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2013年2月の28件の記事

《みどりの山手線》に出会った

山手線の103系通勤型電車誕生50周年を記念して、みどり色を車体側面全体にラッピングしたE231系電車が走っている。1編成なのでなかなか出会うことがない。ところが、やっと乗ることができた。

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  50周年だから昭和38年(1963)当時から、みどり色の車両だった。(196312月から1988年まで、オールみどりの車両が走っていたそうだ)いまは、ステンレスの銀にみどりの帯である。

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しかし、このラッピング車両だが、サントリーの緑茶「伊右衛門」がスポンサーだ。側面には、丸に茶のマークがしっかりある。それだけではなく、車内も伊右衛門の広告ばっかりで、正直なところ興ざめである。(広告宣伝費はサントリー持ちというわけで、JR東日本もしっかりしている)

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  車体広告の期間は、2013218日~317日。

  車内が伊右衛門一色になるADトレインは、218日~32日の期間である。

そういえば4年ほど前には、「山手線」命名百周年で、チョコレート色(正式には山手線カラーは、ぶどう色)の車両が走ったことがある。これも明治チョコレートの提供であった。やっぱり、JR東日本はしっかりしている。

 

《山手線》命名百周年記念ラッピング車両

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その10】

◆室町二丁目続き

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紺のれんの木屋が4軒続く。木屋本店(本家)は普請中(建て直し中)である。

木屋本店の初代・林九兵衛は、当初大坂(大阪)で豊臣家の御用商人を務める、薬種商であった。その後、徳川家康に招かれ、当主の弟が江戸へ下り、本町二丁目に店を開いた。大阪の店と分かれたため、姓の林を二つに分けて木屋を名乗った。江戸での創業は、天正元年(1571)。明暦の大火(1657)後に、室町一丁目に移り、将軍家をはじめ諸大名家に出入りして繁盛し、のれんを分けた店々など数店舗が並び「(日本橋)室町に花咲く木屋の紺のれん」とうたわれた。当時は、打刃物木屋、三味線木屋、化粧品木屋、文房具木屋、象牙木屋などがあったそうだ。(参考:日本橋木屋「木屋の歴史」)

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●小間物問屋・打物(打刃物)問屋(木屋伊助) 

 店の中には「火打石品々 水戸石」の看板が読める。この木屋伊助は、寛政四年(1792)に奉公先の本家・木屋九兵衛からのれん分けし独立したと伝わる。実は、現在でも刃物の名店「日本橋木屋」として営業中である。井桁の中に木の商標は、現在も変わっていない。

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(江戸時代の商標)井桁に木

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(日本橋木屋 現代の商標)

 火打石は生活必需品。材料は石英、メノウ、玉髄、黒曜石、チャートなどで、鋼鉄と打ち付け合って火花を飛ばした。江戸時代、江戸で人気があった石は、見た目が白くてきれいな「水戸火打石」(水戸石)であったそうだ。現在の茨城県の「奥久慈」地方(県北部久慈川の上流地帯、福島県・栃木県との県境)が産地のメノウ(瑪瑙)である。

 なお、上方での火打石は、京都・鞍馬山近辺のチャートが人気であった。そのほか、水晶の産地で有名は甲州一円も産地。仙台・伊達家御用達の産地は、宮床近辺だった。

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(小間物問屋 木屋伊助)

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(打物問屋 木屋伊助)

 『江戸買物独案内』(文化七年1824)には、井桁の中に木の商標のほか、本家と同じ丸に木の商標を示す打物問屋としても紹介されている。この2通りの商標の使い分けについては、現日本橋木屋の説明を引用する。

 本家木屋には「暖簾分けは許すが、本家と同じ商品を扱うことは許されない」と言う しきたりがあり、その為打刃物を扱うようになったと言われていますが、文政七年(一八二四)刊行の 「江戸買物独案内」現在の買物ガイドブックには小間物問屋と打物(打刃物)問屋と二つの木屋伊助の広告が載っています。本店の商号は丸に木の印ですから、本店と同じ小間物については遠慮して井桁に木の印を用い、本家の扱わない刃物については本店と同じ丸に木の印を使ったものと思われます。

(日本橋木屋「木屋の歴史」より)

 

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●小道具問屋(木屋久右衛門)

 店先の屋根から下がる看板には、「兜(かぶと)と陣笠」の絵が描かれ、「陣笠 かぶと卸」と読める。店の中には、笠や黒い陣笠、そしてシュロの箒(ほうき)が見える。

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(木屋久右衛門の商標)

『稀代照覧』では山に木、『江戸買物独案内』では丸に久と小丸。

この商標の違いについての理由はわからない。

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(木屋久右衛門 小間物問屋)

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●算盤問屋・草履問屋?(木屋市兵衛)

 店の中の様子がわかる。客と算盤片手に商いをする主人の姿か。店内には陣笠や笠らしき商品も見える。向かって右に算盤型の看板が架かかっている。算盤問屋らしいが・・・。

『江戸買物独案内』(文化七年1824)では、「草履問屋」となっているが、この絵(『稀代照覧』)が文化二年(1805)頃の作とすると、まだ草履の商いをはじめていなかったのかもしれない。

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(木屋市兵衛の商標)

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(木屋市兵衛 草履問屋)

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●塗物・下り蝋燭・小間物問屋(木屋九兵衛幸七)木屋本店※普請中

 絵にあるように建て替え中である。

普請之内 蔵ニ而商売仕候 木屋幸七」“普請の内、蔵にて商売仕(つか)まつり候(そうろう)”の札を掲げている。意味は、「工事中ですが、裏の蔵で商売をしています」である。なかなかの商魂である。ほかの木屋と比べても、裏に蔵を所有する大店であったことがわかる。

 

 『江戸買物独案内』では塗物問屋ならびに下り蝋燭問屋と紹介されている。また(昭和の)戦前まで、木屋林九兵衛商店として、同所で「塗物・漆器専門店」を営んでいたことが知られている。

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(木屋九兵衛幸七 鳶職人)

 絵では、地固め(地形、ヨイトマケ作業)のために、重い槌(柱)を数人で上げ下げする様子である。木屋本店出入りの10名の鳶職。背中を向けている鳶の着物(はっぴ)の背中に、丸に木の字の木屋本店の商標がある。大八車で運んだたくさんの基礎石が見える。さすがに本店の建て替えである。

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(木屋九兵衛の商標)

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(木屋九兵衛 塗物問屋)

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(木屋九兵衛 下り蝋燭問屋)

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その9】

◆室町二丁目

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●墨筆硯問屋(中村屋忠兵衛)

 店の前の建て看板には、硯の絵があり、「中村 忠兵衛」とある。またこの看板の下に筆の絵が描かれている。荷下ろしを終えた馬と馬子がいる。

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●上絵師

 冠婚葬祭の和装式服・七五三・宮参りの初着などに、家紋を手描きにより描きあげることを「上絵」といい、その技術者を「紋章上絵師」という。白い障子には、家紋と共に「上絵」と「うハゑ」の文字が読める。

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●書物問屋(須原屋市兵衛)

 店の前には、どーんと箱看板が置かれている。「書肆 須原屋 市兵衛」、「本屋」と書かれている。のれんのところに広告札が掛かっていて「御絵そうし(絵草紙)」、「狂哥(狂歌)集」、「南郭先生詩文集」とある。

 

 南郭先生は、服部南郭(はっとりなんかく)で江戸時代中期の日本の儒者・漢詩人・画家である。荻生徂徠の高弟であった。

 

 須原屋市兵衛は、江戸時代の出版業界の最大手であった須原屋茂兵衛からのれん分けをした店である。安永3年(1774)に杉田玄白、前野良沢の『解体新書』を出版したことで知られる。そのほかには、平賀源内、貝原益軒、大田南畝、賀茂真淵、林子平、森島中良などの著作を出版していた。人気の出版元。蔵を保有していなかったため、文化三年(1806)の「文化の大火」により、大きな被害を受けたと伝わる。その後、市兵衛は文化八年(1811)に死去し、家業は徐々に衰退していったようである。

(このあたりの事情は、平凡社ライブラリー『江戸の本屋さん』今田洋三著、に詳しい。江戸時代の出版業界を丹念に調べた平易な書物である) 

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●小道具問屋(長嶋屋)

 散らかっている店内が見える。どんな小道具を商っているのかはわからない。

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●小道具問屋(屋号不明)

 

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(巡礼)

小道具屋前の通りには、二人の巡礼者。坂東札所巡りの途中だろうか。「笈摺(おいづる)」という白装束が見える。また、天秤棒を担ぐのは、どんぶり(容器)売りだろうか。

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(どんぶり売り)

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●下り雪踏・下り傘・小間物諸色問屋(河内屋)

 黒塗りの土蔵造りの立派な店である。大きく開かれた店内には、どうやら雪踏が見える。「下り雪踏」、「下り傘」だから、関西から船などで江戸に下ってきた品物。

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ジオラマ《明治牛乳本所販売店》

 なつかしい牛乳屋さんのジオラマである。東京スカイツリータウンのソラマチ5階、「産業観光プラザ すみだ まち処」に展示されている。それによれば東京の墨田区で明治牛乳は生まれたそうだ。昭和3(1928)、「明治牛乳」が発売。墨田区の両国工場にて製造されたそうだ。

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 昭和の30年代の牛乳屋さんの風景である。店先には、配送用の「ダイハツミゼットMP3型」がとまっている。ハンドルをそれまでのバイク式から円形ハンドル式にかわった。大ヒットした車だ。それにしてもミゼットは、音がうるさかった。(エンジンの構造上の問題だろう)

それから、配達には、もっぱら大きな布製の袋をつけた自転車かバイクが使われた。

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 牛乳屋さんの隣には、お米屋さんがある。店の前では赤いランドセルの女の子が、駆け足だ。そういえば、一昔前、街にはこんな風景がいくつもあったものだ。

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昭和のテレビ・ヒーロー《怪傑ハリマオ》

昭和30年代、《怪傑ハリマオ》はヒーローだった。

いまでも主題歌は、口をついてくる。

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 まっかな太陽 燃えている

果てない南の 大空に

とどろきわたる 雄叫びは

正しい者に味方する

ハリマオ ハリマオ

ぼくらのハリマオ

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『快傑ハリマオ』(かいけつハリマオ)は、昭和35年(1960年)4月から36年(1961年)6月まで日本テレビ系で放送されていた。

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東南アジアの抑圧された民衆を助ける正義の味方が、ハリマオだ。ターバンとサングラスに拳銃が、トレードマーク。

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実際には、マレーシアに実在した「谷豊」をモデルにしたそうだ。亡父が第二次大戦でマレーに進軍したとき、当時日本軍に協力していた本物のハリマオに会ったという話をきいたことがある。あんなにカッコよくはなかったそうだ。

Harimao

オモチャのサングラスに風呂敷のターバンで、遊んだ。風呂敷を水たまりに落とし、泥だらけにして叱られた。

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《太陽のトマト麺》で「太陽の茄子ラーメン」

 《太陽のトマト麺》本所吾妻橋店(東京都墨田区吾妻橋3-2-4)は2回目である。今回は「太陽の茄子ラーメン」を食べた。800円。

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 調理場が見えた。ちょっとしゃれた洋風フライパンにオリーブオイルを引く。ニンニクを炒め、江戸菜(小松菜)と茄子を入れる。鶏肉も入る。手馴れた感じで、フライパンを前後に振っている。最後に仕上げのイタリア産トマトペーストが、ごっそり。

一方で細麺が茹で上がる。スープを入れたどんぶりに麺が入る。上からフライパンの具材を入れ、刻み長ネギを落とす。

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モンゴルの天然塩、ニンニクが効いている。スープはコクのあるトマト味である。額と目の下かた汗が噴出す。熱々で冬向きなラーメンだ。おそらく夏場に食べる人はいないだろう。なんとなく、クセになる味。

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昭和のテレビ・ヒーロー《月光仮面》

 昭和30年代、《月光仮面》はヒーローだった。

いまでも主題歌は、口をついてくる。

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 どこの誰だが知らないけれど、誰もがみんな知っている。

 月光仮面のおじさんは、正義の味方だ、良い人だ。

疾風(はやて)のように現れて、疾風のように去って行く。

月光仮面は誰でしょう。月光仮面は誰でしょう。

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 テレビ放映は、昭和33年(1958)から34年(1959)だったらしい。まだまだ幼少の頃だったので、細かいストーリーは覚えていない。しかし、オートバイに乗って必ず助けにやって来る。ジャンプをしての瞬間移動は得意だ。テレポーテーションなのだろうか。そして両手の二丁拳銃。悪役の銃を撃ち落とすが、決して殺しはしない。

勧善懲悪のわかりやすい話が多かったように思う。

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(悪役 ドクロ仮面)

 

近所の悪ガキ仲間で月光仮面ごっこをよくやった。黙って持ち出し、首に巻いた月光仮面用の風呂敷を落とし、泥で汚して怒られた。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その8】

    駿河町通り

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(三井越後屋 江戸本店:『熈代勝覧(きだいしょうらん)』

●三井越後屋:江戸本店/呉服物所・両替店、江戸向店/京糸物問屋・袈裟問屋

延宝元年 (1673)、三井高利は、江戸本町一丁目に間口九尺(約2.7m)の「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業。十年後の天和三年(1683)、駿河町に移転した。間口七間余(約12.7m)、奥行二十間(約36.3m)の大店舗となり、さらに発展して駿河町の大通りをはさんで、江戸本店が三十五間(約63.6m)、江戸向店が二十一間半(約39.1m)と、道行く人を圧倒していた。この繁盛ぶりを一目見ようと、ここは観光名所でもあった。

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(三井越後屋 江戸向店:『熈代勝覧』)

 越後屋の発展の秘訣には、高利が編み出した画期的商法があった。店の看板には「呉服物品々 現銀(現金)無掛値 駿河町 越後屋」とある。この「現金掛け値なし」による正札販売が、第一の要因である。

 それまでの呉服屋は、お得意先の大名、武家、大きな商家などへの訪問販売が主流であった。見本品をもって行き、注文を取る「見世物商い」や商品を実際に見てもらう「屋敷売り」が一般的であった。しかも支払いは、ほとんどが盆と年末の「節季(せっき)払い」のため、支払い時期までの金利や集金のための人件費など、相当な金額が上乗せ(掛け値)され高いものだった。最悪の場合は貸し倒れのリスクもあった。そこで越後屋は、いままでの習慣であるツケをやめ、現金による支払い方式を徹底させた。

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(越後屋の小僧さん:『熈代勝覧』) 

第二の成功要因として、「店先(たなさき)売り」である。店頭での現金定価取引により、資金の回転も速く、掛け値がないため安く販売することができた。また、お得意先へ出向く小僧さんたちは別にしても、訪問販売の要員を減らすこともできたであろう。

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(奥村政信 駿河町越後屋呉服店大浮世絵)

さらに第三として、各種サービスの改善を図った。それまで一反単位でしか売らなかった布地を、客の希望に合わせて「切り売り」(小ロット販売)した。また、店内に専属の職人を待機させ、それまで何日もかかっていた仕立てを、急ぐ客には二刻(約4時間)のスピードで、その日の内に用意させた。

 いまならあたり前だが、雨の日には傘を貸し出し、市中には宣伝用の広告(引札)を配って、古くなったり痛んだ品物を特価で販売することもあった。

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(歌川豊春 浮絵駿河町呉服屋図) 

 店内は、商品ごとに帳場が20以上も並び、それぞれに売場責任者の番頭、手代、丁稚(でっち)、職人を配置し、お客の細かい要望に対応した。これら店員の数は、江戸だけでも約800人もいたという。(寛政三年1791には日本橋の店だけで従業員792人の記録がある)

店員たちのほとんどは、越後屋本店のある京都やその近郊から雇用され、江戸に派遣されていた。10年間は故郷に帰ることは許されず、仕事に励んだと伝えられている。

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(三井越後屋展示模型 江戸東京博物館)

江戸本店(呉服物所・両替店)では、高級な呉服物を扱い、江戸向店(京糸物問屋・袈裟問屋)では、木綿・綿・関東絹物や袈裟を扱っていた。駿河町に移転後、本店には、新たに両替店を開いた。高利は両替店を活用した「為替」でも商才を発揮、江戸と大坂間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方を引き受け、江戸・大阪・京都の三都で順調に営業したようだ。

この二つの店の間には、当時富士山が見えたようだ。(広重の版画にある。もちろん現在は、高層の建物が立ち並んでいるので見えない)その様子が川柳によまれている。

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(広重 東都名所 駿河町之図)

富士山は絹と木綿の合(あい)に見え

※参考:『歴史人112011年№14 KKベストセラーズ、『ゼロからわかる江戸の暮らし』学研201210月、『江戸で暮らす。』新人物往来社 20109月、三井広報委員会

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《馬賊》@浅草の「坦々麺」

久々に浅草の《馬賊》へ行く。大好きな「坦々麺」を食べた。この店は、とにかく麺がうまい。命がけで打つ手打ち麺。モチモチで、弾力があり、のど越しがよい。

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 坦々麺は800円。スープも適度に辛いが、辛すぎることはない。山椒がピリリと効いている。具材は、青菜のホウレン草と長ネギに挽肉くらいだ。それでも十分。スープにぴったりの手打ち麺だから、ここは、やはり麺を楽しむ店なのである。長い間、人気店であり続けるのも納得である。

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■馬賊

■東京都台東区雷門2-7-6 豊田ビル1F

TEL03-3841-6002

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その7】

    室町三丁目

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●桐油合羽問屋(二文字屋)

屋根から下がる看板は「合羽」の形で、「桐油」と書いてある。建て看板も同様に、合羽型で「御桐油」とある。

 桐油(とうゆ)は、アブラギリ(油桐)という木の種子から得られる赤黄色の油である。油は塗料などに用いる。乾燥が速く、耐水性があり、古くから桐油紙・番傘などに使用された。

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●薬種問屋・小間物問屋(萬屋)

 ここ室町三丁目は、薬種問屋街である。漢方薬や和漢薬の原料である生薬を扱っている商店(問屋)が、集まっている。

 木製の看板が二つ。「天元子」は、腹痛の薬と思われる。一方は「真珠散」と読める。成分に真珠貝をはじめ、菊花茶や八ッ目鰻が入っている目の薬である。疲れ目から白内障、緑内障や加齢黄斑変性、網膜のトラブルに効いたようだ。

 店の前で大きな容器をかざしているのは、塗師(ぬし)である。漆(うるし)を塗る職人である。おそらく漆器の修理のため、街頭で店開きして客を待っている商売だろう。

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●薬種問屋(俵屋)

 屋根看板は黒地に白字の「小児丸薬」、2階の木の看板は「たはらや(俵屋)ふり出薬 風(風邪)一切によし 元祖俵屋・・・」とある。

 そのほか、下げ看板(赤)には「血道大妙薬」、大きな木の看板には「わきか(ワキガ)の妙薬」とあるのもおもしろい。

 ここ俵屋の「俵屋振り出し風薬」が、風邪に効くということで大評判であったそうだ。通称「俵屋薬」と呼ばれた看板商品だった。江戸中でこの風邪薬が人気であった証拠に、川柳にもよまれている。

 「たわらやの次にかかるがやぶいなり」

ちょっと風邪かな、と思うとまず薬を飲む。効果がなければ医者(やぶ医者?)へ行く。そんな意味である。

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●仏具問屋(万屋市太郎)

 黒塗り土蔵造りの店である。丸に万の字の商標が、のれんに染められている。店内に腰かけているのは、お客だろうか。

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●薬種問屋・煙草問屋(大黒屋)

 大きな木の下げ看板は、「名薬 御たはこ(たばこ)品々 大黒屋吉右衛門」と読める。同様に左側の下げ看板には「御はらくすり(腹薬)大坂久太郎町堺筋 平野屋五郎兵衛」とある。大坂の平野屋五郎は、有名な両替商だが、豊富な資金力で腹痛の薬を販売していたのだろうか。

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●薬種問屋(福嶋屋)

 丸に一の商標ののれんは、福嶋屋である。大きな建て看板には、「白養散」とあり、鏡を見る中国美人の姿が描かれている。美女は、西施(せいし)である。

 正式には「西施白養散」という。顔の血行を良くし、顔色を白く、肌をきめ細かやかに光沢を出す化粧品である。西施と名付けているのは、中国古代四大美女の一人にあやかっている。(四代美女は、西施のほか、王昭君:おうしょうくん・貂蝉:ちょうせん・楊貴妃:ようきひである)

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●薬種問屋・白粉・陣笠問屋(鎰屋:かぎや)

 店の中では主人が何やら作業中のようだ。薬の調合でもしている様子。

 道に置かれた箱看板は、「おしろい」、「あらい粉(洗顔料)」とある。下げ看板には、陣笠の絵があり「笠おろし(卸)」と読める。黒地に白文字の下げ看板は、「痰(たん)の妙薬」、向かって左端の看板は、「たむし大妙薬」と書いてある。苧麻(ちょま)と記した看板もある。

 苧麻は、11.5mのカラムシという草で、茎の皮から繊維が取れ、衣類や紙、魚網に使用されていた。江戸時代には置賜地方(出羽国米沢・長井など)、最上地方(出羽国)、会津(陸奥国)などが産地。

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●帳面問屋(大坂屋)

 「大福帳」の大きな建て看板が目を引く。看板の下には「とけぬき(とげ抜き)」、「書画扇」の札が下がっている。屋根からは、黒地に白文字で「雪駄おろし(卸)」の下げ看板がかかっている。

 大福帳は、前にも登場したが、商家で使う現金出納帳で、当時の必須アイテムである。大看板自体が、大福帳型というのもわかりやすい。

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●薬種問屋(越後屋)

 丸に越のマークの越後屋は薬種問屋だ。建て看板に「肝涼圓」の文字。看板の上には赤い縁取りの円形木版看板で、「鯉の滝登り」が描かれている。

 肝涼圓(かんりょうえん)は、15歳以下の小児の癪(しゃく)やひきつけ、夜鳴きに効くらしい。鯉の滝のぼりのように、売れ行きも上々だったのであろう。

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●糸物問屋(万屋)

 店の両脇、道に大きく張り出した日除けののれん。「けんきん かけねなし(現金掛け値なし)」とある。売り掛けではなく、現金商売で安く売ります、というアピールである。黒地に白抜きで「萬糸物しなゝゝ(よろず糸物品々)」と書かれている。店の中がのぞけるが、なんだか散らかっている様子。

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●算盤問屋(幸嶋屋さしまや)

 扱う品物はソロバンである。大きな大きなソロバン型の建て看板がユニークだ。

 江戸時代には、もちろんソロバンは武士や商人たちに広く使われた。

 この時代の掛け算や割り算の方法では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあったため、江戸時代までは、「上部五珠2つ」の形式が多く使われた。

 明治時代になり、不要な五珠を1つ減らした「天1珠(上部)・地5珠(下部)」の五つ珠(いつつだま、1桁に5510までの数が置ける)の形が普及した一方、地5珠の形は長く続いた。さらに昭和10年(1935)、小学校教育で珠算が必修となり、最後の不要な一珠が取り除かれて、現在の形である「天1珠・地4珠」の四つ珠(よつだま、1桁に549までの数が置ける)のものになった。

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下町ランチ《Ginreiギンレイ》日替わりランチとドライカレー

 東京スカイツリーも近い墨田区東駒形の喫茶店《Ginreiギンレイ》。ここは、良心的なランチがうまい。住宅街にあるので、ほとんど常連の店である。

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この日の「日替わり」である。エビピラフ+ハヤシライス+野菜サラダ。味噌汁。結構バラエティーに富む。コーヒー付きで850円。

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 ドライカレーも捨てがたい。ミックスベジタル、マッシュルーム。味噌汁。コーヒー付きで、こちらは800円。

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住所:東京都墨田区東駒形4-17-5

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その6】

 本町二丁目(南)

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●紅白粉問屋・御伽羅之油問屋(玉屋)

土蔵造りの立派な店である。大きな建て看板は、「雲井香 御きゃらの油 御おしろい」と読める。看板の下には「御匂袋」と「御香具」と記した広告札が下がっている。何よりも店に向かって右端には、紅屋を示す紅布の旗が、高く立っている。

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『江戸買物独案内』の中に「笹色飛光紅」を扱う「玉屋」紅問屋の広告が収められている。玉屋はもともと京都の紅問屋で、小町紅の販売を行っており、江戸の日本橋本町二丁目に出店していた。普通の紅ではなく、つやのある光輝く口紅であったのだろうか。。

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 ところで看板の「雲井香」は、香道で使用するお香のこと。

香道の根拠として引用する歌の証歌には、つぎのものがある。

 わたの原 こき出で見れば 久方の

 雲井にまこふ 沖つ白波

 (前関白太政大臣 藤原 忠通)

 伽羅の油(きゃらのあぶら)は、江戸前期、京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた鬢(びん)付け油の一種。日本髪で、おくれ毛を止め、髪のかたちを固めるのに用いる。最初は、ろうそくの溶けたものに松脂を混ぜて練ったものだった。のちには大白唐蝋・胡麻油・丁字・白檀・竜脳などを原料とした。正保・慶安(16441652)の頃、京都室町の髭の久吉(ひさよし)が売り始めて広まった。やがて江戸でも売り出し、人気を集めた。

 

 匂い袋(においぶくろ)、もしくは香り袋(かおりぶくろ)とは、常温で香りを発する香料を詰めた布袋のこと。日本の伝統的な匂い袋には、白檀、丁字、桂皮、龍脳、大茴香といった香料の粉末が使われる。中でも白檀や丁子は防虫効果が高く、そちらを主とした「防虫香」も市販されていた。

 

 香具だが、香道のお線香は、中国の製造方法が伝わったのは、江戸初期。その手軽さから国内に一気に広がったとされる。中国南部より開港場であった堺・長崎に、お線香の製造技術が入り、庶民に普及した。また、寛文年間(16611672)には、国内で初めてお線香が製造されたそうだ。

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●呉服小間物問屋袋物・雛人形・手遊問屋(丸角屋)

 立派な土蔵造りのこの店の登録商標は、四角に丸でマルカク屋。とてもわかりやすい。大きく張り出した日よけのれんには、「けんきんかけねなし(現金掛け値なし)」とあり、木製下げ看板には、「御はなかみ袋(御鼻紙袋)・御たはこ入(御煙草入れ)」と、売れ筋商品が書いてある。

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 鼻紙袋と煙草入の組み合せが意外だが、江戸時代から明治半ばまで、大人の女性が使う物入れは、鼻紙袋やタバコ入れに、財布などを入れるのが主流だった。『江戸買物独案内』を見ると、御鼻紙袋・御煙草入れ袋を扱う専門店が、数多くあったことがわかる。

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●煙管問屋(中村屋源八)

煙管(キセル)の絵が描かれた大きな下げ看板が目を引く。店先に置かれた箱看板にも煙管の絵と「源八」である。

 

 煙管(キセル)の歴史を見てみよう。

南蛮貿易によって江戸時代の初めごろには、たばこやパイプなどの喫煙具、喫煙風習も伝わったといわれている。喫煙風習が入ってきた当初から、すぐにキセルによる喫煙方法が定着した。

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(提供:JTたばこワールド)

 キセルとは、東アジアに多く見られる喫煙具で、刻みたばこを詰める「雁首(がんくび)」と「吸口」、それらをつなぐ「羅宇(らう)」からできている。キセルは、ヨーロッパのパイプをモデルに生まれたといわれ、江戸時代には日本独自のキセルが作られるようになった。

 

 江戸初期のキセルは、竹や陶器、あるいは真鍮などの金属が用いられ、火皿が大きく長めなものが多く見られた。中には、花見や芝居など人が集まる場所で目立つために持ち歩く、長さが1メートルもある「花見ギセル」などと呼ばれるキセルもあった。

 

 江戸中期のキセルは、吸口と雁首の部分に彫刻が施されるなど、ファッション性に富んだものも増えた。初期のキセルに比べて、細身でシャープなものも増えた。

 

 江戸後期のキセルは、刻みたばこの刻み幅が細くなるにつれ、「火皿」の部分も小さめになった。持ち運びが便利なように、長さも2030cmのものが主流になった。

(参考:JTたばこワールド)  

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●仏具問屋(西村万屋市兵衛)

 土蔵造りの店内には、黒光りする仏壇が並んでいる。仏具といっても、広く神仏に関するものを販売していたようだ。仏壇・仏具の修理・販売から太鼓・神輿の製造・修理・販売、神具の販売など。数珠などもあつかっていたようだ。

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 『江戸買物独案内』の「仏師」の箇所では、神仏具一式、楽器類を商っていたことがわかる。

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昭和のテレビ・ヒーロー《少年ジェット》

昭和30年代、《少年ジェット》はヒーローだった。

いまでも主題歌は、口をついてくる。

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 勇気だ。力だ。 誰にもまけないこの意地だ。白いマフラーは正義のしるし。

 その名もジェット、少年ジェット。進めジェット、少年ジェット。J・E・T。

 

 行こうぜシェーンよ。とりこになっても負けないぞ。正しく強いこの快男児。

 その名もジェット、少年ジェット。行こうジェット、少年ジェット。J・E・T。

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 名探偵の助手・少年ジェットは、白いマフラーをたなびかせ、オートバイに乗って表れる。お伴のシェパード犬はシェーン。怪盗ブラック・デビルをはじめとする悪役たちに立ち向かう。

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武器は拳銃のような「スーパーコルト」。発射すると敵をしびれさせる。

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また「ミラクルボイス」といって、“ウー、ヤー、タァー”と叫ぶと、これまた、この声で敵は失神する。決して殺したりしない。

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 放映は昭和34年(19593月~35年(19609月。続編の『新少年ジェット』が、昭和36年(19617月~37年(19627月と、意外に短い。

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 番組のオープニングで、シェーンが登場。ジェットを呼ぶ。いくつかの風船を拳銃で撃った後、オートバイに乗って行く。

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(怪盗ブラック・デビル)

いつもラストのナレーションでは、

「明るく元気で正しい心。少年ジェットこそ、まことの少年の姿であった」と、締めくくる。小さなこども心にどれだけ感動したことか。母の和装用の白いショールを勝手に持ち出し、首に巻き、“ウー、ヤー、タァー”を何度もやった。ショールを泥で汚して怒られた。

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 《少年ジェット》は、間違いなく昭和のヒーローだった。

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《ララミー牧場》ジェスの近況

 以前、このブログで《ララミー牧場》について取り上げた。いまでも反響が大きいので少し続編を。

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(以前の記事)

《ララミー牧場》をみたことがありますか?

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主役のジェスことロバート・フラー(Robert  Fuller)は、俳優を完全に引退。2004年、奥様のジェニファーと共にロスアンゼルスからテキサスへ引っ越した。美しい牧場暮らしで、毎日釣りをして余生を楽しんでいるそうだ。今年(2013年)、フラーはなんと80歳になる。

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  最近の写真がある。2011年、フェニックスでおこなわれた西部劇フェスティバル(Festival Of The West 2011)のファンパーティーで撮影されたもの。顔の血色も良くお元気なようだ。

(写真提供:The Official Robert Fuller Website

 なつかしい《ララミー牧場》の再放送はないのでしょうか。

 

 

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その5】

    本町二丁目

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●出雲寺和泉掾〔いずもじ・いずみのじょう〕(書物問屋)

 出雲寺和泉掾は、江戸時代初期、京都で創業した由緒ある名門の書店。ここが、いわば江戸支店である。幕府が江戸城本丸内に設けた紅葉山文庫(徳川将軍のための御文庫、いまの図書館)に書物を納入する御用達商人(御書物師)であった。

 また漢学、有職書、歌書、『白氏文集』、『源氏物語』など和漢の古典を中心に出版したほか、『武鑑』(後述)や『江戸町鑑(ちょうかん)』を発行する特権をもっており、書肆(しょし:書物を出版したり売ったりする店)としての格式第1位の老舗である。

 絵では右に蔵があり、左が店舗である。「書林 書肆」と書いた大きな箱看板が目立つ。店の屋根には「御用 御書物所 出雲寺和泉」の看板が読める。のれんの下の防火用水桶の上には広告札が掛かっている。「江戸大繒」、「諸國名所」、「道中記」、「大成武鑑」とある。売れ筋の書物に違いない。

 

江戸大繒は江戸の地図、諸國名所は、いまでいう観光ガイドブック、道中記は東海道や中仙道、日光街道を歩いて旅する案内書で、伊勢詣のものあった。

 (大成)武鑑は、江戸時代の大名や幕府の諸役人について詳しく書かれた紳士録・人名録のようなもの。御用商人にとっては、取引先の情報を得るための実用書であり、藩士(武家)にとっては、武鑑に記載された紋所で人物を識別して、相応の対応をとる際の情報源となっていた。

 ちなみに江戸町鑑は、武鑑と同じように毎年改定されて出版され、主な内容は、町奉行所関係の名簿、名主名簿とその支配町名、町ごとの火消しの纏(まとい)や管轄範囲の図、町名・地名一覧である。

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●糸物問屋(久野屋善助)

店先に纏のような糸の束が見える。麻綿糸問屋として、縫紐から麻紐まで幅広い商いを行っていたようだ。

 ところで天保八年(1837)、この久野屋から暖簾分けして、現在の銀座5丁目みゆき通りに、「久野屋菊地利助商店」が創業した。驚くべきことに、創業から176年、現在も営業中である。いまは「銀座くのや本店」として和装小物専門の有名店である。(東京都中央区銀座1-28-12 鹿倉ビル3階)

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●呉服問屋・白粉問屋(近江屋甚兵衛)

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大きな暖簾で店内は見えない。文政七年(1824)発行の『江戸買物独(ひとり)案内』にも掲載されている。

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●薬種問屋(小西林兵衛)

 お店の屋根には「けとく(解毒)」の看板。右側には「順血湯」の建て看板。薬袋の形の下げ看板は、「薬種 小西 林兵衛」と読める。さらに下げ札には「人参痢症圓」、「風一切乃薬」、「たん せき 妙方品類色」、「六味地黄圓」とある。さらに道に置かれた箱看板は、「小西 林兵衛 けとく」と読める。ずいぶんにぎやかな店である。

 解毒というのは、体内から毒を排出するという意味で、「薬」を指すのであろう。

 なお、順血湯の効能は、脳溢血、眩暈(めまい)、頭痛、耳鳴り。人参痢症圓は嘔吐や下痢症に効く。そのほか、風邪に効く万能薬、たんやせきをしずめる妙薬もある。さらに六味地黄圓(六味地黄丸)は、貧血症状の改善、滋養強壮作用、血行障害の改善、排尿困難、頻尿、むくみ、かゆみなどに効能がある万能薬だったようだ。

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●居酒屋(山屋?)

 店の中で1杯やっている男が見える。いつの世も勇気を仕入れるのは「居酒屋」だと思う。

江戸は大工や職人など、男性のひとり者が多かった。庶民の憩いの場である居酒屋の出現は、江戸時代である。最初は酒屋の店先での立ち飲みが起源らしい。どうやらこの頃の居酒屋では、豆腐の田楽や煮物など、おつまみも簡単なものが多かったようだ。それにしても、昼間から飲めるなんて・・・、天下泰平である。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その4】

日本橋絵巻《熈代勝覧(きだいしょうらん)》の世界である。文化二年(1805)当時の生き生きとした街並みを歩く。いよいよ「十軒店(じっけんだな)」、旧本石町と本町二丁目(今の室町三丁目)にはさまれた小さな町である。

◆十軒店

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●京糸物問屋(藤屋)

 土蔵造りの立派な店である。店の前には、雛市の仮設店舗が建ち並ぶ。養蚕から始まる絹は、やはり京のものが最高ランクであった。おそらく京の都から取り寄せた糸を扱う店である。

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●十軒店

この場所は、現在の日本橋中央通り、千疋屋総本店前になる。『江戸名所図会』(天保五年1834)にその説明がある。

十軒店。本町と石町の間の大通りをいふ。桃の佳節を待ち得ては、内裏雛・裸人形・手道具等の廛(みせ)軒端を並べたり。端午には冑人形(かぶとにんぎょう)・菖蒲刀(端午の節句に、ショウブの葉を刀に見立てて男児が腰に差したもの。後世は飾り物として節句に飾った木太刀。しょうぶがたな。あやめだち)ここに市を立てて、其賑をさをさ彌生の雛市におとらず。又年の暮に至れば、春を迎ふる破魔弓・手毬・破胡板を商ふ。共に其市の繁昌、言語に述べ盡すべからず。實に太平の美とも云はんかし。其餘尾張町・浅草茅町・池の端仲町・麹町・駒込抔にも雛市あれども、此所の市にはしかず。

 十軒店とは、本町と石町(本石町)の間の大通りをいう。桃の節句(三月)の前には、内裏雛をはじめ、雛人形や雛道具などが店に並ぶ。端午の節句(五月)には、武者人形や菖蒲刀などが並ぶ市となり、その賑いは三月の雛市にも劣らない。また年の暮になれば、新春を迎える破魔矢や手まり、羽子板などを売る。(十軒店の市は、年に三回開設されていた)十軒店のこうした市の繁昌ぶりは、語り尽くせないほどで、実に太平の世(平和そのもの)の美しさともいえる。そのほか、尾張町(東京都中央区銀座)・浅草茅町(台東区浅草橋、柳橋)・池の端仲町(台東区池之端、上野)・麹町(千代田区麹町)・駒込(文京区駒込)にも市が立つが、とてもこの十軒店にはかなわない。

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 元々、雛人形は京都から大消費地・江戸へ船などで運ばれた。江戸で雛人形がつくられるようになるのは、寛政年間(17891800)以降とのことだ。

 現代、雛人形を購入するのは嫁の実家が普通だが、本来は娘が生まれたら、その子の無事な成長を祈って身内・親類や近所の家々が人形を贈るのが常であったそうだ。そうなると、当時人形専門店は少なく、季節商売の際物(きわもの)であったから、庶民は人形市へ出かけ、高級品を売る常設店より安く売る仮設店で購入したようだ。

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 十軒店の市は、桃の節句時が225日から32日に、端午の節句時は425日から54日に、年の瀬は文字通り年末に開催されていた。(日付については諸説ある)

 ヨシズ張の仮設人形店であるが、際物で縁起物である性格上、定価販売ではなかった。店側は値段を高くふっかけ、客は値切る。何度かの値段交渉の後、折り合いがつく。おそらくそんなやり取りが繰り返えされたのであろう。

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●雛人形屋(万屋よろずや):右

●雛人形屋(大黒屋):左

大黒屋の下げ看板には、桜花と娘と三番叟の絵が描かれている。両方の店の店内には、高級そうな雛人形がきちんとした箱の上にのせられ売られている。

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●二八蕎麦饂飩屋(三河屋)

 箱看板は「二八 そば切 うんどん(うどん)」と読める。残念ながら店内の様子は見えないが、繁盛していたに違いない。

さて現代でも主流の「二八そば」は、①つなぎの小麦粉等が2割・そば粉8割という原料配分に由来する説と②2×816(にはちじゅうろく)で当時、そばは一杯16文(130円としておよそ480円程度)という値段を意味する説があるようだ。(そばとならんでうどんもあるので、おそらく②の説が有力だろう)

 また当時は、そばを茹でないで、蒸していた。いわゆる「せいろ」である。また、せっかちで気の短い江戸っ子が、いちいち「つゆ」につけるのも面倒だと、つゆをそばに“ぶっかけ”て、食べたことから「かけそば」と呼ばれるようになったそうだ。

 そば屋のメニューは、かけそばのほかには、つぎのようなメニューがあった。

「しっぽくそば」:玉子焼き・蒲鉾・椎茸・くわひ・鶏肉入り(24文)。「あられそば」:青柳(バカ貝)の貝柱をのせる(24文)。「天麩羅(てんぷら)そば」:芝エビの天ぷらをのせる(32文)。「花巻そば」:浅草海苔をかけた(24文)。(参考:『守貞謾稿』)

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●帳面問屋(槌屋)

 大きな「大福帳」の看板が目を引く。

江戸時代の「大福帳」は、商家で使用されていた金銭出納簿のことである。

大きさは、半紙を縦に半分に折った大きさの物が主流。片方を紐で綴じ、帳場の格子にかけられるようにしてあり、表紙には「大福帳」と記し、折り目が上になるようにして横長の帳簿に縦書きした。

 最初に日付を記して、以下時間の経過に伴い相手先と内容、金額を記載していく。そして一日が終了すると担当の番頭が、集計し、銭箱(金庫)の中の現金残高と照合して、主人の所へ大福帳と現金を持っていき、チェックをしてもらうという手順である。

 大福帳の看板の下には、下げ看板が二つあり、「折手本」、「さけ帯(下げ帯)」と読める。折りたたみ式の書道の手本や厚紙でできた下げ帯(江戸時代、御殿女中などが夏に締めた帯。両端に厚紙を入れ、背後で結んだ余りを左右に張って垂らしたもの)も扱っていたのであろう。

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●薬種問屋(藤木)

 大きな看板には「御免 百効」と読める。

江戸時代中期頃から、奉行の許可を得て、天下御免で(お墨付きをもらって)製薬・販売したものを「御免薬」と称した。「置き薬」として配置家庭薬の形態で販売されたようだ。のれんには、「家伝 百効」とある。店オリジナルの薬である。

 「百効」は「疝気妙薬百効散」が有名。疝気(せんき)とは、近代以前の日本の病名。当時の医学水準では、はっきり診別できない疼痛をともなう内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていた俗称である。のれんにも「さんせん さん後(産前産後)」に有効といった説明があり、血の病など婦人病に効いたようだ。

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●お茶漬け屋(朝日屋)

 お茶漬けは、江戸時代、各街道筋の宿場の茶屋や旅籠でも提供される、気軽でポピュラーな食事メニュー。

 お茶漬けといえば、創業三百余年・江戸料理八百善に伝わる「一両二分の茶漬」の話が有名だ。

 「八百善伝説」の中でも代表的なものが、江戸末期の書物「寛天見聞記」(寛政から天保までの風俗の変遷を記し、奢侈に流れる風潮を嘆いたもの)に書かれた「一両二分の茶漬け」である。

 ある時、美食に飽きた通人が数名、八百善を訪れ、「極上の茶漬け」を注文した。しかし、なかなか注文の品は出てこない。半日ほど経ってやっとありつけたのは、なるほど極上の茶漬けと香の物であった。しかし、勘定が一両二分と聞き、通人たちはさらに驚く。さすがに高すぎると言うと、主人はこう答えた。「香の物は春には珍しい瓜と茄子を切り混ぜにしたもので、茶は玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水はこの辺りのものはよくないので、早飛脚を仕立てて、玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせました」。

 それを聞いた通人たちは、「さすが八百善」と納得して帰ったという。当時の一両は、現在の貨幣価値で56万円と言われ、いかに高価だったかがわかる。(参考:創業三百余年・江戸料理 八百善)

 江戸の通人は、いかにグルメであったか、あるいは八百善の格式を物語るエピソードである。しかし考えてみれば、玉露の煎茶に使う水なら、毎日仕入れていたはずで、余分な金をかけて、わざわざ早飛脚を頼むというのも不思議な話である。もしかして創作話かもしれない。

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《ありあけ》の「九州ラーメン」はうまい。

東京スカイツリーに程近い《ありあけ》で「九州ラーメン」を食べた。さすがに九州出身のマスターだけあり、うまい。650円。

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 なんといっても白濁した豚骨スープに細麺。具材はメンマ、キクラゲ、万能ネギに焼豚である。やや味が濃いのだが、元気が出てくるスープであることは間違いない。

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■長崎ちゃんぽん ありあけ

■東京都墨田区向島1-29-10

TEL0338290534

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その3】

◆本石町二丁目(南)

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●袈裟衣問屋(和泉屋)

 丸に泉の商標が、のれんに目立つ。下がっている板の看板は、「現金無掛値(現金掛け値なし)御袈裟衣品々」と読める。おそらく仏教関係の僧侶が着用する「袈裟」衣装の専門問屋だろう。

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●絹紬 木綿問屋・蝋燭問屋・苧麻問屋(井ます上総屋)

井ますかづさやである。店舗の隣には蔵もある。

絹紬(けんちゅう)は、柞蚕糸(さくさんし:主産地が中国、インドなどの野蚕絹糸)で織った薄地の平織物で淡褐色を帯びて節がある。布団・洋傘・衣服などに用いる。けんちゅうつむぎともいう。

 苧麻(ちょま)は、カラムシ(イラクサ目イラクサ科の多年生植物。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、植物繊維をとるために栽培されてきたもの)の繊維で織った布。

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●地唐紙卸問屋(丸屋彦兵衛)

 唐紙(からかみ)は、襖に貼る加工紙の一種である。産地と特徴において、「京から紙」と「江戸から紙」の二つに分類される。江戸の唐紙師を、京を本場とする呼称に対して「地唐紙師」という。享保年間(171636)に多様な紋様が考案され、「江戸から紙」が量産されたことから、「享保千型」との名がある。

 

江戸から紙は、江戸という大消費地を控えて需要が多く、産地としては近くの武蔵の秩父・比企郡で産する細川氏を用いたそうだ。

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●傘・雪踏問屋(伊勢屋)

店内にたくさんの唐笠が下がっている。雨具といえば、合羽(かっぱ)や蓑笠が主であった。竹の細い骨に紙を貼って油をひいて柄をつけた「唐傘(からかさ)」を庶民が愛用するようになるのは、江戸時代も半ばすぎのようである。

 

唐傘は、「番傘(ばんがさ)」とも呼ばれていた。これは、商店などの広告を兼ねて、店の名前や屋号、「番号」を記し、客に貸し出されたため。番傘は、雨の日には動く広告塔にもなり、橋の上などでは、番傘の広告の花が開くような風景が見られたそうである。

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●薬種問屋(保童園)

 店のなかでは、客と主人が何やらやりとりをしている様子。薬種問屋は、漢方薬や和漢薬の原料である生薬を扱っている商店であった。一部では、調剤薬局もおこなっていたようだ。

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《プロント》で「くせになるナポ~リタン」

 東京ソラマチ1階の《プロント》でナポリタン(スパゲティー)を食べた。780円。カレー風味である。大きなソーセージや野菜、タマゴ焼きが敷いいてある。確か名古屋にもこんな感じのナポリタンがあった。

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 食べ応えがある。しかしイタリアには、ナポリタンはない。何度も行ったが「ナポリ」にもない。しいていえば、「ポモドーロ」というトマトソースでからめたシンプルなスパゲティーが、ナポリタン的である。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その2】

◆本石町二丁目

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●呉服問屋・小間物諸色問屋(唐木屋七兵衛)

 まず「小間物」は、結髪用品や髪飾り類、 白粉(おしろい)、紅のような化粧品や半襟、帯止めのような服飾と装身具をいう。

 諸色というのは、「いろいろな品物」といった意味だが、一般的には海産物、樟脳、煙草入、袋物など多種多様なものを含む。

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●印判屋

印判は印、はんこ(判子)、印章の意味である。現代でもよく見かける「はんこ屋」さんである。

 江戸時代にはいると、武士階級は文章や書画には花押し印も使用したが、印鑑も多く使用した。印鑑が、一般民衆の生活まで深く根を下ろしたことは、江戸時代の大きな特徴の一つ。これは徳川幕府が、産業の発展と民衆の安定に力を注いだ結果、町人商業階級は、経済活動を活性化させたために、商取引、貸し証文、個人の保証に至るまであらゆる証書書類に印鑑が用いられるようになったからだ。

こういった社会情勢の中では、一般の民衆の権利義務関係を保律するために、印鑑の使用が生活の上で不可欠なものとして、民衆の中に定着していった。

 

 しかし武士とは違い、民衆には、朱印を使うことは許されなかった。(朱肉は、高価でもあり、なかなか手が出なかった)一般民衆に許されたのは黒印の使用(墨)であった。この当時すでに町民、農民にも印鑑使用の義務が生まれ、農民は名主や村の長、町役人に印を届ける義務もあった。届けられた印鑑は、必要に応じ照合できるように、印鑑帳がすでに作製されていた。届けた印鑑は実印と呼ばれ、重要な文章に使用され、日常的には一般に裏印が使われていたそうだ。日本の一般的な印鑑の使用は、江戸時代からの始まりが認められる。

 

 印鑑がなかった時代には、いうまでもなく爪印(拇印)で間に会わせていたようだ。

 さて(印を押すのに使用する)朱肉については、江戸後期になると、「印肉売り」が町を回っていて、印肉の補充もやっていたそうである。いろいろな商売が成り立つものだ。

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●紙問屋(加賀屋)

 加賀屋が紙問屋である確証はないそうだ。店の前には、到着したばかりの荷が積み上げてある。また二人が、何やら荷ほどきをしている様子。

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●紅問屋・小間物問屋(津金)

店が大きく開かれ、店先ではおかみが客の相手をしている。また店の前で大きな荷物を担ぐのは「貸本屋」らしい。

 

 さて、紅問屋であるが、おもな商品は「口紅」。江戸時代の口紅は、山形最上地方などでつくられる紅花の花弁が原料であった。花にわずかに含まれる赤色色素を抽出して、精製したもので、現在の油性基材の口紅とは異なる。

 口紅の製造は、紅屋または紅染屋が紅染めの兼業として行う形態が主であった。小間物屋や薬種問屋といった化粧品を扱う店では、紅屋から仕入れた口紅の卸売りを行うことが多かった。

 抽出・精製した口紅は、陶磁製の猪口や皿、あるいは貝殻などの内側に塗った状態で、販売された。

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●笠・雪踏問屋(丸屋)

 店の右側に笠が積まれている。店内に吊るされているのが、雪踏(せった)であろう。右手の木製の下げ看板には「せった品々」と読める。

 

 江戸時代から雪踏(雪駄)は上方(関西)の下り雪駄と下方(関東)の「地雪駄(じせった)」があった。貞享の末頃(16851687)になると、現代の雪駄の原型に近い仕上げ方法が確立され、表には、真竹皮をさらし、色も黒味のない物で編み、地雪駄や下り雪踏より外見がよく、丈夫にできていたので江戸中を席巻する流行品となった。(西鶴の「五人女」、「好色二代男」)

 また、この頃からすでにチャラチャラとなる雪踏の音が、世人に好まれていた。

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●墨筆硯問屋(高嶋与助)

 店内にはお客さんが一人。店先の箱置き看板は、「墨筆硯問屋 高嶋 与助 折手本品々」と読める。書の道具のほかに、書道の手本も販売していたようだ。

 

 墨の産地であるが、江戸時代に入ると各地でも製造されるようになったが、古くから技術の高い奈良に多くの職人が集まったため、結果として各地の墨の生産は衰えてしまった。奈良では、日本の伝統産業として今日まで受け継がれている。現在の墨の主要産地は、奈良県産が9割のシェアを占めそうである。

 

 硯の産地については、つぎのものが知られている。山口県宇部市の赤間石、宮城県石巻市の雄勝石、三重県熊野市の那智黒石、山梨県早川町雨畑の玄晶石(粘板岩)等である。

 その中でも「赤間石」(宇部)との「雄勝石」(石巻)の二つは百年以上の歴史があり、国の伝統工芸品指定を受けている。しかし、残念なことに雄勝石は、20113月の東日本大震災で大きな損害を受け生産が停止したため、入手は困難になってしまったそうだ。

 

 筆の産地は、京都や東京もあるが、奈良県(奈良筆)、広島県の熊野町(熊野筆)、呉市(川尻筆)、愛知県の豊橋市(豊橋筆)、宮城県の仙台市(仙台御筆)、などが有名。

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●鮨屋(玉鮓 翁屋庄兵衛)

 店の障子は、「寿しや 玉鮓 庄兵衛」と読める。 

   

江戸時代の「握りすし(鮓)・握り寿司」については、文献がある。

 

 江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。

以上。大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添ふるに新生薑(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。(略)

 

握りには、タマゴ焼き・エビ・海老そぼろ・白魚・マグロ・こはだ・アナゴ煮があったとある。おおむね一つ八文でタマゴ巻きは十六文。生姜のほかに、ひめだても箸休めだった。

 庶民がちょいとつまむには手頃な値段であった。またその1個(1貫)の大きさも現代の2倍、3倍という話もあり、23個で事足りた。

 

 江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また屋たいみせのみにて売るも多し。江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。

(『近世風俗志五(守貞謾稿)』P岩波文庫107P110参照)

 

江戸にはすし屋が多く、町内に12軒はあったようだ。(そば屋はその半分)屋台も多かった。いくつか有名店(阿武松すし、松の鮓)もあった。

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●白粉問屋(三文字屋)

  店先には桜の花ののれんである。

白粉(おしろい)は、その名のとおり肌を白く見せる化粧のベースである。江戸時代にも広く普及していた。当時の原料は、デンプン、貝殻、粘土、鉛白(えんぱく:炭酸水酸化鉛。白色顔料)、甘汞(かんこう:塩化第一水銀)などである。このうち鉛白粉(なまりおしろい)はのびやつきがよく、比較的安価であったため広く使用された。現代で考えれば、鉛や水銀が使われていたとは驚きだ。

 

 当時は、白粉を水で溶きながら刷毛を使った。顔はもちろん、首筋、背中の一部まで白塗りをしていた。どれだけの手間と時間がかかったことか。

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●鏡師(藤原定治)

 鏡をつくる鋳物師の姿が見える。下げ看板には鏡の絵と「津田薩摩」の文字が読める。津田薩摩(守)というのは、当時鋳物師の間で流行った屋号のようなもの。当初は、「天下一」(ナンバーワンの職人)で、「天下一佐渡」「天下一但馬」などと名乗ることが多かったが、禁止されたため、石見守、肥前守、薩摩守といった受領国名○○○○の守(かみ)と付けた。

 

 なお、鏡は現代のようなガラス製ではなく、江戸時代までは、青銅(銅に錫や鉛を加えたもの)でできた銅鏡であった。文様のある鏡の裏面、反対側の表面が、錫でメッキしてきれいに磨いた鏡面で顔がよく映った。

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●煙草問屋(太田屋)

 広い店内には、お客が三人と番頭さんが二人。賑わっている様子が見える。

 

 江戸時代は、刻んだ葉たばこを、「煙管(キセル)」に詰めて吸っていた。老若男女にこよなく愛されていたようである。当時、喫煙の年齢制限等はなかったため、小さな子供ですらも吸っていたそうだ。ちなみに江戸は木と紙で出来た都市であったため、「歩き煙草」は、江戸時代を通じて厳禁とされていた。

 

 日本で「たばこ」の製造や販売が、産業として発達したのも江戸期のこと。明暦(16551658年)以降には、町中に「たばこ」のみを扱う専門の店舗が見受けられるようになり、そこここに「細刻みたばこ」の製造・販売を専業とする店が増加した。

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昭和の中華料理店《生駒軒》浅草雷門の「広東メン」

 浅草雷門の《生駒軒》。広東メンを食べた。おいしかった。680円。

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具材はキャベツ、キクラゲ、タケノコ、ニンジン、長ネギ、シュリンプ(小エビ)、豚肉。餡かけなので、なかなか冷めない。冬向きである。スープのベースは醤油味。鶏がらで丹念にだしをとっている。おすすめの一品。

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野菜もたっぷり入っているのがうれしい。それにしても《生駒軒》は麺の量が多い。

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東京ソラマチ《東京チャンプ》「和牛メンチカツカレー」

東京スカイツリータウン・ソラマチの3階にあるタベテラス(フードコート)。カレー専門店《東京チャンプ》がある。今回は、ソラマチ限定の「和牛メンチカツカレー」に挑戦。850円。

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 メンチカツは、昼時さすがに揚げ立てではないが、冷めてもいない。少し小さいと思ったが、うまいメンチカツである。

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  カレーのコクとうまさは、前回も経験したところだ。ただしコストパフォーマンス的には、高い。人気の「まかないカレー」に比べると、キャベツは付くがマカロニサラダがない分、高いと思う。メンチにコストがかかるといわれそうだが、小さいので700円が妥当である。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その1】

 日本橋界隈を描いた絵巻《熈代勝覧(きだいしょうらん)》から、江戸時代の商店を見てみよう。

◆神田今川南橋詰~本銀町(ほんしろがねちょう)通り

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●瀬戸物問屋

神田の今川橋を渡ると、瀬戸物問屋が軒を並べる。江戸中期・後期頃から生活雑器を作り始め、日本各地に大量に出荷したのは瀬戸焼きである。産地の瀬戸などから船積みされたものが、江戸湊に着き、堀を小船で運ばれた。この場所は荷揚げしやすい場所で、瀬戸物問屋が集まったようだ。

「瀬戸物」は、一般大衆向けの日常用陶磁器の俗称。一般に用いられるようになったのは、江戸時代に入って、瀬戸や美濃において大衆向けの日常食器類が主として焼かれ、それが全国的にひろく流通するようになってからとのこと。通常、瀬戸物の語を用いるのは近畿地方以東の東日本だそうだ。

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●水飴屋(長井小右衛門)

水飴は、米や粟(あわ)を原料として、でん粉質を、麦もやしなどに含まれる酵素で糖化してつくる。古代からある甘味料だが、砂糖は使わない。

 江戸時代、享保三年(1718)の『古今名物御前菓子秘伝抄』(菓子のレシピ本)には、水あめの作り方が次のように紹介されている。

 「もち米の上白米1升(約1.8ℓ)を飯に炊き、麦のもやし5勺(約90ml)を細かくして飯と一緒に桶に入れて混ぜ、水をひたひたに加えて10時間ほど置く。それを布袋に入れて漉(こ)し、鍋に入れて加熱してねり詰める。」

◆本銀町(ほんしろがね)二丁目

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●桐油合羽問屋(山田屋平左衛門)

 暖簾には山田屋とある。合羽(かっぱ)の形をした建看板(桐油 山田屋平左衛門)や屋根看板(合羽)も見える。

桐油(とうゆ)は、アブラギリ(油桐、トウダイグサ科の落葉高木)の種子から得られる赤黄色の油。この油は塗料などに用いる。乾燥が速く、耐水性がある。日本では古くから桐油紙・番傘などに使用された。きりあぶらともいう。

 「合羽」の語源は、16世紀に来日したキリスト教の宣教師の外衣(ポルトガル語の「capa」)である。合羽の他に、南蛮蓑とも呼ばれた。

合羽は、当初、羅紗を材料とし、見た目が豪華なため、織田信長や豊臣秀吉などの武士階級に珍重された。江戸時代に入ると、富裕な商人や医者が贅を競ったため、幕府がこれを禁止し、桐油を塗布した和紙製の物へと替わっていった。

 合羽の原料となる桐油紙は、合羽だけでなく、荷物や駕籠の被いや出産の際の敷物(お産合羽)としても使用されたそうだ。

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●書物問屋(須原屋善五郎)

 出版社(版元)でもあり、書店(販売店)でもある。左側の箱看板「書林」とあるのが店舗のようだ。右側には白い蔵があり、書物が並ぶ暖簾の下に広告用の札が三つ見える。よく見ると「徂徠(荻生徂徠)先生文集」、「はいかひ(俳諧)明題集」、「江戸砂続篇」と読める。ベストセラーのポスターであろうか、いまでいう「これ売れています」、「当書店、売れ筋人気商品」的なもの。

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●仏師(万屋)

丸に万の暖簾である。仏師・大仏師というのは、仏像をつくる職人のことだろう。店内が見えるが、どうやら仏壇が並んでいるようだ。江戸の人々は現代人よりも信心深かったのだろうか。

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●汁粉屋・雑煮屋(藤屋)

2階建ての店舗ばかりの中に珍しく平屋である。屋根は「土居葺き」または「トントン葺き」といい、野地板の上に杉や椹(さわら)の木を薄く割った板に重ね葺きして、竹釘(たけくぎ)で打ち付けてある。(その音から「トントン葺き」とも呼ばれている)

 

店の前の箱看板は「志るこ餅 代十二文」、「そうに(雑煮)十二せん(十二文)」と読める。餅が入ったお汁粉が12文(130円として360円)なら食べたい。店の中には大きな樽か釜が見える。お客さんはいないようだ。

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●指物屋

店内に指物師の姿が見える。家具職人のことで、箱、長持、机、椅子(いす)、たんすなどを板材で、さし合わせて組み立てる者である。指物大工または箱大工ともいう。

指物とは、釘や接着剤などの接合材料を使わず、木と木を組み合わせることによって組み立てられる木工のこと。作られるものは、小箱や花器などの小さなものからタンスのような大きな家具まで様々だ。

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●仕出屋

仕出し料理の業者。仕出し弁当屋ともいう。仕出料理は出前料理ともいい、注文に応じて調製してお客に届ける料理で、そうした専門業者は江戸時代後期の江戸に出現したようだ。

 客の注文に応じて高級な弁当や料理をつくって届ける(仕出し)業種は、江戸時代のゆたかな都市社会の中で、料理茶屋などでの特殊なサービスの一種として起ったものと考えられる。芝居茶屋や相撲茶屋などの幕の内弁当も仕出しが始まり。

障子には、「仕出御□(不明)御望次第(お望み次第で)大平、吸物、丼、いろいろ」とある。ちなみに大平とは、平たくて大きな椀のことで煮物などを盛る。大平椀。

 ”お客様のご要望に応じて、煮物などやお吸い物、どんぶりものなどいろいろできます。”

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●蝋燭(ろうそく)問屋(会津大隈屋)

店に向かって右側に「ろうそく」の絵の看板がある。和ろうそく。何やら近所のご隠居が話し込んでいる様子。

江戸時代のロウソクは木蝋(もくろう)といい、櫨(はぜ)や漆(うるし)など、ウルシ科の植物の実に含まれる脂肪分を抽出して作った。作るのに手間がかかったため、決して安くはなかった。広間で使う大きな百匁(375g)掛けのロウソクは1本200文した。現代感覚でいうと130円として約6,000円。だからロウソクを使っていたのは裕福な大名や豪商ぐらいだったそうだ。

 庶民の灯りはイワシやニシンなどの魚油(ぎょゆ)のほか、菜種(なたね)油を使っていた。しかし菜種油は高価で「菜種油一升で米が二升買える」と言われ、裕福な家でしか使えなかったという。

 菜種油は1合(180ml)で41文。一晩にだいたい四勺(しゃく)か五勺(一勺は18ml)は使うので12021文。1日約600円~630円。月に換算すると約18,000円~18,900円程度になる。菜種油の電灯代は高い。庶民はそれより半値、あるいは1/3の魚油を使い6,000円から9000円程の電灯代であった。これも高い。したがって魚油は臭いし、早く寝よう、となった。夜ふかしはせず、朝は早く起きる。なるほど「早起きは三文の得」である。

ところで江戸時代の行灯の明かりは、現代の60W電球の1/50程度の明るさしかなかったそうだ。(薄暗いので本を読めるかどうか)

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●御入歯所・薬種問屋(松井・清養丹)

 薬問屋であるが、御入歯所と看板にある。

江戸時代には「入れ歯」があった。そのころの入れ歯は、木ロウで型を取り、ツゲの木を削って作っていた。ツゲの木は緻密で硬く、また抗菌作用があり。不潔になりにくく、入れ歯の台として最適な材料。前歯には自分の歯かあるいは他人の歯を絹糸で台にくくり付け、奥歯は金属の釘を何本も打ち付け、よく噛めるようにしてあったようだ。

 

江戸時代、そんな日本の歯科医療を支えていたのは、仏師(仏像を作る人)であった。専門の入れ歯師(職人)もいた。彼らが、殿様や身分の高い人の求めに応じて、ツゲの木を彫刻して入れ歯を作っていた。かなり精巧なものである。

 ところで看板の清養丹は、どんな薬であったかはわからない。

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江戸時代の日本橋絵巻《熈代勝覧》

東京メトロ「三越前」駅の地下コンコースの壁面に、日本橋絵巻とも呼ばれる『熈代勝覧(きだいしょうらん)』の複製絵巻が展示されている。(絵巻物の原寸は縦43.7cm、横1232.2cm、コンコースの展示は、現物の1.4倍の大きさで写真撮影)この絵巻が実にすばらしい。

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  この絵巻とは、江戸時代・文化2(1805)頃の右端の神田今川橋から左端の日本橋魚河岸までの大通り(現在の中央通り)を俯瞰(ふかん)して描いたもの。絵巻には通り沿いの88軒の問屋や店舗に加え、行き来する町人や武士1,671人(男1,439人・女200人・こども32人)、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽が生き生きと描写され、屋号や商標が書かれた暖簾(のれん)、看板、旗なども克明に描かれている。江戸時代の町人文化を知る貴重な資料といわれている。

 

 絵師・山東京伝の作とも推定されるが、作者は不明で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されている。おそらく幕末から明治初期に海外へ流失したものだろう。(1999年にベルリンで発見され、2006年に日本でも公開された)

 タイトルの「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れた景観の全体を視野に収めて眺める」ともいう意味。

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  なお、制作年代については、絵の中の越後屋から少し日本橋方向に行った、上絵師屋(家紋を描く商売)と須原屋(書肆:しょし・本屋)の前に両国回向院本堂の再建を勧請する四名の信者がいて、彼らのもつ箱に「回向院 文化二」の記載がある。さらに江戸の三大大火の一つ、文化三年(1806)の「丙寅(ひのえとら)の大火」で日本橋周辺の建物の多くは焼失したとされており、おそらく文化二年(1805)頃の作品と考えられている。いってみれば、大火直前の貴重な記録といえるそうだ。

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なかでも現代の三越のルーツである呉服屋の「越後屋」は、江戸中心部の名所として「熈代勝覧」の中でも最大の大店として描かれている。店の前を行き交う人々も多い。   

寛文十三年(1673)、三重松阪出身の三井高利は、江戸本町1丁目に小さな呉服屋を開業。天和三年(1683)、本町から駿河町に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置し、その後の「三井越後屋」の基礎を築いた。江戸から明治・大正を経て、現在まで続く三井財閥の歴史である。

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《プロント》で「ホットワイン」

《プロント》のワインセットである。赤ワインは「ホット」にしていただく。これはセットで「生ハム」が付く。体が温まる。

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 本物の「ホット(レッド)ワイン」となると、シナモンやハチミツ、レモン汁、砂糖などを加えてあっためるところだが、これはワインを人肌に燗(かん)をしたもの。カゼ気味や疲れたときには、かなり効く。《プロント》へ行くときは、ほとんど1時間1本勝負で、生ビール1杯にハイボール1杯程度が普通だ。この日は、締めにホットワイン。長居はいけない。

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《国語》の答案用紙

 仲間内のFacebookに掲載されたN君の息子さん(小学校1年生)の国語の答案用紙が最高である。

問題)日づけをあらわすかん字は、とくべつの よみかたを する ことが あります。つぎの---------(タテ)せん(下線)の かん字の よみを かきましょう。

1        一月一日 (お正月)カッコ内が息子さんの答え。正解は「ついたち」。

2        二月二日 (みんなでこたつ)正解は「ふつか」。

3        六月六日 (わかばのこみち)正解は「むいか」。

4        七月七日 (天の川)正解は「なのか」。

5        八月八日 (なつやすみ)正解は「ようか」。

6        十二月二十日 (早くこいこいお正月)正解は「はつか」。

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先生は「いみがちがう(意味が違う)」とウサギの絵を赤で書いて、バツにしている。

しかしユニークな発想である。やわらかい頭を大事にするなら、

「よく考えました。先生はマルにしたいけど、とくべつの(特別の)よみかた(読み方)を書く問題なので、バツになります。でもよくできました」と、こどもさんをほめると思う。人を育てる、教育するというのは、きっとそういうことだろう。

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東武電車の《ソラカラちゃん》スカイツリーへ行くには

ソラカラちゃんが、東武電車に堂々と乗っている。コメントはつぎのようなものだ。

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東京スカイツリータウンへ
ご来場の節は、
電車・バスなどの公共交通機関を
ご利用ください。

スカイツリーは、東武線「とうきょうスカイツリー」駅が一番近い。浅草から一つ目だ。次に近いのは、東京メトロ半蔵門線・都営浅草線の「押上(スカイツリー前)」駅だ。
 また東武バスを中心に「スカイツリーシャトル」バスが走っている。羽田空港線(所要約60分・900円)、東京駅線(約30分・500円)、東京ディズニーリゾート線(約55分・500円)、上野・浅草線(約60分・200円)がある。
詳しくは、http://www.tobu-bus.com/

バスは道路状況により、渋滞することもあるので、要注意。できれば電車で来ていただきたいものである。

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たぬきときつねに1杯食わされた《小諸そば》

 高級立ち食いそばの《小諸そば》である。何やら最近、新商品を売り出した。たぬきそばときつねそばにとろろ・目玉焼きを加えたもので、「たぬきときつねに1杯食わされた」そば(うどんも可)である。“月夜のばかしそば”という。なかなかしゃれたネーミング。

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ボリューム満点、そば1.5倍の大盛で420円。食べてみたが、不思議な味だ。やっぱり「たぬき」はタヌキ、「きつね」はキツネと、シンプルに食べたい。

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 《小諸そば》は、薬味の刻み長ネギが入れ放題で、小梅も好きなだけ食べられる。カテゴリーは「立ち食いそば」だが、ほんの少しぜいたくができるので高級だと思う。しかし個人的には「かき揚げそば」のフアンである。

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