することで知られる世田谷美術館で、松本竣介展が開催される。松本は1912年~ 1948年の生涯、36歳の若さで世を去った。心情的には同じ岩手の宮沢賢治に影響を受けたとされる。

 

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市の橋)

 どうにもならない世の中でもがきながら、決して鮮やかではない世界を描く。中には原色の赤を使った作品もあるが、ほとんどは茶色や灰色で描く。なんともうっ屈した人生であったようだ。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その10】

 幕末の安政四年(1857)、暮も押し詰まった1213日に武州所沢の下新井村(埼玉県所沢市下新井)を出発した「伊勢講」の一行。年末年始にかけて、念願の伊勢参宮を果たし旅は続く。奈良、高野山、大坂を経て、四国の金比羅へと向かう。各地で様々な名物を口にしながらの旅である。(『所沢市史 近世Ⅱ』に所収の原文を現代語訳して、ポイントに注釈をつけた)

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12日(山田)御師邸を出発 山田(三重県伊勢市山田)→明星(三重県多気郡明和町明星)約9km

■宮川(三重県伊勢市宮川) 

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(伊勢名所図会 宮川東岸)クリックで拡大

 宮川は、東国から来ても西国から来ても、伊勢に入る者は必ず渡らなければならない伊勢最大の河川であった。茶屋が並び、御師の出迎えの看板が林立し、また、めでたく参宮を終えて帰る伊勢講を送る道中歌も響いていたそうである。

■小畑(三重県伊勢市小俣町) ■新茶や(三重県多気郡明和町明星)

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(伊勢名所図会 明星)クリックで拡大

12日、明星(三重県多気郡明和町明星)

旅籠・あめや勘蔵に宿泊。宿泊代200文。

13日 明星(三重県多気郡明和町明星)→大の木(三重県津市一志町大仰)約32km

■稲木(三重県松阪市)

■松坂(三重県松阪市)、大すかや喜兵衛にて昼食、48文。

■六軒(六軒茶屋、三重県松阪市六軒町)より小川へ一里。おつや喜右衛門にて小休止。橋際にはせ(長谷)越えの道がある。それより入るばし。伊賀越えは月本まで戻るべし。この間に宮古川、橋代2文。

■小川(三重県松阪市嬉野一志町)より一里。

■はた(三重県津市一志町八太)より一里。この間に畑川、橋代2文。次に鉄砲の的がある。

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13日、大の木(津市一志町大仰)より一里。旅籠・油屋新七に宿泊。宿泊代180文。

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《池袋東口》夜景

寒くなってきた。まもなく冬である。池袋の街も夜がきれいだ。

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クリスマス的電飾街ともいえる。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その9】

1229日、30日、11日伊勢3泊 御師・三日市太夫次郎邸滞在

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1229日、山田町 三日市太夫次郎邸に八つ時(午後2時~3時頃)に到着する。(一行)18人にて、(初穂料・宿泊代など)5両(約30万円)を払う。ほかに一人前200文(2,000円~3,000円)の山役銭(入山料・通行料を指すが、多分にチップの意味合いがある)を払う。御師より(名所旧跡を巡る)案内人を出してくれるそうだ。

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(おすぎお玉:伊勢名所図会より)

■外宮より内宮へ五十町。両宮とも南向きである。(外宮と内宮の間のあいの山には)おすぎお玉(小屋掛けをして歌や三味線を弾く女芸人)が多い。

 

■内宮より朝熊山(あさまやま)へ七十二町。(同行の)御師益谷大夫(手代?)に金二朱(16万円として、1朱=1/16両なので、約7,500円)を払う。

晦日(1230日)に外宮へ参詣し、末社も多い。それより天岩戸へ参り、続いて阿古根稲荷、鳥居が多い。それより内宮へ参詣し、次に朝熊山へ参詣する。

■朝熊山、本尊は虚空蔵である。ここに萬金丹の本家(野間家)がある。ここより五町ほど下って、豆腐屋喜右衛門(旅籠・茶屋)にて昼食、これは御師のご馳走である。

 

萬金丹は朝熊山で作られた薬で、胃痛、腹痛、解毒、気つけ、そのほかの諸症状に効く便利な薬であった。

なかでも、朝熊山の金剛証寺の門前の野間家の「萬金丹」は朝熊詣でに欠くことのできない伊勢土産品になり全国にその名を広めた。

 明治維新によって西洋医学が登場するまで、伊勢の萬金丹は全国の家庭や旅の常備薬としてもてはやされていた。

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(二見が浦:志摩市観光協会)

左は御師道(山田方面)、右は二見ヶ浦への道である。それより少し下って二見が浦への近道がある。それより御師邸へ戻り、宿泊する。

 

■午(うま)年正月一日(11日)、外宮と内宮へ参り、それより御師邸へ帰り、町々へ遊びに出る。

12日、二見が浦へ御師邸より百町。二見町松坂や新助にて昼食。ここに立岩が二つあり、しめ縄を張ってある。戌亥の方(北西)の岩は大きく、辰巳の方(南南東)の岩は小さい。少し手前に岩穴がある。それより御師邸に帰り、出発致した。

 

 三日市大夫次郎(みっかいちたゆうじろう)は、山田の代表的御師(おんし)で、檀家数は35万戸から50万戸といわれる。檀家の所在地は、関東から東北、遠くは北海道松前や佐渡も含まれる。江戸や京都も含まれる。各地に御師の手代が派遣され、檀家を増やしていた。また伊勢神社を勧請したこともあったようだ。

 

 伊勢参宮には江戸中期で年間100万人が訪れたという。また御師の数は、江戸中期600から700家を数えたそうだ。御師は、自宅を宿坊として参宮者を泊めていた。三日市太夫次郎邸宅跡は、伊勢市岩渕一丁目224号、伊勢税務署北付近。

 

 御師の活動としては、各地を回って、「伊勢講」の信者たちへの大神宮の神札・お祓い札(大麻:たいま)の配布がある。檀家が伊勢に参って天下泰平、五穀豊穣の祈願をすべきところを、御師が代行して祈願した証を配る。さらに大麻に次ぐ商品として、音物(いんもつ)と呼ばれた伊勢みやげの販売があった。伊勢暦、伊勢おしろい、杉原紙、鳥子紙、炭、帯、櫛、海苔、茶、干し鮑など軽量で運びやすい品々である。いずれにせよ、御師の手代が、各村々を回り、布教活動を広めていったわけだ。

(参考:「江戸時代と伊勢参り」神崎宣武)

 

 各村々にあった「伊勢講」は、本来、伊勢神宮を信仰する宗教的な意味があったが、次第に伊勢へ旅する互助会的な組織に変貌する。農民・庶民たちは、毎月一定額を積み立てる。抽選で1年か2年ごとに、村から何人かが、その積立金で伊勢への旅に出る。この伊勢講の成立にも、おそらく御師の営業活動が深く関係していただろう。

 

 さて、檀家が山田の御師宅に到着すると、まず清めの入浴。髭を剃り、月代(ささやき)を剃って髪を整え、羽二重の着物に着替える。夕食は大変豪華なもので、鯛、鮑(あわび)、海老などが食卓に並んだ。上等な灘の酒も付く。御師の館では、神楽も見学した。そして絹の布団に寝た。

 翌日は、外宮や内宮などの見学で、これも御師が案内人を付け、時には駕籠を使うこともある。出先の昼食も御師の手配で、古市の遊郭で遊ぶのも手代が付き添い案内したようだ。

 檀家の国許への土産は、手代が宅配の手配をし、帰りには宮川まで手代が送り、茶屋で別れの酒宴を開く。これだけの徹底したサービスであるため、庶民は法外な料金を納得して払ったのであろう。

 

 したがって「御師」は、地方への営業展開をして、伊勢へのツアーを造成する旅行業者でもあり、宿泊業者でもあった。しかも伊勢では、船や駕籠の手配や昼食の手配、案内人の手配もおこなう。オプションとして古市の遊郭手配もある。萬金丹の店では、販売手数料も稼いだに違いない。そういった意味ではまさに「総合旅行業者・観光業者」の先駆けでもあった。

 

 ところで伊勢神宮であるが、外宮が豊受大御神(とようけおおみかみ)をお祀りしている。豊受大御神は食物・穀物を司る神である。衣食住から、ひろく産業の守護神としてあがめられている。内宮は皇大神宮ともいい、御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、つまり皇室の御祖先の神で、日本人の総氏神とも言われている。

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(三日市大夫次郎邸復元図 穂積和夫:季刊大林より転載)

  三日市大夫次郎邸の敷地は、間口約55m、奥行約130m、総面積約1800坪(5,940㎡)。建物の総床面積は約800坪(2,640㎡)あった。

 

 門前両脇には、隅櫓(すみやぐら)を設け、大きな長屋門を構え、屋根を連ねていくつもの棟が建ち並んでいた。

 客室棟は5棟あった。神楽殿もあった。古図面の調査によれば、客室は広さ4畳から16畳の部屋が32室あり、ほとんどが庭に面していたようだ。

 客室の総畳数は広間と廊下を除き288.5畳。この数値から、豪華な絹の布団を敷き、ゆったり余裕をもつために、一人3畳を必要とすると仮定して、約96名分となる。

 農閑期の正月から4月までの4ヶ月間に、伊勢参宮が集中したということから、(4ヶ月で120日間で96名×120で)三日市大夫次郎邸には少なくとも約12,000人が宿泊したと推測できる。

 

 ところで、現代の観光旅館の収益構造は、宿泊料67%、飲食代(宴会費)14%、売店10%、その他付帯収入9%となっている。(本間和幸「ホテル・旅館業界レポート」平成13年の例)圧倒的に宿泊料の占める割合が多い。

 ところが御師邸の収益構造は、初穂料64.9%、神楽料21.9%、止宿料(宿泊料)13.2%となっていた。(三重大学・菅原洋一氏の研究)初穂料は文字通り、伊勢神宮へ納める金銭の意味合いのため除外すれば、「神楽」のために支払う金額が、宿泊料よりも多いことがわかる。これは、正直なところ驚いた。

(参考:「季刊大林」№43 『御師』1998年、この詳細な研究が大いに役に立った。

■三日市大夫次郎邸に見る近世伊勢御師邸建築/菅原洋一 、■伊勢信仰のシンボリックな建築 御師『三日市大夫次郎』邸の想定復元  建築監修:菅原洋一、復元:大林組プロジェクトチーム)

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Lipton《Matcha milk》抹茶ミルクがおいしい

 リプトンが抹茶ミルクを新発売。

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「リプトンが厳選した宇治抹茶を100%使用。ミルクのコクの中に、抹茶の苦味が溶け込む、バランスのとれた抹茶ミルクです。」

 「上品な抹茶の香りと、ミルクの甘さで疲れたカラダをホッと癒してくれます。」

 と、説明書きにもあるように、うまい。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その8】

1228日 神戸(かんべ、三重県鈴鹿市神戸)→松坂(三重県松阪市)約37km

■(神戸)右に本田伊予の守の城があり、石高15千石。この間に鎌倉権五郎の古跡がある。

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 鎌倉権五郎こと平景正は、後三年の役(108387)の折に、眼を射られるも、自らその矢を抜いて戦ったと伝えられる武勇伝の人物。「しばらく、しばらく~」のセリフでお馴染みの歌舞伎十八番『暫』の主人公としてもよく知られている。

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(子安観音寺 提供:かんこうみえ)

■白子(三重県鈴鹿市)より一里半。ここに紀州様の御陣屋があり、石高6万石。次に菊一紋治郎刀鍛冶がある。次に白子山観世音(子安観音寺、三重県鈴鹿市寺家三丁目2-12、高野山真言宗)があり、ここにふだん桜がある。28日、そのほかに楠の木がある。

■上野(三重県津市河芸町上野)より二里。この宿場のはずれに高田門跡の立石(標識)がある。門跡の境内は広く、お参りする所が多い。

 

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(高田本山 提供:津市観光協会)

 「高田門跡」は三重県の中ほど、津市一身田町に位置し、宗祖親鸞聖人のみ教えをまっすぐに受け継ぐ浄土真宗の寺院。高田本山と通称親しみを込めて呼ばれている。真宗高田派本山。専修寺の境内には数多くの伽藍(がらん)が建ちならび、中でも一番大きな重要文化財でもある御影堂(みえいどう)は平成の大修理により平成19年に修理が完了した。

 

■津町(三重県津市)より二里。柏屋徳兵衛にて昼食、100文。ここはよい町であり、長さは72町(7.85km)。

■平田(同) ここに土橋がある。次に藤堂和泉守のお城があり、石高36万石である。ここに烏八幡宮(津八幡宮、三重県津市藤方)があり、次にかん音があり、それより岩田川、36間の橋があり、からかねきぼし(橋の欄干に唐銅擬宝珠:からかねぎぼうしが付いている)。

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(からかねぎぼし:イメージ)

■雲津(同)より十八町。ここ雲津川、舟渡し12文。

■月本(三重県松阪市中林町)より十八町。伊賀越え(の道)は、(道の)奥に(ある道標に)記してある。ここに伊賀越えと奈良越えの立石(道標)がある。

 

月本にある街道の追分は、奈良街道と伊勢街道との分岐点であり、ここには旅人や籠かきなどの休憩所であった立場(たてば)が置かれていた。

 

■六軒茶屋(三重県松阪市六軒町)より一里。ここに大和はせ(長谷)越えの立石(道標)がある。

 

1228日、松坂(三重県松阪市)より一里半。旅籠・大すかや喜兵衛に宿泊。宿泊代180文。

 

1229日 松坂(三重県松阪市)→山田町(三重県伊勢市山田)約24km

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■(松坂)ここに紀州様の御陣屋があり、石高6万石。次に28間の橋がある。次に徳和坂の石橋がある。

■櫛田(同)より一里半。くし田川の渡し14文。次にぬき川の渡し6文。

■稲木(同)。ここにたばこ入れ屋(たばこ入れを売る店)が多い。つぼや本家は、脇に稲荷社がある。

 

伊勢参宮の名物の土産として、壺屋紙の煙草入れは有名であった。

夕立や伊勢の稲木の煙草入れ 古なり光る強い紙なり (降る、鳴る、光る、強い雷) とうたわれ、江戸までもよく知られていたそうだ。 

壺屋紙とは、和紙を固め、油を引き、型押しされた擬革紙(ぎかくし)。本物の革製品のように作られた。稲木の壺屋池部清兵衛は、煙草入れよって巨万の富を得たといわれている。いまは、その屋敷跡の一部だけが稲木の伊勢街道沿いに残っている。(参考:松阪郷土史)

 

■明星(三重県多気郡明和町明星)より半里。■新茶や(同)より十八町。

■小畑(伊勢市小俣町)より十八町。この宿場まで御師(おんし)が出迎えに来る。

1229日、山田町(三重県伊勢市山田)。御師(手代?)中川安太夫扱い。八日場より十町、御師・三日市太夫次郎邸に宿泊。

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餃子で《ボージョレ・ヌーヴォー》

Photo_3 2012年もボージョレ・ヌーヴォーBeaujolais Nouveauの季節がやって来た。今年は、行きつけの中華料理店で、餃子をつまみにいただいた。

 アルベール・ビジョーのヌーヴォーである。説明書によれば、こんな感じだ。

“ブルゴーニュの名門アルベール・ビジョー社によるボーノレ・ヌーヴォー。ラズベリーを思わせるフレッシュな赤い果実の香りと軽やかな口当たり、樹齢25年以上のブドウのみを使用した、深みと複雑さのある味わいをお楽しみください。

 このPETボトルは、UVプロテクト・酸素バリア性に優れた3層の特殊加工により、ガラス瓶と同等の品質安定性を実現しています。“

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 やはり若い新酒だから、さっぱりしていて飲み心地はよい。辛口である。正直なところ、単純な飲み口ではない。

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つまみは、《生駒軒》浅草雷門の「餃子」。タレは酢に胡椒を入れ、ラー油を数滴。しょう油は入れない。この方が餃子本来の味がわかる。ワインとの組合せも意外性があり、うまいと思う。

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《やるき茶屋》ハンバーグと唐揚げ定食

どうしてもお昼は、近くで済ませたい。夜は居酒屋の《やるき茶屋》でハンバーグと唐揚げ定食を食べた。まるで若者である。800円。大盛のごはん、大きなハンバーグに唐揚げ2個。キャベツもたっぷりである。

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 外はよいお天気だ。野田首相がいきなり解散を明言して、世の中は大騒ぎである。ハンバーグなんか食べてていいのだろうか。

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《ぎょうざの満州》ラーメンとぎょうざ

埼玉県を中心に営業展開する《ぎょうざの満州》チェーンである。「ぎょうざ」は、うまいし安い。(漢字の餃子でもなく、カタカナのギョーザでもない)

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 ラーメンとぎょうざのセットで550円。お昼なら十分のボリュームである。決して「特別」ではないが、普通にうまい。庶民の味方である。

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昭和の中華食堂《生駒軒》@浅草雷門で「五目炒飯」

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 五目炒飯は普通の炒飯と具材が少し違う。見た目にはわからないが、上に「カニ缶」が載っていた。シイタケも入っていた。これで800円。(普通の炒飯は650円)

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 結論。普通の炒飯で十分にうまい。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その7】

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1226日 鳴海(愛知県名古屋市緑区鳴海町)佐屋(愛知県愛西市)→約27km

■(鳴海)ここに天林山龍福寺(天林山 笠覆寺:りゅうふくじ、名古屋市南区笠寺町上 新町 83、真言宗智山派)があり、本尊は観音(笠寺観音)である。御朱印は二町三反三畝。

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(広重 宮)

■みや(宮、名古屋市熱田区)より一里半。桑名へ行くなら海上(船)七里。ここに熱田明神(熱田神宮、名古屋市熱田区神宮1-1-1があり、御朱印1万石。ここより右へ行くべし。

 

1226日、名古屋より二里。近江屋清八にて昼食、100文。ここに尾張大納言城(名古屋城)があり、石高62万石。御天子(君主)がいる。それより城に沿って左に行き、右に金のしやちほこ(金の鯱)が見える。この間に76間の橋があり、次に26間の橋がある。

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 慶長17年(1612)、名古屋城の天守閣が完成した当時の金鯱は、一対(雌雄)で慶長大判1940枚分を溶かして使用した。純金にして215.3kgの金といわれている。高さは約2.74mあった。その後、江戸時代には藩財政悪化に伴い、三度にわたってこの金鯱の金が溶かされ、藩費に使われたため、金の純度が下がっていったそうだ。

 

甚目寺(愛知県あま市)より三里。ここに鳳来山甚目寺(愛知県あま市甚目寺東門、

鳳凰山、真言宗智山派、本尊は聖観音。別称は甚目寺観音)があり、本尊はかん音、御朱印300石。

 

■津嶋より十八町。ここに牛頭天王大社(津島神社愛知県津島市神明町1)がある。御朱印1300石、神主は13軒。

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(津島神社 津島市提供)

 由緒ある牛頭天王社の総本社として、古くから手厚く信仰されていた津島神社。江戸時代には、「津島参らにゃ片参り」と言われ、お伊勢参りの折りに、津島神社に参拝することがならわしとされていた。いまでも、尾張近郊の人々はもちろん、東北、関東の人々からも「津島さん」、「天王さん」などと呼ばれ、崇敬されているそうだ。

 

1226日、佐谷(佐屋、愛知県愛西市佐屋町)より三里。旅籠・ゑびすや藤八に宿泊。宿泊代200文。

 

1227日 佐屋(愛知県愛西市)→神戸(かんべ、三重県鈴鹿市神戸)約38km

(佐屋)ここに舟役所があり、御條目(箇条書きにした乗船時の規則)をきき、それより舟に乗る。桑名へ川舟で三里。船賃48文。この間に尾張と伊勢の国境がある。

 

三里の渡しは佐屋川から木曽川へ入り、鰻江(うなぎえ)川を通って桑名で東海道に合流する3里(約12km)の航路であった。宮宿と桑名宿の間の距離は陸路とあわせて計9里となり七里の渡しを使用する場合に比べ、遠回りではあったが、川を通るため海上に出る七里の渡しに比べれば、難破の危険や船酔いを避けることができたため、盛んに利用された。三里の渡しの名称はこの航路の長さに由来する。

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(広重 桑名」)

■桑名より三里八町。蔦や孫三郎にて昼食、100文。ここに松平越中守の城があり、石高1万石。この間に105間の橋がある。次に57間の橋がある。焼蛤(を売る店)が多い。

 

■富田村(三重県四日市市)。この間に大きな大橋がある。

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(広重 四日市)

■四日市(同)より五十町。宿場の中に大きな土橋がある。次に八幡宮(八幡神社、四日市市八幡町11-5)がある。

追分(同)より一里半。ここに右、京道と左、伊勢道の立石(石の標識)がある。

 

 「日永追分(ひながおいわけ)」という。東海道と伊勢街道の分岐点である。この旅も東海道を離れ、伊勢街道へと入って行く。

 

■高岡村(三重県鈴鹿市)。この間に85間の橋がある。

 

1227日、神戸(かんべ、鈴鹿市)より一里半。旅籠・道具や善八に宿泊。宿泊代180文。

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《ちょっといい話》韓国に修学旅行に行った在日韓国人の女学生

 【再掲載】大阪に夕陽丘高校という学校がある。弊社の大阪教育旅行支店で韓国への修学旅行を実施している。実は昨年、ちょっといい話があった。韓国の「朝鮮日報」に紹介された記事(日本語訳)をそのまま紹介したい。Photo

※2007年9月に発表しやものですが、いまでも反響が多いため、問題提起といういう意味で再度、掲載します。

 「韓国というすばらしい祖国を持ったことを誇りに思います。まだ、韓国人であることを知らない小学校3年の妹も、私のように、韓国人であることを誇りにして、生きて行ってほしいです」。

 27日、韓国観光公社が主催した韓国修学旅行感想文大会の表彰式で、『故郷への旅行』という感想文で大賞を受賞した日本大阪市夕陽丘高校2年、安井佑佳(16/韓国名:趙佑佳(チョウ・ウガ)さんは、受賞後、感想を述べながら大粒の涙をこぼした。

 佑佳さんは初め、修学旅行先が韓国だということを知り、自分が韓国人であることが“ばれる”のではないかと、心配した。他の友人たちは赤い日本旅券を持っていたが、自分が持っているのは濃い緑の韓国旅券だったためだ。

 佑佳さんが初めて自分が韓国人であることを知ったのは小学校2年の時。大阪で在日同胞の公演行事が開かれたが、担任の先生から「君も韓国人なのだから、参加してみてはどうか」という話を聞いたのである。

 佑佳さんの祖父は済州(チェジュ)道出身で、日帝により強制徴用された。日本で生まれた父の趙安秀(チョウ・アンス/48)さんは、娘に韓国人であることをあえて話そうとはしなかった。

 韓国人だという理由で不利益を受けることが過去に比べては少ないものの、自然に明かすほどでもなかったのだ。佑佳さんは何の疑いもなく自分を日本人と考えていただけに、ショックは大きかった。

 「何で私は日本人ではないんだろう」。佑佳さんは韓国人だということが恥ずかしかった。大きくなるにつれ、日本人になりたいと思った。友人にも自分が韓国人であることは話さなかった。しかし、佑佳さんは韓国で過ごした修学旅行の4日間、心の扉を開いた。

 修学旅行の初日、西大門(ソデムン)刑務所で、過去韓国人が日本人にやられたことを展示してあるのを見て、「私の祖先もこのような惨い仕打ちを受けたのかも知れない」と考えると、止めど無く涙が流れた。

 姉妹縁組を結んでいる仁川(インチョン)女子高の生徒たちや旅行会社のガイドさんに旅券を見せて韓国人であることを話すと、さらに暖かく接してくれたことも力になった。

 佑佳さんは「生まれて初めて韓国国籍を持ったことを他人に認めてもらった」と感じたという。

 この日、表彰式に出席した父の趙安秀さんは「娘が高校を卒業する前に帰化しようと決心していたが、修学旅行に行ってきた娘が韓国人であることを誇りに思い、放棄した」と話した。

 佑佳さんは受賞後、「韓国人であることが誇りに思えるようになった。私の韓国名、『チョウ・ウガ』がとても好き」と、濡れた瞳で爽やかに笑った。

 在日の人々は、いわれなき差別を受けてきた現実がある。日本で生まれたこの女子高校生は「日本人」として生きてきたが、高校の修学旅行ではじめてパスポートをとることになる。ほかの生徒のもつ日本政府発行のパスポートとは、色が違う。これは旅行業にたずさわる我々も現実に経験する。この子がつまらない差別や偏見を受けないようにと、旅行会社は韓国籍のパスポートをもつ生徒を出国手続きのとき、別の列に並ばせたり、日本の旅券と同じようなカバーをつけたりしたこともある。

 それでも彼女は違ったようだ。韓国人であることを誇りに思ったのだ。人間は肌の色や国籍で区別されるべきではない。今回の問題は、大変重たいけれど、つくづくよかったなあと確信する。

韓国修学旅行感想文大会で大賞を受賞した安井佑佳さん

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東京ソラマチ《ニュークイック》の「柚子あん和風ハンバーグ弁当」

 ソラマチ2階のフード・マルシェにある《ニュークイック》、新発売のお弁当である。柚子あん和風ハンバーグ弁当で498円。

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 大きなハンバーグに柚子風味の挽肉あんかけである。このほかには、きんぴらごぼうと大学いもが付く。ハンバーグはうまい。でももう少し野菜がほしいところ。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その6】

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1225日 御油(愛知県豊川市御油町)→鳴海(愛知県名古屋市)約43km

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(広重 御油)飯盛女が旅籠に勧誘をする。気の弱い旅人を力づくで引き入れる。 

■(御油)赤坂より三里。■藤川より一里三十町。ここに30間の土橋がある。つぎに大岡越前守の御陣屋があり、石高1万石である。

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(広重 岡崎)橋が架かる川は、矢作川(やはぎがわ)である。橋の長さは300m以上。

■岡崎より三里半十三町。ここに本多中務太夫の城(岡崎城)がある。石高5万石。次に矢矧(やはぎ)の橋、長さ208間(380m)があったが、卯年(3年前)の大水で橋は(流され)落ちてしまったため、舟による渡しで代金は3文。橋に石高1万石がある。それより行くと、右に義経公の菩提所がある。(菩提寺ではなく、義経ゆかりの寺・誓願寺、岡崎市梅園町虎石10-1

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(岡崎城 岡崎市観光協会)

■大濱村(愛知県安城市)。ここは奥州福島の領分(領地)で石高1万石の御陣屋がある。

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(広重 池鯉鮒)

■池鯉鮒(ちりゅう、愛知県知立市)より二里半十二町。ここに池鯉鮒大明神(知立神社、知立市西町神田12がある。■今川村(愛知県刈谷市)、ここに名酒がある。次に境川があり、これは三州と尾州の国境である。

 

三州は三河国(みかわのくに)。現在の愛知県の東部。尾州(びしゅう)は尾張国(おわりのくに)。現在の愛知県西部。

 

 次に今川義元と織田信長の大合戦の場所があり、ここを桶狭間という。ここにはいろいろ古跡があり、右の田んぼの中に鐙掛け松がある。

 

 桶狭間の戦いは、諸説あるが今川義元軍総勢2万を超える大軍の内、本体5000600の兵が、織田信長軍の精鋭2000の奇襲に敗れ、義元は戦死した戦である。これを機に今川氏は没落、信長は覇権を極めていったことが知られている。

 

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(広重 鳴海)商家ののれんも鳴海絞りである。

■あり松(有松)。ここでは、なるみしぼり(鳴海絞)の名物が産出される。

1225日、鳴海より一里半。旅籠・銭や新三郎にて宿泊。宿泊代200文。

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《甘太楼》の「ラーメン半チャーハン」

 「ラーメン・半チャーハン」は、東京は神田の神保町にある「さぶちゃん」(住所:東京都千代田区神田神保町2-24、定休日:日曜・祝日、営業時間:11:3015:00 / 16:2019:00、席数:カウンターのみ7席)という。おそらく終戦後、おなかの空いた学生さん相手にこの店の主人が考案したようだ。私も行くことは行ったが、満員で入れなかった。

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 スカイツリーの近く《甘太楼》(東京都墨田区向島3-46-13)で、「ラーメン+半チャーハン」800円を食べた。ここは、満員のときもあるが、少しずらして行けば大丈夫。

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 《甘太楼》のラーメンもチャーハンも昭和の味である。決して特別ではない。ラーメンには、メンマ、ワカメ、チャーシューと鶉のタマゴが入っている、麺は細い。スープは鶏ガラベース。あくまでもなつかしいラーメンである。チャーハンも普通だ。細かく刻んだチャーシュー、ナルトにタマゴくらいしか入らない。こちらも、あくまでなつかしい。

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消えた《東京スカイツリー》

 2012116日、雨に煙る1日。スカイツリーが消えた。まったく見えない。おそらく開業以来、毎日見えた《東京スカイツリー》が、視界から消えたのは、はじめてではないだろうか。

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 ちなみに普段の同じようなポジションからの写真も紹介しておく。

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《東京メトロ》なぜ ここに?車内はゴミ箱じゃないのに

東京メトロのマナーポスターである。

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なぜここに?

車内はゴミ箱じゃないのに。

Why is there trash here?

The train is not a garbage can.

車内にペットボトルや缶コーヒーの空き缶を

無造作に置いて行く若者がいる。その缶が電車の振動に合わせ、転がることもある。迷惑な話だ。きっとこの若者は、家の中でもゴミを散らかしているのだろう。

ごみは車内におかず、お持ち帰りください。

Please take you trash with you.

Do not leave it on the train.

あたり前である。観光地でも自分のゴミは持ち帰ることが、常識になっている。

しかし常識が通じない世の中でもある。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その5】

1223日 戸倉(静岡県浜松市天竜区龍山町戸倉)→大野(愛知県新城市大野)約37km

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■(戸倉)この間に天龍川(天竜川)があり、舟で渡る、一人前18文。それより難所である。

 

天竜川(てんりゅうがわ)は長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ一級河川である。流路延長は213kmで全国9位。

長野県の諏訪湖を源流とする。伊那谷を形成し、一部愛知県をかすめ、静岡県へ。浜松市と磐田市の境を流れ遠州灘に注いでいる。

 

■西川(静岡県浜松市天竜区龍山町)より一里半。

■石打(静岡県浜松市天竜区春野町石打松下)より二里。この間に板橋があり、(渡り賃)2文。続いて坂が多い。

■熊村(静岡県浜松市天竜区二俣町)より一里半。

■大平(同)より一里半。山本や九兵衛にて昼食、72文。この間に橋があり、(渡り賃)2文。次に大きな坂がある。次に岡保峠があり、ここに遠州と三州の国境がある。

 

遠州は、遠江国(とおとうみのくに)現在の静岡県西部地区。三州は、三河国で現在の愛知県東部である。

 

■巣山(愛知県新城市巣山)より一里半。この間に菖蒲峠がある。

1223日、大野(愛知県新城市大野)より一里。旅籠・山品や半兵衛にて宿泊。宿泊代200文。

 

1224日 大野(愛知県新城市大野)→御油(愛知県豊川市御油町)約39km

(大野)この場所からかど谷町まで荷物を運んでもらのがよい。代金は16文だが、二十五町目に行者もどしという難所がある。

 

鳳来寺より九町。東照権現(鳳来山東照宮)御玉屋(本殿)は南向きである。御朱印は1500石、薬師如来元三大師がある。

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(鳳来寺寺:新城市観光協会)

鳳来寺(愛知県新城市門谷字鳳来寺1)は、江戸時代、慶安元年(1648年)4月、日光東照宮へ参拝した折に『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来

寺との縁(家康の父母である松平広忠と正室於大の方・伝通院は、子のできないことを憂い、祈願のために夫妻そろって領内の鳳来寺に参篭したところ、間もなく家康を

懐妊したという)に感銘を受けた江戸幕府3代将軍家光が、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願。それにあわせて家康を祀る東照宮(鳳来山東照宮、愛知県新城市門谷

字鳳来寺4)の造営事業を新たに進めた。、家光が亡くなり、跡を継いだ4代将軍家綱が命じて慶安4年(1651年)に社殿が竣成、以後、鳳来寺を別当寺と定め、明暦2

1656年)には幕府から社領470石の寄進があり、江戸時代を通して10回に及ぶ修理が幕府により行われている。最終的には、東照宮の運営領を含む1350石が新たに鳳来寺領となった。

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(鳳来山東照宮:新城市)

■かど谷より三里。やなぎ屋にて小休止。

■瀬川村 ここに瀬川があり、船賃5文。ここは縄くり渡し(船に乗って川に渡した縄をたぐる)。

■しん城(愛知県新城市)より二里半。柏屋惣右衛門にて昼食、84文。

■大木(愛知県豊川市大木町)より一里。この間に左、豊川、右、御油道の立石(標識)がある。

■豊川より二里。ここに三河国一ノ宮砥鹿大明神(砥鹿神社、愛知県豊川市一宮町西垣内2があり、社は南向きである。それより八町ばかり行くと、豊川稲荷大明神が卯辰(東南東)に向かってあり、本社(本殿)より奥院までの間に、鳥居が227ある。神楽堂に大きな太鼓がある。豊川より御油の間に広い野原があり、宿場の取りつき(入口)に板橋がある。

 

 豊川稲荷は神社ではなく曹洞宗の寺(妙厳寺)であることは、意外に知られていない。実際に私も神社と思っていたが、訪ねてみると、寺である。ところが、すっかり街に同化して、神社の門前町が形成されている。

 

1224日、(御油)旅籠・いてうや(いちょうや)伊左衛門にて宿泊。宿泊代200文。

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東京メトロ・銀座線《発車合図メロディ》

銀座線の4駅(浅草、上野、銀座、溜池山王)で、新しく《発車合図メロディ》が始まった。通勤途中の上野駅と浅草駅で、新しいメロディーをきいた。

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上野は「桜の名所・上野公園にちなみ、ロングセラーを採用」とのことで、森山直太郎の『さくら(独唱)』である。♪さくら さくら いま 咲き誇る♪の部分がかかる。なかなか心地よいが、短い。

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 浅草は滝廉太郎の名曲『花』で、2つホームがあるため、アレンジをかえてある。メトロによれば、「浅草駅近くの隅田川がモチーフの名曲」だそうだ。曲は♪春のうららの すみだがわ♪と、きわめて短い。アレンジもあわてている感じで短かすぎる。

 銀座と溜池山王は、まだきいていないので(というより、あまり行かないのできかないだろう)なんともいえない。しかしあくまでも地下鉄の30秒くらいの停車時間に流すメロディーなので、あっという間である。

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《LOUIS VUITTON》の看板

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 池袋、西武百貨店下の《LOUIS VUITTON》(ルイ・ビトン)の看板。季節ごとに替わるが、お花がきれいだ。

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東京ソラマチ《ニュークイック》の「和風幕の内弁当A」

 東京ソラマチ2階、フードマルシェにある《ニュークイック》。評判のお肉屋さんで、お弁当がうまい。そこで今日は「和風幕の内弁当A」を購入。

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 鶏の唐揚げ、豆腐のあんかけ、タマゴ焼き、煮物(里芋・ちくわ・コンニャク)、キンピラ、カニカマ天ぷら、野菜天ぷら、白さつま揚げとバラエティーに富んだ惣菜である。食べ応えありで780円。とても良心的なお弁当で、ラベルを見ると「午前11時調整」で、ごはんも温かい。なんとなく得をした気分である。

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 ちなみに「和風幕の内弁当B」が、あるのかどうかは不明である。

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読売新聞の《編集手帳》

読売新聞の編集手帳の広告である。五百字に今日を刻む、読売新聞の朝刊コラム。

紅葉が美しく色づくには

三つの条件があるという。

昼間の日差し、夜の冷気、そして水分である。

悩みと苦しみ(冷気)に打ちひしがれ、

数かぎりない涙(水分)を流し、

周囲からの温かみ(日差し)に触れて、

人の心も赤く、黄いろく色づく。

紅葉の原理は、どこかしら

人生というものを思わせぬでもない。

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 なかなか含蓄のある文章だ。残念なことに文章の構成でいえば、少し順番が違うので違和感がある。正しくは・・・

紅葉が美しく色づくには

三つの条件があるという。

夜の冷気①、水分②、そして昼間の日差し③である。

悩みと苦しみ(①冷気)に打ちひしがれ、

数かぎりない涙(②水分)を流し、

周囲からの温かみ(③日差し)に触れて、

人の心も赤く、黄いろく色づく。

紅葉の原理は、どこかしら

人生というものを思わせぬでもない。

こうすれば、比喩(たとえ)と説明文が一致するので、なめらかになる。編集手帳さんも、もう少し読む人のリズムを考えてみてはいかがなものか。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その4】

1221日 金谷(静岡県島田市)→黒田(静岡県周智郡森町)約31km

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■この間に夜なき石があり、さよの中山(小夜中山)、あめの餅が名物である。

■日坂(静岡県掛川市)より一里九町。■馬喰村(同)。

■懸川(静岡県掛川市)より三里。ねぢがねや治郎右衛門にて昼食、100文。

宿場のはずれに秋葉山の鳥居がある。それより(道は)右に入り、細い道、切り通しが多い。それより一ツ川を四拾八瀬で渡る。橋代は三箇所で30文。

■森町(静岡県周智郡森町)より二里。ここはよい所である。

 

1221日、黒田(静岡県周智郡森町)より十五町、旅籠・坂井や八左衛門にて宿泊。宿泊代200文。

 

1222日 黒田(静岡県周智郡森町)→戸倉(静岡県浜松市天竜区龍山町戸倉)約37km

 

■み倉(静岡県周智郡森町)より二里。■小なら安(小奈良安、静岡県浜松市天竜区)より一里。この間に木田川があり船で渡る。一人12文。■いぬい(静岡県浜松市天竜区犬居町)より十四町。油屋兵右衛門にて昼食、72文。■坂下(静岡県浜松市天竜区)より五十町。

 

秋葉山(秋葉神社、静岡県浜松市春野町領家841)より五十町。のぼり50町、金属の鳥居、四つ灯籠も数が多い。金仏がある。右に経堂がある。秋葉山は南向きである。札買所(拝観券売場)より西に行くと鳳来寺へ行く道である。

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(秋葉神社社殿)

 秋葉山にお参りする「秋葉講」が、盛んになったのは江戸時代である。しばしば大火事がおこり、民は大きな損害を受けていた。そこで防火の神として、秋葉神社を信仰した。浜松市天竜区春野町に位置する秋葉神社は、正式名称を「秋葉山本宮秋葉神社」といい、全国に約400社を数える秋葉神社の総本宮である。火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)を祭神とする。秋葉山に鎮座しており、山頂に上社、山麓に下社がある。とくに消防や火力発電などといった火を扱う仕事の関係者が、現在でも全国各地から秋葉山へと参拝に訪れる。(浜松情報BOOKより)

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1222日、戸倉(静岡県浜松市天竜区龍山町)より二十町。旅籠・柳屋銀介にて宿泊。宿泊代200文。

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