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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その21】

128日・29日京都滞在。

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128日(京都)町々で遊ぶ。28日朝、200文にて案内人を頼み京都見物をする。

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(本能寺 都名所画譜)

本能寺(京都府京都市中京区寺町通御池下る)は南向き、ここに信長の石塔(供養塔)がある。

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(行願寺 京都散歩Navi

次に、こうどう(革堂:行願寺、京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17)があり西向きである。

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(上御霊神社 京都散歩Navi

ごれい八所明神(上御霊神社:かみごりょうじんじゃ、京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)があり西向き。

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(都名所之内 真如堂楓林)

次に真如堂(真正極楽寺、京都市左京区浄土寺真如町82)があり、戌亥(北西)向き。欄間は左甚五郎作である。

次に八百萬の神(吉田神社、京都市左京区吉田神楽岡町30番地、斎場所大元宮に天神地祇八百万神を祀る)があり南向き。

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(知恩院 京都観光Navi

次に知恩院(京都市東山区林下町400)があり南向き。辰巳(東南)方向に鐘があり、(鐘の)周囲は弐丈八尺五寸(約8.6m)、厚さは九寸五分(0.3m)、重さは弐万貫(74トン)である。

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(金戒光明寺 京都観光Navi

しん黒谷(金戒光明寺:こんかいこうみょうじ、京都市左京区黒谷町121)があり南向き。ここに熊谷(直実)の鐙掛け松があり、これは二代目である。

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(清水寺 京都観光Navi

次に清水寺観世音(清水寺、京都市東山区清水1-294)があり南向きである。(寺に)音羽の滝があり三筋水が落ちている。

(清水寺)前の茶屋にて100文の昼食を食す。

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(大谷本廟 京都観光Navi

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(大谷めがね橋 花洛名勝図会)

次に白骨門跡(大谷本廟、京都市東山区五条橋東6丁目514)があり西向きである。この前にめがね橋(円通橋、大谷本廟の参道入口・東山五条交差点近くにある皓月池:こうげついけに架かる橋)がある。

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(長谷川貞信 都名所之図 三十三間堂後堂之図)

次に三十三間堂(京都市東山区三十三間堂廻町657)があり北向き。

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(京都名所大仏尊像)

次に大仏殿(方広寺、京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2)がある。大鐘(方広寺鐘銘事件で有名な鐘)があり、周囲弐丈八尺(8.5m)、重さ1700貫(約40トン)である。

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(東本願寺 京都観光Navi

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(西本願寺 京都観光Navi

次に東門跡(東本願寺、京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754)があり南向き。西門跡(西本願寺、京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60)がある。

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(北野天満宮 京都観光Navi

次に北野天満宮(京都市上京区馬喰町)へ参拝する。社は南向きで、石灯籠や金の(金属製の)灯籠が多い。

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(都名所之内 三条大はし)

三条大橋より五十町。

128日、京都より十八町。旅籠・備前屋藤五郎に宿泊。29日、大雨にて(同じ旅籠に)逗留。

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 京都観光といっても寺社巡りである。

本能寺は明智光秀の謀反により、信長が自害した寺である。ただし寺は移転しており、現在の場所ではなかった。

 こうどうは、通称「革堂」で行願寺である。天台宗で西国三十三カ所第19番札所。俗人のころ鹿を射止めた行円が、仏心を起こし、寛弘元年(1004)寺を建立、千手観音像を刻み、安置した。行円は皮の衣を着ていたので、皮聖と呼ばれ、寺は革堂と称した。当初、今の上京区にあったが、移転と焼亡を繰り返し現在地に移転した。

 ごれい八所明神は、上御霊神社である。境内の「御霊の森」が応仁の乱の勃発の地である。祭られているの、当初、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。その後追加された二神は、火雷神の菅原道真、吉備聖霊の吉備内親王で合計八神である。

 真如堂は、真正極楽寺鈴聲山という。「こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味だそうだ。一般には「真如堂」と呼ばれているが、もともとは本堂の呼び名であった。天台宗で本尊は阿弥陀如来(重要文化財)。平安時代のもので「うなずきの阿弥陀」と呼ばれる。

 知恩院は、浄土宗総本山。宗祖法然上人が、承安五年(1175)吉水に設けた草庵に始まり、火災や兵乱にあい徳川家康、秀忠、家光により現在の壮大な伽藍が形勢された。法然上人の像を安置する御影堂(国宝)は、寛永十六年(1639)建立の大建築で、多くの国宝や文化財指定建造物が並ぶ。三門(国宝)は、わが国最大木造の門で近年解体修理され偉観をとりもどした。

 年末のテレビ番組で紹介される除夜の鐘の大鐘は、寛永十三年(1636)の鋳造で、高さ3.3m、口径2.7m、厚さ0.3mの国内最大級の鐘だ。戦時中の梵鐘の供出を免れたのも、大きすぎて持ち出せなかったという逸話が残る。

 金戒光明寺は、承安五年(1175)比叡山を下りた法然上人が、初めて念仏道場を開いた浄土宗四カ本山の一つ。幾度か火災に遭いその都度再興された。阿弥陀堂は慶長十年(1605)豊臣秀頼が再建した。文殊菩薩像は、運慶作と伝えられ、日本三文殊の一つである。

熊谷直実の鎧(あぶみ)掛けの松が有名である。熊谷次郎直実(11411208)、法力房蓮池法師は、建久四年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗い、この松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。なお供養塔は、法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられている。この松の古木は枯れてしまい、現在の木は二代目である。

 

 清水寺は、本尊が千手観音(秘仏)、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗っている。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所である。音羽の滝は、奥の院の建つ崖の下にある、清水寺の寺号の由来である霊水で、3本の筧(かけい)から水が流れ落ちている。3つの筧から流れ落ちる3筋の水にはそれぞれご利益があり、「学業成就」「恋愛成就」「延命長寿」といわれている。

 大谷本廟は、浄土真宗の宗祖・親鸞上人の墓所であり、真宗大谷派(東本願寺)の飛地境内地。文永九年(1272)それまでの祖墳を改め、東山大谷の地に、廟堂が建てられたことによる。その後、変遷を経て江戸時代初め、本願寺の分派に伴い、寛文十年(1670)、現在地に移転。本堂は元禄十四年(1701)年の建立。御廟には親鸞聖人のご遺骨をはじめ、全国各地のご門徒のご遺骨が納められている。お盆の「万灯会(まんとうえ)」では、約1万個の提灯に火が灯る。

 めがね橋は、正式名称が円通橋。安政三年(1856)につくられた橋で、長さ約40m・幅約6mの規模で、橋脚・敷石板・欄干など全て花崗岩を使用している。橋脚によって作られた2つのアーチが水面に映る姿が眼鏡のように見えることから「めがね橋」の別名がある。当時は「奇巧をつくした石橋」として珍重され、「花洛名勝図絵」にも紹介されている。

 三十三間堂の正式名称は蓮華王院本堂という。これは、東に面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴による。そもそも「三十三」という数は、

観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表している。地上16m、奥行き22m、南北120m

の長大なお堂は、入母屋造り本瓦葺き。

本尊は千手観音1001体で、堂の中央に像高335cmの中尊丈六坐像(湛慶:たんけい作、国宝)が安置され、左右に各500体の等身観音立像(国の重要文化財)、堂の両端に風神・雷神像各1体(国宝)、二十八部衆立像(国宝)が中尊の西裏側に並ぶ。

 また、三十三間堂で毎年正月15日に行われる「通し矢」は、江戸初期に始まったもので、一昼夜、堂の西縁の南端から北端まで(約118m)矢を射通す競技である。

 大仏殿は、方広寺(現・京都市東山区)にあった。大仏は高さが六丈三尺(約19m)だったそうだ。この方広寺大仏殿は、高さ約49m、南北約88m・東西約54mで、豊臣秀吉によって建立され、慶長年間末期に豊臣秀頼により再興された。

 大仏殿および大仏は、寛政十年(1798)の落雷により焼失。その後再建。江戸後期の天保年間、尾張の国の有志によって、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿が再建された。この4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和四十八年(1973)、失火により焼失した。

方広寺の大鐘には、日本史上有名な「方広寺鐘銘事件」がある。この鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽」の部分があり、徳川家康は「家康の名を二分して、国安らかにさせ、豊臣を君主とする」の意味であるとして激怒した。これは、家康が豊臣氏を滅ぼすための口実をつくったとも考えられている。これをきっかけに豊臣氏滅亡への秒読みが始まった。

東門跡・東本願寺は、(浄土真宗)真宗大谷派の本山で「お東さん」の名称で親しまれている。慶長七年(1602)に第12代教如上人が徳川家康からこの地の寄進を受け、建立した。京都三大門のひとつに数えられる御影堂門をくぐると並んでそびえ立つのが御影堂と阿弥陀堂である。広さ927畳の御影堂は、世界最大級の木造建築で宗祖親鸞聖人の木像を安置しており、阿弥陀堂は本尊の阿弥陀如来を安置している。

西門跡・西本願寺は、(浄土真宗)真宗本願寺派の本山で「お西さん」の愛称でも親しまれている。文永九年(1272)宗祖・親鸞聖人の末娘覚信尼が京都の東山大谷に建立した廟堂に始まる。第3代覚如上人のときに本願寺と公称。第8代蓮如上人の尽力により大教団に発展。その後、寺地は大阪、和歌山を転々とした後、1591年(天正19)豊臣秀吉が寺地を寄進、現在地に移った。慶長七年(1602)本願寺は東西に分立。御影堂と阿弥陀堂はともに重文である。

北野天満宮は、延喜三年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、京の都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天暦元年(947)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。

天正十五年(1587)、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯(大茶会)が催行された。境内西側に史跡「御土居」が残っている。

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これだけ歩いて回ったら、さぞかし疲れたであろうとお察しする。

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