カテゴリー「江戸時代の旅」の139件の記事

《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その28】最終回

217日松山(埼玉県東松山市)→下新井(埼玉県所沢市)約35km

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■(松山)ここに稲荷大明神(箭弓稲荷:やきゅういなり、埼玉県東松山市箭弓町)がある。ここに右は八王子への道、左は川越への道がある。この間に井草の渡し、6文。

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(川越)

川越より四里。何や何右衛門にて昼食、100文。ここに松平誠丸の御城(川越城)がある。石高17万石。

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(川越)

■所澤より四町。坂口屋文蔵にて小休止。

■下新井 出発の日から帰りまで64日。

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(熊野神社1

午(安政五年)217日に帰る。3月節句に(無事に旅を終えた祝いで)お宮・鎮守熊野大権現にてご馳走になり、御祈祷料100文を出す。

同行の旅連中にて(鈴木)宇右衛門宅にて日待ち(仲間の者が集まって、ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する行事)をする。その夜は「かげ縛り」をして願をかけた。その後、9月に旅連中にて相談し、熊野宮へ石幟杭(石碑)を立てることにした。9月より月に(全員から)1朱(3,750円)集め、未(安政六年)正月17日に立てた。石幟杭の代金は82朱(487,500円)で必要な金は23朱(41,250円)であった。(1両=6万円として)

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(熊野神社2

 熊野大権現は、当時、下新井村の鎮守であった熊野神社(埼玉県所沢市西新井町17-33)である。現在もこの地に鎮座する。江戸時代にはつぎのように呼ばれていた。

□武州入間郡下新井邑 惣鎮守熊野宮(元禄10年)

□武蔵国入間郡新井郷 熊野社(江戸後期)

□武蔵国入間郡所澤町大字下新井字上川北

 村社熊野神社(明治初期)

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(熊野神社3

 旧下新井村の鎮守である。毎年大晦日の夜には、蛇に模した藁縄を鳥居に飾る若締め神事が行われる。

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(伊勢大々講)

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(伊勢参宮記念樹碑)

 実は現地に行き、境内を捜したが、安政年間の伊勢参宮の碑はなかった。比較的新しい「伊勢大々講」や「伊勢参宮記念樹」の碑は、存在している。江戸時代頃の石塔などは、境内の隅に苔むしたまま置かれていた。

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(江戸時代石塔等)

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その27】

214日松井田(群馬県安中市松井田町)→むろ田(群馬県高崎市室田)約16km

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■(松井田)ここに橋があり、橋代5文。次に橋があり、橋代5文。この間に矢じゅう峠がある。

■秋間村(安中市秋間)、三軒茶屋より十八町。

■二軒茶屋より一里半。この間に風切り峠がある。上に風穴がある。ここにて浅間山が見える。

■三ノ倉(高崎市倉渕町三ノ倉)より十八町。

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(榛名山 気象庁)

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(般若坊 高崎市提供)

■榛名山より三里。般若坊(宿坊)にて、五人が、「坊入:ぼういり」の儀式で参詣後に本坊にて精進料理と神酒の接待を受ける。弐朱(1/8両で約7,500円)。

榛名山は未(南西)向き。仁王門の中、右にそり橋岩がある。お参りする所が多い。伊香保への抜け道がある。

 

214日、むろ田(高崎市室田)より三里。旅籠・大のや小右衛門にて宿泊。宿泊代232文。

 

215日むろ田(群馬県高崎市室田)→本庄(埼玉県本庄市)約36km

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(広重 高崎)

■高崎(群馬県高崎市)より一里十九町。ここに松平右京大夫の城(高崎城)がある。石高82千石。

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(英泉 倉賀野)

■倉我野(群馬県高崎市倉賀野)より一里半。ここにからす川の渡し、10文。

■新町(群馬県高崎市新町)より二里四町。この間に神名川がある。ここに上州と武州の国境がある。

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(英泉 本庄)

215日、本庄より二里廿九町。旅籠・諸井幸太郎に宿泊。宿泊代232文。

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216日本庄(埼玉県本庄市)→松山(埼玉県東松山市)約33km

 

■(本庄)ここに安部摂津守の城(本庄城)がある。石高23千石。

 

■深谷(埼玉県深谷市)より三里。

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(英泉 深谷)

 深谷宿は中仙道(中山道)の中でもっとも旅籠の数が多かった。また飯盛女も多く、賑わったっていた。英泉の「深谷の駅」には、そんな深谷の夜景が描かれている。

 

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(英泉 熊谷)

■熊谷(埼玉県熊谷市)より一里。だい屋にて昼食、200文。左側に蓮生寺(熊谷寺:ゆうこくじ、埼玉県熊谷市仲町43)があり、熊谷次郎(熊谷次郎直実)の石塔がある。この間に渡しがあり、16文。

 

 熊谷寺は、山号を蓮生山常行院という浄土宗の寺である。板東一の剛の者と称された熊谷次郎直実が出家して、法力房蓮生法師となり、有縁無縁のすべての衆生と共に蓮のうてなに生まれんと願い、ひたすらお念仏を称え続けた草庵が始まりである。直実は本堂付近にあった館で生まれたといわれ、境内には墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、両脇には夫人と子供の墓が立っている。

 

■野原(埼玉県熊谷市)より一里。ここに文殊菩薩(文殊寺、熊谷市野原623)があり、ご朱印20石、日本三文殊である。

 

 聖徳太子ゆかりの文殊菩薩をまつり、日本三体文殊として知られる。知恵の寺として受験生などでにぎわう。

 

■上岡村(埼玉県東松山市)より二里。ここに観音がある。

 

 この観音は、妙安寺(東松山市岡1734)の上岡観音と思われる。馬頭観音としては関東地方随一の霊場といわれている。毎年219日に行われる例大祭には絵馬市が立つなど、馬の守り観音として信仰を集めている。

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216日、松山(東松山市)より四里。旅籠・糀屋喜兵衛にて宿泊。宿泊代264文。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その26】

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211日善光寺(長野県長野市)→坂本(坂城、長野県埴科郡坂城町)約27km

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(善光寺 GoNagano

■(善光寺)宿より数珠、草履(ぞうり)など三品を28文にて購入し、これを持って参詣する。本堂は南向き。戒壇めぐりをするのには6文。三門より左に赤門がある。ここで、けちみやく(血脈)を出してくれる。(血脈は)一つ72文。本堂より左に経堂がある。一町ばかり下って、ねじや?がある。(善光寺は)ご朱印千石、開帳は日の出からである。丹波川の渡し39文。

 当時、参拝者は、紙布などでつくられた白の経帷子(きょうかたびら)、白い鼻緒のわら草履、白木の数珠の三品を求めた。それらをつけて、南無阿弥陀仏と唱えながら戒壇巡りをおこなったそうだ。

「戒壇めぐり」は、本堂の内々陣の右手に入口がある。七段の階段をおり地下を進む。真っ暗である。右手で腰の高さで壁をなでて進む。暗闇の中を45mほど進むと、ご本尊の下あたりで「極楽の錠前」に触れることができる。この鍵に触れることでご本尊と結縁し、極楽浄土行きが約束されるという。

 「血脈」は、本来、在家(ざいけ)の受戒者に仏法相承の証拠として与える系譜のことである。善光寺では、血脈を浄土往生の認定証、あるいはどんな罪を犯していても極楽往生ができるという免罪符のように取り扱っていた。御血脈授与所において、志納をすれば(お金を払えば)誰でも額に「極楽往生を保障する血脈の印」をいただくことが出来たという。(当初は実際に額に判を押していたが、次第に札になったそうだ)

■丹波嶋

■しのゝ井より廿町。柳や甚兵衛にて昼食、89文。ここに竹間川(千曲川)やしろの渡し、22文。

■やしろ(屋代、長野県更埴市)より一里半。この間の小嶋村、帯(を売る店)が多い。

■下戸倉より一里半。

■坂本(坂城、長野県埴科郡坂城町)より三里。旅籠・平林与三右衛門にて宿泊。宿泊代172文。

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212日坂城(長野県埴科郡坂城町)→小諸(長野県小諸市)約30km

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(信濃国分寺 Wikipedia)

■上田(長野県上田市)より二里。ここに松平伊賀守の城(上田城)がある。石高53千石。この間、右に国分寺(信濃国分寺、長野県上田市国分1049)がある。次に竹間川(千曲川)がある。

■海野(うんの、長野県東御市:とうみし)より十八町。

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(布引観音 小諸市)

■田中(長野県東御市田中)より二里半。中屋源兵衛にて昼食、100文。田中宿を出て右に布引山観音(布引観音・釈尊寺、長野県小諸市大久保2250)への道がある。お堂は午未(南々西)向き。岩をくり貫いて堂を建ててある。一里のまわり道となる。小諸へ通り抜ける。

 海野宿と田中宿の両宿は、二つで一つの宿場町で、半月交代で宿場業務をつとめる合宿(あいしゅく)であった。

 布引山観音は、天台宗、山号は布引山。布引観音とも呼ばれる。「牛に引かれて善光寺参り」伝説発祥の地。本尊は聖観世音菩薩である。

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(小諸城址懐古園 小諸市観光協会)

■小諸より三里。旅籠・巴屋六左衛門にて宿泊。宿泊代200文。

213日小諸(長野県小諸市)→松井田(群馬県安中市)約44km

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(浅間山冬 気象庁)

■(小諸)ここに牧野遠江守の城(小諸城)がある。石高15千石。(宿場の)入口に五十間橋があり、出口に廿五間の橋がある。浅間山より流れ出す水にて酒造りがされている。それより長倉原、焼石が多い。右に浅間山が見える。

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(英泉 追分)※浅間山眺望

■追分(長野県北佐久郡軽井沢町)より一里三町。

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(英泉 沓掛)

■沓掛(長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)より一里五町。この間に中のたけ、駆け抜け道がある。

 沓掛は、碓氷峠の入口にあたり、悪天候時には荷物も人も足止めされる難所であった。草津温泉への分岐点でもあった。

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(広重 軽井沢)

■軽井沢(長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側、旧軽井沢地区)より二里半。この間に碓氷峠、のぼり十八町。ここに信州と上州の国境がある。次に熊野大権現(熊野皇大神社、長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町字碓氷峠1)がある。それより一里下って中茶屋があり、立場である。

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(英泉 坂本)

■坂本(群馬県安中市松井田町)より一里。扇屋与左衛門にて昼食、100文。この間に横川橋がある。ここに横川村、御関所があり、御公儀持ち。この間に妙義山駆け抜け道がある。

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(妙義山 とみおか浪漫紀行)

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(妙義神社 とみおか浪漫紀行)

■妙義山より松井だへ一里。ここに妙義大権現(妙義神社、群馬県富岡市妙義町妙義6)があり、丑寅(東北東)向き。ご朱印は3百石。

■中の嶽へ一里。ここに中の嶽大黒天(中之嶽神社:なかのたけじんじゃ、群馬県甘楽郡下仁田町上小坂1248)がある。それより岩屋をのぼって行く。奥の院三蔵の弥陀様がある。それより妙義へ帰るべし。

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(広重 松井田)

213日、松井田(群馬県安中市松井田町)より二里。旅籠・土屋茂右衛門にて宿泊。宿泊代232文。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その25】

28日宮の越(長野県木曽郡木曽町日義)→ごう原(郷原、長野県塩尻市)約43km

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■(宮の越)この間に和泉橋がある。

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(広重 薮原)

■やご原(藪原、長野県木曽郡木祖村)より一里半。ここに、くしや(櫛屋)が多い。この間に鳥居峠がある。
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(お六櫛本舗)

 薮原宿には、「お六櫛」という櫛の名産物があった。櫛の大きさが六寸(約18cm)あったため、そう呼ばれたという説もあるが、村娘の「お六」にまつわる伝承がある。

 持病の頭痛に苦しんでいた美人で評判の旅籠の娘・お六は、治癒を祈って御嶽山に願をかけたところ、「ミネバリの木で櫛を作り、髪をとかしなさい」というお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り、髪を梳(す)いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになった。

 

 そこでお六は、この御利益を同じく頭痛に悩む人々にも分けてあげたいと願い、「ミネバリの木」で作った櫛を売ってみた。すると、中山道の難所・鳥居峠を越えて行き交う東西の旅人の間で評判となり、木曽路・薮原宿の名産「お六櫛」として全国的に知られるようになったそうだ。(現在でも、『お六櫛本舗』で販売している)

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(英泉 奈良井)「お六櫛」の店

■奈良井(長野県塩尻市)より一里半。ここにぬり物屋(漆器)が多い。次に平澤村、右にすわ明神(平沢諏訪神社、塩尻市木曽平沢)がある。

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(広重 贄川)旅籠の様子を描く。玄関先には馬方がいる。右には主人が宿帳をもって迎えに出ている。玄関先には、草鞋を脱いで足を洗う大きなたらいも見える。二階では、二人の先客が、外を眺めている。この旅籠の真ん中には「板元いせ利」の看板。有名な浮世絵の「版元・伊勢屋利兵衛」の宣伝である。

 

■にい川(贄川:にえかわ、長野県塩尻市)より二里。嶋田や彦八にて昼食、100文。それまで(ここまでは)、木曽の山の中であった。尾張様の領分で御関所がある。

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(広重 本山)

■本山(長野県塩尻市)より三十町。

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(広重 洗馬)

■せば(洗馬、同)より一里廿四町。この間に右・中仙道、左・善光寺道(の分岐)がある。

28日、ごう原(郷原、塩尻市)より一里半。旅籠・山城屋太郎右衛門にて宿泊。宿泊代164文。

 

29日ごう原(郷原、塩尻市)→青柳(長野県東筑摩郡筑北村坂北青柳)約42km

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 これより中山道(中仙道)を離れる。郷原は善光寺街道(北国西街道)の宿場である。

 

■村井(長野県松本市村井町南)より一里半。

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(松本城 くるくるねっと松本)

■松本(長野県松本市)より一里。松平丹波守の城(松本城)があり、石高75千石。

 

■岡田(同)より一里。この間に赤坂峠があり、難所である。

 

■かりや原(刈谷原、長野県松本市刈谷原町)より一里十町。花や幸助にて昼食、100文。

■あへだ(会田、長野県松本市会田)より三里。この間に弘法大師(「善光寺道名所図会」によれば、無量寺前の弘法袈裟掛松あるいは岩井堂の弘法大師古跡)がある。次に立峠があり、難所である。次に中峠がある。

 

29日、青柳(長野県東筑摩郡筑北村坂北青柳)より一里。旅籠・問屋八郎右衛門に宿泊。宿泊代180文。

 

210日青柳(長野県東筑摩郡筑北村坂北青柳)→善光寺(長野県長野市)約44km

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■(青柳)この間に岩の上に百体観音(藤池百体観音、長野県松本市四賀)があり、ここに切通しがある。

 

 江戸時代には、各地の三十三番札所めぐりが流行した。これは、観音が人々を救う際に、33の姿に変化することにちなんで、各地に33の札所を設け、巡礼するもの。当時、巡礼のため、遠方に旅立つことは難しかったことから、藤池百体観音は、西国三十三番・秩父三十四番・板東三十三番の札所にちなんでつくられた。

 

 また、この切通しは、善光寺街道随一の名所であった。天正八年(1580)に切り開かれた。元禄十一年(1698)には「長さ十三間五尺(25.2m)、横八尺五寸(2.6m)、高一丈(3m)」と記され、その後、享保・明和・文化年間と三回にわたって工事が行われた。この先の麻績村境にも小さな切通しがあった。これら二つの切通しの開通により通行が容易になったそうだ。

 

■おみ(長野県東筑摩郡麻積村:おみむら)より三里。この間にさるが馬場(峠)で雪が降った。峠の上に池(聖湖)がある。この間に中村(長野県更埴市)があり、次に桑原村(同)がある。

 

 猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ)は、標高964m。長野県千曲市と東筑摩郡麻績村を結ぶ峠である。麻積(おみ)宿と桑原宿の間にあって、善光寺街道(北国西街道)最難関の峠道であった。善光寺への参詣路であり、松本城下と善光寺を結ぶ重要な輸送路でもあった。

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■稲荷山(長野県長野市)より一里。

■しのゝ井(篠ノ井、同)より二里。柳屋甚兵衛にて昼食、86文。ここに荷物を預け置くべし。左は善光寺道である。

■丹波嶋(丹波島、同)より一里。ここに丹波川、つなくり渡し(綱をつかまりながら川を渡る)39文。大水の(水量が多い)ときは、小市の渡しへまわるべし。

210日、善光寺 旅籠・富士や平五郎に宿泊。宿泊代200文。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その24】

24日関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)→鵜沼(岐阜県各務原市)約46km

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■(関ヶ原)この間に合戦場がある。右の山をかち山(勝山:岡山のこと)という。

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(広重 垂井)

■樽井(垂井、岐阜県不破郡垂井町)より一里十二町。ここに金山彦大神(南宮大社、岐阜県不破郡垂井町宮代峯17341)の石の鳥居がある。

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(広重 赤坂)

■赤坂(岐阜県大垣市)より二里八町。ここに石細工(大理石を加工した石細工を売る店)が多い。懸直(意味不明)が多い。この間に梨の木が多い、みのぼし大根(美濃干し大根:守口大根を干したもの。美濃・尾張地方の名産)の名物がある。六川、舟渡し6文。

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(広重 美江寺)

■みへじ(美江寺:みえじ、岐阜県瑞穂市美江寺)より一里六町。この間に廿間の橋がある。

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(英泉 河渡)※長良川の鵜飼いの模様

■ごうど(河渡、岐阜県岐阜市)より一里半。七つ屋伴次郎にて昼食、72文。この間にごうど川の渡しがあり16文。

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(広重 加納)※大名行列の様子

■かのふ(加納、岐阜市)より五里半。ここに永井肥前守の城(加納城)があり、石高35千石。この間にかがみ原といって原っぱが三里ある。この間にしんかのふ(新加納)村がある。

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(英泉 鵜沼)※犬山城遠望

24日、うぬま(鵜沼、岐阜県各務原市)より二里。旅籠・桜井吉兵衛に宿泊。宿泊代180文。

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25日鵜沼(岐阜県各務原市)→大久手(岐阜県瑞浪市)約36km

 

■(鵜沼宿から)右に成瀬隼人守の城(尾張の犬山城)が見える。この間に、とく峠があり、それより木曽川に沿って行く。右に勝山観音(岩屋観音?、岐阜県加茂郡坂祝:さかほぎ町)が岩穴にある。

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(広重 太田)

■太田(岐阜県美濃加茂市)より二里。宿場より八町行くとおふた(太田)川があり、渡し賃32文。

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(広重 伏見)

■伏見(岐阜県可児郡御嵩町)より一里五町。

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(広重 御嵩)※木賃宿の様子

■みたけ(御嶽、同)より三里。銭屋源左衛門にて昼食、72文。宿場の入口に薬師如来(願興寺、岐阜県可児郡御嵩町御嵩1377-1、山号:大寺山、天台宗、本尊:薬師如来)がある。この間に十本峠。それより藤上坂がある。

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(広重 細久手)

■細久手(岐阜県瑞浪市)より一里三十町。この間にびわ峠があり、石が多い。

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(広重 大久手)

25日、大久手(同)より三里半。旅籠・松屋清七に宿泊。宿泊代172文。

 

26日大久手(岐阜県瑞浪市)→みとの(長野県木曽郡南木曽町)約50km

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■(大久手)この間に十三峠がある。木製の櫛を売る櫛屋が多い。この間に大井川がある。

■大井(岐阜県恵那市)より三里半。この間に中津川がある。

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(広重 中津川)

■中津川(岐阜県中津川市)より一里。福嶋や忠八にて昼食、昼食代72文。

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(広重 落合)

■落合(同)より一里五町。この間に十石峠がある。ここに美濃と信濃の国境があり、この間に男滝と女滝がある。それより十一宿、にへ川(贄川:にえかわ宿、長野県塩尻市)まで木曽山の内(木曽、山の中)である。

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(英泉 馬籠)

■まごめ(馬籠、岐阜県中津川市)より二里。この間にまごめ峠がある。

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(広重 妻籠)

■つまご(長野県木曽郡南木曽町)より一里半。

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(妻籠宿 南木曽町観光協会)

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(広重 三留野)

26日、みとの(三留野、長野県木曽郡南木曽町)より二里半。旅籠・あい澤弥左衛門に宿泊。宿泊代160文。

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27日みとの(三留野、長野県木曽郡南木曽町)→宮の越(長野県木曽郡木曽町日義)約39km

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(英泉 野尻)

■野じり(野尻、長野県木曽郡大桑村)より一里三十町。

■平澤村。

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(広重 須原)

■す原(須原、長野県木曽郡大桑村)より三里。この間、右に小野の滝がある。

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(北斎 小野の滝)

■ねざめ(寝覚の床:ねざめのとこ、長野県木曽郡上松町)より半里。越前や嘉平にて昼食、80文。ここにそば名物がある。

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(越前屋そば店 上松町観光協会)

このそばは、「嘉永元年創業 越前屋そば店」(長野県木曽郡上松町上松寝覚1710TEL0264-52-2081)のこと。

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越前屋そば店嘉永元年より営業。創業350年以上。「そば白く 薬味は青く入れ物は 赤いせいろに黄なる黒文字」と十返舎一九が詠っております様に、そばの芯のみを使った白いそばで口当たりが良いのが特徴です。古くは歌麿や一九が訪れ、文豪島崎藤村の“夜明け前”の小説にも記されています。名物の“寿命そば”は、亀のマークとともに寿命が延びるといわれております。

 

人気のメニューは、そば寿司一人前500円、盛りそば2枚重ね1000円。盛天そば1400円もおすすめです。冬場のすんきそばは特に人気があり、2ヶ月程で終了してしまいます。ぜひご賞味下さい。(上松町観光協会)

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ここ(寝覚の床)に浦嶋(浦島太郎)の舊跡(旧跡)があるが寄るほどのことはない。

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(広重 上松)

■上松(長野県木曽郡上松町)より二里半。

桟(かけはし)や命をからむ蔦(つた)かつら

 

 この間に木曽かけ(木曽川に架かる架け橋)があり、右側に芭蕉の句(句碑)がある。

 

桟とは、木曽福島と上松の間の木曽川の絶壁にかけられた長さ100mほどの釣り橋である。木曽街道最難所であったそうだ。

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(広重 福島)

■福嶋(長野県木曾郡木曽町福島)より二里。

ここに山村甚兵衛の城(山村代官屋敷、木曽代官・福島関所関守を務めた山村氏の屋敷)があり、石高7千石。次に尾張様の御関所(福島関所跡)があり、(通るには)かぶり物は無用である。(脱帽)木曽義仲の城跡がある。

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(広重 宮の越)

27日、宮の越(長野県木曽郡木曽町日義)より一里半。旅籠・村上弥惣右衛門にて宿泊。宿泊代172文。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その23】

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22日大津(滋賀県大津市)→越川(滋賀県愛知郡愛荘町)約44km

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(広重 大津宿)

■(大津)ここに源五郎鮒の名物がある。この間にあよび松がある。

■松本村より一里。ここに木曽義仲の塚(木曽義仲の墓、大津市馬場1-5-12の義仲寺)がある。同所(義仲寺)に芭蕉の塚がある。

 

 義仲寺には、現在つぎの芭蕉の句碑が立つ。

旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る 

 

行春(ゆくはる)をあふみの人とおしみける 

 

古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音 

 

三日月の影を延すな蕎麦(そば)の花

 

■ぜぜ町(滋賀県大津市膳所)より十八町。ここに本田(本多)兵部太輔の城(膳所城)があり、石高6万石あまり。この町のはずれに粟津松原がある。それは近江八景の一つである。ここにぜぜ焼き(膳所で焼かれた陶器の茶陶。遠州七窯の一つ)の名物がある。

 

 関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、東海道の押さえとして、膳所城を城造りの名手・藤堂高虎に築かせた。瀬田の唐橋に近い場所で、明治3年に解体されたが、本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣が残り、門が再建されている。

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(広重 粟津青嵐)

 近江八景の一つに「粟津の青嵐(あわづ の せいらん)」がある。

雪はらふ 嵐につれて百船も 千船も浪の粟津に寄する

 

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(石山寺 琵琶湖大津観光協会)

■石山寺(滋賀県大津市石山寺1-1-1、山号: 石光山 、東寺真言宗、本尊は如意輪観音)より十ハ町。近江八景の一つ。観世音あり巳午(南々東)向き。ご朱印540石。お参りする所が多い。

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(広重 石山秋月)

 近江八景の一つ「石山秋月(いしやま の しゅうげつ)」がある。

石山や 鳰(にお:琵琶湖)の海てる月かげは明石も須磨もほかならぬ哉(かな)

 

■勢田(滋賀県大津市)より二里六町。ここに小橋(長さ)30間、大橋96間がある。宿場の離れに近江の一宮(建部大社:たけべたいしゃ、滋賀県大津市神領一丁目16-1)がある。

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(広重 草津宿)

22日、草津(滋賀県草津市)より一里半。藤屋与左衛門にて昼食、72文。ここに東海道と中山道の追分(分岐点)がある。

■森山(滋賀県守山市)より三里半。ここに安川橋があり橋代8文。

■安村(滋賀県野洲市)。それよりハ町離れてむかぜ山が見える。この間に横関川があり、舟渡し8文。

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(広重 武佐宿)

■武佐宿(滋賀県近江八幡市武佐町)より二里半。この間に清水村、びろうど(ビロードを売る店)がある。次にゑち川がある。

22日、越川(滋賀県愛知郡愛荘町)より二里半。旅籠・竹の子や十郎兵衛にて宿泊。宿泊代180文。

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23日越川(滋賀県愛知郡愛荘町)→関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)約37km

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(広重 高宮宿)

■高宮(滋賀県彦根市)より三十町。この宿場の中の右に石の鳥居がある。それより入るべし。

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(多賀大社 滋賀県観光情報)

■多賀社(多賀大社、滋賀県犬上郡多賀町多賀604)より一里半。社は午未(南々西)向き。この間に中川原橋、橋代4文。

■鳥居本(滋賀県彦根市)より一里六町。この間にすり鉢峠がある。

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(広重 番場宿)

■ばん場(番場、滋賀県米原市)より一里。

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(広重 醒井宿)

■さめがへ(醒井:さめがい、同)より一里。

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(広重 柏原宿)

■柏原(滋賀県米原市柏原)より一里。この間に小さな堀がある。近江と美濃の国境があり、これをねものがたりという。

  寝物語の里とは、現在の岐阜県との県境にある史跡で、近江と美濃の国境にまつわる「寝物語」の伝承地。

 昔、国境の小さな溝を隔てて建つ両国の旅籠の泊まり客どうしが、寝ながら話しができたことから付いた呼称だという。広重の「木曽街道六十九宿」今須宿の様子は、この地を描いたものである。

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(広重 今須宿)

■今須(岐阜県不破郡関ヶ原町)より一里。

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(広重 関ヶ原宿)

「木曽街道六拾九次の内 関ヶ原・五拾九/歌川広重画」はおもしろい。

天下分け目の関ヶ原は、古戦場として知られている。東西に中仙道(木曽街道)が走り、南北に北国街道・伊勢街道が通る交通の要所であった。

 昼下がりの宿場の茶店で、馬方が旅人に話しかけている。

 「帰り馬だから安くしとくよ。次の宿場まで乗らないかい」なんて客引きをしているようだ。茶店では草鞋(わらじ)を吊るして売っている。提灯には「名ぶつさとうもち(名物砂糖餅)」。店先の看板には「三五そばきり うんどん」とある。そばとうどんである。

 

 餅は街道の名物なのか、腹もちがよく、甘いものなら疲労回復にもなる。三五そばきり・うんどんは、二八そばと同じように値段を示す。二八そばは、二八で十六(16文)であった。(つなぎの小麦粉が2で、そば粉が8という成分の割合を説明したとする説もある)同様に茶店の看板にあるのは、三五で15文である。店番の老婆も愛想がよい。江戸時代によくありそうな日常を描写している。

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23日、関ヶ原より一里半。旅籠・ゑびすや忠次郎にて宿泊。宿泊代180文。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その22】

21日京都(京都府京都市)→大津(滋賀県大津市)約12km

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■(京都より)21日出発。荷物を大津へ回すべからず。

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(下鴨神社 京都観光Navi

■下加茂明神(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ、通称・下鴨神社、京都市左京区下鴨泉川町59)より二里。社は南向き。

■八瀬(京都市左京区八瀬)より四十町。坂屋半兵衛にて昼食、48文。ここに比叡山道がある。五十町登ると山城と近江の国境がある。

■釈迦堂(比叡山延暦寺西塔釈迦堂、滋賀県大津市比叡山)より五十町。このあたりにはお堂が多い。

■比叡山より□□□、宮様の坊 本堂は東向き。ご朱印は5千石。次に坂本山王廿一社(日吉大社、滋賀県大津市坂本5-1-1)がある。ほかに末社が多い。それより下って坂本の町に出る。それより水海(琵琶湖)の淵を通る。

■唐崎より一里。近江八景の内の一つ。ここに唐崎の松がある。枝の広さ周囲60間(約109m)、高さ15丈(45.5m)。松の下に唐崎大明神(唐崎神社、滋賀県大津市唐崎1-7-1)が酉戌(西北西)向きにある。

 

 唐崎の松は花よりおぼろにて 芭蕉

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(唐崎神社の松 滋賀県観光情報)

 唐崎の松は、現在も残っている。残念ながら江戸時代の松ではないが、いまでも大きい。

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(広重 唐崎夜雨)

 近江八景の一つ「唐崎夜雨 (からさき の やう)」は、唐崎神社である。

夜の雨に 音をゆづりて夕風を よそにそだてる唐崎の待つ

 

■東向きに三井寺(園城寺、滋賀県大津市園城寺町246)より十八町。

ここ(三井寺)も近江八景の内の一つ。奥の院は女人禁制で、ご朱印は5千石。西国札所である。弁慶の引きづり鐘がある。

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(広重 三井晩鐘)

  近江八景の一つ「三井晩鐘 (みい の ばんしょう)」である。

思うその 暁ちぎるはじめとぞ まづきく三井の入あひの声

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(三井寺 てら旅美人)

 三井寺(園城寺)は、天台寺門宗の総本山。本尊は弥勒菩薩で西国三十三箇所観音霊場の第14番札所である。

 また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。

「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。

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(弁慶引摺り鐘 てら旅美人)

 また弁慶の引づり鐘については、重要文化財として、その鐘が残っている。その昔、三井寺が比叡山と争ったとき、比叡の荒法師・武蔵坊弁慶が三井寺に攻め入り、この鐘を奪って比叡山の山上まで引き摺り上げてたたいてみると、「イノー、イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ落したという。その時のものと思われる引き摺ったヒビがいまも残っているそうだ。

(霊鐘・弁慶の引摺り鐘 案内板より)

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21日、大津より十八町。旅籠・ゑびや弥五郎に宿泊。宿泊代224文。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その21】

128日・29日京都滞在。

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128日(京都)町々で遊ぶ。28日朝、200文にて案内人を頼み京都見物をする。

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(本能寺 都名所画譜)

本能寺(京都府京都市中京区寺町通御池下る)は南向き、ここに信長の石塔(供養塔)がある。

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(行願寺 京都散歩Navi

次に、こうどう(革堂:行願寺、京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17)があり西向きである。

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(上御霊神社 京都散歩Navi

ごれい八所明神(上御霊神社:かみごりょうじんじゃ、京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)があり西向き。

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(都名所之内 真如堂楓林)

次に真如堂(真正極楽寺、京都市左京区浄土寺真如町82)があり、戌亥(北西)向き。欄間は左甚五郎作である。

次に八百萬の神(吉田神社、京都市左京区吉田神楽岡町30番地、斎場所大元宮に天神地祇八百万神を祀る)があり南向き。

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(知恩院 京都観光Navi

次に知恩院(京都市東山区林下町400)があり南向き。辰巳(東南)方向に鐘があり、(鐘の)周囲は弐丈八尺五寸(約8.6m)、厚さは九寸五分(0.3m)、重さは弐万貫(74トン)である。

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(金戒光明寺 京都観光Navi

しん黒谷(金戒光明寺:こんかいこうみょうじ、京都市左京区黒谷町121)があり南向き。ここに熊谷(直実)の鐙掛け松があり、これは二代目である。

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(清水寺 京都観光Navi

次に清水寺観世音(清水寺、京都市東山区清水1-294)があり南向きである。(寺に)音羽の滝があり三筋水が落ちている。

(清水寺)前の茶屋にて100文の昼食を食す。

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(大谷本廟 京都観光Navi

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(大谷めがね橋 花洛名勝図会)

次に白骨門跡(大谷本廟、京都市東山区五条橋東6丁目514)があり西向きである。この前にめがね橋(円通橋、大谷本廟の参道入口・東山五条交差点近くにある皓月池:こうげついけに架かる橋)がある。

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(長谷川貞信 都名所之図 三十三間堂後堂之図)

次に三十三間堂(京都市東山区三十三間堂廻町657)があり北向き。

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(京都名所大仏尊像)

次に大仏殿(方広寺、京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2)がある。大鐘(方広寺鐘銘事件で有名な鐘)があり、周囲弐丈八尺(8.5m)、重さ1700貫(約40トン)である。

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(東本願寺 京都観光Navi

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(西本願寺 京都観光Navi

次に東門跡(東本願寺、京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754)があり南向き。西門跡(西本願寺、京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60)がある。

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(北野天満宮 京都観光Navi

次に北野天満宮(京都市上京区馬喰町)へ参拝する。社は南向きで、石灯籠や金の(金属製の)灯籠が多い。

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(都名所之内 三条大はし)

三条大橋より五十町。

128日、京都より十八町。旅籠・備前屋藤五郎に宿泊。29日、大雨にて(同じ旅籠に)逗留。

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 京都観光といっても寺社巡りである。

本能寺は明智光秀の謀反により、信長が自害した寺である。ただし寺は移転しており、現在の場所ではなかった。

 こうどうは、通称「革堂」で行願寺である。天台宗で西国三十三カ所第19番札所。俗人のころ鹿を射止めた行円が、仏心を起こし、寛弘元年(1004)寺を建立、千手観音像を刻み、安置した。行円は皮の衣を着ていたので、皮聖と呼ばれ、寺は革堂と称した。当初、今の上京区にあったが、移転と焼亡を繰り返し現在地に移転した。

 ごれい八所明神は、上御霊神社である。境内の「御霊の森」が応仁の乱の勃発の地である。祭られているの、当初、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。その後追加された二神は、火雷神の菅原道真、吉備聖霊の吉備内親王で合計八神である。

 真如堂は、真正極楽寺鈴聲山という。「こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味だそうだ。一般には「真如堂」と呼ばれているが、もともとは本堂の呼び名であった。天台宗で本尊は阿弥陀如来(重要文化財)。平安時代のもので「うなずきの阿弥陀」と呼ばれる。

 知恩院は、浄土宗総本山。宗祖法然上人が、承安五年(1175)吉水に設けた草庵に始まり、火災や兵乱にあい徳川家康、秀忠、家光により現在の壮大な伽藍が形勢された。法然上人の像を安置する御影堂(国宝)は、寛永十六年(1639)建立の大建築で、多くの国宝や文化財指定建造物が並ぶ。三門(国宝)は、わが国最大木造の門で近年解体修理され偉観をとりもどした。

 年末のテレビ番組で紹介される除夜の鐘の大鐘は、寛永十三年(1636)の鋳造で、高さ3.3m、口径2.7m、厚さ0.3mの国内最大級の鐘だ。戦時中の梵鐘の供出を免れたのも、大きすぎて持ち出せなかったという逸話が残る。

 金戒光明寺は、承安五年(1175)比叡山を下りた法然上人が、初めて念仏道場を開いた浄土宗四カ本山の一つ。幾度か火災に遭いその都度再興された。阿弥陀堂は慶長十年(1605)豊臣秀頼が再建した。文殊菩薩像は、運慶作と伝えられ、日本三文殊の一つである。

熊谷直実の鎧(あぶみ)掛けの松が有名である。熊谷次郎直実(11411208)、法力房蓮池法師は、建久四年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗い、この松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。なお供養塔は、法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられている。この松の古木は枯れてしまい、現在の木は二代目である。

 

 清水寺は、本尊が千手観音(秘仏)、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗っている。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所である。音羽の滝は、奥の院の建つ崖の下にある、清水寺の寺号の由来である霊水で、3本の筧(かけい)から水が流れ落ちている。3つの筧から流れ落ちる3筋の水にはそれぞれご利益があり、「学業成就」「恋愛成就」「延命長寿」といわれている。

 大谷本廟は、浄土真宗の宗祖・親鸞上人の墓所であり、真宗大谷派(東本願寺)の飛地境内地。文永九年(1272)それまでの祖墳を改め、東山大谷の地に、廟堂が建てられたことによる。その後、変遷を経て江戸時代初め、本願寺の分派に伴い、寛文十年(1670)、現在地に移転。本堂は元禄十四年(1701)年の建立。御廟には親鸞聖人のご遺骨をはじめ、全国各地のご門徒のご遺骨が納められている。お盆の「万灯会(まんとうえ)」では、約1万個の提灯に火が灯る。

 めがね橋は、正式名称が円通橋。安政三年(1856)につくられた橋で、長さ約40m・幅約6mの規模で、橋脚・敷石板・欄干など全て花崗岩を使用している。橋脚によって作られた2つのアーチが水面に映る姿が眼鏡のように見えることから「めがね橋」の別名がある。当時は「奇巧をつくした石橋」として珍重され、「花洛名勝図絵」にも紹介されている。

 三十三間堂の正式名称は蓮華王院本堂という。これは、東に面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴による。そもそも「三十三」という数は、

観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表している。地上16m、奥行き22m、南北120m

の長大なお堂は、入母屋造り本瓦葺き。

本尊は千手観音1001体で、堂の中央に像高335cmの中尊丈六坐像(湛慶:たんけい作、国宝)が安置され、左右に各500体の等身観音立像(国の重要文化財)、堂の両端に風神・雷神像各1体(国宝)、二十八部衆立像(国宝)が中尊の西裏側に並ぶ。

 また、三十三間堂で毎年正月15日に行われる「通し矢」は、江戸初期に始まったもので、一昼夜、堂の西縁の南端から北端まで(約118m)矢を射通す競技である。

 大仏殿は、方広寺(現・京都市東山区)にあった。大仏は高さが六丈三尺(約19m)だったそうだ。この方広寺大仏殿は、高さ約49m、南北約88m・東西約54mで、豊臣秀吉によって建立され、慶長年間末期に豊臣秀頼により再興された。

 大仏殿および大仏は、寛政十年(1798)の落雷により焼失。その後再建。江戸後期の天保年間、尾張の国の有志によって、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿が再建された。この4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和四十八年(1973)、失火により焼失した。

方広寺の大鐘には、日本史上有名な「方広寺鐘銘事件」がある。この鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽」の部分があり、徳川家康は「家康の名を二分して、国安らかにさせ、豊臣を君主とする」の意味であるとして激怒した。これは、家康が豊臣氏を滅ぼすための口実をつくったとも考えられている。これをきっかけに豊臣氏滅亡への秒読みが始まった。

東門跡・東本願寺は、(浄土真宗)真宗大谷派の本山で「お東さん」の名称で親しまれている。慶長七年(1602)に第12代教如上人が徳川家康からこの地の寄進を受け、建立した。京都三大門のひとつに数えられる御影堂門をくぐると並んでそびえ立つのが御影堂と阿弥陀堂である。広さ927畳の御影堂は、世界最大級の木造建築で宗祖親鸞聖人の木像を安置しており、阿弥陀堂は本尊の阿弥陀如来を安置している。

西門跡・西本願寺は、(浄土真宗)真宗本願寺派の本山で「お西さん」の愛称でも親しまれている。文永九年(1272)宗祖・親鸞聖人の末娘覚信尼が京都の東山大谷に建立した廟堂に始まる。第3代覚如上人のときに本願寺と公称。第8代蓮如上人の尽力により大教団に発展。その後、寺地は大阪、和歌山を転々とした後、1591年(天正19)豊臣秀吉が寺地を寄進、現在地に移った。慶長七年(1602)本願寺は東西に分立。御影堂と阿弥陀堂はともに重文である。

北野天満宮は、延喜三年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、京の都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天暦元年(947)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。

天正十五年(1587)、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯(大茶会)が催行された。境内西側に史跡「御土居」が残っている。

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これだけ歩いて回ったら、さぞかし疲れたであろうとお察しする。

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その20】

安政四年(1857)、武州所沢の下新井村を出発した18名の一行は、念願の伊勢詣でを果たし、奈良から吉野、高野山、大坂を経て旅を続ける。山陽道を行き、倉敷から船で四国・丸亀へ渡り、こんぴらさんにも参拝。続いて、四国から兵庫の赤穂に戻り、関西から京都見物へ。帰路は大津、草津(現在の滋賀県)から中山道を行く。

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124日門前(兵庫県たつの市揖保町門前)→明石(兵庫県明石市)

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■いかるが(兵庫県揖保郡太子町鵤〔いかるが〕)より一里。

■ての(ちょうの)より二里。

■姫路(兵庫県姫路市)より半里。この間に市川の渡し10文。

■御着(姫路市御国野町御着)より一里。

■豆崎(兵庫県高砂市阿弥陀町阿弥陀)より一里。加古川の船渡し10文。

■加古川(兵庫県加古川市)より一里。大坂屋平八にて昼食、100文。

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(加古川河口 加古川観光協会)

■西谷(兵庫県加古川市平岡町西谷)より一里。

■長池(兵庫県明石市)より一里。

■大久保(同)より一里半。

 

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(明石城 明石市観光協会)

124日、明石(兵庫県明石市)より一里。旅籠・山本や善右衛門にて宿泊。宿泊代184文。

 

125日明石(兵庫県明石市)→西宮(兵庫県西宮市)約30km

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■舞子(兵庫県神戸市垂水区東舞子町)より二里半。

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(明石海峡大橋 シーサイドホテル舞子ビラ)

 シーサイドホテル舞子ビラの前には、明石海峡大橋がそびえている。実に美しい。

■すま(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町)の浦より五十町。

■兵庫(兵庫県神戸市兵庫区)より半里。とうじつや利兵衛にて昼食、100文。

■神戸(兵庫県神戸市)より一里半。

■みかげ(神戸市東灘区御影)より三里。

125日、西宮(兵庫県西宮市)より二里。旅籠・大原や茂兵衛にて宿泊。宿泊代200文。

 

126日西宮(兵庫県西宮市)→京都(京都府京都市)約48km

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■(西宮)右は大坂道、左は京道。

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■こやより二里。この間に向かい川、橋代3文。

■瀬川より二里。

■郡山(大阪府茨木市)より二里。池田や幸七にて昼食、100文。

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(上宮天満宮 高槻市)

■あくた川(大阪府高槻市)より二里。右に多田飛騨守の御城(高槻城)がある。石高36千石。町より四町ばかり東に上宮天神(上宮天満宮、大阪府高槻市天神町1-15-5)があり、南向きである。道より三町ほど中にある。この間に摂津と山城の国境がある。

■山崎(大阪府三島郡島本町山崎)より二里。ここに八幡宮(水無瀬神宮、大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24か?)が南向きにある。ご朱印千石。

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(向日神社 向日市観光協会)

■むこう町(京都府向日市)より二里。向日大明神(向日[むこう]神社、京都府向日市向日町北山65)がある。この間にかつら川、長さ72間の橋代3文。

 

126日、京都(京都府京都市)旅籠・筑前や次郎左衛門に宿泊。宿泊代240文。(ここに2泊した)

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《安政四年伊勢参宮道中記》を読む【その19】

120日夏川(岡山県岡山市)→下村(岡山県倉敷市)・・・船中泊(四国丸亀まで) 約24km+海上28km=合計で約52km

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■早嶋(岡山県都窪郡早島町)より二里。

■藤戸(岡山県倉敷市)より二里。

■ゆうが山(由加山)より一里。竹嶋や松五郎にて昼食、100文。ここに、ゆうが山大権現由加神社本宮および蓮台寺、岡山県倉敷市児島由加)がある。(本殿は)巳午(南南東)向き。この場所には小倉帯(を売る店)が多い。

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(広重 偸賀山:由加山)

行基がこの由加(ゆが)山に「瑜伽大権現」(ゆがだいごんげん)として祀り、寺社を建てた。瑜伽大権現は、日本三大権現の一つとして数えられる。

 現在の由加山蓮台寺と由加神社本宮を総称して「由加山」と俗に称されている。瑜伽大権現の総本山、また厄除けの総本山として知られ、二千有余年の歴史を持っている。

120日、下村(岡山県倉敷市)より海上(船で)七里。下村の旅籠・花屋菊平にて仮眠、宿泊代100文。ここより夜の四ツ時(午後10時)、船に乗り出発。船賃100文、布団の損料(借り賃)24文。このあたりには塩田が多い。

121日(船)丸亀(香川県丸亀市)→内町(香川県仲多度郡琴平町内町)約14km

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(丸亀船着き場:丸亀市提供)

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(丸亀城:丸亀市提供)

121日、四ツ時(午前10時頃)、(四国)丸亀(香川県丸亀市)に到着。丸亀より三里。八嶋屋伊右衛門にて(遅めの朝食・早目の)昼食、100文。ここに京極長門守の城(丸亀城)があり、石高75千石。

■屏風浦(屏風ヶ浦〔びょうぶがうら〕、香川県仲多度郡多度津町)より廿町。ここに弘法大師の誕生の地がある。本尊弘法大師、ここにて生まれたるときの取り上げ井戸がある。

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(屏風浦海岸寺奥の院 金毘羅参宮名所図会)

 空海(弘法大師)は、宝亀五年(774)、讃岐国多度郡屏風浦で生まれたそうだ。

 屏風浦の海岸寺(香川県仲多度郡多度津町西白方997、真言宗醍醐派)の奥の院には、大師堂や弘法大師産湯の井戸がある。寺伝によれば、ここは空海の母親の出身地とされる。さらに奈良時代後期の宝亀5年(774年)にこの奥の院で生まれたとされている。諸説あるが、善通寺も空海が誕生した場所といわれている。

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(弥谷寺 中国四国名所旧跡図)

■弥谷寺(いやだにじ、香川県三豊市三野町大見乙70、山号:剣五山、真言宗善通寺派、本尊:千手観音、四国八十八箇所霊場の第七十一番札所)より五十町。ここに弘法大師の学問所という、八畳敷ばかりの岩穴がある。開帳(見学)するのには18文。ここへ行く道は難所である。

 空海(弘法大師)は713歳の期間、弥谷寺の岩窟、獅子窟で修行したという。また、大同2年(807)、唐から帰国後の空海は、この地を再び訪問し、蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し伽藍を再興、山号を剣五山千手院、寺名を弥谷寺と改めたそうである。

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(善通寺 四国ネット)

■善通寺(香川県善通寺市善通寺町3-3-1)より一里。堂は東向きで七堂伽藍である。

 善通寺こそ空海の誕生の地といわれる。正式には屏風浦五岳山誕生院という。(真言宗善通寺派の総本山)。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第七十五番札所だ。平安時代初期の大同二年(807)、善通寺は、地元の豪族で空海の父・佐伯善通を開基として創建された。伽藍は創建地の東院と、空海生誕地の西院(御誕生院)に分かれている。

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(金銅錫杖頭 総本山善通寺宝物館)

 空海が唐から持ちかえったものとされる金銅錫杖頭(こんどう しゃくじょうとう)は、国宝である。

■内町(香川県仲多度郡琴平町内町)より十町。旅籠・吉嶋屋吉右衛門にて宿泊。宿泊代250文。

122日内町(香川県仲多度郡琴平町内町)→門前(兵庫県たつの市揖保町門前)船が入ったため移動距離不明

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(金比羅宮 ANA旅達空間)

■金毘羅大権現(金刀比羅宮、香川県仲多度郡琴平町892番地1)より三里。開帳致すのは1200文。(1貫は1000文だからおよそ12,000円~24,000円とかなり高い。この拝観料は18名分であろう)

社(本殿)は寅卯(東北東)向き、ご朱印330石、別当(管理する寺院は)金光院である。ここでお札を求め、町で箱を買いお札を入れるとよい。

 いよいよ旅後半のハイライト、こんぴらさんである。はじめは琴平神社と称していたが、本地垂迹説の影響を受け、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と改称。永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀する。明治元年に、「金刀比羅宮」と改称し、現在に至っている。

 金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られている。大物主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)である。

 “こんぴらさん”の呼び名で親しまれている金刀比羅宮は、象頭山(標高521m)の中腹に鎮座し、昔から海の安全、五穀豊穰、大漁祈願、商売繁盛など様々なご利益のある神様として全国津々浦々から、年間300万人もの善男善女が訪れているという。

 登りは、下から本宮まで785段、奥社までとなると1,368段もある。

(参考:ウェルカム四国)

122日、丸亀。八嶋や伊右衛門(先日宿泊した旅籠)にて昼食、100文。この場所から船に乗り、(船中泊)23日に播州赤穂(兵庫県赤穂市)に四ツ時(午前10時頃)到着。

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(赤穂城 赤穂市)

123日、赤穂より一里半。塩田(赤穂の塩)が多い。ここに御城(赤穂城)がある。

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(赤穂のにがり塩 マルニ)

赤穂の塩は、濃い海水を煮詰めて塩を取り出す過程で、あえてにがりを含ませる製法。江戸時代から、にがりを含ませた塩づくりを行ってきた。ただし、塩田が廃止された現在では、オーストラリアから原塩を輸入しているそうだ。

■高峠より一里。

■なばより半里。

■追分(兵庫県たつの市神岡町追分)より廿町。

■片嶋(兵庫県たつの市揖保町片島より半里。

■正條(兵庫県たつの市揖保川町正條)より半里。

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123日、門前(兵庫県たつの市揖保町門前)より半里。旅籠・綿や利介に宿泊。宿泊代200文。

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