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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その17】

116日兵庫(兵庫県神戸市兵庫区)→高砂(兵庫県高砂市)推定40km

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■(兵庫)ここに築嶋来光寺(来迎寺、旧名は築島寺、神戸市兵庫区島上町2-1-3)がある。人柱になった人の石塔がある。次に大湊がある。宿場のはずれに清盛の石塔が左側にある。

 築島寺とはかつての名称で、現在は来迎寺(らいこうじ)と呼ばれている。この寺には松王(まつおう)入海の碑と墓がある。平清盛が、日宋貿易のために経ヶ島を築造する際、海神の怒りを鎮めるために人身御供(ひとみごくう)となったのが、清盛の従者の松王である。寺は清盛が松王のために建てたと言われている。場所は移転されている。

(参考:ひょうご歴史ステーション)

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(須磨寺 FeelKOBE)

■須磨より二里半。ここに須磨寺(神戸市須磨区須磨寺町4-6-8)があり、辰巳(南東)向き。門にあつ盛(平敦盛)が駒(馬)を洗ったつつじの木のたらいがある。次に義経公の腰掛松、若木の桜、よし竹がある。本尊は観音様。宝物を開帳(拝観)するのには、1組につき100文。末社は88箇所ある。それより未申(西南)の方角に行き、この間に六町ばかりのうちに、一の谷・二の谷、三の谷がある。続いてあつ盛(平敦盛)そば(の店)があり、あつ盛の石塔がある。

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(敦盛塚 神戸市提供)

そば売り文句(あつ盛そば売り口上)

あつ盛そばあんばい(塩梅)はよし経(義経)、

熊谷の大茶碗にてつかへ山もり、

それを知りつついくらも九郎判官、

うどんは白き玉織姫、

酒は源平つゝじの諸白、

熊谷の大盃で一ぱい呑むは顔は弁慶、

お茶は接待薩摩の守たゞ呑み、

座敷千畳せんすいは帆かけ舟、

紀州熊野の浦までもやれつはなす也、

此のそばを喰いてみたれば六の茶やなれば、喰わずに行けば気がすまんでしょう。

 

この間に摂津と播磨の国境あり。この間の松原を舞子の浜という。

 

 平敦盛(11691184)は平清盛の弟平経盛の子で、従五位に叙せられたが、官職が無かったので世に無官の大夫と言われた。一の谷合戦で、源氏方の熊谷次郎直実公に討たれる。

 

 平家物語によれば寿永32月鵯越えの坂落としにより、平家方が惨敗を喫し、海岸へと味方の船を求め殺到した。直実も平家方を追って、沖の方へ馬を泳がせている若い武将を見つけた。「後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」と呼んだところ、若武者は馬を戻した。二人は一騎討ちとなり、共に馬から落ちて組み合いとなった。直実が勝って、首を取ろうと相手の顔を見た。あまりに美しいので、名前を尋ねると、自らは名乗らず、直実に名乗らせた。その名前を聞いて「良き名前なり、我が名は誰かに聞けば知っている者もあろう」と言って、首を差し出した。直実はためらったが、他の味方の兵士が近付くのを見て、涙をのんで、その若武者の首をはねた。その時に、若武者の腰の笛に気づいた。その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったのかと思いいたった。このことから、直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意することになる(後に熊谷蓮生坊)。この笛が小枝の笛と呼ばれる通称青葉の笛である。

 

 一の谷の合戦の旧跡が残り、須磨寺は源平の名所として知られている。往古より青葉の笛は国の重宝であり、松尾芭蕉を始めたくさんの人々が訪れている。また、謡曲「敦盛」、舞「幸若」にも登場し、歌舞伎、映画、舞台などに大人気で演じられている。

 

 須磨寺は、正式には福祥寺という真言宗の寺で、新西国第24番札所である。886(仁和2)年、聞鏡(もんきょう)上人が勅令を受けて七堂伽藍(がらん)を建立し、聖観世音菩薩坐像を本尊としたと伝わる。宮殿(くうでん・仏像を祀る御殿・国指定文化財・重文)は下層が唐様、上層が和様の折衷様という珍しい形式である。周辺は源平の古戦場で、境内の「源平の庭」、敦盛の首を洗ったという「首洗池(くびあらいいけ)」、その首実検の際に源義経が座ったとされる「義経腰掛松」など源平合戦にゆかりのあるものが多い。寺には県重要無形文化財指定の須磨琴の演奏が伝えられる。江戸時代には法要の際などに寺宝を公開する御開帳で多くの参拝者を集め、大いに賑わった。御開帳は50日間ほど催され、大坂から姫路の範囲には、宣伝のための立て札や張り紙が出されたという。

 

■舞子(兵庫県神戸市より一里。ここに舞子焼の瀬戸物(を売る店)がある。

 

 舞子焼きは、江戸時代に隆盛をみたが、大正時代に廃窯されている。

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(八房の梅 月照寺)

■明石(兵庫県明石市)より一里半。木屋与兵衛にて昼食、100文。ここに松平佐兵衛の城(明石城)があり、石高6万石。次に人丸大明神が午未(南西)向きにある。八ツ房の梅(一房に八つの実がなるという八房の梅)がある。この場所にて南を見れば海に淡路島が見え風景がよい。

■大久保(同)より一里。

■長池(同)より一里。ここより播磨の名所・高砂道左に入るべし。

■二子(兵庫県加古郡播磨町)

■本庄(同)より一里。ここに住吉四社明神(住吉神社、兵庫県加古郡播磨町大中字大増東506)がある。唐獅子は左甚五郎作。この間にべふ手枕の渡しがあり4文。

■別府(兵庫県加古川市)より六町。ここに住吉の社(別府住吉神社、兵庫県加古川市別府町東町157)がある。手枕の松がある。

 

 松が横に傾き、腕枕のように見えることから「手枕(たまくら)の松」という名前がつけられたといわれている。初代の松は大正末期に枯れ、現在の松は3代目。(加古川観光協会提供)

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(浜宮天神社 加古川市提供)

■浜の宮(同)より八町。ここに天満宮(浜の宮公園・浜宮天神社、兵庫県加古川市尾上町口里)がある。

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(尾上神社 松:加古川市提供)

■尾上(同)より十二町。ここに住吉の社(尾上神社・尾上の松、兵庫県加古川市尾上町長田518)があり、尾上のかね、相生の松があり、うたへに作し時(謡曲にうたわれた)より二代目の松である。この間に加古川がある。

 

 この「住吉社」の祭神は、海の神様、住吉大明神である。現在は尾上神社と呼ばれている。国重要文化財の「尾上の鐘」も代表的な朝鮮鐘として有名。この鐘にはその昔、海賊に盗まれて海に沈められた後、漁師の手によって引き上げられ高野山に奉納されたが、鐘をつくたび「おのえへ、いの~」と聞こえたため、尾上神社に戻されたという伝説があるそうだ。

 

 また、境内には、古くから謡曲「高砂」に謡われた「尾上の松」がある。文化元年(1804)に摂州から播州に至る各地名所を図で著した播州名所巡覧図絵にも名所として紹介されており、一つの根から男松(黒松)と女松(赤松)が生えている姿は、相生の霊松として信仰を集めている。

(加古川観光協会提供)

 

116日、高砂(兵庫県高砂市)。旅籠・釣屋伊七郎にて宿泊。宿泊代200文。

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