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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その2】

◆本石町二丁目

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●呉服問屋・小間物諸色問屋(唐木屋七兵衛)

 まず「小間物」は、結髪用品や髪飾り類、 白粉(おしろい)、紅のような化粧品や半襟、帯止めのような服飾と装身具をいう。

 諸色というのは、「いろいろな品物」といった意味だが、一般的には海産物、樟脳、煙草入、袋物など多種多様なものを含む。

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●印判屋

印判は印、はんこ(判子)、印章の意味である。現代でもよく見かける「はんこ屋」さんである。

 江戸時代にはいると、武士階級は文章や書画には花押し印も使用したが、印鑑も多く使用した。印鑑が、一般民衆の生活まで深く根を下ろしたことは、江戸時代の大きな特徴の一つ。これは徳川幕府が、産業の発展と民衆の安定に力を注いだ結果、町人商業階級は、経済活動を活性化させたために、商取引、貸し証文、個人の保証に至るまであらゆる証書書類に印鑑が用いられるようになったからだ。

こういった社会情勢の中では、一般の民衆の権利義務関係を保律するために、印鑑の使用が生活の上で不可欠なものとして、民衆の中に定着していった。

 

 しかし武士とは違い、民衆には、朱印を使うことは許されなかった。(朱肉は、高価でもあり、なかなか手が出なかった)一般民衆に許されたのは黒印の使用(墨)であった。この当時すでに町民、農民にも印鑑使用の義務が生まれ、農民は名主や村の長、町役人に印を届ける義務もあった。届けられた印鑑は、必要に応じ照合できるように、印鑑帳がすでに作製されていた。届けた印鑑は実印と呼ばれ、重要な文章に使用され、日常的には一般に裏印が使われていたそうだ。日本の一般的な印鑑の使用は、江戸時代からの始まりが認められる。

 

 印鑑がなかった時代には、いうまでもなく爪印(拇印)で間に会わせていたようだ。

 さて(印を押すのに使用する)朱肉については、江戸後期になると、「印肉売り」が町を回っていて、印肉の補充もやっていたそうである。いろいろな商売が成り立つものだ。

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●紙問屋(加賀屋)

 加賀屋が紙問屋である確証はないそうだ。店の前には、到着したばかりの荷が積み上げてある。また二人が、何やら荷ほどきをしている様子。

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●紅問屋・小間物問屋(津金)

店が大きく開かれ、店先ではおかみが客の相手をしている。また店の前で大きな荷物を担ぐのは「貸本屋」らしい。

 

 さて、紅問屋であるが、おもな商品は「口紅」。江戸時代の口紅は、山形最上地方などでつくられる紅花の花弁が原料であった。花にわずかに含まれる赤色色素を抽出して、精製したもので、現在の油性基材の口紅とは異なる。

 口紅の製造は、紅屋または紅染屋が紅染めの兼業として行う形態が主であった。小間物屋や薬種問屋といった化粧品を扱う店では、紅屋から仕入れた口紅の卸売りを行うことが多かった。

 抽出・精製した口紅は、陶磁製の猪口や皿、あるいは貝殻などの内側に塗った状態で、販売された。

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●笠・雪踏問屋(丸屋)

 店の右側に笠が積まれている。店内に吊るされているのが、雪踏(せった)であろう。右手の木製の下げ看板には「せった品々」と読める。

 

 江戸時代から雪踏(雪駄)は上方(関西)の下り雪駄と下方(関東)の「地雪駄(じせった)」があった。貞享の末頃(16851687)になると、現代の雪駄の原型に近い仕上げ方法が確立され、表には、真竹皮をさらし、色も黒味のない物で編み、地雪駄や下り雪踏より外見がよく、丈夫にできていたので江戸中を席巻する流行品となった。(西鶴の「五人女」、「好色二代男」)

 また、この頃からすでにチャラチャラとなる雪踏の音が、世人に好まれていた。

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●墨筆硯問屋(高嶋与助)

 店内にはお客さんが一人。店先の箱置き看板は、「墨筆硯問屋 高嶋 与助 折手本品々」と読める。書の道具のほかに、書道の手本も販売していたようだ。

 

 墨の産地であるが、江戸時代に入ると各地でも製造されるようになったが、古くから技術の高い奈良に多くの職人が集まったため、結果として各地の墨の生産は衰えてしまった。奈良では、日本の伝統産業として今日まで受け継がれている。現在の墨の主要産地は、奈良県産が9割のシェアを占めそうである。

 

 硯の産地については、つぎのものが知られている。山口県宇部市の赤間石、宮城県石巻市の雄勝石、三重県熊野市の那智黒石、山梨県早川町雨畑の玄晶石(粘板岩)等である。

 その中でも「赤間石」(宇部)との「雄勝石」(石巻)の二つは百年以上の歴史があり、国の伝統工芸品指定を受けている。しかし、残念なことに雄勝石は、20113月の東日本大震災で大きな損害を受け生産が停止したため、入手は困難になってしまったそうだ。

 

 筆の産地は、京都や東京もあるが、奈良県(奈良筆)、広島県の熊野町(熊野筆)、呉市(川尻筆)、愛知県の豊橋市(豊橋筆)、宮城県の仙台市(仙台御筆)、などが有名。

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●鮨屋(玉鮓 翁屋庄兵衛)

 店の障子は、「寿しや 玉鮓 庄兵衛」と読める。 

   

江戸時代の「握りすし(鮓)・握り寿司」については、文献がある。

 

 江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。

以上。大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添ふるに新生薑(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。(略)

 

握りには、タマゴ焼き・エビ・海老そぼろ・白魚・マグロ・こはだ・アナゴ煮があったとある。おおむね一つ八文でタマゴ巻きは十六文。生姜のほかに、ひめだても箸休めだった。

 庶民がちょいとつまむには手頃な値段であった。またその1個(1貫)の大きさも現代の2倍、3倍という話もあり、23個で事足りた。

 

 江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また屋たいみせのみにて売るも多し。江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。

(『近世風俗志五(守貞謾稿)』P岩波文庫107P110参照)

 

江戸にはすし屋が多く、町内に12軒はあったようだ。(そば屋はその半分)屋台も多かった。いくつか有名店(阿武松すし、松の鮓)もあった。

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●白粉問屋(三文字屋)

  店先には桜の花ののれんである。

白粉(おしろい)は、その名のとおり肌を白く見せる化粧のベースである。江戸時代にも広く普及していた。当時の原料は、デンプン、貝殻、粘土、鉛白(えんぱく:炭酸水酸化鉛。白色顔料)、甘汞(かんこう:塩化第一水銀)などである。このうち鉛白粉(なまりおしろい)はのびやつきがよく、比較的安価であったため広く使用された。現代で考えれば、鉛や水銀が使われていたとは驚きだ。

 

 当時は、白粉を水で溶きながら刷毛を使った。顔はもちろん、首筋、背中の一部まで白塗りをしていた。どれだけの手間と時間がかかったことか。

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●鏡師(藤原定治)

 鏡をつくる鋳物師の姿が見える。下げ看板には鏡の絵と「津田薩摩」の文字が読める。津田薩摩(守)というのは、当時鋳物師の間で流行った屋号のようなもの。当初は、「天下一」(ナンバーワンの職人)で、「天下一佐渡」「天下一但馬」などと名乗ることが多かったが、禁止されたため、石見守、肥前守、薩摩守といった受領国名○○○○の守(かみ)と付けた。

 

 なお、鏡は現代のようなガラス製ではなく、江戸時代までは、青銅(銅に錫や鉛を加えたもの)でできた銅鏡であった。文様のある鏡の裏面、反対側の表面が、錫でメッキしてきれいに磨いた鏡面で顔がよく映った。

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●煙草問屋(太田屋)

 広い店内には、お客が三人と番頭さんが二人。賑わっている様子が見える。

 

 江戸時代は、刻んだ葉たばこを、「煙管(キセル)」に詰めて吸っていた。老若男女にこよなく愛されていたようである。当時、喫煙の年齢制限等はなかったため、小さな子供ですらも吸っていたそうだ。ちなみに江戸は木と紙で出来た都市であったため、「歩き煙草」は、江戸時代を通じて厳禁とされていた。

 

 日本で「たばこ」の製造や販売が、産業として発達したのも江戸期のこと。明暦(16551658年)以降には、町中に「たばこ」のみを扱う専門の店舗が見受けられるようになり、そこここに「細刻みたばこ」の製造・販売を専業とする店が増加した。

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