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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その1】

 日本橋界隈を描いた絵巻《熈代勝覧(きだいしょうらん)》から、江戸時代の商店を見てみよう。

◆神田今川南橋詰~本銀町(ほんしろがねちょう)通り

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●瀬戸物問屋

神田の今川橋を渡ると、瀬戸物問屋が軒を並べる。江戸中期・後期頃から生活雑器を作り始め、日本各地に大量に出荷したのは瀬戸焼きである。産地の瀬戸などから船積みされたものが、江戸湊に着き、堀を小船で運ばれた。この場所は荷揚げしやすい場所で、瀬戸物問屋が集まったようだ。

「瀬戸物」は、一般大衆向けの日常用陶磁器の俗称。一般に用いられるようになったのは、江戸時代に入って、瀬戸や美濃において大衆向けの日常食器類が主として焼かれ、それが全国的にひろく流通するようになってからとのこと。通常、瀬戸物の語を用いるのは近畿地方以東の東日本だそうだ。

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●水飴屋(長井小右衛門)

水飴は、米や粟(あわ)を原料として、でん粉質を、麦もやしなどに含まれる酵素で糖化してつくる。古代からある甘味料だが、砂糖は使わない。

 江戸時代、享保三年(1718)の『古今名物御前菓子秘伝抄』(菓子のレシピ本)には、水あめの作り方が次のように紹介されている。

 「もち米の上白米1升(約1.8ℓ)を飯に炊き、麦のもやし5勺(約90ml)を細かくして飯と一緒に桶に入れて混ぜ、水をひたひたに加えて10時間ほど置く。それを布袋に入れて漉(こ)し、鍋に入れて加熱してねり詰める。」

◆本銀町(ほんしろがね)二丁目

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●桐油合羽問屋(山田屋平左衛門)

 暖簾には山田屋とある。合羽(かっぱ)の形をした建看板(桐油 山田屋平左衛門)や屋根看板(合羽)も見える。

桐油(とうゆ)は、アブラギリ(油桐、トウダイグサ科の落葉高木)の種子から得られる赤黄色の油。この油は塗料などに用いる。乾燥が速く、耐水性がある。日本では古くから桐油紙・番傘などに使用された。きりあぶらともいう。

 「合羽」の語源は、16世紀に来日したキリスト教の宣教師の外衣(ポルトガル語の「capa」)である。合羽の他に、南蛮蓑とも呼ばれた。

合羽は、当初、羅紗を材料とし、見た目が豪華なため、織田信長や豊臣秀吉などの武士階級に珍重された。江戸時代に入ると、富裕な商人や医者が贅を競ったため、幕府がこれを禁止し、桐油を塗布した和紙製の物へと替わっていった。

 合羽の原料となる桐油紙は、合羽だけでなく、荷物や駕籠の被いや出産の際の敷物(お産合羽)としても使用されたそうだ。

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●書物問屋(須原屋善五郎)

 出版社(版元)でもあり、書店(販売店)でもある。左側の箱看板「書林」とあるのが店舗のようだ。右側には白い蔵があり、書物が並ぶ暖簾の下に広告用の札が三つ見える。よく見ると「徂徠(荻生徂徠)先生文集」、「はいかひ(俳諧)明題集」、「江戸砂続篇」と読める。ベストセラーのポスターであろうか、いまでいう「これ売れています」、「当書店、売れ筋人気商品」的なもの。

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●仏師(万屋)

丸に万の暖簾である。仏師・大仏師というのは、仏像をつくる職人のことだろう。店内が見えるが、どうやら仏壇が並んでいるようだ。江戸の人々は現代人よりも信心深かったのだろうか。

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●汁粉屋・雑煮屋(藤屋)

2階建ての店舗ばかりの中に珍しく平屋である。屋根は「土居葺き」または「トントン葺き」といい、野地板の上に杉や椹(さわら)の木を薄く割った板に重ね葺きして、竹釘(たけくぎ)で打ち付けてある。(その音から「トントン葺き」とも呼ばれている)

 

店の前の箱看板は「志るこ餅 代十二文」、「そうに(雑煮)十二せん(十二文)」と読める。餅が入ったお汁粉が12文(130円として360円)なら食べたい。店の中には大きな樽か釜が見える。お客さんはいないようだ。

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●指物屋

店内に指物師の姿が見える。家具職人のことで、箱、長持、机、椅子(いす)、たんすなどを板材で、さし合わせて組み立てる者である。指物大工または箱大工ともいう。

指物とは、釘や接着剤などの接合材料を使わず、木と木を組み合わせることによって組み立てられる木工のこと。作られるものは、小箱や花器などの小さなものからタンスのような大きな家具まで様々だ。

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●仕出屋

仕出し料理の業者。仕出し弁当屋ともいう。仕出料理は出前料理ともいい、注文に応じて調製してお客に届ける料理で、そうした専門業者は江戸時代後期の江戸に出現したようだ。

 客の注文に応じて高級な弁当や料理をつくって届ける(仕出し)業種は、江戸時代のゆたかな都市社会の中で、料理茶屋などでの特殊なサービスの一種として起ったものと考えられる。芝居茶屋や相撲茶屋などの幕の内弁当も仕出しが始まり。

障子には、「仕出御□(不明)御望次第(お望み次第で)大平、吸物、丼、いろいろ」とある。ちなみに大平とは、平たくて大きな椀のことで煮物などを盛る。大平椀。

 ”お客様のご要望に応じて、煮物などやお吸い物、どんぶりものなどいろいろできます。”

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●蝋燭(ろうそく)問屋(会津大隈屋)

店に向かって右側に「ろうそく」の絵の看板がある。和ろうそく。何やら近所のご隠居が話し込んでいる様子。

江戸時代のロウソクは木蝋(もくろう)といい、櫨(はぜ)や漆(うるし)など、ウルシ科の植物の実に含まれる脂肪分を抽出して作った。作るのに手間がかかったため、決して安くはなかった。広間で使う大きな百匁(375g)掛けのロウソクは1本200文した。現代感覚でいうと130円として約6,000円。だからロウソクを使っていたのは裕福な大名や豪商ぐらいだったそうだ。

 庶民の灯りはイワシやニシンなどの魚油(ぎょゆ)のほか、菜種(なたね)油を使っていた。しかし菜種油は高価で「菜種油一升で米が二升買える」と言われ、裕福な家でしか使えなかったという。

 菜種油は1合(180ml)で41文。一晩にだいたい四勺(しゃく)か五勺(一勺は18ml)は使うので12021文。1日約600円~630円。月に換算すると約18,000円~18,900円程度になる。菜種油の電灯代は高い。庶民はそれより半値、あるいは1/3の魚油を使い6,000円から9000円程の電灯代であった。これも高い。したがって魚油は臭いし、早く寝よう、となった。夜ふかしはせず、朝は早く起きる。なるほど「早起きは三文の得」である。

ところで江戸時代の行灯の明かりは、現代の60W電球の1/50程度の明るさしかなかったそうだ。(薄暗いので本を読めるかどうか)

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●御入歯所・薬種問屋(松井・清養丹)

 薬問屋であるが、御入歯所と看板にある。

江戸時代には「入れ歯」があった。そのころの入れ歯は、木ロウで型を取り、ツゲの木を削って作っていた。ツゲの木は緻密で硬く、また抗菌作用があり。不潔になりにくく、入れ歯の台として最適な材料。前歯には自分の歯かあるいは他人の歯を絹糸で台にくくり付け、奥歯は金属の釘を何本も打ち付け、よく噛めるようにしてあったようだ。

 

江戸時代、そんな日本の歯科医療を支えていたのは、仏師(仏像を作る人)であった。専門の入れ歯師(職人)もいた。彼らが、殿様や身分の高い人の求めに応じて、ツゲの木を彫刻して入れ歯を作っていた。かなり精巧なものである。

 ところで看板の清養丹は、どんな薬であったかはわからない。

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コメント

お世話になります。
貴殿のイラスト、大変気に入りました。
もし、差支えなければ弊社の広報誌で1枚掲載させて頂きたいのですが、いかがでしょうか?

投稿: ibm | 2013年6月14日 (金) 12時27分

ibm様
どうぞ広報誌に使ってください。
ただし出典は明らかにしてください。(作:もりたたろべえ)

投稿: もりたたろべえ | 2013年6月14日 (金) 15時33分

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