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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その4】

日本橋絵巻《熈代勝覧(きだいしょうらん)》の世界である。文化二年(1805)当時の生き生きとした街並みを歩く。いよいよ「十軒店(じっけんだな)」、旧本石町と本町二丁目(今の室町三丁目)にはさまれた小さな町である。

◆十軒店

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●京糸物問屋(藤屋)

 土蔵造りの立派な店である。店の前には、雛市の仮設店舗が建ち並ぶ。養蚕から始まる絹は、やはり京のものが最高ランクであった。おそらく京の都から取り寄せた糸を扱う店である。

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●十軒店

この場所は、現在の日本橋中央通り、千疋屋総本店前になる。『江戸名所図会』(天保五年1834)にその説明がある。

十軒店。本町と石町の間の大通りをいふ。桃の佳節を待ち得ては、内裏雛・裸人形・手道具等の廛(みせ)軒端を並べたり。端午には冑人形(かぶとにんぎょう)・菖蒲刀(端午の節句に、ショウブの葉を刀に見立てて男児が腰に差したもの。後世は飾り物として節句に飾った木太刀。しょうぶがたな。あやめだち)ここに市を立てて、其賑をさをさ彌生の雛市におとらず。又年の暮に至れば、春を迎ふる破魔弓・手毬・破胡板を商ふ。共に其市の繁昌、言語に述べ盡すべからず。實に太平の美とも云はんかし。其餘尾張町・浅草茅町・池の端仲町・麹町・駒込抔にも雛市あれども、此所の市にはしかず。

 十軒店とは、本町と石町(本石町)の間の大通りをいう。桃の節句(三月)の前には、内裏雛をはじめ、雛人形や雛道具などが店に並ぶ。端午の節句(五月)には、武者人形や菖蒲刀などが並ぶ市となり、その賑いは三月の雛市にも劣らない。また年の暮になれば、新春を迎える破魔矢や手まり、羽子板などを売る。(十軒店の市は、年に三回開設されていた)十軒店のこうした市の繁昌ぶりは、語り尽くせないほどで、実に太平の世(平和そのもの)の美しさともいえる。そのほか、尾張町(東京都中央区銀座)・浅草茅町(台東区浅草橋、柳橋)・池の端仲町(台東区池之端、上野)・麹町(千代田区麹町)・駒込(文京区駒込)にも市が立つが、とてもこの十軒店にはかなわない。

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 元々、雛人形は京都から大消費地・江戸へ船などで運ばれた。江戸で雛人形がつくられるようになるのは、寛政年間(17891800)以降とのことだ。

 現代、雛人形を購入するのは嫁の実家が普通だが、本来は娘が生まれたら、その子の無事な成長を祈って身内・親類や近所の家々が人形を贈るのが常であったそうだ。そうなると、当時人形専門店は少なく、季節商売の際物(きわもの)であったから、庶民は人形市へ出かけ、高級品を売る常設店より安く売る仮設店で購入したようだ。

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 十軒店の市は、桃の節句時が225日から32日に、端午の節句時は425日から54日に、年の瀬は文字通り年末に開催されていた。(日付については諸説ある)

 ヨシズ張の仮設人形店であるが、際物で縁起物である性格上、定価販売ではなかった。店側は値段を高くふっかけ、客は値切る。何度かの値段交渉の後、折り合いがつく。おそらくそんなやり取りが繰り返えされたのであろう。

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●雛人形屋(万屋よろずや):右

●雛人形屋(大黒屋):左

大黒屋の下げ看板には、桜花と娘と三番叟の絵が描かれている。両方の店の店内には、高級そうな雛人形がきちんとした箱の上にのせられ売られている。

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●二八蕎麦饂飩屋(三河屋)

 箱看板は「二八 そば切 うんどん(うどん)」と読める。残念ながら店内の様子は見えないが、繁盛していたに違いない。

さて現代でも主流の「二八そば」は、①つなぎの小麦粉等が2割・そば粉8割という原料配分に由来する説と②2×816(にはちじゅうろく)で当時、そばは一杯16文(130円としておよそ480円程度)という値段を意味する説があるようだ。(そばとならんでうどんもあるので、おそらく②の説が有力だろう)

 また当時は、そばを茹でないで、蒸していた。いわゆる「せいろ」である。また、せっかちで気の短い江戸っ子が、いちいち「つゆ」につけるのも面倒だと、つゆをそばに“ぶっかけ”て、食べたことから「かけそば」と呼ばれるようになったそうだ。

 そば屋のメニューは、かけそばのほかには、つぎのようなメニューがあった。

「しっぽくそば」:玉子焼き・蒲鉾・椎茸・くわひ・鶏肉入り(24文)。「あられそば」:青柳(バカ貝)の貝柱をのせる(24文)。「天麩羅(てんぷら)そば」:芝エビの天ぷらをのせる(32文)。「花巻そば」:浅草海苔をかけた(24文)。(参考:『守貞謾稿』)

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●帳面問屋(槌屋)

 大きな「大福帳」の看板が目を引く。

江戸時代の「大福帳」は、商家で使用されていた金銭出納簿のことである。

大きさは、半紙を縦に半分に折った大きさの物が主流。片方を紐で綴じ、帳場の格子にかけられるようにしてあり、表紙には「大福帳」と記し、折り目が上になるようにして横長の帳簿に縦書きした。

 最初に日付を記して、以下時間の経過に伴い相手先と内容、金額を記載していく。そして一日が終了すると担当の番頭が、集計し、銭箱(金庫)の中の現金残高と照合して、主人の所へ大福帳と現金を持っていき、チェックをしてもらうという手順である。

 大福帳の看板の下には、下げ看板が二つあり、「折手本」、「さけ帯(下げ帯)」と読める。折りたたみ式の書道の手本や厚紙でできた下げ帯(江戸時代、御殿女中などが夏に締めた帯。両端に厚紙を入れ、背後で結んだ余りを左右に張って垂らしたもの)も扱っていたのであろう。

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●薬種問屋(藤木)

 大きな看板には「御免 百効」と読める。

江戸時代中期頃から、奉行の許可を得て、天下御免で(お墨付きをもらって)製薬・販売したものを「御免薬」と称した。「置き薬」として配置家庭薬の形態で販売されたようだ。のれんには、「家伝 百効」とある。店オリジナルの薬である。

 「百効」は「疝気妙薬百効散」が有名。疝気(せんき)とは、近代以前の日本の病名。当時の医学水準では、はっきり診別できない疼痛をともなう内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていた俗称である。のれんにも「さんせん さん後(産前産後)」に有効といった説明があり、血の病など婦人病に効いたようだ。

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●お茶漬け屋(朝日屋)

 お茶漬けは、江戸時代、各街道筋の宿場の茶屋や旅籠でも提供される、気軽でポピュラーな食事メニュー。

 お茶漬けといえば、創業三百余年・江戸料理八百善に伝わる「一両二分の茶漬」の話が有名だ。

 「八百善伝説」の中でも代表的なものが、江戸末期の書物「寛天見聞記」(寛政から天保までの風俗の変遷を記し、奢侈に流れる風潮を嘆いたもの)に書かれた「一両二分の茶漬け」である。

 ある時、美食に飽きた通人が数名、八百善を訪れ、「極上の茶漬け」を注文した。しかし、なかなか注文の品は出てこない。半日ほど経ってやっとありつけたのは、なるほど極上の茶漬けと香の物であった。しかし、勘定が一両二分と聞き、通人たちはさらに驚く。さすがに高すぎると言うと、主人はこう答えた。「香の物は春には珍しい瓜と茄子を切り混ぜにしたもので、茶は玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水はこの辺りのものはよくないので、早飛脚を仕立てて、玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせました」。

 それを聞いた通人たちは、「さすが八百善」と納得して帰ったという。当時の一両は、現在の貨幣価値で56万円と言われ、いかに高価だったかがわかる。(参考:創業三百余年・江戸料理 八百善)

 江戸の通人は、いかにグルメであったか、あるいは八百善の格式を物語るエピソードである。しかし考えてみれば、玉露の煎茶に使う水なら、毎日仕入れていたはずで、余分な金をかけて、わざわざ早飛脚を頼むというのも不思議な話である。もしかして創作話かもしれない。

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