カテゴリー「にっぽん海外交流史」の21件の記事

ハワイ《アレキサンダー・ヤングホテル》のパンフレット

 百年前のハワイ《アレキサンダー・ヤングホテル》を紹介したことがある。開業は1903年だからいまから111年前。残念ながら1981年には取り壊されてしまったが、観光創生期のハワイのホテルとしては、超一流であった。1950年代のホテルのパンフレットが見つかった。大変興味深いので、意訳してみた。

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 アレキサンダー・ヤングホテルは、世界中やハワイの島々を旅する人たちの究極の選択になります。

旅人たちに必要なものをすべてご提供します。エアコンの効いた客室、タワーペントハウス・スィートルーム、ダイニングルーム、カクテルラウンジ、コーヒーショップ。

 ロビーには、世界的に有名なペストリーやキャンディーの売店、花屋、理髪店、酒屋、新聞販売、葉巻とタバコ店、書店そして航空会社カウンターや旅行代理店など。ホテルの建物の中には、紳士淑女のための洋装店、化粧品店、ドラッグストア、ギフトショップ、宝石店、スポーツショップ、そして診療所、歯科、眼科や電信電話(ケーブル)オフィースがあります。

*このホテルのベーカリーでは、「レモン・クランチ・ケーキ」が有名であった。いまでもハワイで食べられる。さっぱりして甘くておいしい。

 1950年代(昭和25年から29年頃)には、まだホテルのエアコン(冷房)は珍しかったようで、”AIRCONDITIONED ROOMS ANDSUITES”とうたっている。まだレストラン(ダイニング)の紹介など随所に「冷房中」が強調されている。

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In the Center of Thingsすべての中心にあるホテル

蒸気船の波止場から5分、国際空港から15分、まさにアレキサンダー・ヤングホテルは、ホノルルの、いやハワイの中心。

魅力的なオリエンタル・バザールは、ほんの数ブロック。

サーフィンのできるワイキキビーチからも数分。

お部屋からは、歴史あるイオラニ宮殿、市庁舎、同様に島の王国やヌアヌ渓谷の風景が見渡せます。

 東側にはパールハーバーや砂糖キビ、パイナップルの農園もあります。まさにアレキサンダー・ヤングホテルは、すべての中心です。

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②アレキサンダー・ヤングホテルで、モダンなハワイを体験できます。それは心地よく、涼しく、建物の装飾も伝統的なハワイです。客室は楽しい日々やゆったりした夜を過ごせます。バスタブとシャワーのあるお部屋やユニークで魅力的なリビングとベッドルームのあるスィートをお選びいただけます。

 アレキサンダー・ヤングホテルは、エアコン完備の客室とスィートを備えた、ハワイでもっともすばらしい施設です。

 ルームレートですが、シングルは4ドルからダブルは7ドルから。エアコン付きではシングルが7ドルから、ダブルが9ドルからです。エアコン付きのスィートは、シングル12ドルからダブル15ドルです。ゼニス電気社のテレビとラジオは無料です。

*60年以上前の為替レートはわからないが、安くはなかったはずである。したがってシングル4ドルは、現在の20,000円程度か。

 エアコンの効いたダイニングルームは、地元の島の人々や旅行者の方々にも評判のよい場所です。おもてなしの雰囲気に包まれ、すばらしいお食事、きわだったサービス、余暇を楽しむ心地よさを体験できます。アメリカのお食事に加え、世界中の様々な料理をお楽しみいただけます。

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③ベッドルームの静寂な尊さとは、もっとも大切にしたいゆったりと休める深い眠りを提供することです。

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④障子のドアをすべらせると、ステキなリビングルームは、完全な独立した個室へと変ります。

*やはりハワイには日系人が多い。日本的な「障子」を取り入れていたようだ。

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⑤タワーペントハウススィートの心地よくかわいらしいクローゼットのあるドレッシング・ルームは、あなたをただちに旅先の移動の空間から、まるで自宅にいるようなリラックスした気持にさせてくれます。

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⑥ダイニングルーム コスモポリタン・ダイニング、それは特別な空間(冷房中)

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⑦窓から見えるドラマチックなホノルルのパノラマと絶えず変化する海と空の風景は、あなたのアレキサンダー・ヤングホテルでの滞在を、魔法の世界へと誘います。

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⑧スィートルームの、氷のできる冷蔵庫がある「バトラーパントリー(執事の小室)」では、バトラーがコーヒーをいれたり軽食や茶菓を準備します。

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⑨ホブノブカクテルラウンジ(冷房中)

 *現在では、どんなホテルでもエアコンは完備され快適である。1950年代では常夏のハワイでさえ、冷房はまだまだ高級ホテルに限られていたようだ。また、「冷蔵庫」もアメリカで一般化するのは1954年(昭和29年)以降であったから、当時は高級品である。

以前の記事

◆百年前のハワイ《アレキサンダー・ヤングホテル》

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幕末のハワイ《フレンチホテル》

 このブログでも何度も取り上げた安政七年(1860)、つまり「万延元年の遣米使節団」がハワイ・ホノルルに寄港した際、宿泊したのが《フレンチホテル》である。

新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)の従者、玉虫左太夫(たまむしさだゆう:仙台藩史)の記録には、ホテルの様子が描写されている。このホテルは、ホノルルのフォートストリートとホテルストリートの交差するあたりにあった。

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 海岸からおよそ2km弱、レンガ造りで白壁のホテルは、平屋建てで一部2階建てであった。全部で8棟の建物があり、4棟は酒場(レストラン)、浴場、厨房に主人の居住スペースだ。残りの4棟に上陸した使節団一行が宿泊した。2棟は大きな2階建てでメンバー上位の奉行から調役が泊まった。部屋は2間から3間の広さというから6畳から8畳程度の広さだろう。ガラス窓がつく。日本家屋のような障子窓はない。花もようのカーペットが敷かれ、靴のまま出入りをする。タテ1間(1.8m)ヨコ半間(90cm)ほどの寝台(ベッド)が置かれ、床からは高さ3,4尺(1m)ほどだ。上から蚊帳のような白い木綿の布をつるしてある。布団は羽毛か木屑を詰めてある。

 一行の従者や身分の低い者たち36名は、ほかの2棟をあてがわれた。

「大勢で大混雑であり、寝る場所もない。部屋の四隅には塵(ちり)が積もっていて決してきれいではない。それまで狭苦しい船の上で寝泊まりをしていたので、期待していたが、これなら船上の方がましだ。」(玉虫左太夫、「航米日録」日本思想大系『西洋見聞集』岩波書店より、現代語訳)

 写真(スケッチ)をみると、国民宿舎のような建物がならぶ。《フレンチホテル》が150年前のホノルルの最高級ホテルであったようだ。ちなみに玉虫は「仏蘭西旅館」と記している。

(イラストは、小田基著「玉虫左太夫『航米日録』を読むー日本最初の世界一周日記―」東北大学出版会および宮永孝著「万延元年のアメリカ報告」新潮選書から引用した)

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百年前のハワイ《アレキサンダー・ヤングホテル》

 日本初の海外団体旅行、明治41年(1908)の世界一周ツアーでの最初の寄港地は、ハワイ・オアフ島のホノルルであった。100年前の宿泊先は、ビッショプ通りとホテル通りの角にあった大きな《アレキサンダー・ヤングホテル》であった。ツアー参加者の野村みちの日記にはつぎのように紹介されている。

 “これほど広大な建築と行き届いた設備はアメリカ本土にも数少ないと聞いておりましたが、まさにその通りでした。

 大理石の装飾は目を驚かせる見事なものですし、客室数は二百以上。近年増加している避寒客をオアフ島に集め、太平洋航路の旅行者にホテルを知ってもらってホテルの名声とともにハワイを世界に紹介しようという目的で造られたそうです。(略)今のところは収支が折り合わないそうですが、半永久的な将来の利益を見越しているので、現在の赤字は気にしないそうです。”(野村みち著『ある明治女性の世界一周日記』神奈川新聞社刊より)

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 《アレキサンダー・ヤングホテル》は、1903年スコットランド出身の実業家・アレキサンダー・ヤングの名を冠して開業した。ハワイ島ヒロの砂糖キビ工場や製糖工場の成功で財を成したヤングは、当時の2百万ドル(現在の200億円近い巨額)を投じて、部屋数300室の豪華ホテルを建設した。イオラニ宮殿やアロハタワーに近いダウンタウンである。ヤングは、「ハワイのホテル業界の父」と呼ばれ、1901年、ワイキキにオープンした「モアナホテル」や「ロイヤル・ハワイアンホテル」に後年、出資し、現在の世界に誇るリゾート地の基礎を築いたともいえる。残念ながら先の《アレキサンダー・ヤングホテル》の建物は、1981年に取り壊されてしまった。

 余談ながらハワイのお土産の定番「マカデミアナッツ・チョコレート」は、1950年、この《アレキサンダー・ヤングホテル》内の売店で、はじめて販売され、人気を博したそうである。

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      参考:The Honolulu Advertiser 2006年7月2日号

※アレキサンダー・ヤングホテルのイラストは当時の絵ハガキより

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《遣米使節団》なくてはならない日本の味「しょう油」

 幕末の安政七年(万延元年)つまり1860年、海を渡った日本初の外交使節《遣米使節団》は、9カ月に渡る長旅であった。この時出航に際して「ポーハタン号」に、どれほど日本の食料を積んでいったかは記録が残っていないが、護衛艦として同時期に太平洋を往復した「咸臨丸」の積込品はわかっている。使節団77名の「ポーハタン号」にもほぼ同量かそれ以上の日本食品が積載されたと推定されている。

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 積込品は、主食の米が七十五石(75,000合=約11,250㎏、60㎏詰米俵で187.5俵)。

一人あたり1食1合として、1日3合、1年で約1,000合(1石)の計算になるため、おおざっぱに75名分となる。醤油は七斗五升。1斗=10升、10合=1升=1.8039ℓだから1斗は18.039ℓとなり、七斗五升は約135.3ℓで、75名分として(135.3÷75=)一人1.8ℓとなる。旅行期間の9カ月(270日間)から計算すると、1日あたり一人、なんと約67mlも使うことになる。

このほか、食品・調味料などは、味噌、香物、焼酎、砂糖、茶、小豆、大豆、胡椒、唐辛子、ソバ粉、麦、かつお節、梅干、酢、塩鮭、野菜乾物類など、大量に積まれた。

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 さて、この醤油(しょう油)であるが、肉食中心のアメリカの食事で随分、活躍したようだ。確かに自分でも経験があるが、塩とコショウで調味したステーキにしょう油をかけると、風味も増し、うまい。まして江戸時代、煮物や焼き物が中心の食事では、しょう油は欠かせない。おそらく慣れないアメリカ料理には、なんでも醤油をかけて食べたことだろう。ついに使節団一行も帰りの船中では、日本から持ち込んだ醤油が切れてしまった。

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 帰路は「ナイアガラ号」に乗り換え、一行はニューヨークから大西洋を渡り、アフリカ大陸のロアンダ、喜望峰を回り、インド洋を越え、バタビア(ジャカルタ)へ寄港。

(バタビア)出航を明日に控えて、日本人は当地においていろいろ求めねばならぬものがあった。それは日本人の食生活に不可欠な醤油である。すでに百日余もろくに醤油を口にしていなかったので皆、体に力がなく、ようやく街中でそれを見つけ、帰艦して用いたところ「身体肥ゆるが如し。これ等にて航海中の困苦を思ふべし」(佐野鼎『万延元年訪米日記』)と、生気を与えてくれる醤油のふしぎな力とそれの欠乏したときの辛苦について述懐している。(宮永孝『万延元年のアメリカ報告』新潮社より)

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 実はこの醤油、正真正銘の日本のもの。江戸時代、長崎の出島から初期には東インド会社を通じ、東南アジアや遠くヨーロッパに輸出されていた“JAPANSCHZOYA”(オランダ語でジャパンのソイ・ソース)という磁器の「染付醤油瓶」であった。バタビアは、当時オランダ領であり、東インド会社のバタビア本店があった場所。

 キッコーマン国際食文化研究センターによれば、江戸時代のこの醤油瓶は、「コンプラ瓶」と呼ばれるもので、長崎県の大村湾東側の東彼杵(ひがしそのぎ)郡波佐見町で焼かれた「波佐見焼き」の徳利だ。おおよそ三合入りでバラツキはあるものの、540mlほどの内容量だった。「しょう油」は京都産のものが、堺から長崎へ樽で運ばれ、オランダ商会・東インド会社の指導で、そのしょう油を鉄の釜で煮て、瓶に詰め、コルクで栓をして密封、保存性を高めたという。

(「染付醤油瓶」写真:古美術青華堂さん提供)

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参考《遣米使節団》日程表

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※服部逸郎『77人の侍アメリカへ行く』講談社より

 

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【にっぽん 海外交流史】《遣米使節団》の滞在ホテルその2

 使節団のワシントンでの宿は、開業間もない「ウィラード・ホテル」である。150年を経過して現在もこの首都で営業を続ける(Willard InterContinental Washington)高級ホテルだ。1860年当時のサムライたちのホテルライフを紹介したい。

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 この家(ホテル)は一町四方(一町=109m)もあるだろう。四つ角にある五階建ての大建築で美麗を極めている。新見豊前(正使)と自分(副使・村垣)が相部屋になったが、十五畳敷きくらいの部屋である。絨毯を敷いて椅子もあるが、片付けて蒲団を敷いて坐った。(村垣淡路守範正『遣米使日記』)

 この旅館は七階建て(地下二階)で四つ角にあるので入口は二つある。部屋は十畳か八畳くらいで花模様の絨毯が敷いてある。私(従者・加藤素毛)は三階の部屋に四人ではいった。部屋ごとに寝台、タンス、椅子、姿見鏡があり、入口には何か書いた横文字の板がかかっているが、読めないから日本字でもって役柄と名前を書いて張っておいた。

 おそらく新見・村垣・小栗の使節ナンバー3は、「スイート・ルーム」の待遇であろう。イスを片付けて、日本から持参した座布団を敷きすわった。また、従者たちは、おそらく4人程度でスタンダード・ルームに入った。ベッドが置いてある。

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 食事も当然ながら提供される。

 料理はいろいろあるが、鶏肉(チキン)、カステラ、卵、牛のモモ、砂糖、ソップ(日本の味噌汁の代用:スープ)、魚(頭と尾とひれを切り取り、正味と親骨ばかり)、以上は必ず出る。他には牛乳(何を煮るのにも入れる。味はよいが日本人には臭いがきらいだ。飯にさえ入れて炊く)、パン(アメリカ人の常食でむし立てはおいしいが、古くなるとまずい)、魚は鯛、鱒、鮭などが多い。

 飲料は湯茶、コーヒー、氷水などで、西瓜(すいか)は立て割りにして合わせて元の形にして出す。味はとてもよい。(略)ワインは種々あるが、大きな瓶に入れて調合して出すので薬酒のようである。おかんをすることはない。

 一行はハワイ、サンフランシスコでも「西洋料理」に洗礼を受けていたため、それほどのカルチャー・ショックはみられない。だが、「牛乳」は好きになれなかったようだ。また米(ライス)については、アメリカでは「ライス」は野菜であり、主食ではなく、付合せのバターライスが主流だった。これはいまでもかわっていないが、白飯とは違う。

このホテルには、長期滞在することになっていたため、ホテル側も日本の使節団のために、専用の厨房を用意し、日本から同行した料理人(御賄い方)が持参した米を炊いたり、味噌汁をつくったようだ。

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(参考:服部逸郎『77人の侍アメリカへ行く』講談社)

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【にっぽん 海外交流史】《遣米使節団》の滞在ホテルその1

 アメリカ、ワシントンでの日米修好条約の批准と現地事情を視察する目的で、幕末の安政七年(1860)、日本初の公式な外交使節団が、アメリカ船「ポーハタン号」に乗船して派遣された。世にいう《遣米使節団(けんべいしせつだん)》だが、派遣中の3月に年号が(安政から万延に)かわったため、「万延の使節団」とも呼ばれている。実はこの使節団には同時に護衛船「咸臨丸」が同行した。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎といった有名人が乗っていたため、彼らは遣米使節ではなかったが、本体の使節団より話題性があったようで、歴史に残っている。幕末の外交史上では、本来の《遣米使節団》の歴史的意義をもう少し取り上げてほしいところである。

 安政七年1月22日(1860年2月13日)、横浜港を出発した使節一行は、ハワイ(ホノルル)を経由して、アメリカ・サンフランシスコに到着。その後、パナマを経由で再びアメリカ・ワシントンに到着した。(5月15日)ワシントンでは、当時のブキャナン大統領に謁見、条約の批准書を渡した。

 日本側の使節団は、合計77名。メンバーのナンバー3は、以下のとおりだ。

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正使:外国奉行兼神奈川奉行・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)

副使:箱館奉行兼外国奉行兼神奈川奉行・村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)

監察:目付役・小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ・後の小栗上野介おぐりこうずけのすけ)※イラスト:左)村垣、中)新見、右)小栗

 使節団はワシントンに25日間滞在したが、その当時の宿泊先が《ウィラーズ・ホテル》であった。いまから150年も前の話だが、現在でも5星の最高級ホテルとして残っている。いまはウィラード・インターコンチネンタル・ワシントン(Willard Inter Continental Washington)という。ホワイトハウスにも近い。

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 《ウィラーズ・ホテル》は、1850年開業だが現在の12階建ての建物としては、1904年創業になっている。1968年には営業を停止し、1986年に再開、2000年にリューアル・オープンしている。多くの国賓やVIPが宿泊したことで知られている。2008年には金融サミットがおこなわれ、麻生総理も滞在している。現在の部屋数332、そのうちスィートルームは40部屋である。

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 幕末の《遣米使節団》一行を迎えたことが、150年のこのホテルの輝かしい歴史の中でいまも語り継げられている。

      The first Japanese delegation to visit the United States stayed at the Willard in 1860. Three ambassadors and their entourage of 74, traveled to Washington to sign the first trade and friendship treaties between the two countries. One of the delegates wrote, “The house of the Secretary of State is not as fine as the hotel.”

      日本で最初のアメリカ合衆国への使節団一行は、1860年ウィラード・ホテルに滞在した。3名の大使(新見・村垣・小栗)と従者たち74名は、日米修好通商条約の批准のためにワシントンへやってきた。一行の一人は、「どんな大名やお殿様の屋敷より、このホテルはすばらしい」と書き残している。

(参考:宮永孝『万延元年のアメリカ報告』新潮社、服部逸郎『77人の侍アメリカへ行く(万延元年遣米使節の記録)』講談社、イラストも2冊から)

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【にっぽん 海外交流史】スフィンクス前、武士の集合写真

 嘉永六年(1853)のアメリカ使節ペリーの来訪、日米和親条約調印、日米修好通商条約調印と幕末から維新まで激動の日本。幕府はこの時期、アメリカやヨーロッパ、ロシア等列強国に使節団を送った。そんな中、攘夷派のほこさきをかわすため、横浜港を閉鎖(鎖港)する目的でフランスをはじめ、西欧諸国との交渉を目的に、1863年、「遣仏使節 池田筑後守一行」が派遣された。

 この使節団は交渉に失敗し結果を出せず、フランスとの外交交渉のみで帰国したため、ほとんど日本の歴史ではふれられることはない。しかし、旅の途中で立ち寄ったエジプトのギザのピラミッド、スフィンクス前で撮影された武士たちの集合写真は、実に興味深いものである。

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 使節団一行は、35名。行程はつぎのとおりであった。

文久三年(1863)12月27日、使節団江戸出発、12月29日出航。翌1864年1月6日上海着、7日上陸、1月14日フランス郵船ヘーダスプ号にて上海出帆、1月17日香港着、アルフェー号に乗り換え、18日香港上陸、19日香港出帆。1月23日(仏領)サイゴン着、上陸、25日出帆、26日シンガポール着、上陸、27日出帆、2月3日セイロン島着、上陸、2月12日アデン着、13日上陸、19日スエズ上陸。汽車にてカイロへ。

2月28日ピラミッド見物。スフィンクス前。3月1日国王の招宴。3月3日アレキサンドリア着、4日仏汽船ペルリン号にて出帆、10日マルセーユ着。ホテルドマルセーユ宿泊。11日市長訪問、博物館・公園見物。12日マルセーユ出発。13日パリ着、グランドホテル宿泊。3月20日外務省外相訪問。4月9日交渉。5月17日・20日パリ発、マルセーユへ。26日英船に乗船、27日出帆、6月3日アレキサンドリア着、英船にて、7月18日横浜着。

 スフィンクスを見て、当時の武士の記録。

「石造の大像あり、顔面より乳上まで現れ、以下は土中埋没す、面闊(ひろ)く方五尺程、又此辺土砂中より銅石造りの古仏、銭幣など往々に拾ひ取るものある由なり。思ふに古代の大梵刹の跡なるべし。(欧行記)

※尾佐竹猛著、『幕末遣外使節物語』講談社学術文庫より

※写真:「スフィンクス前の武士たち」他、エジプト大使館観光局

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 いまから140年以上前のスフィンクスは、胸の上までしか地上に出ていなかった。実際に添乗員でエジプトに行く機会があったが、いまは発掘も進み、足の部分まで現れている。周辺の道も整備され、砂漠地帯はほんの少しだ。ピラミッドやスフィンクスのすぐ近くに駐車場や土産屋がたくさんあることは、訪れてみなければわからない。

(参考:別冊歴史読本『世界を見た幕末維新の英雄たち』新人物往来社刊)

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【にっぽん海外交流史】日本初サムライの英語教師《マクドナルド》その2

日本初の英語教師であったラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald)の『日本回想記』(“Japan, Story of Adventure of Ranald MacDoanald, First Teacher of English in Japan”)から少し紹介したい。

写真:『日本回想記』から引用) 

松前(北海道)から長崎へ送られたマクドナルドは、不法入国者であったため、名刹崇福(そうふく)寺の支院「大悲庵」の座敷牢に監禁された。しかし決してひどい扱いを受けたわけではない。食事も週に一度は豚肉が供され、1日おきに入浴も許され、当時、出島にあったオランダ商館からはコーヒーや西洋の新聞の差し入れもあった。

まもなく長崎のオランダ通詞(通訳)たちに、マクドナルドは生きた英語を教示することになるが、その14人の生徒たちの名前が『日本回想記』にも記されている。

1        西与一郎

2        植村作七郎

3        森山栄之助

4        西慶太郎

5        小川慶重

6        塩谷種三郎

7        中山兵馬

8        猪俣伝之助

9        志筑辰一郎

10    岩瀬弥四郎

11    堀寿次郎(残念ながら堀達之助ではない)

12    茂鷹之助

13    名村常之助

14    本木昌左衛門

驚いたことに、最近まで「日本英学史」の世界でも11番の堀については、堀達之助

とされていた。これはマクドナルドが“Judgero Hory”、“Inderego Horn”と耳で聞きとり、巻き残したことにより、この時代ならば「堀達之助」に違いないといった推察から、達之助は森山と共に、長崎でマクドナルド先生から英語を習ったと、定説になってしまったようだ。もし、達之助が森山同様に、日本ではじめての英語教師からこの時使える英会話を学んでいれば、その後の数奇な運命もちがったものになったであろうと思う。時代の趨勢は、まちがいなくオランダ語から英語の必要性に動いていた。

(参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂刊)

※稲上譲さんのご指摘により、誤りを訂正しました。

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日本初の本格的英和辞書《英和対訳袖珍辞書》

 1862年(文久二年)、堀達之助編纂による、日本初の活字印刷の英和辞典《英和対訳袖珍辞書》が発行された。アルファベットはオランダ製活字を用い、カナと漢字は木版とし、紙は中国から輸入された洋紙を使用した。発行元は「蕃書調所(ばんしょしらべじょ)」。江戸の木版刷り職人を動員して作成したという。(編纂には1年8ヶ月~10ヶ月かかったという)

 蕃書調所は1856年(安政三年)、儒学者で洋学にも明るい古賀謹一郎を頭取(校長)として開設された。開設の目的は洋書の翻訳と通訳官の養成にあったが、ペリーのアメリカ艦隊の来航後、にわかに緊急課題となった警備の拡充、武力強化のため、欧米の軍事書や科学書を翻訳・読解して参考にする必要性があった。そのために全国から優れた洋学者を招聘したという。(「蕃書」とは、江戸時代に欧米とくにオランダの書籍や文書を意味する言葉である)翻訳業務や教育も当初はオランダ語が、主流であったが、次第に英語に代わり、続いてフランス語、ドイツ語、ロシア語の翻訳・教育も加えられていった。

 なお「蕃書調所」は名称が実態にそぐわなくなり、「洋書調所」と改称、さらに幕府の最も重要な教育機関として「開成所」と改められていった。明治維新には新政府に移管され「開成学校」に再編された。開成学校は、「大学南校」と名をかえ、現在の東京大学文学部・法学部・理学部へと発展していく。

 さて《英和対訳袖珍辞書》は英文“A POCKET DICTIONARY ENGLISH AND JAPANESE” という。「袖珍(しゅうちん)」は「ポケット」といった意味で、携帯に便利な辞書のことであるが、実際にはかなり大きなサイズであったようで、その形から「枕辞書」とも呼ばれていたそうだ。堀達之助は、英蘭辞書(英単語のオランダ語訳辞書)を参考に、オランダ語訳に日本語訳を置き換えて「英和辞典」を作成することとした。Shuchin

 この日本語訳についても、それまでの主流であった権威ある「諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)」の和訳を踏襲することはやめ、見直して一つの英単語に対し、一つの和訳ではなく、複数の日本語が対応する場合には、すべて書き出した。

 たとえば、「語林大成」で「A・・・冠詞 又 一ヒトツ」とあるのに対し、達之助は、

A・・・不定冠辞ニシテ単称名詞ノ前ニ在リテ 一ツ 又ハ或ルノ意ヲ示ス」と訳した。

さらに「語林大成」では「Able・・・有力(チカラアル)又 徳力(タッシテヲル)」と訳していたが、袖珍辞書では「益ニ立ツ。巧ナル。強大ナル。抜きん出る。」などとし、語句としてto be able「得ル(うる)。能フ(あたう)。」とした。英蘭辞書を参考にしたとはいえ、大変地道な労苦の多い仕事であることは間違いない。Shucin2

 ところで、この日本は初の本格的な英和辞書の草稿が、今年発見されたそうだ。

和紙の手書き原稿20枚で、堀達之助の推敲の跡もあるそうだ。新聞記事によれば、この辞書の現物は、内外に18冊確認されているようだ。驚くべきことに最初の発行から150年近くも経過している。

2007317日熊本日日新聞夕刊)

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※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

※写真:英和対訳袖珍辞書(上下):京都外語大学附属図書館蔵

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