カテゴリー「文化・芸術」の42件の記事

【にっぽん 海外交流史】黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1【再録】

※再録

 1853年(嘉永6年)、世にいう「黒船」ペリー艦隊が浦賀にやってきた。そのとき江戸幕府側の首席通詞(通訳)として、活躍したのが堀達之助30歳であった。達之助は長崎でオランダ通詞の家に生まれ、後に同じ通詞の堀家の養子となった。

アメリカ大統領の親書を携えたペリーは、翌1854年再び艦隊で来訪。しかし今度は、達之助が次席で首席通詞には、長崎でオランダ語はもとより、「英語」を習得した森山栄之助が就任した。(達之助はある程度、英語の読み書きはできたようだが、会話の経験はまったくなかったようだ。その点、アメリカ人捕鯨船員・マクドナルドから会話を習っていた栄之助が首席通詞として抜擢された。)ペリーたちとの交渉の通訳は、栄之助がおこない、達之助はもっぱら外交文書の翻訳(オランダ語からの日本語訳)に従事した。当然のことだが、達之助はエリート・森山栄之助に嫉妬したに違いない。

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その後堀達之助は、下田開港に伴い、下田詰(現地駐在)となる。この地でアメリカ商人(実はドイツ人)のリュドルフと知合う。彼が乗船していたのは、米国旗を掲げ、アメリカに雇われたドイツ船・グレタ号であった。ドイツ人船長とリュドルフは、日独通商を要請する奉行宛の書簡を達之助に託す。しかし彼はその書簡を個人の判断で上申することなく、保留していたため、罪にとわれ1855年投獄。4年間の牢獄生活を強いられた。獄中では、死罪となる吉田松陰とも接触があった。

1859年、幸い達之助の通詞としての技量を知っていた「蕃書調所」(東京大学の前身といわれる学問所)の頭取・古賀謹一郎の尽力により、赦免、釈放され、蕃書調所の翻訳方に採用される。ここで達之助は、古賀の命を受け、本格的な“英和辞書”の編纂にたずさわることになった。

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それまで日本初の英和辞典といわれる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』という辞書はあった。掲載されていたのは英単語が6,000語にすぎなかったため、実用には遠かった。さらにこの辞書に附された日本語の発音が、オランダ商館のブロムホフの発音した「オランダ訛りの英語」であったため、基本的な英語の発音とは程遠いものであったそうだ。たとえば、Personns(個人、人ペルソンス=パーソンズ)、summer(夏ソムムル=サマー)、 sugar (砂糖シュガル=シュガー)、drink(飲むデイリンキ=ドリンク)、 war(戦争ワル=ウォー)という具合だ。

 そして18ヵ月の努力の結果、堀達之助は、35,000語にも及ぶ英単語と日本語訳を掲載した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を発刊(200部印刷)した。これは日本英学史学会によれば、1862年「日本初の本格的」英和辞書である。ちなみに袖珍(しゅうちん)とは、ポケットの意味で携帯できる字引なのである。その後もこの辞書は改訂や増補を重ねたばかりか、明治期はほとんどの英和辞典の基礎となった。

写真:上/幕末の堀達之助、下/英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書、大阪女子大図書館蔵

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

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黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその2

日本初の本格的な英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編纂した堀達之助であったが、蕃書調所(洋学所)に奉職中、頭取の古賀謹一郎から箱館への転勤を命じられる。箱館奉行所での通詞の辞令であった。実際には(ペリー再来航時の森山栄之助、堀達之助に次ぐ第三席通詞・名村五八郎が江戸へ転勤になり)有力な通詞が箱館奉行所に少なくなり、弱体化したための苦肉の策で達之助は呼ばれた。

当時の箱館奉行・小出大和守は、達之助の英語力に期待した。ある時アイヌ人の墓をあばいて骨を掘り出し、標本として盗む事件が続発。犯人はイギリス人と判明し、小出は裁判をおこなうが、その通訳に達之助を指名する。しかしペリー来航後、10年もの間、達之助は英会話の経験がなかった。読み書きはできたが、英語の聞き取りや発言ができない。自分の英会話がすっかりさびついていることに気づき、失望するのだった。その後、小出は達之助に文書の英訳と和訳の仕事に専念させることにした。仕事はきびしい。江戸の蕃書調書、開成所の教授方で英和辞書を編纂した学者という、輝かしい堀達之助の業績だが、裁判の席で十分な通訳ができなかったことで、彼の評価は著しくさがってしまった。

 旧幕府軍と新政府軍との箱館戦争をはさみ、達之助は新たに「函館」の開拓使の外国局に採用される。このとき旧幕府軍の指導者として奮戦し、戦死してしまった指導者に中島三郎助もいた。(ペリー来航時に通詞・堀達之助とともに黒船に乗り込んだ、浦賀奉行所の与力である)

 やがて明治2年、達之助は47歳になっていたが、「美也」という後妻を娶る。役所に出した届けでは、「妻、34歳」であった。美也には二人の連れ子がいたが、彼はこの子たちも養育する決心であった。町でも評判の美人で気働きのよい妻であった。しかし幸せは長くは続かない。明治5年、美也は病死。50歳になっていた達之助には、この愛する妻を亡くしたことがかなりこたえたのだろう。老衰を理由に辞職してしまう。

吉村昭は『黒船』の中で堀達之助を見事に描写する。 **********************************************

初来航したペリー艦隊を迎えて主席通詞として働いた頃が頂点で、それ以後は、起伏はあったものの下り坂をくだりつづけてきたような気がする。リュドルフ事件で思わぬ嫌疑をうけて長い牢獄生活を強いられ、釈放後、開成所教授方として「英和対訳袖珍辞書」を編纂したものの、その辞書も自分に無断で改正増補され、いじくりまわされている。

さらに思いもかけぬ箱館詰を命じられて、そこで味わわされたのは、英会話からはなれてしまっていたため無能な通詞として扱われた屈辱感であった。(略)そうした境遇の中で、突然、眼の前に現れた美也は、かれに大きな喜びをあたえ生き甲斐ともなった。(略)不遇な自分に、短い期間ではあったが、天があたえてくれた宝であったのだ。 ******************************************************************

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そして、達之助は生まれ故郷の長崎、次男のいる大阪で静かに静かに晩年を過ごし、72歳で亡くなった。私は思う。恵まれない人生も確かにある。体制や大きな社会の中で、思うように生涯を歩める人は、稀ではないかと。数々の出来事を通じて、堀達之助の生き方をみると、後妻の美也に出会った50歳近い幸せを除けば、大きな時代の潮流に押し流されていったようだ。しかし、日本初の本格的な英和辞書をつくった功績は、永久不滅のものであることは、いうまでもない。

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫 ※写真:晩年の堀達之助(『堀達之助とその子孫』より)

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【にっぽん旅の文化史】《お神輿考》

 今年の《三社祭》も見事に終わった。二年振りの本社神輿の宮出しもたいした混乱はなかったようだ。担(かつ)ぐときの掛け声も『えっさ、えっさ』や『せいや、せいや』、『そいや、そいや』が聞こえた。最近、地元担ぎ手の人手不足で全国から「神輿同好会」の面々が、浅草にもたくさんやって来るそうだ。

 おみこしは漢字で「神輿」あるいは「御輿」と書く。空の上や遠い海の彼方から、民衆の招きに応じてやって来る神霊(かみのみたま)の乗物だそうだ。もっとも祭りのたびに神様に来ていただくより、つねに人々のそばにいてほしいという当然の要求から、村には「神の社(やしろ)」、つまり神社をつくるようになった。民の五穀豊穣、豊作、大漁、無病息災、安産や商売繁盛への願いにこたえる目的で、神霊に乗っていただき、

村々を練り歩き、ご利益に授かる。いってみれば、神様の乗物である移動式の小型の神社が、「みこし」であり、「山車(だし)」や「屋台」の始まりであった。

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三社祭の「花川戸丁目」町会の「神輿」を見ていただきたい。屋根には縁起のよい瑞獣で、四霊の一つ「鳳凰」がいる。鳳凰(ほうおう)は、雌雄(しゆう:オスメス)一体の陰と陽の対立があえて調和を示す陰陽思想からくる、きわめてめでたい鳥である。さらに鳥居がある。屋根には、鳳凰のほか、宝珠と呼ばれる「葱花(そうか)」が飾られることもある。(日本武道館の葱花を想像していただければよい)神社の建物と同様に胴の部分にも細工や彫刻が施されている。したがって構造的には、神輿は屋根と胴、そして台輪(台座)からつくられており、まさに英語の“Portable Shrine(ポータブル・シュライン:移動式神社)“である。

また神輿が村々(町内)を練り歩くことを「渡御(とぎょ)」という。さらに神輿が休憩をとる場所を「御旅所(おたびしょ)」といい、神酒所ともいう。なるほど、担ぐ人は、酒に酔いながら棒につかまるわけだ。そして、祭りの早朝、神社から神輿が出発

することを「宮出し」といい、社に戻ってくることを「宮入り」という。

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會津八一と《日吉館》【その2】

會津八一(あいづやいち1881~1956)は、奈良をこよなく愛し、常宿の日吉館(ひよしかん)》のご主人に自作の和歌を贈っている。

おほてらの まろきはしらの つきかけを 

つちに ふみつつ ものをこそ おもへ (秋艸道人しゅうそうどうじん)

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 実際には唐招提寺で詠んだ歌である。おそらく秋の夜、大きな寺で月の光を見て、心をうごかされた情景だろう。

さて、會津八一と《日吉館》といえば、やはり日吉館の看板を抜きには語れない。屋根の上にあった横書きのものと、入口にあった縦書きの看板は、八一の書である。私が日吉館に通っていた頃でも、まだまだ木の看板が大手を振って飾ってあった。

昭和4年、八一はこの看板の元になる書を認(したた)めた。日吉館の文字を揮毫するにあたり、三日がかりで、30枚近く書き損じた。墨も三合あまり使った。彫刻師には、勝手に大きさを変えず、八一の書をそのままの大きさで彫らせるように指示を出している。このときの(右からの)横書きの「日吉館」が玄関上の屋根に置かれ、「ひよし館」と平仮名で書かれた縦書きの看板は、入口に向かって右側に飾られた。私が泊っていたのは、昭和50年代だから、これら木製の看板がつくられてから50年近くもたっていたことになる。

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看板の文字には、最初白いとのこが埋められたいたようだが、長い年月、風雨に耐えたためか、白い色か消えていた。現在では、この横看板は早稲田大学に保存されている。

(参考:『奈良の宿・日吉館』太田博太郎編、講談社、日吉館前の八一の写真も同書より)

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會津八一と《日吉館》【その1】

會津八一(あいづやいち・秋艸道人しゅうそうどうじん1881~1956)は、奈良をこよなく愛した歌人であり、書家であり、美術史家であった。八一の奈良での定宿が、私にとっても忘れられない《日吉館(ひよしかん)》であった。

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八一は、明治14年(1881)、新潟市に生まれ、同39年(1906)、早稲田大学英文学科を卒業。故郷で英語教師をつとめ、後に早稲田中学の教員、さらに早大英文学科の講師となる。その頃から古都奈良への思い入れが深く、大正10年から常宿として日吉館に宿泊。大正14年には早大付属高等学院の教授、さらに昭和元年(1926)には早大文学部で東洋美術史の講座を担当する。昭和13年(1938)、早大文学部哲学科の芸術学専攻主任教授になる。まさに奈良の仏像や寺社の美術史的研究をはじめ、度々の古都への旅行で多くの歌を詠んだ。昭和31年(1956)、76歳で亡くなるまで、学問と趣味に生きた人物といってよい。

そんな八一が、晩年(73歳)、自分の歌集『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』に、自ら解説と注釈をつけた『自註鹿鳴集』を出した。この中に《日吉館》が登場する。

奈良の宿にて

をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を

いへ は おもはず いにしへ おもふ に

奈良の宿 作者(八一)は明治41年(1908)の第一遊には、東大寺転害門外の「対山楼」といふに宿れりしも、その後は登大路町の「日吉館」を常宿とす。

 【牡鹿鳴く古き都の寒き夜を 家(故郷)は思わず 古(いにしえ)思う】

 漢字に書き換えてみると、意味はわかりやすいが、會津八一独特のやさしいリズムと少し離れてしまう気がする。さて、私の学生の頃(昭和50年代)確かに日吉館に泊っていると、すぐ裏の庭まで奈良公園の鹿が入ってきた。角を生やした牡鹿が、鳴くのもきいたことがある。八一の時代から80年近くも、日吉館の歴史は止っていたのだろうか。

 ここで私の大好きな八一の一首を紹介する。薬師寺東塔を詠んだ一首だ。

すゐえんの あまつおとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな

(水煙のあまつ乙女が、衣での 暇にも住める 秋の空かな)

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 東塔の最上部に「水煙(すいえん)」がある。そこには、天女が衣を着て舞う姿が彫刻されている。まるで秋の真っ青な空に、住んでいるかのようにすがすがしく舞い踊る姿が美しい。そんな情景である。

(イラスト:たろべえ 写真:薬師寺東塔by flicr)

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【にっぽん旅の文化史】渡辺崋山《游相日記》を読む「その6」②

Kazan612  小薗(小園)村→国分宿→海老名→相模川(厚木の渡し)→厚木宿

 小園村は、土が赤黒く砂が混じっていて上等な土地柄ではない。田んぼは少なく畑が多い。憧れのお銀様と感動的な再会をした崋山は、厚木に宿をとるため歩き出した。

 相模川をわたる。此川大凡三四丁もありぬらん。清流巴をなして下る。香魚甚多。厚木に到。萬年屋平兵衛が家を主とす。厚木の盛なる都とことならず。家のつくりさまは江戸にかはれども、女男の風俗かはる事なし。

 相模川である。おおよそ川幅3、400mもあろうか、渦を巻いて流れる清流だ。鮎(香魚)が多い。厚木宿に到着。萬年屋に宿泊する。厚木が栄えている様子は、江戸の都と比べても引けを取らない。家々の造りは、江戸とは違っているが、人々の風俗はかわらない。

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 「相模川」は江戸との水運輸送に利用されていた。「舟運(しゅううん)」という。この地方からは、醤油、魚類、干鰯(ほしか、肥料)など、江戸からは米、繭、木材、薪、炭等の物資が運ばれた。

さて鮎は、独特の香りがすることから「香魚」と呼ばれる。また、秋に河口近くの浅瀬で生まれ、海で冬を越し、春になると川を上って成長し、再び秋に川を下って産卵をするため1年で生涯を閉じることから「年魚」とも言われる。いまでも厚木の名物とされ、天然ものの「鮎料理」は、解禁時期の6月から10月中旬まで提供されている。(厚木市観光協会)もちろん厚木の旅籠・萬年屋の夕食では、崋山一行には鮎料理も提供されることになる。

現代の厚木の町を歩くと、残念ながら「宿場」の面影はまったくない。車の交通量の多い街道筋には、ひっそりと「渡辺崋山滞留の地」の石碑が、旅籠・萬年屋跡に建っている。(写真 厚木の渡し/萬年屋跡地に建つ崋山滞留の地/幕末の厚木宿・ベアド撮影)

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【にっぽん 旅の文化史】《黒船の晩餐メニュー》その1幕府からペリーへ

 嘉永六年(1853)、ペリーが軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。その後、紆余曲折(うよきょくせつ)があり、幕府は翌嘉永七年(1854)、「日米和親条約」を結ぶことになる。このあたりの事情は、以前ブログに書いた。

《日米和親条約》オランダ語が共通語?黒船「日本海外交流史」 http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_3ab5.html

黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/1_dc09.html

 さて、今回紹介したいのは、この条約締結前後、日米で、交互に晩餐会が開催され、それぞれの宴に供された食事のメニューである。1854年3月8日、横浜で日本とアメリカの代表団の第一回公式会談が開かれた。その際、江戸幕府は、アメリカ側一行300名を接待したそうだ。もちろん伝統的な会席料理(本膳料理)で、当時の有名料亭、江戸「百川」や浦賀の「岩井屋」が仕出しをしたと伝わる。

一、長熨斗敷紙三賓(ながのししきさんぽう)一、盃内曇土器三ツ組 一、銚子

【酒饌膳】酒宴のための前菜(一之膳)

一、 吸物(鯛、ひれ肉) 一、干肴(松葉するめ、結び昆布) 一、中皿肴(はまぐり、魚目、青山椒)一、猪口(唐草かれい、同防風、山葵線)(二之膳)一、吸物(花子巻鯛、篠大根、粉山椒)

一、 硯蓋 お土産用(紅竹竹輪蒲鉾、伊達巻鮨、うすらい鮨、花形長芋、綿昆布、九年母、河茸線)一、猪口(土佐醤油、いか酒、辛子、味噌)一、刺身(平目生肌身、めじ大作り、鯛小川巻、若紫蘇、花山椒)(三之膳)一、すまし 吸物(ささい、あん掛平貝、富貴の頭線)一、うま煮 丼(車海老、押銀杏、粉松露、目打白魚、しのうど、鶏卵葛引、肉寄串海鼠、六ツ魚小三木)一、大平(生椎茸、細引人参、火取根芋、露山椒)一、鉢肴(鯛筏、友身二色蒸、風干ほうぼう、菜の花、自然生土佐煮、土筆麹漬、酢取生姜)一、茶碗(鴨大身、竹の子、茗荷竹線)

【本膳】〔二汁五菜本膳〕 (一之膳)一、膾なます(鮑笹作り、糸赤貝、白髪大根、塩椎茸、割栗、葉付金柑)一、汁(米摘入、千鳥午房、布袋しめし、二葉菜、花うど)一、煮物(六ツ花子、煮抜豆腐、花菜)一、香の物(奈良瓜、花塩、味噌漬蕪、房山椒、しの葉菜)

(二之膳)一、蓋 (小金洗鯛、よせ海老、白髪長芋、生椎茸、揃三ツ菜)一、猪口(七子いか、鴨麩、しの牛蒡 )一、汁(甘鯛背切、初霜昆布)一、台引(大蒲鉾)一、焼物 (塩鯛)

(三之膳)一、吸物(吉野魚、玉の露)一、中皿肴(平目作り身、花生姜)一、盃一、銚子一、飯鉢一、通ひ一、湯一、水 Img_edited  「酒饌膳しゅせんぜん(酒宴のための酒の肴)」がつき、本膳料理の大変豪華なもの。魚介類が主体で「鯛」や「平目」、「蛤」、「海老」など、祝いの膳である。だがしかし、ペリー一行の口にあったのかどうか、疑問である。(参考:『ヨコハマ洋食事始め』草間俊郎著、雄山閣刊 『なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?』山田順子著、実業之日本社 写真イラストは草間氏の同書より)

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江戸時代の屋台様々《東都名所高輪廿六夜待遊興之図》

 広重の天保12年から13年(18411842)の作といわれる《東都名所高輪廿六夜待遊興之図(とうと・めいしょ・たかなわ・にじゅうろくやまち・ゆうきょうのず》がある。この二十六夜待というのは、江戸時代のお月見のひとつ。中秋の名月とは違って、旧暦の七月二十六日(新暦では8月後半から9月半ば)、深夜から明け方に出る逆さ三日月のことで、庶民は夕方から繰り出し、本来は念仏を唱えながら月に浮かぶ「阿弥陀三尊」を飲めやうたえやで、待ったそうだ。(高輪は、目の前に広大な海が開け、海原から上がる月を眺めるには絶好の場所として、有名な月見の名所であった)

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 江戸時代のファーストフード、食物屋の屋台が、たくさん出ている。左から「汁粉(おしるこ屋)」、「ほおずき屋」、「だんご(団子)屋」、「麦湯(麦茶)屋」、「天麩羅(天ぷら)屋」、「イカ焼き屋」、「水売り屋」、「寿し(すし)屋」、「水かし(水菓子)屋」。海に近い屋根付の店は、茶屋である。

 この絵で興味深いのは、庶民の男女が太鼓、鼓(つづみ)、三味線、拍子木を持ち、「宴会」に備えている仕草である。また、だんごの屋台では、串をくわえている男もいれば、「二八蕎麦」の屋台裏では、どんぶりを抱えてソバをすすっている男も。江戸前の新鮮な魚介類を素材にした天ぷらや寿司の屋台は、手づかみで食べる。右端の「水菓子屋」は、くだものを売っている。この当時のフルーツといえば、「マクワウリ」が王様。スイカもあった。

 このように江戸後期になると、屋台は一般的になり庶民の胃袋を満たしていく。とくに天ぷら屋などは、火を使うため、川べりや橋のたもとで商売をすることが多かったそうだ。(画像はクリックで拡大)

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【江戸 食の文化史】《寿司・鮨・鮨・すし》

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近世風俗史の決定版といわれる書物に《守貞謾稿(もりさだまんこう)》がある。岩波文庫から『近世風俗志(守貞謾稿)』と題して、全五巻本で出版されている。最近の江戸文化を扱う書物には、必ず参考文献として登場するほど、江戸時代(後期)の庶民の文化について詳しく書かれたものだ。天保八年(1837)から30年間を要して書かれた、まさに「百科事典」。喜田川守貞著。

鮓 すしと訓ず。愚按ずるに、鮓は近来の俗字なり。(略)江戸はいつごろよりか押したる筥鮓(はこずし)廃し、握り鮓のみとなる。(略)

 江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。【寿司のイラスト】

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以上。大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添ふるに新生薑(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。また隔て等には熊笹を用ひ、また鮓折詰などには下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。(略)

 江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また屋たいみせのみにて売るも多し。江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。

東両国元町与兵衛鮓。

へつつい川岸毛抜鮓は、一六文にて各々笹巻にす。巻きて後、桶に積み、石をもつてこれを圧す。

深川横櫓小松鮓。(『近世風俗志五(守貞謾稿)』P岩波文庫107~P110参照)

 江戸時代の貨幣価値は、年代によって大差があるようだが、ここは1文=10円として、当時の「握りすし(鮓)」は、おおむね8文(約80円)。ただしタマゴ焼きは高価で16文(約160円)といったところだ。だから庶民がちょいとつまむには手頃であったし、その1個(1貫)の大きさも現代の倍という話もあり、2、3個で事足りた。ガリ(生姜)もある。「姫蓼(ひめたで)」は花をつける植物だが、食用であったらしい。

 鮨詰の折箱には、「熊笹」を仕切りに使っていた。これもうなづける。江戸市中には、寿司屋が多く、1町(約3,000坪)に1、2軒あったようだ。屋台の店が非常に多かったが、当時から店舗を構える有名店もあった。

○松の鮓(すし)〔松が鮨・松の鮨・松鮨〕 

本所阿武蔵(深川安宅六軒堀:現在の東京都江東区新大橋)に、文政13年(1830)開店。歌川国芳の錦絵『縞揃女弁慶 松の鮨』では握り寿司が描かれている。天保年間には、浅草第六天前(現在の東京都台東区蔵前3丁目榊神社前)に移転。呉服橋(現在の東京都中央区八重洲1丁目)に支店を出した、とある。握り寿司の元祖との説もある。

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○与兵衛鮓〔華屋〕※外食チェーンと同名だがまったく無関係

文政7年(1824)頃、東両国の回向院前に「華屋与兵衛(はなやよへい)」が開業したとされる。与兵衛が握り寿司の創業者であるとの説もある。江戸時代の狂歌にもこの店の繁盛ぶりをうたったものがある。(『武総両岸図抄』)

 こみあひて待ちくたびれる与兵衛鮨 客ももろてを握りたりけり

○毛抜鮓〔笹巻けぬきすし〕

こちらは「握り」ではなく、「押しすし」の系統で、元禄15年(1702)、現在の東京都中央区日本橋富沢町、竃(へっつい)河岸で創業。『守貞謾稿』に調理方法が記載されているが、すしダネを酢飯にのせて笹で巻き、桶(おけ)に入れて上から重しの石を置くとある。仕込みの段階で、「毛抜き」を使い、魚の小骨を丁ねいに抜いてたことから「毛抜すし」と呼ばれたわけである。熊笹には、殺菌作用があることが知られているが、保存食にもなったようだ。材料には、鯛・コハダ・アジ・サヨリなどの旬の魚やたまご・海老・おぼろなどが使われた。驚くべきことに、このお店は、現在でも東京都千代田区神田小川町2丁目に《笹巻けぬきすし総本店》として、300年続く「江戸の味」を守っているそうだ。

※残念ながら、『守貞謾稿』で紹介された深川横櫓小松鮓(ふかがわ・よこやぐら・こまつすし)については、調べがつかなかった。Img_edited

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ご近所散歩 ちょいと浅草《久米平内堂(くめのへいないどう)》

雷門から一直線に続く仲見世を抜けると、宝蔵門(仁王門)。正面は観音様の本堂である。宝蔵門の手前右手に、浅草寺境内の縁結びの神として知られる久米平内堂がある。

「浅草うまいもの会」さんが緑の“のぼり”を立てているので、すぐ目につく。元来、良縁を望む若い娘さんが、想いを込めた手紙を、この堂にある木々に結びつけたのが始まりだが、いまは絵馬を奉納すると願いがかなうといわれている。

 《久米平内(くめのへいない)》は、江戸時代前期の伝説の武士であった。天和三年(1683)に亡くなった。本名を兵藤長守、通称を平内兵衛という。九州出身の浪人で、江戸赤坂に住み。剣術に秀でており千人斬りを志し、多くの人をあやめてきた。晩年、悔い改め、その供養のため、禅宗・鈴木正三(すずきしようさん)の門に入り、二王禅の法を修めた。また罪のつぐないのため、自分の石像を刻んで、人通りの多い浅草寺仁王門(現宝蔵門)外に置き、通行人に踏み付けさせたという。

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踏み付けが「文付」となり、願掛けの文を奉納する者が多くなり、縁結びも神とされ、平内堂にまつられた。(参考:広辞苑、「浅草寺 今むかし」金龍山浅草寺刊)

今でも縁結びの御利益を求めて、この久米平内堂を訪れる人は多い。まさに浅草寺境内は、観音様の広いご慈悲の心のためか、実に多くの神や仏など、民間信仰の祠(ほこら)やお堂がある。「神仏のデパート」といあわれる由縁だが、時間があればゆっくり散歩をしてみていただきたい。

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浅草・伝法院通りで《ねずみ小僧》を見た!!

 浅草を散歩していたら、《ねずみ小僧》(鼠小僧)の人相書きを発見。伝法院通りにある「やまとみ呉服屋」店先に指名手配の高札があった。しばらく行くと、今度は角の今昔着物店「胡蝶(こちょう)」の屋根に、なんと千両箱をかついだ《ねずみ小僧》がいた。あたりは騒然としている。通行人が大騒ぎする中で、ねずみは右手を挙げ、ポーズをとる余裕である。さすがに人気者だ。

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Photo  ねずみは《鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう じろきち》という。寛政九年(1797)生まれ、建具職人の後、鳶(とび)職になったという。江戸の大名屋敷や悪徳商人の屋敷を専門に荒らし、人を傷つけることなく盗んだ大金を貧しい人や長屋に投げ込んだという「うわさ」の義賊(ぎぞく)である。実在の人物だが、実際には、庶民がつくり出したキャラクターが、講談や歌舞伎に芝居そして現代では映画、小説などを通じて出来上がったスターだろうと思う。

 両国の回向院(えこういん)には、しかし本当に《ねずみ小僧》の墓がある。先日、墓参りに行ってきた。戒名は『教覚速善居士』、俗名は「中村次良吉」。天保三年(1832)、日本橋浜町で捕まり、江戸市中引き廻しのうえ、鈴が森で処刑され、さらし首になった。

史実からすると、盗んだ大金は、博打(ばくち)や酒と女性につぎ込んだらしい。

 《ねずみ小僧》の墓石を削り、身に着けていれば、“難関をするりと抜ける”といった意味から、受験生の合格祈願や賭け事のお守りとして、ご利益があるという。そのため、回向院境内の本来の墓石の前には、「削り用」の小さな石が建っている。

(写真:たろべえ撮影)

■やまとみ呉服店 東京都台東区浅草1-37-8 TEL:03(3845)5291

■リサイクル着物・胡蝶 東京都台東区浅草1-39-11 TEL03(3843)7606

■回向院 東京都墨田区両国2-8-10 TEL03(3634)7776

JR総武線・都営地下鉄大江戸線「両国駅」から徒歩5分

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江戸文化と《粋》浅草今昔展記念フォーラムから

 先日の浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》で、竹内誠江戸東京博物館館長が、江戸の《粋(いき)》について、興味深いお話をされていた。

 “江戸文化に表現されている「粋」な美意識とは、社会の中で人に迷惑をかけず、他人に不快感を与えない、他者からみて好ましい言動をとるための生き方のことだ。江戸の人々は、暮らしの中で人間関係の調和を大切にした。”

 そんな含蓄(がんちく)のある言葉をきいての帰り道、都営浅草線「浅草橋駅」で公共広告機構(AC)の「江戸しぐさ」のマナーポスターを見かけた。《江戸しぐさ 肩引き》である。今風の女子高生と和服姿の年配の女性が、道ですれ違う際、お互いにささっと肩を引いて、ぶつからないようにする所作である。

 江戸しぐさ 肩引き

しぐさひとつで都市は、和(なご)やかになる

人ごみですれ違う時、互いに肩をサッと引く。江戸では、マナーをイキに交わすことで、相手を思いやる気持ちを瞬間的に伝え合っていた。

東京にはイキなマナーが似合います。

以上のコメントが書かれている。最近よく耳にする「江戸しぐさ」には、“傘かしげ”、

“こぶし腰あげ”などもある。この種の基本的なマナーをあえてポスターにしなければならないというのも悲しい話である。

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その4

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

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〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕江戸東京博物館・竹内誠館長

江戸時代の「盛り場文化」を考えてみる。人が集まる盛り場は、1位が「浅草」で、2位が回向院を含む「両国界隈」であった。「盛り場」の条件とは第一に信仰、つまり聖なる空間に「おまいり」することであった。神仏の百貨店といわれる浅草の観音様におまいりするだけではなく、「食べる」、「買う」、「見る楽しみ」などの条件も満たされていて、人が集まる。

「食べる」点については、柳原先生の江戸料理事情の話に紹介されたように、浅草や両国には食の欲求にこたえるものが十分にあった。「買う」というのは、ブランド品のみやげものを意味する。浅草海苔や餅(大仏餅)、浅草寺の楊枝(当時の歯ブラシ)などである。見る「楽しみ」は、浅草寺裏の「奥山」地域に代表される様々な芸能、大道芸、見世物の類である。大道芸を見せて楊枝を売る手法もあった。とくにコマ回しの松井源水、居合い抜きの長井兵助などが知られている。

「浅草はうそをつかない」場所柄だった。人々が通り過ぎる盛り場ではあるが、そこには、人を迎える心があった。浅草が現代にいたるまで、長く続いて来たのは、住人に「おもてなしの心」があるからである。

「川柳」の先駆者・柄井川柳は、浅草の出身である。いくつか、浅草にまつわる川柳を紹介したい。

風神は 雷門に 居候(いそうろう)

「雷門」は正式には「風雷神門」という。確かに門の左右には、雷神と風神の像が建つが、なぜか「雷」が主役であって、風神は、いそうろうだ。

女房と 雷門で 出っくわして

吉原にでも遊びに行こうとする旦那が、観音様におまいりに来た女房と、ばったり。

ほだらくの 池より(ちより) ごくらく 北に見え

観音様の補陀落浄土にもまさる(新吉原の)極楽は、浅草寺より北の方角にある

救うのも 迷うのも 浅草寺

衆生(しゅじょう:一般民衆)を救うのも、逆に迷わせるのも浅草寺

「盛り場」は、身分の違い、貧富の差を超えて老若男女が、大勢集まる開放的な場として、賑わった。それは大都市江戸の特徴でもあった。浅草両国界隈を中心に、信仰、見世物、祭りをはじめ、様々な要素が「盛り場」を築きあげていった。竹内誠先生は、江戸文化史や日本近世史の専門家。東京教育大学大学院博士課程修了。文学博士。現在は東京学芸大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、徳川林政史研究所所長、日本博物館協会会長、社会経済史学会顧問などを務める。

(文責・たろべえ)

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《江戸と浅草・その文化》その3〔江戸料理事情 続き〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

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〔江戸時代の食文化概論 江戸料理事情 続き〕

【江戸の魚のおろし方】

魚のおろし方は、関西と関東(江戸)では、基本的に違う。「江戸のおろし方」は、自分から見て、魚の頭が右、尾が左。手前(下)に魚の背中で、向こう側(上)が腹になるように置く。そして右の頭のつけ根、肩の部分から左に背からさばく。この方法が、江戸のはじめ、日本橋にできた「魚河岸」から始まった。

【魚の向き】

昔は氷も冷蔵庫もなく、運ぶのにも時間がかかる。将軍家への献上などもあった。そこで「表身尊重」といって、内臓のある下側の身は痛みやすいので、上身を尊重したそうだ。これにより、魚を運ぶときの魚の向きが決まっていたそうだ。 

たとえば尾頭付きの鯛の塩焼きは、祝いの膳にふさわしく、表身に傷をつけないように、姿をそのまま尊重した。「頭を左、腹を手前にして、魚の進行方向の左側側面を表身として」尊重した。これも江戸時代の始めの頃、日本橋にあった魚河岸で、約束事となった。いまでもこの方法は、踏襲されている。

【鰻のさばき方】

江戸では、鰻は「背開き」で、上方は「腹開き」である。関東は武士の世界だから、切腹を連想する腹開きは嫌われ、背開きにしたという俗説がある。これは間違い。「背中を切られる」というのは、敵から逃げることを意味し、武士にとっては、最大の屈辱。むしろ腹を切ることが、潔(いさぎよ)いとされていた。魚を背中からおろすという決まりは、江戸時代、魚河岸で決められた。 

また関西は、江戸に比べ海から遠い位置に消費地があった。そのため、早めに腹を裂き、ワタを抜き、塩で処理をして運んでいたそうだ。かつては、魚のおろし方を見れば、その料理人が関西出身なのか、江戸で修行したのかわかったそうだ。

(参考:『江戸料理事情』2005年キッコーマン「食文化セミナー」柳原一成、『ニッポンの縁起食 なぜ「赤飯」を炊くのか』生活人新書、NHK出版、柳原一成・柳原紀子著)

近茶流宗家の柳原先生は、また【味の音階】という表現も使われた。これは。とくに江戸料理事情ではないが、ご主人の柳原一成氏が多くの口演でも述べているキーワードなので、紹介しておく。

 人間の舌は、ある程度の味の経験がないと養われない。舌は、「甘い」、「辛い」、「ちょうどよい」などの【味の音階】を見分ける。音階の見分け方は、人様々だ。大切なのは、各家庭にその家独自の音階がつくれるる必要があるということだ。それには母親が筋の通った「お家(うち)ごはん」をつくり続けてほしい。 

(文責・たろべえ)【続く】

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その3

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

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〔江戸時代の食文化概論 江戸料理事情〕

講師の柳原紀子先生は、江戸時代から続く日本料理の「近茶流」宗家・柳原一成氏夫人。近茶文庫の文庫長。江戸料理事情についてのお話。

日本料理お特徴と成り立ちについて述べる。現在の「日本料理」の基礎は、江戸時代に「江戸」で形づくられたといえる。

日本料理の特徴を一言でいえば、「水」を多く使って料理する点が、外国の料理と大きく違う。美しい盛付や季節を移す料理であるが、日本料理は、水に支えられたものだ。ゆでる、湯引きする、煮るなど素材を水(湯)で処理をしていく料理で、外国のそれは、バターや油で支えられた料理といえる。

日本料理の基礎が、江戸でととのった背景として、諸大名の「参勤交代」制度がある。諸国から大名の家臣(武士)が大勢、江戸へやって来るようになった。人ばかりではなく、いろいろなものも入って来る。江戸は、様々なもの、人を受け入れる土壌があった。

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【調味料の充実】

もともと上方(関西)から船で運ばれていた醤油(しょう油)があった。「下りしょうゆ」という。それが江戸末期には、紀州の職人を呼び、関東の銚子や野田(いまの千葉県周辺)で生産できるようになった。これが「関東地廻りしょうゆ」である。原料の大豆や小麦を産出する広大な平野があり、温暖な気候条件があり、一大消費地・江戸へ輸送する水路(利根川、江戸川による水運)があったことから、関東でも醤油がつくられるようになった。(ちなみに主原料の塩も江戸川河口や行徳でとれた。江戸末期には赤穂の塩にかわる)

それから、豊かな財力をもつ商人を中心に、高価な「砂糖」も使えるようになる。(砂糖は、徳川吉宗が琉球からサトウキビを取り寄せ、江戸城内で栽培させたことが、江戸での砂糖使用のきっかけだという)さらに「みりん」の発達もはずせない。みりんを醤油や酒と一緒に料理に使えば、魚を煮る際の生臭さをとり、独特の照りを出し、香りもよい。それまでの料理の味付けが、塩と酢に限られていたのに対し、これらの醤油・砂糖・みりんという調味料の充実により、江戸の料理の環境がととのっていった。

【鰹節と昆布――だし】

 日本の「だし」は世界一といわれる。江戸時代、それまでの鰹節が「削り節」として出てきた。保存や輸送もできるようになった。削り節と同様に昆布もまた、「だし」をとる材料として、利用されるようになる。

【屋台の出現】

 江戸は火事が多く、年中、家を建て直す仕事があり、地方からも職人がたくさんやって来た。職人は力仕事だから、仕事を終えてちょっと小腹がすく。そこで長屋に帰る前に、町なかでちょいと一杯ひっかけて何か気軽につまむ。食べる。「屋台」の出現である。屋台は、店舗と違って火事で類焼することもない。安い値段でものを食べることができた。天ぷら、寿司、うなぎ、どじょう、ソバなど、ファーストフードである。揚げ立て、握り立て、焼き立てなどの作りたてを食べる。職人、町人ばかりでなく、地方からの単身赴任の下級武士も客であった。しかも身銭をきって本音で食べる。およそ、その後の日本料理のメニューは、まさに江戸の屋台から始まった。浅草の町にも、たくさん屋台があったようだ。

(文責・たろべえ)【続く】

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その2

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

写真:左から塩入、浦井、長澤、柳原、竹内の各氏

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〔江戸の民間信仰〕

江戸時代の民間信仰とは、庶民・大衆が必要に応じてつくり出したものである。江戸の「神仏まいりのガイドブック」といえる『江戸神仏願懸重寶記(えどしんぶつ・がんかけちょうほうき)』という書物がある。民間信仰の神仏を紹介したもので「庶物崇拝」あるいは「雑信仰」といわれる。

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上野と浅草は、江戸時代は郊外の位置づけにあり、江戸の中心部(江戸城周辺)から半日程度の行程で遊びに行く(息抜きをする)レクリエーションの場であった。春は桜の花見だが、当時、夜桜見物はご法度で、昼間のみである。(落語の長屋の花見、酒のかわりのお茶)秋はもみじ見物、七草をめでる、虫の音を観賞など。冬は雪見。もちろん「寺社まいり」も大きな目的であった。

 「民間信仰」の対象は、浅草・浅草寺の境内にも多数あった。

「仁王門の股くぐり」は子供の麻疹(はしか)が治ると信じられ、「秋葉権現」は火の神様、安産・子宝・婦人病の治癒など女性に関するすべてに霊験のある「淡島神」、武士の神「鹿島神」、大山の火除け「石尊」等の神々は、浅草寺境内に招へいされた。このほか、「久米平内(くめのへいない)」は、自らの悪行を恥じ、死後は土に埋め、民衆に墓を踏みしめてほしいと願ったことから、「踏みつける」→「文つける」(ラブレター)→縁結びの神として、信仰された。さらに伝法院の鎮護堂では、夜毎悪さをするタヌキを保護したところ、商売繁盛・立身出世の神として、崇められるようになったという。

あらゆる神様が境内にまつられおり、浅草寺は「神仏のデパート」としての一大民間信仰センターとなっていた。これらの民間信仰は、ほとんど「現世利益」を目的としていた。農村のような共同体における信仰形態ではなく、あくまで「個人」を対象とし、五穀豊穣を願うのではなく、「立身出世」、「商売繁盛」、「病気治癒」、「安産・子育て」などを願う現実的な庶民信仰であった。

ちなみに長澤利明先生は、その著書『江戸東京の庶民信仰』(三弥井民俗選書)では、江戸から東京へと続く庶民信仰・民間信仰の愚弟的な実例を提示し、民俗学の立場から的確に分析をおこなっている。そして「歴史文化ライブラリー115」の『江戸東京歳時記』(吉川弘文館2001年刊)では、江戸各地の行事や祭りに焦点をあて、それぞれにどんな意味や目的があったのかを追求している。読みやすい本である。(写真はフォーラム資料から)

(文責・たろべえ)【続く】

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浅草今昔展記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》その1

2008年9月17日(水)、江戸東京博物館で開催された記念フォーラム《江戸と浅草・その文化》に、ご招待を受け、行ってきた。主催:「浅草槐(えんじゅ)の会」、共催:江戸東京博物館、後援:台東区・浅草観光連盟。Vfsh0101

 “次に伝える世代に何を残していくか。このせちがらい世の中にあって、浅草だけは違う、おもてなしの心をもった私たちの町であってほしい”という、「浅草槐の会」会長の粋な挨拶で開会した。

フォーラムは3部構成で、1部は同博物館都市歴史研究室長の小澤弘先生による、江戸や浅草の地図・絵図等のスライドによる検証。2部は、浅草寺管財部長で大正大学でも教鞭をとる塩入亮乗先生をコーディネーター(司会進行役)にして、4人のパネリストによる江戸や浅草の文化の解説である。

※フォーラムの内容(要約)をルポする。

①浦井正明老師(寛永寺執事・東叡山現龍院住職)〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草〕

②長澤利明先生(法政大学講師・国士舘大学講師)〔江戸の民間信仰〕

③柳原紀子先生(近茶流懐石道宗家夫人)〔江戸時代の食文化概論〕

④竹内誠氏(江戸東京博物館館長)〔江戸と浅草・その文化 まとめ〕

写真:左から塩入、浦井、長澤、柳原、竹内の各氏

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①の浦井老師は、昨年吉川弘文館から『上野寛永寺将軍家の葬儀』(歴史文化ライブラリー)を上梓したご住職。私も読んだが、寛永寺の成り立ちから、将軍家の葬儀にいたるまで実証的に記述された労作だった。

〔江戸の庶民・民衆の上野と浅草-江戸の名所(などころ)・寛永寺-〕

上野と浅草の特色は、盛り場性と名所性を失わず、今でも存在感があることではないでしょうか。明治維新後でもそれはかわらない。江戸時代から(上野寛永寺と浅草寺が)対になって続いている。とくに私のいる寛永寺について述べる。

 寛永寺は1625年(寛永二年)、天海僧正が家康の命を受け造営した。これは比叡山の延暦寺を江戸に移す「見立て(別のものになぞらえる)」であった。比叡山は京の御所の鬼門であったのに対し、寛永寺(上野)を江戸城の鬼門として、東の叡山、すなわち(山号を)東叡山とした。寺の名も年号に由来する「延暦寺」と同様に、年号の「寛永」から「寛永寺」とした。さらに京都や滋賀(山城や近江の国)の「名所(などころ)」を江戸にもってきた。まだまだ一般庶民が簡単には、京や大坂方面に旅行などできない時代である。琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁天様を「不忍池」に勧請したり、京都五条坂の清水寺を模して「清水観音堂」をつくる。このほか、上野の祇園堂(京都の八坂神社)や根本中堂なども模写した。ご神体やご仏体を江戸にお迎えしたわけだ。

 天海は、いってみれば環境整備をした。公に徳川家の寺を設置したのではなく、山を開いて庶民が集まる「名所」にしていった。春には桜、夏には紅白の蓮華(蓮)の花、秋にはもみじや赤松、冬には寒椿・梅といったように、季節にかかわらず、江戸庶民が四季を楽しむことができるようにしていった。これにより、寛永寺・上野は急速に江戸の「名所」になっていった。(文責・たろべえ)【続く】

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やさしさを求めて リアリズムの画家《アンカー》

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 東京渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催中の《故郷スイスのぬくもりアンカー展》に行った。日本ではじめてともいわれる、スイスの画家・アルベルト・アンカーの回顧展ともいうべく、102点が展示されていた。

 アンカーについては、2006年9月9日付のこのブログでも紹介した。

【スイスの国民的画家 アルベルト アンカー】

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_1821.html

“アルベルト・アンカー(Albert Samuel Anker 1831~1910)、スイスでは有名な画家だが、日本ではほとんど知られていない。美術館巡りのツアーで行った、ベルン美術館やバーゼル美術館そしてヴィンタートゥールの「オスカーラインハルト・コレクッション」で出会った。恥ずかしながらスイスに行ってはじめて知った画家だ。

 農民やこどもたちの姿を写実的に、しかしフランドル(オランダ)絵画のような落着いた色彩で描く作品が多い。“

 会場や図録では、アンカーを「写実主義」として紹介している。写実だとそのままだが、英文では「リアリズムの画家」、「ヒュマーニズムあふれる画家」といった表現がされている。確かに小さなこどもたちに対する、アンカーのやさしさや愛おしさが、至るところに感じられる。何度も描かれたおじいさんやおばあさんもよい。

 今回はじめて知ったが、アンカーは静物画も残していた。ティーカップや酒ビンとグラスといった、生活感あふれるものだ。そのほか、水彩画や素描の木炭画や鉛筆画も何点かあった。おもけに陶器に絵付けをしたものもあった。これらは、新発見。

 しかし、やはり油絵は、本物を見るに限る。絵の具の塗り重ねやヘラで細かく剥ぎ取る作業がわかる。それにしても、繊細だ。とくに女の子の髪の毛や髪飾りのリボンの色彩は、すばらしい。なんといっても、アンカーのこどもや老人に対する「想い」が、観賞する人々に「癒し」を訴えるものだと思う。スイスのベルンやヴィンタートゥールの美術館で見た作品もあったが、これだけのアンカー作品に出会うとは思わなかった。

 この展覧会(東京のあとは、郡山や京都を巡回する)をきっかけに、アンカーがもっともっと知られることを望む。久々に満足の展覧会であった。

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《海外へのおみやげは何がよいですか》続編

 「海外に住む知人に、持っていって喜ばれたお土産と戸惑われたお土産は?」の続編。

 前回は割とオーソドックスな品物(うなぎ真空パック・梅干・海苔・おかき・ふりかけ・日本茶など)について語ったが、なんだか食べ物ばかりですね、というご指摘をいただいた。

確かに海外で暮らしていると、日本ではあたり前のように日常的に手に入るものでも日本からの輸入品であることが多く、品数も少ないし、値段も高い。そんな時日本からのおみやげに食べるものをいただくと妙にうれしかったりする。私は、ホノルル空港で成田から到着したお客さんから、コシヒカリで炊いたおにぎりをいただいたことがある。もちろん冷たくなっていたけれど、実においしかった。福岡からやってきた添乗員さんのおみやげは、真空パックの「めんたいこ」であった。涙がでるほどうまかった。こんなふうに食べ物がすぐ思い浮かんでしまうのである。

Photo (明太子は断然、博多の『稚加栄(ちかえ)』に限る。うまい)

 カナダで現地に暮らす日本人ガイドさんにきいた話だが、彼女は煮物をするとき、料理の定番である「みりん」が手に入らないので、「メープルシロップ」を使っているそうだ。これは“代用品”の例である。だから次回、カナダへ来ることがあったら、ぜひ調味料のみりんや「ほんだし」をお土産にくださいといわれた。なるほどと、うなづく。

 彼女は、ワインビネガーで酢の物もつくるが、異国では入手困難な「ポン酢」や「土佐酢」なんかもみやげにいいらしい。だから1年に一度、日本へ里帰りすると、帰りのトランク(スーツケース)は、瓶詰めやら真空パックの食料品や乾物、日用雑貨の行商のような大荷物だそうだ。納得。Photo_2

 ところで文房具も使い慣れた日本製がすばらしい。欧米製「ボールペン」は、すぐインクがとぎれたり、ダマになる。3色や4色のボールペンは、日本製に限る。海外駐在員は帰国のたびに多色ボールペンを買いに文房具屋さんに走る。一時、世界中で人気だったアメリカ製BICのボールペンも品質が低下したように思う。

「ホッチキス」も英語では「ステープラーstapler」というが、日本のマックス社(MAX)のものは、おそらく世界一の品質だ。これはうんちくになるが、ホッチキスは商標名であり、英語では通じない。ちなみに、「ステープラー」の「ステープルstaple」とはMax

“U字形の留め金・またくぎ・かすがい”といった意味で、英和辞典的には、ホッチキス即ちステープラーは“U字状の針金を用いて書類をとじる器具”である。マックスのホッチキスをおみやげにするとよいが、「マックス針(ホッチキス針・ステープル針)」も必ず、一緒にもっていかないと日本製の規格なので海外では手に入らない。Photo_3

 それから「週刊誌」も現地にいる日本人にはうれしい。新聞は「国際衛星版」がニューヨーク、ロスアンゼルスやロンドン、アジアでは香港、シンガポールでも印刷されているので、日本との時差なく読むことができる。(朝日、日経、読売)

週刊誌は空輸であって、日本の4倍くらいの値段。日本の書籍を扱う本屋さんで扱ってはいるが、いくらなんでも情報に飢えていても、およそ1,000円の週刊誌はさすがに買えない。

 

新刊の「文庫本」でもいただくと、たとえ読みふるしでもありがたいが、本はその人の趣味・嗜好というか、推理小説や時代小説に恋愛物などと、興味のあるなしでかなり左右される。日本でベストセラーになった単行本、文庫本など最新の書籍なら万人向き。(海外在住の日本人の多くは、日本で流行しているものやベストセラーに意外と敏感になっているものだ。)

 季節にもよるが、年末から年始にかけては、「日本のカレンダー」がおみやげとして喜ばれる。とくに日本を相手に仕事をしている観光関係の邦人は、日本の休日・祝日に大安や友引など、暦(こよみ)に執着がある。当然、大安の翌日は、ハネムーンでの入り込み客が多いからである。Ajinomoto

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黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその2

日本初の本格的な英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編纂した堀達之助であったが、蕃書調所(洋学所)に奉職中、頭取の古賀謹一郎から箱館への転勤を命じられる。箱館奉行所での通詞の辞令であった。実際には(ペリー再来航時の森山栄之助、堀達之助に次ぐ第三席通詞・名村五八郎が江戸へ転勤になり)有力な通詞が箱館奉行所に少なくなり、弱体化したための苦肉の策で達之助は呼ばれた。 当時の箱館奉行・小出大和守は、達之助の英語力に期待した。ある時アイヌ人の墓をあばいて骨を掘り出し、標本として盗む事件が続発。犯人はイギリス人と判明し、小出は裁判をおこなうが、その通訳に達之助を指名する。しかしペリー来航後、10年もの間、達之助は英会話の経験がなかった。読み書きはできたが、英語の聞き取りや発言ができない。自分の英会話がすっかりさびついていることに気づき、失望するのだった。 その後、小出は達之助に文書の英訳と和訳の仕事に専念させることにした。仕事はきびしい。江戸の蕃書調書、開成所の教授方で英和辞書を編纂した学者という、輝かしい堀達之助の業績より、裁判の席で十分な通訳ができなかったことで、彼の評価は下がってしまった。  旧幕府軍と新政府軍との箱館戦争をはさみ、達之助は新たに「函館」の開拓使の外国局に採用される。このとき旧幕府軍の指導者として奮戦し、戦死してしまった指導者に中島三郎助もいた。(ペリー来航時に通詞・堀達之助とともに黒船に乗り込んだ、浦賀奉行所の与力である)   やがて明治2年、達之助は47歳になっていたが、「美也」という後妻を娶る。役所に出した届けでは、「妻、34歳」であった。美也には二人の連れ子がいたが、彼はこの子たちも養育する決心であった。町でも評判の美人で気働きのよい妻であった。 しかし幸せは長くは続かない。明治5年、美也は病死。50歳になっていた達之助には、この愛する妻を亡くしたことがかなりこたえたのだろう。老衰を理由に辞職してしまう。G_hori_tatsu  吉村昭は『黒船』の中で堀達之助を見事に描写する。 **********************************************  初来航したペリー艦隊を迎えて主席通詞として働いた頃が頂点で、それ以後は、起伏はあったものの下り坂をくだりつづけてきたような気がする。リュドルフ事件で思わぬ嫌疑をうけて長い牢獄生活を強いられ、釈放後、開成所教授方として「英和対訳袖珍辞書」を編纂したものの、その辞書も自分に無断で改正増補され、いじくりまわされている。  さらに思いもかけぬ箱館詰を命じられて、そこで味わわされたのは、英会話からはなれてしまっていたため無能な通詞として扱われた屈辱感であった。(略)そうした境遇の中で、突然、眼の前に現れた美也は、かれに大きな喜びをあたえ生き甲斐ともなった。 (略)不遇な自分に、短い期間ではあったが、天があたえてくれた宝であったのだ。 ******************************************************************  そして、達之助は生まれ故郷の長崎、次男のいる大阪で静かに静かに晩年を過ごし、72歳で亡くなった。私は思う。恵まれない人生も確かにある。体制や大きな社会の中で、思うように生涯を歩める人は、稀ではないかと。数々の出来事を通じて、堀達之助の生き方をみると、後妻の美也に出会った50歳近い幸せを除けば、大きな時代の潮流に押し流されていったようだ。しかし、日本初の本格的な英和辞書をつくった功績は、永久不滅のものであることは、いうまでもない。 ※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫 ※写真:晩年の堀達之助(『堀達之助とその子孫』より)

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黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1

 1853年(嘉永6年)、世にいう「黒船」ペリー艦隊が浦賀にやってきた。そのとき江戸幕府側の首席通詞(通訳)として、活躍したのが堀達之助30歳であった。達之助は長崎でオランダ通詞の家に生まれ、後に同じ通詞の堀家の養子となった。

アメリカ大統領の親書を携えたペリーは、翌1854年再び艦隊で来訪。しかし今度は、達之助が次席で首席通詞には、長崎でオランダ語はもとより、「英語」を習得した森山栄之助が就任した。(達之助はある程度、英語の読み書きはできたようだが、会話の経験はまったくなかったようだ。その点、アメリカ人捕鯨船員・マクドナルドから会話を習っていた栄之助が首席通詞として抜擢された。)ペリーたちとの交渉の通訳は、栄之助がおこない、達之助はもっぱら外交文書の翻訳(オランダ語からの日本語訳)に従事した。当然のことだが、達之助はエリート・森山栄之助に嫉妬したに違いない。

その後堀達之助は、下田開港に伴い、下田詰(現地駐在)となる。この地でアメリカ商人(実はドイツ人)のリュドルフと知合う。彼が乗船していたのは、米国旗を掲げ、アメリカに雇われたドイツ船・グレタ号であった。ドイツ人船長とリュドルフは、日独通商を要請する奉行宛の書簡を達之助に託す。しかし彼はその書簡を個人の判断で上申することなく、保留していたため、罪にとわれ1855年投獄。4年間の牢獄生活を強いられた。獄中では、死罪となる吉田松陰とも接触があった。

1859年、幸い達之助の通詞としての技量を知っていた「蕃書調所」(東京大学の前身といわれる学問所)の頭取・古賀謹一郎の尽力により、赦免、釈放され、蕃書調所の翻訳方に採用される。ここで達之助は、古賀の命を受け、本格的な“英和辞書”の編纂にたずさわることになった。Photo

それまで日本初の英和辞典といわれる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』という辞書はあった。掲載されていたのは英単語が6,000語にすぎなかったため、実用には遠かった。さらにこの辞書に附された日本語の発音が、オランダ商館のブロムホフの発音した「オランダ訛りの英語」であったため、基本的な英語の発音とは程遠いものであったそうだ。たとえば、Personns(個人、人ペルソンス=パーソンズ)、summer(夏ソムムル=サマー)、 sugar (砂糖シュガル=シュガー)、drink(飲むデイリンキ=ドリンク)、 war(戦争ワル=ウォー)という具合だ。

 そして1年8ヵ月の努力の結果、堀達之助は、35,000語にも及ぶ英単語と日本語訳を掲載した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を発刊(200部印刷)した。これは日本英学史学会によれば、1862年「日本初の本格的」英和辞書である。ちなみに袖珍(しゅうちん)とは、ポケットの意味で携帯できる字引なのである。その後もこの辞書は改訂や増補を重ねたばかりか、明治期はほとんどの英和辞典の基礎となった。4_2

写真:上/幕末の堀達之助、下/英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書、大阪女子大図書館蔵

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

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《岡本太郎》『明日の神話』に出会う

 休みを利用して東京都現代美術館へ行ってきた。東京の江東区の木場公園にある、なかなかステキな建物の美術館だ。目的は最近、修復され話題になった岡本太郎の《明日の神話》が、しばらく常設展示されているからである。

※東京都現代美術館のページ

http://www.mot-art-museum.jp/jyosetu/page6

 岡本太郎については、昨年10月大阪の千里に行った折、「太陽の塔」と出会い、その感想を書いた。

大阪 現在も生き続ける・太陽の塔

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_f7fd.html

 解説によれば、“岡本太郎の「神話」は、原爆、放射能という人類の悲劇を描き出しながらも、その先へと生きる希望を与え続けています。”(現代美術館リーフレット)

 『明日の神話』は、大阪万博の太陽の塔と同時期の1968~9年の作品。メキシコで建設予定であった「オテル・デ・メヒコ」の大きなロビーを飾る壁画であったが、建設資金が行き詰まり、このホテルは完成しなかった。太郎のこの作品もその後、行方不明となり、2003年、メキシコシテイ郊外資材置場で偶然、発見されたもの。作品は雨ざらしのうえ、傷だらけの状態であった。その後、1年をかけ丹念に修復された。

 タテ5.5メートル、幅30メートルの大作だ。原色の赤とオレンジと青。左から右に流れるような力強さを感じる。中央の象徴的な白いドクロは、人類に悲惨な未来を暗示しているのだろうか。ゴムの樹脂を絵の具に混ぜて製作された「ドクロ」の部分は、近くで見ると盛り上がっていて、さらに力量感を与えている。

岡本太郎の作品は、とにかくエネルギーとその強烈な個性だ。これほど好き嫌いがはっきりする画家もいないと思う。現代美術館の3階の広い展示室で、ゆっくりと『明日の神話』に出会うことができる。鮮やかな色彩と大胆な構図は、少なくともみる人に勇気を与えてくれることは確かだ。

東京都現代美術館での公開

http://www.1101.com/asunoshinwa/news.html

(写真は2006年7月、汐留の日本テレビで公開時のもの)

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《高松凌雲》武士の魂を持つ医師その3

大政奉還によって生活の糧を失った、旧幕府の徳川の家臣たちは、明治政府による処遇に不満を抱いていた。彼らは、新天地を求めて蝦夷地に渡り、五稜郭を本拠に新政権を樹立しようと企てていた。

 しかし明治政府がこれを許すはずもなく、官軍・討伐軍が派遣された。現在の北海道道南地域が戦場となり、ここに明治維新最後の戦い「箱館戦争」が始まった。

 パリから戻った医師・高松凌雲は、幕臣である身分をわきまえ、榎本武揚(釜次郎)らに誘われ、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出。榎本軍は仙台で土方歳三等の旧幕府軍を収容して蝦夷地(北海道)に向かい、箱館の五稜郭などの拠点を占領して地域政権を打ち立てた。彼らは北方の開拓とロシアへの防衛を名目として、旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府は拒否し派兵した。Photo_203

旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、新政府軍に対抗する決め手であった開陽丸を座礁沈没させて失い、宮古湾海戦でも敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。さらに、五稜郭で土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終結した。これにより、慶応4年(明治元年、1868年)から明治2年(1869年)にわたって続いた動乱のなか、新政府側が旧徳川幕府側の勢力を一掃したといえる。この結果、日本は、薩摩藩・長州藩出身者が明治政府の中心となって、近代化へ進んでいった。

この旧幕府側の最後の抵抗であった箱館での戦いに際し、高松凌雲は野戦病院ともいうべき箱館病院の責任者(頭取・院長)に指名された。

榎本艦隊と官軍との決死の戦闘の最前線において、凌雲は多くの傷病兵の治療を続けるなか、ある時、箱館病院に6名の負傷者が運び込まれる。それも敵方の兵であった。病院内は騒然となり、「戦死した者の仇(かたき)だ。殺せ」という者まで出てくる。

そこで凌雲は、毅然とした態度できっぱりと演説した。「パリで学んだ『神の館』では、富める者にも貧しい者にも同じ治療をほどこし、しかも貧しい者は無料であった。戦争にあっても、敵方の傷病者を味方の傷病者同様、ねんごろに施療する。それが、神の館のみならず西洋諸国の病院の常となっている」

「病院は新しい生命が生まれ、また消えてゆく神の宿る館なのだ」と知り、それまで西洋医学をただ知識だけで学んできた凌雲にとって。医学が神聖なものだという啓示を受けていたからであった。

パリの「神の館」で啓示を受けた「遠い雷鳴」が、日本にまで近づいてきてさかんに轟いて、やがて慈雨を降らせることになる。(書評家・岡崎武志、『遠い雷鳴』書評)

同時に旧幕臣の身で徳川の再興を願ったが、もはや新しい時代の潮流に逆らうことはできなかった。それは古い封建体制を打ち破る、明治維新の新しい「夜明け」を告げる「雷鳴」でもあった。

さらにこの時、五稜郭を警備していた「衝鋒隊(しょうほうたい)」隊長であった実兄・古屋佐久左衛門は官軍の砲弾により、重傷を負い、亡くなった。凌雲は、その責任感から箱館病院を離れることはできず、後に仮に葬られた兄の墓を訪れて涙している。(参考:『五稜郭の兄弟』高橋義夫著、廣済堂出版)Photo_204 

 箱館戦争終結後、凌雲は江戸へ送られ、徳島藩預かりの蟄居処分となるが、やがて新政府からいくつかの役職就任の誘いや各藩から雇用の話がきた。しかし彼はすべてを断り、市井の「医師」として生きることを選択し、東京で開業する。もちろん恩を受けた徳川昭武の水戸家の主治医を勤める。その後、「神の館」で学んだ精神で貧しい患者には無料の治療をおこなうため、「同愛社」という組織をつくる。日本での「赤十字」活動のさきがけといわれている。80歳を超えて亡くなるまで高松凌雲は、パリで啓示を受けた博愛精神をもって、一生を通した。まさに「武士の魂をもった」医師であった。

(参考:『遠い雷鳴』吉村昭著、文春文庫)

※写真/箱館五稜郭本陣(明治元年)、兄:古屋佐久左衛門、弟:高松凌雲)

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《高松凌雲》武士の魂を持つ医師その2

 「医は仁術」という言葉は、まさにこの人のためにある。凌雲は、徳川のプリンス《徳川昭武》のパリ万博派遣使節団に奥詰のプリンスの主治医として同行し、フランス留学を許されたが、大政奉還によって、帰国せざるをえなかった。Photo_198

この人は努力の人である。天保7年(1836年)、九州は(福岡県)小郡で生まれ、安政6年(1859年)22歳の折、医学を志ざし上京。蘭方医(オランダ医)の石川桜所(いしかわおうしょ)の門下生となり勉学に励む。文久元年(1861年)石川の許しを得て、今度は大坂(大阪)の蘭方医の第一人者・緒方洪庵の適塾に入門。オランダ語を自由に読み書きできるばかりでなく、豊富な西洋医学の知識を身につけた。その後、再び江戸に出て、英学(英語)を学ぶ。さらに徳川家茂に随行した師匠・石川桜所について京へ。石川の推挙で一橋家のお抱え医師となる。その後、一橋慶喜の15代将軍継承により、その学才を認められ、凌雲は奥詰医師と出世するに至る。

慶応3年(1867年)、高松凌雲は、その真剣な学究姿勢と豊富な博識、語学力で徳川プリンス昭武のパリ万博使節団の医師として同行の任を受ける。一説には、当時の医師は一般には剃髪(坊主頭)であったが、凌雲は例外的に(武士のように)髷(まげ)を結っていたため、ヨーロッパでも有髪なら奇異に思われないだろうという理由からも、派遣医師に選ばれたともいう。江戸からフランスへ向かう船中から、昭武と共に彼は、随行のフランス語の達人・保科俊太郎(歩兵奉行)や山内文次郎(大砲差図役勤方)から仏語を学び、もともと英語の素養があったことから、フランス文の読解、作文もかなりの段階にあったようだ。Photo_199

徳川昭武のパリ万博参加後の欧州歴訪にも同行し、イギリス公式訪問を終えると、許しが出て、いよいよ凌雲は、フランスでの医学留学を開始する。留学先は、「オテル・デュウ(パリ市民病院)」であった。HOTEL DIEU(神の館)という病院名については、凌雲が病院関係者から「病院は新しい生命が産まれ、また消えてゆく神の宿る館なのである」ときき、「医学はことほどさように神聖なものだ」と気づいたそうだ。この考え方を彼は生涯、忘れることはなかった。

ここオテル・デュウで医学を学ぶうちに、彼は自分の師である石川桜所に教えを受けた西洋医学の知識水準がかなり高いことも再認識したが、日本の医学は、あくまでも「医書による知識」であって、実際の医療(治療)の面では大きく遅れていたことにも気がつく。それは、フランスですでに行われていた麻酔薬を使った「外科手術」であった。クロロフォルムをかがせた患者の腹部をメスで切開し、多くの手術道具を用いて、内蔵の悪い部分を切り出し、糸で縫合する現実をみた。しかもこの「神の館」に付属する「貧民病院」では、貧しい患者にも無料で治療を施す。しかもこれらの費用は、貴族や富豪などからの寄付で経費をまかなっている。まさに「医は仁術」の思想を学ぶことになる。

寸暇を惜しんでの凌雲の医学留学であったが、江戸幕府崩壊の危機に直面し、彼は1868年4月、医業半ばにして帰国せざるをえなかった。もちろん、欧州滞在中に求めた医学書とフランス、イギリスで買い求めた外科手術道具だけは、日本の将来の、医学発展のために持ち帰った。(続きはまたつぎの機会に)

※参考:『夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲』吉村昭、文春文庫刊

※参考:『文明開化のあけぼのを見た男たち』松戸市戸定歴史館図録

※写真:武士姿の凌雲(渋沢史料館蔵)、断髪後の凌雲(高橋善七氏蔵)、現在のパリ市立病院、フランス製外科手術道具(市立函館博物館蔵)

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《日系人の知恵が生んだアロハシャツ》

 1885年(明治18年)、最初の官約移民船「東京丸」でハワイに向かった940人の日本人移民の中に、東京出身のシャツ職人「宮本長太郎」がいた。

宮本は1904年頃、ワイキキからダウンタウン方向へ向かい、チャイナタウンを過ぎたあたり、「ノース・キング通り330番地」に店を開いた。MUSA-SHIYA(ムサシヤ商店)という。日本人移民が故郷から持ち込んだ和服・着物や布団(ふとん)の生地からシャツをつくり販売し、人気を博したそうだ。農園で働いていた労働者が着ていた、木綿のチェック地の開襟半袖シャツ「パラカ」のスタイルをもとにしたようだ。パラカはヨーロッパの船員が着ていたシャツが元になったともいわれるが、日系一世たちが郷里の村で夏場に着ていた浴衣の格子模様をなつかしみ、シャツに仕立てたという、アロハシャツの原型説が有力だ。和服や布団の生地からつくるアロハシャツを和柄と呼ぶ。Ph006palaka

宮本長太郎が1915年他界後、日本に留学していた息子・孝一郎がハワイに戻り、店を継ぐ。店の名は《ムサシヤ・ショーテン》(日本語では武蔵屋呉服店)と改めた。さらにこの店は人手に渡るが、1936年には、ワイキキの「カラカウア通り2152番地」に、Musashiya Storeの店舗があった。その頃、ムサシヤのブランドで、「アロハシャツ」の広告を地元の新聞「ホノルル・アドバタイザー」に出し、大変な売れ行きであったようだ。おもにアメリカ本土からの旅行者に、おみやげとして、この和柄のアロハシャツは大人気だったとのこと。(宮本家はシャツのメーカーであった)

ムサシヤブランドの和柄のアロハは、現在、「サンサーフ」(東洋エンタープライズ社)によって復刻されている。1着2万円近くするが、確かにすばらしいデザインである。Photo_183

私はハワイで暮らしていた時、仕事用、遊び用、パーティー用など、アロハシャツを20着近くもっていた。日本では、かなりおとなしい柄でないと着ることができない。それも夏だけである。タンスのこやしになってしまった。

(写真:パラカ ハワイ、ムサシヤラベル・復刻版、ムサシヤブランド・サンサーフの和柄アロハシャツ)Sunsurfss33560s1

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宇宙の心を生きる《真言瞑想法 阿字観あじかん》

 高野山の道場(研修場)で、真言宗に伝わる、瞑想の儀式・真言瞑想法の阿字観を体験したことがある。昔、弘法大師・空海が京都での公務に疲れたとき、高野山に帰り、英気を養うために生み出した呼吸法であり、瞑想の方法だ。Ajikan_2

 宇宙と呼吸を通わせ、コミュニケーションの手段として、心を通わせる方法だが、体験してみると、座禅のように足を組み、腹式呼吸でゆっくりと息を吐き、ゆっくりと吸う。肩の力を抜き、おなかの前で手を組む。大日如来をあらわす「あ」の音を念じながら、静かに瞑想する。

 30分から40分も続けると、心身の疲れが取れていく。きわめて不思議な体験だ。禅宗の座禅とは違う。脇息で背中をたたかれることもない。

 実際に高野山では、予約制であるが、この阿字観(教室)は、若い僧が、丁寧に足や手の組み方から、呼吸法を親切に指導してくれる。終わると、なぜだが、すーっと体から邪気が抜けていた。楽になっていた。理由はまったくわからないが、1200年も続く真言の瞑想法は、いまも生き続けている。(写真:恵光院)

ありがたや 高野の山の岩陰に

大師はいまだ おわしますなる

■高野山観光協会 0736(56)2616

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京都は風水都市《平安京》

 国際観光都市、京都は、794年桓武天皇の時代に「平安京」として造営された。この都が、当時の国家プロジェクトとして、「風水」による方位学によって選ばれた吉相の場所であったといわれている。

 風水では「四神相応(ししんそうおう)」といって、東西南北にそれぞれ神を配置する。四方を守護する神は、聖獣という。(地図はクリックで拡大Photo_150

東/青龍 大河(川)を表す「豊かな川の流れ」

西/白虎 大きな道路を表す 「幹線道路の存在により交通の便がよい」

南/朱雀 広い平野、湖、大海原を表す 「広大な平野・海により開かれ視界」

北/玄武 山を表す 「山や丘陵地帯」

 東(青龍)は鴨川を指す。「鴨川」は、桟敷ヶ岳(さじきがたけ)に源を発し、京都市東部を流れる全長35キロの川で桂川に注ぐ。高野川との合流点から上流を『賀茂川』、下流を『鴨川』と書く。1_8

 西(白虎)は、五畿七道の山陽道山陰道を指す。前者は、現在の兵庫県から山口県へ抜ける中国地方瀬戸内海側の街道であり、後者は北近畿から島根県へ続く日本海側のルートであった。1_9

1_edited  南(朱雀)には、かつて巨椋池(おぐらいけ)があった。京都市の南の伏見区や宇治市にまたがる場所だ。琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川が、京都盆地に流れ込む最も低いところに位置しており、広大な遊水池を形成していた。古代から中世は、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。

 北(玄武)は、船岡山鞍馬山を指す。紫野(船岡山から大徳寺周辺一帯)に横たわる丘陵が船岡山。東西200m、高さ112mで山というより岡である。その姿が船の形に似ていることから「船岡山」と名付けられたそうだ。船岡山は、平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上にあることから、平安京造営の基準点と考えられている。1_10

 都の北東の方角に、邪悪な怨霊、悪霊などが出入りする「鬼門」があるが、平安京では、比叡山延暦寺や都近くでは、鞍馬寺と貴船神社を配置して、鬼門封じとしたそうだ。

 観光客に人気の「清水寺」は、東の守護神・青龍に関連した場所で、「龍の穴」と呼ばれ、清水の舞台が龍の腹の上にあたり、本堂も龍のパワーを受け、気のたまり場として安定した場所なのだそうだ。

 ちなみにこの平安京は、明治になるまで都であり続けたわけで、風水によって造営された都市計画が1,000年以上も存続したことは驚異的である。

(四神の絵は、錦糸町の中国料理店「鳳竹園」のマスター王さん提供)

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《スープは食べるもの》ソバとラーメンはすするもの

 最近は、世界中ほとんどどこへ行っても日本料理レストランがある。とりわけ、ラーメン屋やうどん、ソバを扱う麺類の店もふえてきた。

たとえばパリのオペラ通り界隈の日本食、ラーメン屋さんが何軒もある。中には、東京や大阪の有名店の支店らしきものもある。お客は、日本人観光客や現地で働く日本人ビジネスマンが多いが、時として白人の姿を見かけることもしばしばである。

Soup  驚いたことに、彼らは、器用に箸を使い、麺を音も立てずに食べる。通常、われわれがズルズルと麺をすするという仕草は、とくにフランス人にとっては、この上なく下品なマナーになる。欧米では、汁物(スープ類)は食する時、絶対に音を立ててはならない。

スープは、スプーンのあたまの丸い受け皿部分を、そのまま口の中に押し込んで飲む。決して「すする」ことはしない。ラーメンの場合は、麺をレンゲの上にのせ、口に流し込んでいく。静かに耳をすませば、ズルズルではなく、パクパクと、かすかに麺類を噛む音はする。

 しかしどう考えてもラーメンやソバ、うどんは、ズルズルと食べ、どんぶりのスープは、ズズーっと飲み込んだ方がうまいに決まっている。

 ところで英語では、スープを飲むという表現は、Eat Soup(イート スープ)であって、Drink Soup(ドリンク スープ)ではない。スプーンや(ラーメン屋の)レンゲを口にくわえて音を出さないのは、 Eatの文化なのだ。まして小さい頃から家庭では、音を立てることはマナーとして最悪だと洗脳されているのだ。だからはじめて日本に来て、おそば屋さんに入った欧米人は、ズルズルに驚き、店中を不思議な軽蔑の目線で見回す。そこで案内した日本人が、自分でも麺をすすって、いやいや、これが日本の文化だと教えることになる。Photo_144

 だが待てよ、そうなると最近、自動販売機で売っている缶入り「ポタージュスープ」は、ゴクゴク飲んでいいものなのか。はたまた秋葉原で人気の「おでんの缶詰」の汁も静かに(飲む?)食べるものなのか。

そんなことで悩んでいると、お客さん、スープが冷めますよ。

(イラスト:たろべえ)

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《桃太郎》伝説 陰陽五行説だった

《桃太郎》伝説 これは《陰陽五行説》だった

 昔話、おとぎ話の『ももたろう』は、こんなストリーだ。Photo_143

おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。川上から流れてきた大きな大きな桃を老夫婦は、やっとのことで家に特大な桃を持ち帰り、二つに割ってみると、中から元気そうに丸々と太った赤ん坊が出てきました。桃太郎と名づけられたこの子は、成長すると、村人たちが苦しめられている、鬼が島へ鬼退治に出かけることになりました。おばあさんは、桃太郎に「きびだんご」を持たせてくれました。

 桃太郎は途中、出会った「犬」、「猿」、「雉(きじ)」に、きびだんごを与え、その代わりに鬼退治に同行するように約束させました。鬼との一戦では、お供の3匹はそれぞれに活躍。雉は、まず空を飛び敵情視察(ものみ、斥候、偵察)をし、情報を桃太郎に伝えた。いよいよ鬼との対戦。雉は鬼の耳もとで、ケーンと鳴く。その音に驚いた鬼が、ひるんだ隙に、猿が鬼の目に向け、やわらかいきびだんごを投げつける。目が見えなくなった鬼に犬がガブリと噛みつく。こりゃあまいったと鬼は逃げ出して行く。

 (桃太郎は一体、何をしていたのだろうか。単なる指揮官だったのか。)

 桃太郎一行は、鬼から金銀財宝を取り上げ、村に持ち帰る。戦(いくさ)の褒美として、

3匹たちには、さらに「きびだんご」を与えた。(褒賞)それから、おじいさん、おばあさんと幸せに暮らしました、とさ。

 儒教的には、お供の3匹は「きびだんご」をもらった「恩」に報いるため、鬼と戦い、主人である桃太郎に対して見事に「忠誠心」を示した。

 さて、この桃太郎のお話、実は古代中国の戦国時代頃に発達した《陰陽五行説(おんみょうごぎょうせつ)》に由来するのだそうだ。2_10

 《陰陽五行説》とは、万物を陰と陽に分類し、森羅万象の構成要素(気)を木・火・土・金・水の5つが循環して変化するという考え方である。四季の変化、一日のうちの時刻の流れもこれに基づく。それぞれに対応する「色」、「果物」もある。

 方角(方位)も五行では、現在の干支(えと)(十二支)で分類されている。北の

子(ね)から丑(うし)、寅(とら)、東の卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、南の午(うま)、未(ひつじ)、西の申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)と続き、亥(い)は北だ。

 「陰陽道」では、「丑寅(うしとら):北東」の方角は、邪悪なもの、忌み嫌うものなど「鬼」が出入りする方角を《鬼門(きもん)》と呼ぶ。これに対して、対極にあるのが「裏鬼門」と呼び、「未申(ひつじさる):南西」で鬼の出入りを封じる方角である。

 つまり裏鬼門の線から時計回りで時系列が動くため、鬼を封じる(鬼退治)には、

この「金」の領域の果実「桃」太郎が、「申」「酉」「戌」を同行して、方位「西」へ行くことになる必然性がある。(季節は「秋」に違いない)

 ところで酉は鳥であって、決して鶏(ニワトリ)ではない。日本では平安時代にすでに雉が神への献上物、「神饌(しんせん):神様に供える酒食」として定められており、貴族にも食されていたため、酉は雉であったようだ。

 鬼門の対極を意識しなければ、「杏(あんず)太郎」がお供に、へび(巳)、うま(午)、ひつじ(未)を連れていったかもしれない。「栗太郎」がイノシシ、ネズミに牛を連れていたかもしれないし、「李(すもも)太郎」は、トラとウサギとたつ(龍)を子分にしていたかもしれない。やはり、桃太郎が一番強そうだ。

 それから『ももたろう』のお話は、岡山以外にも香川県、愛知県などにも伝わっているが、岡山県の吉備津神社に伝わる神話「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」の鬼退治の伝説が、この童話のルーツらしい。

 こんなに奥深いとは驚いた。おそるべし「桃太郎」。(画像は社団法人岡山観光連盟、ももっち)

 

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風林火山《諏訪御料人》は俗名《梅姫》ではなかったか!?

風林火山《諏訪御料人》は俗名《梅姫》ではなかったか!?

 

Vfsh0192_1 大河ドラマの悲劇のヒロイン、「由布姫」(井上靖)が、以前は「湖衣姫」

(新田次郎)と呼ばれていた。このどちらも《諏訪御料人》に対する大作家の命名だ。「御料人(御寮人)ごりょうにん」とは、身分の高い貴人の妻妾を指す言葉だそうだ。武田信玄によって謀殺された父・諏訪頼重と側室・小見夫人の間に生を受け、ひたすら諏訪家の再興を願い、仇敵・信玄の側室となり、勝頼を産んだ。

 生年は享禄3年?(1530年)で、弘治元年(1555年)没といわれる。武田勝頼が一時、城主をしていた、伊那市高遠町の「建福寺」に《諏訪御料人》の墓があり、高野山の武田家過去帳にも没年は、弘治元年(1555年)と記されているという。しかし、実際の名前はわからない。Photo_112

 建福寺に残る《諏訪御料人》の墓石等から、彼女の法名(戒名)は判明している。『乾福院殿梅巌妙香大禅定尼』という。

 この寺は「大宝山 建福寺(けんぷくじ)」が正式名称で、康元元年(1256)鎌倉の建長寺を開山した高僧・蘭溪道隆大覚禅師が、「鉾持山乾福寺」として

開創した。その後、武田勝頼(1546-1582)が高遠城主となり、中興した。そのため勝頼の母《諏訪御料人》の位牌と墓石が安置されている。さらに武田氏滅亡後は、保科正直が同寺を菩提所とし、寺号(山号)を「大宝山建福寺」と改めた。臨済宗妙心寺派の由緒正しい寺である。

 そこで、戒名から生前の名前を類推することにした。Photo_113

臨済宗の戒名配列を調べていくと、つぎの四つに分類される。

乾福院殿 梅巌 妙香 大禅定尼

■院号:「乾福院殿」最上の尊称とされるのが院号または院殿号である。これは当時の寺号の「乾福寺」に由来することは明らかである。

■道号:「梅巌」これは、生前の雅号画家や書家などが本名以外につける風雅な名)や字(あざな)【中国では名の他に字(あざな)をもち、その人を尊敬して呼ぶ場合に字を用いた呼称】を示す。禅宗に始まる。現代語では「梅岩」と表記。

■法号:「妙香」仏弟子になった事をあらわす名前2文字で、多くは仏典からの出典。(妙と香はそれぞれ仏語にあり)

    位号:「大禅定尼」男女の性別や長幼を示すと同時に、院号と同様にその人の信仰の深さあらわす。女子の最高位?

以上の見解から注目すべきは、道号の「梅巌」である。

『梅』は春の花。『巌(いわお)』は、高く大きな岩の意味がある。《諏訪御料人》が生前、詩歌管絃をたしなみ、この号をもっていたわけではないだろうが、おそらく同時代の武田家関係に「菊姫」や「松姫」が存在したことから考えて、《梅姫》が俗名と考えても不思議はない。

長野県諏訪出身の新田次郎は、諏訪湖に思い入れがあり、「湖衣姫」と名づ

け、一方、井上靖は『風林火山』を執筆した九州の由布院(湯布院)温泉にちなんだ「由布姫」を選んだという。なるほど、「梅姫」よりは、湖衣姫や由布姫の方が語呂がよいかもしれない。ちなみに諏訪湖の小坂観音院にある《諏訪御料人》の供養塔の看板には、両方の呼び名が記されている。

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※写真:(高遠)建福寺と(中)諏訪御料人墓石は「信玄を捜す旅」より、許可を得て掲載
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/

※その他、小坂観音院の供養塔ほかは、たろべえ撮影

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風林火山 史実にみる山本勘助《市河文書》

風林火山 史実にみる山本勘助《市河文書》

 山本勘助研究の第一人者・上野晴朗先生の『山本勘助』(新装版・新人物往来社)によれば、山本勘助の実在を示す重要史料に《市河文書》(市川文書)がある。

昭和44年(1969年)、当時の大河ドラマで『天と地と』が放映されていた。ある日、ドラマの中で武田晴信(信玄)の署名と花押のある古文書がテレビ画面に紹介された。これを見ていた北海道釧路の市川さん。「あれ!我が家に伝えられている古文書にも同じ署名がある。」これが『山本菅助口上』と記述のある武田晴信の書状で、弘治3年(1557年)6月23日、晴信が北信濃の野沢温泉の市河藤若宛のものであった。(釧路市市川家文書)Photo_106_1

『注進の状披見す。よつて景虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取りかかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰(あまつきさ)え備え堅固ゆえ長尾功なくして飯山へ引き退き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度その方のはかり頼母敷までに候。なかんづく野沢在陣の砌り(みぎり)、中野筋の後詰の義、飛脚に預り候き、即ち倉賀野へ越し、上原与左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ指し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まつたく無首尾に有るべからず。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣き、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候の条、御心易く有べく候。なお山本菅助口上有るべく候。恐々謹言。

 六月廿三日 晴信(花押)

  市河藤若殿』

上野晴朗先生によれば

“この文書の背景というのは、第三回川中島合戦の最中であり、武田方に味方していた信越国境地帯の豪族、市河藤若あてに、晴信から出した書状である。末尾に【なお山本菅助口上有るべく候・・・】とあって、あの山本勘助がさっそうと登場する。

残念ながら、勘助の文字が【菅助】とやや異なっているけれども、諸書に、勘介・勘助・寛輔などと当てているから、まず同一人物と見て間違いない。“

(上野晴朗『山本勘助』新人物往来社)

 

 山梨県史編纂室の堀内享氏によれば

 この文書の書かれた理由は、“弘治3年6月23日、「山本菅助」は一路信濃の北端へ向かった。同地にあって武田氏に味方し、長尾景虎(上杉謙信)の軍勢と対陣を続ける市河藤若に対し、当主晴信(信玄)の意向を伝えるためである。”また、文書の内容については、“「菅助」が携行した書状からは、武田・長尾両氏の抗争の最前線における緊迫した状況が伝わってくる。晴信は、来襲した長尾勢を前に、これに与(くみ)することなく抵抗を続け、飯山へ押し戻すことに成功した市河藤若の戦功を讃えるとともに、これに先立つ援軍の要請に基づき長尾勢を挟撃すべく上州の与党や塩田城(上田市)の軍勢を差し向けたものの、既に長尾勢は退却していて、残念であったこと、今後は「湯本(藤若が在陣していた野沢温泉)」より要請があったならば、晴信に相談することなく、援兵を送るよう前線の指揮官である飯富虎昌(おぶとらまさ)に命じたことを、それぞれ申し送っている。”

(堀内享『軍師「山本菅助」の登場 「市河文書」が語る第三回川中島合戦前夜』、『謀将 山本勘助と武田軍団』別冊歴史読本47、新人物往来社)

 両氏の意見では、「山本勘助」の実在を示す重要な史料とのこと。確かにこの史料が発見されるまでは、例の武田家を評価する『甲陽軍鑑』などでしか、勘助は表現されていなかったそうだ。少なくとも、山本勘助は、晴信の書状を補足する目的の使者であった。晴信の周辺にいた人物に違いない。

 ところでこの12月にちくま学芸文庫から『甲陽軍鑑』(佐藤正英校訂、訳)が出版され、さっそく購入して読み始めたところ。「品第十一」に勘助の記述が詳しくある。このあたりはまた、つぎの機会に。Photo_107 (「山本勘助」恵林寺蔵、作者は、江戸時代生まれの日本画家で歴史画の大家、天保11年・1840年~大正12年・1923年松本楓湖)

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敵に塩を送る 上杉謙信から武田信玄へ《川中島余話》

永禄3年(1560年)桶狭間での奇襲戦法により、織田信長は今川義元を討ちやぶった。これにより群雄割拠の戦国時代は、大きくその勢力分布を変えた。武田信玄は、今川氏の衰退をみて永禄10年(1567年)、13年間にも及ぶ駿河の国の今川氏との同盟関係を破棄し、駿河(静岡県)への侵攻を決める。

 しかし信玄の長男・武田義信は、信玄の南下戦術に大きく反対した。それもそのはず、義信の母は、今川義元の推薦で京の都から信玄のもとに輿入れした三条の方であり、妻は義元の息子・今川氏真(うじざね)の妹であった。信玄は息子・義信の謀反(反逆)に対し、きびしい姿勢で臨んだ。義信の武田家嫡男の称号を剥奪、東光寺に幽閉し、ついには自刃に追い込む。戦国の世はわが子であっても決して安心はできなかった。(信玄自身、実父・武田信虎を追放して当主となった)

 信玄の駿河侵攻を知った亡き今川義元の子・氏真(10代当主となり、三河・遠江・駿河を統制)は、縁戚関係にあった北条氏康(神奈川県相模の国)と協力し、武田領内・甲斐への「塩」の流通を禁じた。

 この「塩」に関する経済封鎖は、ものが生活必需品であるがため、甲斐・信濃の武田の領民をおおいに苦しめることになった。これを知った越後の上杉謙信は、「義」を重んじ、川中島で雌雄を決した好敵手・信玄のため、苦しむ民衆のため、日本海の塩を送った。越後の糸魚川から松本に至る物資の輸送路は、《塩の道》と呼ばれている。Photo_80

 越後から送られた塩は、永禄11年(1568年)1月11日、松本に到着した。

「敵に塩を送る」とは、敵である相手を尊敬し認めることができて、はじめてとれる行動である。美談である。

 「塩」といえば、武田の領内の信濃(長野県下伊那郡大鹿村)鹿塩では、海水の塩分濃度と同じ塩水が湧出していた。「岩塩」である。ここは鹿塩温泉である。同様に、甲斐にも岩塩の採れる奈良田温泉がある。両方の温泉とも塩分によって、湯冷めもなく、いつまでもポカポカしているそうだ。謙信の心意気もあったかい。

(写真は川中島の信玄・謙信一騎打ちの像:長野コンベンションビューロー)

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NYC近代美術館、この1枚はワイエス

西欧(アメリカ)美術紀行 NYC近代美術館、この1枚はワイエス

 ニュヨークの近代美術館(MOMA)には、数々のすばらしい作品があるのはいうまでもない。ゴッホやマティスにピカソ、アンディー・ウォフォールもある。中でも1枚を選ぶといえば、アンドリュー・ワイエスの《クリスティーナの世界》だと思う。

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 Andrew Wyeth〔1917~〕はアメリカ生まれの「アメリカン・リアリズム」の代表的画家で現在もご存命のはずだ。日本でも人気がある。

 この《クリスティーナの世界》は、別荘の近くに住む、足の不自由な少女・クリスティーナが草原に座り込んで遠くをながめる作品だ。彼女はポリオ(小児麻痺)で歩くことにも不自由であったけれど、そんな肉体のハンディーにめげず、真剣に生きていた。何不自由なく育ったワイエスにとってクリスティーナの存在は、ある意味で脅威であった。

 この作品は『テンペラ画』である。顔料を卵やにかわや樹脂で練った不透明な絵の具を使う。15世紀に西洋で「油絵の具」が発明されるまで、西洋絵画の主流をなす技法であった。写実をつらぬき、質感を重んじるワイエスの作品には、なくてはならない技法だ。

 またワイエスは、クリスティーナを少女時代から30年にわたって描き続けた。そのクリスティーナが亡くなると、今度はやはり近所に住む、ドイツ移民の女性「ヘルガ」を実に240点、15年間にわたって描いた。もちろん肖像画もある。室内でも裸体画もある。いずれもリアルに描写されたものばかりだ。

 夏から初秋の草原で、遠くの家をみつめるクリスティーナ。まともに歩くことはできないけれど、しっかり先をみつめている彼女の生きざまを見事に伝える、1枚である。

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西欧美術紀行 目次1

いままで書いてきた『西欧美術紀行』の目次1です。

南仏・エクス・アン・プロヴァンス《セザンヌ サント・ヴィクトワール山》

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/index.html715日)

スイス・サンモリッツ セガンティーニ美術館

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/index.html831日)

ビュールレ・コレクション ルノアール『少女イレーヌ』

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/index.html92日)

アメリカ 孤独な画家 ホッパーに出会う

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/index.html95日)

私の好きなゴッホの1枚 《ジャガイモを食べる人々》

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/index.html98日)

スイスの国民的画家 アルベルト アンカー

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/index.html99日)

アメリカそしてヨーロッパのサージェント(9月14日)

たった1枚の絵のために出かける旅 ゴッホ《花咲く桃の木》(9月20日)

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金子 みすゞ

山口県 長門市仙崎 金子 みすゞ

Kaneko_misuzu

 朝焼け小焼けだ

大漁だ

おおばいわしの

大漁だ。

浜は祭りの

ようだけど

海のなかでは

何万の

いわしのとむらい

するだろう。(『大漁』)

明治から昭和初期のわずか26年間を壮絶に生き抜いた、薄倖の天才女流詩人が

山口県の小さな漁村にいた。金子 みすゞという。テレビドラマや雑誌等でたびたび取り上げられていたので興味があった。素朴で素直な詩を残している。

山口へ行った。泊りは長門湯本、山と川に囲まれた情緒のある温泉地だ。《大谷山荘》に宿泊した。お湯も料理も、おもてなしもすべて一流だった。

翌日、小さな漁村、仙崎へ。この町はすべてが、『金子 みすゞ』で動いている。

わずか20数年前、矢崎節夫さんが発掘した詩人。先崎には、いまはやりのボランティアガイドさんがいて、記念館をはじめ、みすゞの足跡を案内してくれる。

 商店街にも。ここかしこに、みすゞの詩を書いた板がつるしてある。

 みすゞの作品は、「やさしさ」に満ちあふれているといえる。仏教でいえば、「観音様」のような、万人に平等に慈悲の心を分け与えるような気持ちだ。

Kaneko

とにかく彼女の詩をよんでほしい。心が穏やかになる。

(2003年JR西日本)

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アメリカそしてヨーロッパのサージェント

西欧美術紀行 アメリカそしてヨーロッパのサージェント

 イタリア生まれのアメリカ人で、フィレンツェで絵を学び、パリやロンドンで活躍した画家というのが、ジョン・シンガー・サージェント。John Singer Sargent(1856~1925)

 ボストン美術館の《エドワード・D・ボイドの娘たち》1882年とロンドンのテート・ギャラリーにある《カーネーション、ユリ、ユリ、バラ》1885~1887年の作品がよい。

 前者の娘たちの絵画は、暗い背景の中で白いエプロンがかわいい4人の少女たち。生き生きとした感じだ。Sargent12boston

 カネーション・・・は、提灯をもった少女が「日本趣味」ともいわれる。テート・ギャラリーでは日本人ファンが立ち止まっている。なんとも癒し系の作品だ。

 このほか、サージェントの作品では、NYCのメトロポリタン美術館にある『マダムX』1884年という、有名な肖像画がある。個人的にはあまり好きな絵ではないので詳しく紹介しないが、その大胆なポーズからセンセーショナルを巻き起こした作品。

こういった画家が、日本ではさほど知られていないのが寂しい。それでもひそかに、サージェントファンがいるそうだ。晩年は、水彩で風景画を多数残したそうだ。残念ながらそのころの本物をまだ、みたことがない。Sargent_carnationlilylilyrose

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スイスの国民的画家 アルベルト アンカー

西欧美術紀行 スイスの国民的画家 Ankerwrawaraアルベルト アンカー

 アルベルト・アンカー(Albert Samuel Anker 1831~1910)、スイスでは有名な画家だが、日本ではほとんど知られていない。美術館巡りのツアーで行った、ベルン美術館やバーゼル美術館そしてヴィンタートゥールの「オスカーラインハルト・コレクッション」で出会った。恥ずかしながらスイスに行ってはじめて知った画家だ。

 農民やこどもたちの姿を写実的に、しかしフランドル(オランダ)絵画のような落着いた色彩で描く作品が多い。

印象に残っているのは、つぎの作品。

『干し草の上に眠る少年』(バーゼル美術館)

『小さな手編み職人』『娘ルイス』(オスカーラインハルト・コレクッション)

『老女』(ベルン美術館)

このほか、『手編みをする少女』『イチゴ摘みの少女』

 なんともほほえましいこどもたちの生きた姿や農村の老人のちょっとした日常風景を描写している。アンカー自身にも4人の子供がいて、彼らはたびたび絵のモデルになっている。まさに癒し系絵画である。ドイツ(ドレスデン)やパリで絵を学び、スイスの生まれ故郷に帰って、描き続けた。さりげない作品ばかりだが、そこが好きだ。 Anker2

 「セガンティーニ」もそうだが、どうして日本でアルベルト・アンカーが紹介されないのだろうか。

スイス現地の日本語情報では、紹介されている。(スイスインフォ)

http://www2.swissinfo.org/sja/Swissinfo.html?siteSect=2002&cache=no&r_cached=n&sid=4661516&ts=20040818093521

作品一覧はドイツの美術関係ページ参照

http://www.bildindex.de/rx/apsisa.dll/registerinhalt?sid=&cnt=&rid=2&aid=*&query=+xdbpics%3Aalle%20+r1a_name%3A'A*'%20%20+r1a_name%3A%22anker,%20albert%22&no=1&count=50&sort=no&rid=2

Anker4

Anker3

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アメリカ 孤独な画家 ホッパーに出会う

西欧美術紀行 アメリカ 孤独な画家 ホッパーに出会う

ニューヨーク出身の20世紀の画家、エドワード・ホッパー(18821967)。アメリカの具象画家としてその地位を築いた。孤独の影、郷愁を誘うなどと比喩される。ホッパーの作品は、ニューヨークに数多く残っているが、傑作とされるのは、シカゴ美術館にある。《ナイトホークス》1942である。Edward20hopper20nighthawks

街角のコーヒーショップの止まり木に集う紳士と隣の化粧の濃い女性の二人に反対側で背中を、みせる男一人。給仕をする男。それぞれに孤独感が漂う。この絵の4人の登場人物は、バラバラである。決して仲良く談笑してはいない。横長の舞台設定は妙に落ち着く構図だ。決して楽しそうな場の雰囲気はないが、妙に電気が明るい。光と影のコントラストや色彩の対比が、ホッパーの特徴かもしれない。不思議とひきつけられる作品だ。(実際にはタイトルが示すように、商売で夜鷹の女性が男達を引っ掛ける場面かもしれない。もしくは宵っ張りの男女が、たまたま時間を共有していたのか。想像がふくらむ。)恥ずかしながら、私はアメリカの美術館めぐりで、はじめてホッパーの作品をみた。そして感動した。

NYCのメトロポリタン美術館では《夜明けの灯台》1929をみた。3筋の雲の流れとただの灯台の絵だ。しかし「朝」の夜明けを感じられる。それだけだ。Hopperlighthouse2lights

MOAでは《ガスステーション》1940をみた。町はずれのガソリンスタンドの風景にすぎない。老人がひとり。明かりに照らされている「孤独」。日本でいえば昭和初期から終戦前くらいの時代だ。アメリカも暗い時代であったのだろう。

ホッパーの作品は風景画、街角の風景、室内画の3種類があるという。まだ、ごらんいただいていない御仁は、ぜひみてほしい。なんとなく、なんとなく現代人に共感を覚えさせる作品ばかりだ。その瞬間、時間を切り取っている。

Hopper_gas

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スイス・サンモリッツ セガンティーニ美術館

西欧美術紀行 スイス・サンモリッツ セガンティーニ美術館Segantini_museum

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スイスの南東部、イタリア国境に近い《サンモリッツ》は、ヨーロッパの高級リゾート地としても有名な所である。夏は避暑地としてセレブ御用達のホテルや別荘が並ぶ。冬場はもちろん、(冬期オリンピックが開かれたこともある)スキーリゾートになる。

 なにしろ標高1,856mだから、夏は涼しい。数年前の7月に訪ねた。人気の避暑地だけあって、メインストリートには、高級ブティックやブランド専門店がオープン。セレブな山間(やまあい)の町である。

 《セガンティーニ》は、日本では岡山の大原美術館(『アルプスの真昼』1893年)くらいにしか、作品がないので、それほどポピュラーな画家ではないかもしれない。41歳で亡くなるまで、ほとんどエンガディン地方、アルプスを拠点に70点程の作品を残したにすぎない。ジョバンニ・セガンティーニ[スイス 1858-1899]は、独自の点描技法が特徴で、高原、草原の風景画が多い。Photo_61

 サンモリッツの湖を見下ろす、高台にセガンティーニ美術館はある。坂道を登って行くと『ハウルの城』に登場したようなロボットチックな円筒形の建物がみえてくる。この美術館の2階が、セガンティーニの「三部作」(1896~1899年)を展示している。左から「生」、「自然」そして「死」」である。かなり大きなキャンバスに描かれている。絵の前にはベンチが用意されていて、ゆっくり鑑賞できる。もちろん、ほかにも彼の初期の頃からの作品の展示があるが、やはり「三部作」が圧巻。人生をふと垣間見て、夕方の草原でこどもを抱きしめる母親の姿は「生」、うなだれて女が牧畜の親子の牛を引く姿の「自然」、そして亡くなった人をともらう冬の朝の情景が「死」だ。明るい作品ではないが、すべて深みがある。人によっては、好き嫌いがある作品かもしれない。なぜなら(自分もそうだったが)「三部作」を見ると、作品スケールの大きさに圧倒さるるものの、心は晴れず、重くなる一方だった。しかし強い衝撃で印象が残る作品。

Werden Seinshizen_

(※『アルプスの真昼』は大原美術館提供、「三部作」はセガンティーニVergehen美術館の絵ハガキから、「生」「自然」「死」の順)

※休館が多いのでホームページ等で事前に確認してください。

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松島やああ松島や松島や 芭蕉の作ではありません

“松島や ああ松島や 松島や”芭蕉の作ではありません

Photo_46  

松島のあまりの美しさに、声も出ず、松尾芭蕉の一句というのが通説だが、実は大きな間違いである。もう一度、岩波文庫の『おくのほそ道』を読み返してみても、ほそ道の中で、芭蕉は松島に関する俳句を残してはいない。

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広く世に知られ、あまりにも有名な

《松島や ああ松島や 松島や》の句であるが、本当は江戸時代後期の狂歌人、田原坊の原作だそうだ。仙台藩の儒学者・桜田欽齊の記した旅行ガイドブック『松島図誌』に、田原坊の

《松嶋や さてまつしまや 松嶋や》

が掲載された。

(松島という所は、さてなんと表現したらいいのだろうか。ほんとに松島は・・・)

この句の「さて」が「ああ」になって言い伝えられたのが真相のようである。

ところで、本家の芭蕉は、元禄2年(1689年)327日(新暦516日)、江戸深川を出発し、日光、那須、白河、郡山、福島、飯坂から仙台、塩釜と歩き、59日(同625日)に松島に入った。弟子の曽良が同行した。

『おくのほそ道』の「松島湾、雄島が磯」の段では、つぎのように書き残している。

 抑(そもそも)ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。(略)其気色、よう然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。

(現代語訳)

さてさて、すでに言い古されているけれど、松島は日本一、風光明媚な所だ。中国の名勝地、洞庭湖・西湖と比較しても恥ずかしくない。(略)松島湾の美しさは、憂いをたたえた趣きの、美人がさらに化粧をした顔のようにさらに美しい。それはきっと神代の昔、(山の神であった)大山祇神のなされた仕業だろうか。天地万物創造の神の技は、いかにすばらしいもの書きでも、筆舌に尽くしがたい。(上手に表現することはできない)

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 (略)江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。
 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。

(現代語訳)

(略)松島の海岸まで戻って、宿泊先の宿を探し、宿をとったのは、海に向かって窓を開け開いた二階建ての家造りであった。風雲の流れを感じながら旅の夜を過ごしていると、なんとも言い難く、妙にいい心地がしてくる。

 このすばらしい松島なのだから、松島には鳥の王様・が一番似合う。

そこにいるホトトギスよ、いっそ鶴の姿を借りて飛んでみてくれ。

  曽良の詠んだ句である。しかし私は(芭蕉は)ついに句をつくることができず、あきらめて眠ることにしたが、気持ちが高ぶって、どうしても寝つくことができない。そこで、以前住んでいた庵(家)を出る時に、素堂が作った「松島の詩」や、原安適が詠んでくれた「松が浦島の和歌」のことを思い出して、俳句や和歌を書きとめたノートを出すため、携帯袋のひもを解き、それらを取り出して今夜のなぐさめとした。袋の中には、杉風や濁子が作ってくれた発句もあった。(意訳)

このように、絶景・松島を目にして芭蕉は、何も言えなかたようだ。研究者によれば、『おくのほそ道』の出発前に門人に送った書簡に、「松島」に対する芭蕉の強いあこがれがあったことが知られているそうだ。(岩波文庫補注)

ほそ道の本文にも《序章》で旅支度をしながら“もも引きの破れを繕い、菅笠の首ひもをつけかえ、足の三里のツボに灸をすえようとしていると、(うわさにきく)松島の月の美しさが気にかかって仕方がない”と記述がある。《日光》の箇所では、『おくのほそ道』の“この旅は松島と象潟(きさかた)の景色を眺めることを楽しみに”との表現もあるくらいだ。

 もともと平安時代末期から鎌倉時代には、和歌をつくるための題材となる風光明媚な名所(観光スポット)が、全国にあったそうだ。これを『歌枕』という。西行などが詠んだ句の「現場」となる場所で、ほそ道でいえば白河の関や塩釜、松島も該当する。この歌枕や文人墨客の足跡をたどることも、『おくのほそ道』の旅の目的の大きな要素であった。もちろん俳諧で身を立てるため、芭蕉は地方に暮らす自分の門下生を訪ねて、いわゆる「蕉門」(芭蕉一派)の勢力を拡大しようという意図もあったかもしれない。

 「松島」が江戸時代頃から日本三景のひとつとして、評判であったことも芭蕉を奥州へ向かわせた要因ともいわれている。しかし歩きながら名所旧跡をたずね、発句の会を開いたりする旅行脚は、天候にも左右される。疲れもたまる。このあたりは、同行の弟子の残した『曽良旅日記』に詳しいが、これほどまでに《松島》にあこがれていた芭蕉が、この地に1泊しかせず、先を急いだことも意外だ。

いずれにせよ、本当に美しい風景を見て、感動したとき、人は無口になるものかもしれない。そこで一句。“待つ暇や ああ待つ暇や 待つ暇や”

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鑑真和上三部作その2

鑑真和上三部作その2 鑑真を訪ねて《鹿児島県南さつま市坊津》

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鑑真ファンの渋谷先生という、東京・目白で指圧の治療院を開業している方がいた。『唐招提寺・鑑真和上に出会う旅』に参加していただき、帰りの新幹線の中で、

ぜひ、鑑真の足跡を尋ねて、中国へ行きたいとおっしゃる。また、どうせなら鑑真が苦難の末、日本へたどり着いた、南九州の坊津(ぼうのつ)や大宰府にも行きたいとのことだった。

幸い、奈良への1泊旅行は「唐招提寺・鑑真」のテーマが目新しく、募集ものツアーとしては、バス2台80名の集客があり、ヒットであった。そこで翌年の3月に和上の上陸地「坊津」をメインにした、九州2泊3日ツアー『鑑真上陸地を訪ねて・南九州ツアー』を計画。その後、6月に鑑真和上の故郷である、「中国・揚州」への参詣を目的に上海・蘇州・揚州4泊5日ツアーを発表した。これまた自分の趣味・興味が高じてしまったのだ。※マップはクリックで拡大します

Akimeuramap

九州2泊3日は40名のお客様が集まった。往復航空機利用で、鹿児島に入り、市内を観光して1泊目は鹿児島市内の城山観光ホテル泊。2日目は、念願の坊津へ行き枕崎で昼食と鰹節工場見学後、指宿の名ホテル・秀水園泊。まさに「薩摩づくし」で高速を飛ばし、帰りに大宰府に寄り、福岡から帰京。

鹿児島市内から枕崎を経由して、鑑真上陸の地・坊津へ、約1時間40分。坊津、秋目浦は、小さな入江である。深緑色の小山、静かな海。遣唐使船の出入りはおこなわれていた奈良時代そのままのような空気だ。高台に「鑑真和上上陸記念碑」、背後には「鑑真記念館」がある。

記念碑は《鑑真大和上滄海遥来之地》と記され、添えられた碑文には、

「天平勝宝五年十二月二十日の午の刻、唐の鑑真大和上は、数々の苦難を乗り越えこの地に上陸。初めて日本の土を踏んだ。この国の文化は(鑑真和上の功績により)是より格段にその輝きを増した。」と記されている。(西暦753年)Photo_40

奈良時代の律令国家を整備するため、また鎮護国家の「仏教」の正当性を守るための人材養成の目的で朝廷は、その手本とした「唐」へ、留学生(留学僧)を派遣した。それが遣唐使船であった。何度か船は、海を渡るが、当時の造船技術や航海技術では失敗することが多々あった。

舎人親王の命を受け、唐から仏教の本筋を伝える受戒師の招聘(しょうへい)を目的に渡った、日本の僧、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の二人が、長年、中国中を捜し求めて、やっと出会ったのが鑑真和上。743年から日本への渡航をこころみるが、失敗すること5回。6回目の753年、ようやく日本の地に上陸した。しかし鑑真は航海中に両目を失明。66歳になっていた。(和上の伝記については『唐大和上東征伝』や、それをもとに描かれた『東征絵伝』、井上靖の小説『天平の甍(いらか)』に詳しい。(ただし絵伝そのものは、鎌倉時代の作であるため、人物・風俗などは必ずしも奈良時代そのものではなく、後世の推察が混じっているという。そうであっても鑑真和上の功績が鈍るわけではまったくない)

坊津、秋目浦に上陸をはたした鑑真一行は、どうやら最近の研究によれば、小船に乗り換え、半島づたいに佐賀へ。さらに有明海、筑後川を経由して、大宰府に入ったらしい。さらに754年、鑑真和上は奈良、東大寺大仏殿前でときの聖武天皇に授戒、(仏法の正道を伝える儀式)

759年には唐招提寺を創建、仏教(律宗)の戒壇を開く。763年、和上没。76歳。

唐招提寺の開山忌・鑑真和上像特別拝観ツアー『唐招提寺・鑑真和上に出会う旅』が80名、九州坊津ツアー『鑑真上陸地を訪ねて・南九州ツアー』が40名。さてさて

揚州のツアーはいかがなものか。Vfsh0083

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鑑真和上三部作その1

鑑真和上三部作その1 鑑真を訪ねて《奈良 唐招提寺》

 

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 「旅行」を商売にしていると、時として自分の趣味・興味が高じてしまうことがある。学生時代に奈良へ通い、鑑真に、唐招提寺に強くひかれていた。近鉄の「西の京」駅から徒歩で10から15分。奈良郊外の五条町にその寺はある。いまでこそ「郊外」だが、平城京では中心に位置していたようだ。

天平3(759)年、聖武天皇により招聘され、苦難の末、来日し仏教の真の戒律を伝えた「鑑真和上」が開いた寺だ。和上は、いま境内の御影堂(みえどう)に鎮座し、いままでは開山忌(和上の命日)の6月6日の前後3日間(通常は6月5日から7日)に限って、一般公開されていた。同時に御影堂上段の間の、東山魁夷作の壮大なスケールの障壁画(襖絵)も 公開。長い行列で1時間近く待たされても、和上像に対面すると、まるで生きているような感じさえして、感激したものだ。

また唐招提寺では、なんといっても国宝の「金堂」の建物と千手観音がすばらしかった。残念ながら金堂は、2000年から『平成大修理』をおこなっており、完成は2010年。それまでは、あの均衡のとれた屋根の線やふっくらと曲線を描く柱は見れない。

聞くところ、平成7(1995)年の阪神大震災を機に建物全体を調査したところ、柱の傾きや垂木のたわみなどが激しく、すぐにでも解体修理が必要なことがわかった。あわせて、金堂内部の先の千手観音、本尊・盧舎那仏(るしゃなぶつ)、薬師如来も保存修理を受けており、2010年まではお会いすることができない。和上像も『唐招提寺2010プロジェクト』と題して、数々のイベントのため、全国行脚をするようだ。

 江戸時代(1688年)春、俳人・松尾芭蕉も唐招提寺を訪れた。鑑真和上が日本へ渡るために、苦難を乗り越えたが、潮風によって目をやられ、ついに盲目になった、と『笈の小文』にある。そのとき、詠んだ句・・・

 “若葉して御目の雫拭はばや (わかばして おんめの しずく ぬぐわばや)”

この青々とした若葉で、和上の目から流れ出る涙のしずくをぬぐってさしあげたら

目は見えるようになりだろうか、こんな意味だろうか。

 また会津八一も唐招提寺でたくさんの和歌を残したが、金堂を詠んだ1句が秀逸。

 

“おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ”

※唐招提寺「鑑真和上に出会う旅」は、バス280名のお客様が集まった。

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南仏・エクス・アン・プロヴァンス

西欧美術紀行 南仏・エクス・アン・プロヴァンス

《セザンヌ サント・ヴィクトワール山》

 今年2006年はセザンヌ没後100年である。南フランスのエクス・アン・プロヴァンスという街で彼は生まれ、晩年、その地のアトリエで過ごした。エクスは古代ローマの噴水など、遺跡が残る、落ち着いた街だ。とくに中心のミラボー通りは、樹齢500年のプラタナスの並木が続く。通りのカフェもおしゃれだ。

 何よりも忘れてならないのはセザンヌの絵画。リンゴやオレンジの静物画やチョッキを着た少年、トランプをする人々などの人物画に水浴を描いた作品。この地にいまも存在する、聖地・サント・ヴィクトワール山もセザンヌが繰り返し描いたモチーフである。

 ポール・セザンヌはこの山の絵を油彩で60点以上、水彩も20点以上のあわせて80点を超えて描いたそうだ。実際にエクスへ行くと、なるほど彼のアトリエから歩いて、高台にあがるとすぐ目の前にサント・ヴィクトワール山がみえる。(アトリエは見学できる。山荘の2階がアトリエ)

 だがしかし、本当の山は、彼の作品とままったく異なり、ただの石灰岩の山にすぎない。色彩もセザンヌの緑や青、茶色ではない。白い山だ。

 大学の先輩で、いまやセザンヌ研究の第一人者・浅野春男先生によれば、