カテゴリー「にっぽん 旅の文化史」の6件の記事

【にっぽん 旅の文化史】旅館の《お茶受け》あれこれ

 観光地や温泉地の日本旅館に泊まる。部屋に案内され、まずはお茶で一服。そんなときうれしいのが、お茶受けである。ちょっと気のきいた和菓子や地元の有名茶菓子が並べられている。

 京都なら「生八つ橋」や「わらびもち」。草津温泉では「花いんげん甘納豆」。熱海温泉では「桜えびせんべい」など。箱根温泉の老舗旅館では、羊羹入りのやわらかい「湯もち」だった。宿に着いて、ひと風呂浴びる前の、お茶の一杯にうれしいサービスである。もちろん旅館側にとっては、宿の売店で「おみやげ」として買っていただきたいための試食でもあるのだけれど、あまりいい加減なものは出せないはずだ。もしもお茶受けに出された茶菓子が、その土地の産物ではなく、東京で生産されたお菓子であったら、たとえそれが有名な高級品であっても、少しもうれしくないばかりか興ざめである。

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 栃木県鬼怒川温泉は、東京の浅草から特急で約2時間。この温泉地のほとんどの旅館で出る「お茶受け」は、《きぬの清流》である。やわらかい2枚の和風クッキーであんこをはさんだものだが、直径7㎝、厚さが1㎝と食べやすい。地元・鬼怒川の虎彦製菓が50年近く前から製造販売しているようだ。

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 この《きぬの清流》に季節限定バージョンがある。いまなら「木いちご」や「山里のラズベリー」がある。これがなかなかうまい。お得な詰合せもあるので、鬼怒川温泉や川治温泉に旅したら必ず、おみやげにしてほしい。かなりレベルの高いお菓子である。

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■虎彦製菓株式会社 栃木県日光市鬼怒川温泉滝728

■TEL:0120-16-8300 ※地元と栃木県内の宇都宮でしか発売していないが、通信販売もある。

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【にっぽん 旅の文化史】《東照宮以前の日光》日光修験道その3

 戦国時代になると、地元の領主・壬生氏が日光山領へ介入。しかし豊臣秀吉の小田原攻めに際して、壬生氏や日光山の僧兵たちは北条氏に加勢したため、日光山の領地(寺領)は没収され日光山は一時衰退していく。

 日光の歴史の中で最大の転換期を迎えるのは、江戸時代である。徳川家康の死後、遺言により、死後一年を経て柩(ひつぎ)は、(静岡)久能山から日光へ運ばれ、東照社(のちに東照宮となる)が創建された。(1617年)これが家康を神としてまつる「東照大権現」である。このときすべてを取り仕切ったのが、天海大僧正であった。三代将軍・家光の時代、この東照宮の大改築(寛永の大造替、1636年)がおこなわれ、絢爛豪華な現在の姿に変わった。徳川幕府の直轄領となった日光は、それまでの三所権現に東照大権現を加え、四神信仰となり、中心にあった輪王寺は、輪王寺宮(輪王寺門跡)となり、皇族(法親王)を迎え、日光山の最高責任者として継承されていくことになった。

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(写真:天海大僧正、中:川越喜多院の天海像)

 天海が日光山貫主に就任し、東照宮が鎮座され、日光は再び脚光を浴びる。従来の宗教行事も再興される。修験の入峰行事も、遭難者の多かった夏峯以外は再開されるが、規模は縮小された。(修験者の住居を兼ねた日光山の小坊は、鎌倉時代で三百余、室町時代には五百余あったが、江戸時代には輪王寺門跡配下に25院八十坊程度になった)むしろ修行よりも、日光山の伝統行事を取り仕切る役目を担っていくようになる。

(なお、輪王寺宮は当時、天台座主も兼務し、比叡山、上野寛永寺、日光輪王寺を管轄し強大な権力を有していた)

 入峰修行とは別の形態で発展していた男体山信仰(男体禅頂)は、江戸期には七月一日から七日までと決まり、江戸中期からは講組織が発達し、集団登拝がおこなわれるようになった。

 戊辰戦争後、明治維新により日光山の形態は大きくかわる。神仏分離令(明治4年・1871)によって、それまでの輪王宮(輪王寺門跡)支配体制は、崩壊する。「日光山」という関東の一大霊山や「日光三所権現」による、神仏習合の信仰形態も終わり、東照宮・二荒山神社・輪王寺の「二社一寺」に分離され、それぞれが関係する諸行事を執務することのみになった。(山岳伝統行事の日光修験入峰は輪王寺、男体禅頂は二荒山神社)

 ところで明治元年(1868)、戊辰戦争の際、日光山にたてこもった幕府軍(旧幕臣)・大鳥圭介らと対峙した新政府軍(官軍)の総大将・板垣退助は、二社一寺のある日光を戦火にさらすことを避けるために、幕府軍に無血開城を迫り、見事に説得に成功した。その結果、日光の寺社は戦火を免れ、世界遺産に登録されることができたともいえる。日光にとって大いなる恩人である。

 明治維新後は、徳川幕府の家康を祀る朝敵の霊廟とされ、日光は荒廃の一途を辿っていた。そんな状況に心を痛めていた人物がいた。たまたま世界一周の旅の途中で、日本に立寄ったグラント元アメリカ大統領である。明治十二年(1879)、日光を訪れ、グラントは日光山の美観を称賛し、殿堂の保護を提唱。これをきっかけに、社寺長職にある有志や旧幕臣、町人たちにより、日光山の社寺を修理保存しようという運動が起こった。そして全国的な規模まで広がり、日光の社寺を保護する団体「保晃会(ほこうかい)」という組織ができた。修復が進展、日光山の美景が守られたそうだ。

 以上のように、日光はただ単に東照宮などの世界遺産の建物だけではなく、そこには勝道上人から始まる歴史が、背景にあることも忘れてはならない。今後は、日光山の歴史的背景を見直していく必要がある。現代に続く日光の精神史にも注目してほしい。

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【にっぽん 旅の文化史】《東照宮以前の日光》日光修験道その2

中世に盛んになった「日光三所権現」は、いってみれば日光の三山信仰であった。「権現」とは、形がなく目には見えない神様や仏様が、仮の姿であらわれることだ。神様も元々仏様で同体(神仏習合思想)であり、日本ではインド・中国など大陸伝来の仏の姿が神であるとする「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」説の影響もある。2

具体的には、三山にそれぞれの神と仏が宿るとされた。つまり男体山の神は男体権現、仏は千手観音。女峰山は神が女体権現で、仏は阿弥陀如来。太郎山の神は同太郎権現、仏は馬頭観音。

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鎌倉時代には修験者は集団となり、組織化され、日光修験が成立していく。鎌倉後期南北朝から室町時代に、行者が関東各地から集まってくるようになり、日光独特の山中に修行に入る「峰修行」が確立されていく。日光山の座主・弁覚は、熊野での修行を伝え、教義や山中の道場を兼ねた宿泊施設、休憩所(仮泊所)を整備した。そして「三峰五禅頂(さんぶごぜんじょう)」の形が出来あがった。

山中の宿(しゅく)には本尊として日光三所権現や勝道上人の板絵が掲げられ信仰の対象となった。峰々と宿を結ぶ修行のコースも四季に応じて決められた。

「三峰」は、春のコースの春峯(華供峯:はなくのみねともいう)、夏の過酷なコースの夏峯、冬場のコースの冬峯をいう。「五禅頂」は秋峯という秋のコースである。

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山岳修験の道場、一大霊場としての日光山を巡るコースは、2,000m級の山々の尾根伝いに行くもので、つぎのようになっていた。

●冬峯(冬):四本龍寺~出流山(いづるさん)~古峰ガ原(こぶがはら)~地蔵岳~掛合宿~薬師岳~滝ガ原峠~合峰(がっぽう)~星宿(ほしのしゅく)~(神橋)

    華供峯(けぐぶ・はなくのみね 春):四本龍寺~出流山~古峰ガ原~地蔵岳~掛合宿~薬師岳~細尾峠~歌ガ浜宿(中禅寺湖畔)

    夏峯(夏):四本龍寺~星宿~合峰~滝ガ原峠~薬師岳~細尾峠~歌ガ浜宿~夕暮宿(中禅寺湖南岸)~黒桧岳(往復)~千手ガ浜~男嶽(宿堂坊山)~錫ガ岳~白根山~金精峠~温泉岳~山王帽子山~太郎山~寒沢宿~大真名子山~男体山~寒沢宿~小真名子山~女峰山~行者堂

    五禅頂(秋):四本龍寺~行者堂~女峰山~小真名子山~寒沢宿~大真名子山~男体山~中禅寺

かかった日数は、春と冬が40日間、もっと過酷な夏のコースが、100日間近くで、このコースだけは遭難者や行方不明者が続出したため、のちに廃止されたという。

 日光山興雲律院(こううんりついん)の中川光熹(こうき)住職は、明治期以後、廃止されたこの日光修験の「華供峯(春峯)」を復活させ、毎年6月に実施しているという。(写真:日光博物館、福田さん提供)

日光修験道の山伏を体験するのも興味深いものがあると思う。ちなみに難行苦行に耐え山をおりた修験者は、霊験を備え、祈祷やまじないの呪術をつかい、庶民の信仰を集めたそうだ。

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【にっぽん 旅の文化史】《東照宮以前の日光》日光修験道その1

研修会で世界遺産の《日光》へ行く。歴史講座『日光修験の歴史』に出席した。講師は日光の修験道を研究し、復活すべく自らも修行を続ける天台宗・日光山興雲律院(こううんりついん)の、中川光熹(こうき)住職。大正大学で修士号をとり、比叡山では百日回峰の修行を積み、羽黒山にも赴き「大先達」の資格を得たそうだ。山岳信仰、日光修験道に造詣が深く、著作も多い。

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 日光東照宮は、江戸時代1617年、天海大僧正の暗躍により、徳川家康の遺言通り、家康を祭神として祀(まつ)るために造営された。その後、家康を信奉した三代将軍・家光によって、寛永13年(1636)大改築される。確かに、いまの貨幣価値で約400億から500億円という巨額の資金をつぎ込み、1日1万人以上の全国から集められた職人が、1年半足らずで完成させた建築物や数々の彫刻は、豪華絢爛である。そして現代、東照宮はじめ二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺の二社一寺が、世界遺産に登録され、まさに日本全国のみならず世界中から観光客がやってくる。しかし単に「東照宮」だけが、日光の歴史ではない。陽明門に代表される東照宮の建築だけが、日光ではない。背景には、古(いにしえ)から平安時代、鎌倉時代の中世を経て、面々と続く歴史的背景を忘れてはならない。

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 中川住職の講演を要約する。

 

「日光」の歴史は、勝道上人の補陀洛山開山に始まる。いまから千二百年以上前に遡(さかのぼ)る。標高2000m級の山岳と湖沼や瀑布などに、古代の人は、大自然に神仏を崇(あが)め祀り、自己練磨の場とした。勝動上人もこの地に修行の場を求めて、延暦元年(782)、補陀洛山(男体山)登頂に成功した。そこで勝道が、見たものは、紺碧の一大湖(中禅寺湖)を眼下にした雄大な大自然の景観であった。これこそまさに観音浄土(補陀洛浄土)と、歓喜したはずだ。この偉業に先立つ、ベースキャンプの四本龍寺の創建に続いて、(中禅寺)湖畔に地主神明を祀り、千手観音を造立。以来、火山地形という恵まれた修行の立地条件に相応した、日光山の歴史と伝統文化は、今日まで連綿として受け継がれてきている。一口に歴史といっても、古代から現代にいたるまで、時代ごとの栄枯盛衰の繰り返しである。

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奈良時代に補陀洛山と呼ばれた山が、黒髪山になり、現代では男体山という。平安時代には、空海(弘法大師)の滝尾(神社)創建や円仁の来山も伝えられ、二荒山の総称も日光山となった。鎌倉時代になると、源実朝が弁覚を座主とし、光明院時代という隆盛期を迎える。この弁覚法印によって、熊野修験の法が導入され、日光修験が確立し、二荒神から三神(日光三所権現)信仰・三山信仰へと移行された。(三山信仰:男体権現、女体権現、太郎権現)

そもそも「修験道」は、古来の山岳信仰と仏教が融合した日本独特の宗教だそうだ。天台州と真言宗の宗派が確立するのに従い、修験の教団は両派に組み込まれていき、いわゆる密教的な要素が強くなった。+++続く+++

次回は、現代にも再現されている、四季折々の日光修験道の峰々を踏破する修行行程に言及する。

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(資料提供:日光自然博物館、写真:たろべえ、大島よしお氏、参考文献『郷愁の日光』、『知られざる日光』、『日光近代学事始』いずれも随想舎刊)

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【にっぽん旅の文化史】《日本初の海外観光旅行》

 明治41年(1908)、民間初の海外観光旅行の団体が世界一周ツアーとして実施された。朝日新聞社の企画で、旅行主催はイギリスのトマスクックトラベル社だった。このブログでも取り上げたが、参加者56名、現代の貨幣価値で1千万円以上の旅行代金が必要だった。

コースは横浜から客船で太平洋を渡り、ハワイに寄港しサンフランシスコへ。列車でアメリカ大陸を横断し、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨークを訪れる。さらに船で大西洋を行き、イギリスのリバプールに上陸後、ロンドンに滞在。ドーバー海峡を船で渡り、フランスはパリへ。その後、列車でイタリア・ジェノバ、ローマ、ナポリ、ベニス、ミラノと移動。続いてスイス・コモ湖からルガノ、ルツエルン、バーゼルへ。そしてドイツ・フランクフルト、ベルリンを経て、ロシア・ペテルブルグ、モスクワ、ウラジオストックと列車の旅だ。ウラジオからは日本海を渡り、福井県敦賀に帰国した。

 旅行期間は96日間だが、航空機(旅客機)のない船旅の時代、ほとんどが船中泊や列車内の車中泊でホテルには46泊しかしていないそうだ。「移動」の旅である。

このツアーについては、2冊の研究書が上梓されている。一つは、初めての海外旅行が朝日新聞というメディアがつくり出したイベントとしてとらえた『海外観光旅行の誕生』(有山輝雄著、吉川弘文館「歴史文化ライブラリー134」2002年)である。新聞社の大命題は、読者を増やし販売部数を伸ばすことにある。アイデアを駆使して「世界一周ツアー」を企画し、募集し催行する。民間外交として中流・上流の日本人を世界へ旅立たせ、旅行中の様子をニュースとして記事にする。「世界一周旅行が社会的・文化的な意味をもっていることを説明する物語が必要なのである。そうした物語が、共有されることによって世界一周旅行は、社会的・文化的事件となり、多くの読者が共感的関心をもって読むニュースとなるのである。」

著者はジャーナリズム論やメディア論の専門家であるため、海外旅行の成立や創生期の歴史については詳しく論じられている。しかし「旅行」、「ツーリズム」の観点、つまり実際のツアーの内容や参加者の視点など、読者が知りたいと思う点については、残念ながら記述が少ない。

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もう一冊は、『日本初の海外観光旅行―九六日間世界一周―』(小林健著、春風社2009年)である。こちらは専門のツーリズムの立場から細部にこだわり、ツアーの実態を克明に解き明かすことを目的とし、旅行中の詳しい日程にまで言及している。出発前、この募集旅行が新聞紙上で発表される前後の事情も丁寧に取材する。出発後も毎日の旅程について、新聞記事を中心に参加者の残した日記・旅行記あるいは現地の新聞ニュースなどで周辺を固め、旅行の追体験を可能にしている。わくわくするような内容だ。しかも帰国後の参加者の行く末をも記述し、この大イベントの意味を明らかにしていく。

ただ残念なのは、海外旅行の三大要素(ホテル、食事、観光もしくはショッピング)についての記載が少ないことだ。100年前のツアーで宿泊した「ホテル」についての記述はあるものの、現代、営業を続けているかどうかではなく、どんなホテルで一行は、どのようなホテルライフを送ったのか。また各地の日本大使館や領事館、在留邦人主催による晩さん会が多かったようだが、100年前の旅行者は、どのような昼食をとり、欧米の夕食の人気はどうであったか。また有名な観光地でツアー参加者は、みやげとして何を買ったのか。このあたりにも詳細な記述があれば、もっと楽しく読めると思う。

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【にっぽん旅の文化史】《お神輿考》

 今年の《三社祭》も見事に終わった。二年振りの本社神輿の宮出しもたいした混乱はなかったようだ。担(かつ)ぐときの掛け声も『えっさ、えっさ』や『せいや、せいや』、『そいや、そいや』が聞こえた。最近、地元担ぎ手の人手不足で全国から「神輿同好会」の面々が、浅草にもたくさんやって来るそうだ。

 おみこしは漢字で「神輿」あるいは「御輿」と書く。空の上や遠い海の彼方から、民衆の招きに応じてやって来る神霊(かみのみたま)の乗物だそうだ。もっとも祭りのたびに神様に来ていただくより、つねに人々のそばにいてほしいという当然の要求から、村には「神の社(やしろ)」、つまり神社をつくるようになった。民の五穀豊穣、豊作、大漁、無病息災、安産や商売繁盛への願いにこたえる目的で、神霊に乗っていただき、

村々を練り歩き、ご利益に授かる。いってみれば、神様の乗物である移動式の小型の神社が、「みこし」であり、「山車(だし)」や「屋台」の始まりであった。

三社祭の「花川戸丁目」町会の「神輿」を見ていただきたい。屋根には縁起のよい瑞獣で、四霊の一つ「鳳凰」がいる。鳳凰(ほうおう)は、雌雄(しゆう:オスメス)一体の陰と陽の対立があえて調和を示す陰陽思想からくる、きわめてめでたい鳥である。さらに鳥居がある。屋根には、鳳凰のほか、宝珠と呼ばれる「葱花(そうか)」が飾られることもある。(日本武道館の葱花を想像していただければよい)神社の建物と同様に胴の部分にも細工や彫刻が施されている。したがって構造的には、神輿は屋根と胴、そして台輪(台座)からつくられており、まさに英語の“Portable Shrine(ポータブル・シュライン:移動式神社)“である。

また神輿が村々(町内)を練り歩くことを「渡御(とぎょ)」という。さらに神輿が休憩をとる場所を「御旅所(おたびしょ)」といい、神酒所ともいう。なるほど、担ぐ人は、酒に酔いながら棒につかまるわけだ。そして、祭りの早朝、神社から神輿が出発

することを「宮出し」といい、社に戻ってくることを「宮入り」という。

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