カテゴリー「文化・芸術」の42件の記事

【にっぽん 海外交流史】黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1【再録】

※再録

 1853年(嘉永6年)、世にいう「黒船」ペリー艦隊が浦賀にやってきた。そのとき江戸幕府側の首席通詞(通訳)として、活躍したのが堀達之助30歳であった。達之助は長崎でオランダ通詞の家に生まれ、後に同じ通詞の堀家の養子となった。

アメリカ大統領の親書を携えたペリーは、翌1854年再び艦隊で来訪。しかし今度は、達之助が次席で首席通詞には、長崎でオランダ語はもとより、「英語」を習得した森山栄之助が就任した。(達之助はある程度、英語の読み書きはできたようだが、会話の経験はまったくなかったようだ。その点、アメリカ人捕鯨船員・マクドナルドから会話を習っていた栄之助が首席通詞として抜擢された。)ペリーたちとの交渉の通訳は、栄之助がおこない、達之助はもっぱら外交文書の翻訳(オランダ語からの日本語訳)に従事した。当然のことだが、達之助はエリート・森山栄之助に嫉妬したに違いない。

Photohori

その後堀達之助は、下田開港に伴い、下田詰(現地駐在)となる。この地でアメリカ商人(実はドイツ人)のリュドルフと知合う。彼が乗船していたのは、米国旗を掲げ、アメリカに雇われたドイツ船・グレタ号であった。ドイツ人船長とリュドルフは、日独通商を要請する奉行宛の書簡を達之助に託す。しかし彼はその書簡を個人の判断で上申することなく、保留していたため、罪にとわれ1855年投獄。4年間の牢獄生活を強いられた。獄中では、死罪となる吉田松陰とも接触があった。

1859年、幸い達之助の通詞としての技量を知っていた「蕃書調所」(東京大学の前身といわれる学問所)の頭取・古賀謹一郎の尽力により、赦免、釈放され、蕃書調所の翻訳方に採用される。ここで達之助は、古賀の命を受け、本格的な“英和辞書”の編纂にたずさわることになった。

Photo

それまで日本初の英和辞典といわれる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』という辞書はあった。掲載されていたのは英単語が6,000語にすぎなかったため、実用には遠かった。さらにこの辞書に附された日本語の発音が、オランダ商館のブロムホフの発音した「オランダ訛りの英語」であったため、基本的な英語の発音とは程遠いものであったそうだ。たとえば、Personns(個人、人ペルソンス=パーソンズ)、summer(夏ソムムル=サマー)、 sugar (砂糖シュガル=シュガー)、drink(飲むデイリンキ=ドリンク)、 war(戦争ワル=ウォー)という具合だ。

 そして18ヵ月の努力の結果、堀達之助は、35,000語にも及ぶ英単語と日本語訳を掲載した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を発刊(200部印刷)した。これは日本英学史学会によれば、1862年「日本初の本格的」英和辞書である。ちなみに袖珍(しゅうちん)とは、ポケットの意味で携帯できる字引なのである。その後もこの辞書は改訂や増補を重ねたばかりか、明治期はほとんどの英和辞典の基礎となった。

写真:上/幕末の堀達之助、下/英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書、大阪女子大図書館蔵

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫

********************************************************************************

黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその2

日本初の本格的な英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編纂した堀達之助であったが、蕃書調所(洋学所)に奉職中、頭取の古賀謹一郎から箱館への転勤を命じられる。箱館奉行所での通詞の辞令であった。実際には(ペリー再来航時の森山栄之助、堀達之助に次ぐ第三席通詞・名村五八郎が江戸へ転勤になり)有力な通詞が箱館奉行所に少なくなり、弱体化したための苦肉の策で達之助は呼ばれた。

当時の箱館奉行・小出大和守は、達之助の英語力に期待した。ある時アイヌ人の墓をあばいて骨を掘り出し、標本として盗む事件が続発。犯人はイギリス人と判明し、小出は裁判をおこなうが、その通訳に達之助を指名する。しかしペリー来航後、10年もの間、達之助は英会話の経験がなかった。読み書きはできたが、英語の聞き取りや発言ができない。自分の英会話がすっかりさびついていることに気づき、失望するのだった。その後、小出は達之助に文書の英訳と和訳の仕事に専念させることにした。仕事はきびしい。江戸の蕃書調書、開成所の教授方で英和辞書を編纂した学者という、輝かしい堀達之助の業績だが、裁判の席で十分な通訳ができなかったことで、彼の評価は著しくさがってしまった。

 旧幕府軍と新政府軍との箱館戦争をはさみ、達之助は新たに「函館」の開拓使の外国局に採用される。このとき旧幕府軍の指導者として奮戦し、戦死してしまった指導者に中島三郎助もいた。(ペリー来航時に通詞・堀達之助とともに黒船に乗り込んだ、浦賀奉行所の与力である)

 やがて明治2年、達之助は47歳になっていたが、「美也」という後妻を娶る。役所に出した届けでは、「妻、34歳」であった。美也には二人の連れ子がいたが、彼はこの子たちも養育する決心であった。町でも評判の美人で気働きのよい妻であった。しかし幸せは長くは続かない。明治5年、美也は病死。50歳になっていた達之助には、この愛する妻を亡くしたことがかなりこたえたのだろう。老衰を理由に辞職してしまう。

吉村昭は『黒船』の中で堀達之助を見事に描写する。 **********************************************

初来航したペリー艦隊を迎えて主席通詞として働いた頃が頂点で、それ以後は、起伏はあったものの下り坂をくだりつづけてきたような気がする。リュドルフ事件で思わぬ嫌疑をうけて長い牢獄生活を強いられ、釈放後、開成所教授方として「英和対訳袖珍辞書」を編纂したものの、その辞書も自分に無断で改正増補され、いじくりまわされている。

さらに思いもかけぬ箱館詰を命じられて、そこで味わわされたのは、英会話からはなれてしまっていたため無能な通詞として扱われた屈辱感であった。(略)そうした境遇の中で、突然、眼の前に現れた美也は、かれに大きな喜びをあたえ生き甲斐ともなった。(略)不遇な自分に、短い期間ではあったが、天があたえてくれた宝であったのだ。 ******************************************************************

G_hori_tatsu

そして、達之助は生まれ故郷の長崎、次男のいる大阪で静かに静かに晩年を過ごし、72歳で亡くなった。私は思う。恵まれない人生も確かにある。体制や大きな社会の中で、思うように生涯を歩める人は、稀ではないかと。数々の出来事を通じて、堀達之助の生き方をみると、後妻の美也に出会った50歳近い幸せを除けば、大きな時代の潮流に押し流されていったようだ。しかし、日本初の本格的な英和辞書をつくった功績は、永久不滅のものであることは、いうまでもない。

※参考:『英学と堀達之助』堀孝彦著、雄松堂出版/『堀達之助とその子孫』村田豊治著、同時代社/『黒船』吉村昭著、中公文庫 ※写真:晩年の堀達之助(『堀達之助とその子孫』より)

| | コメント (2)
|

【にっぽん旅の文化史】《お神輿考》

 今年の《三社祭》も見事に終わった。二年振りの本社神輿の宮出しもたいした混乱はなかったようだ。担(かつ)ぐときの掛け声も『えっさ、えっさ』や『せいや、せいや』、『そいや、そいや』が聞こえた。最近、地元担ぎ手の人手不足で全国から「神輿同好会」の面々が、浅草にもたくさんやって来るそうだ。

 おみこしは漢字で「神輿」あるいは「御輿」と書く。空の上や遠い海の彼方から、民衆の招きに応じてやって来る神霊(かみのみたま)の乗物だそうだ。もっとも祭りのたびに神様に来ていただくより、つねに人々のそばにいてほしいという当然の要求から、村には「神の社(やしろ)」、つまり神社をつくるようになった。民の五穀豊穣、豊作、大漁、無病息災、安産や商売繁盛への願いにこたえる目的で、神霊に乗っていただき、

村々を練り歩き、ご利益に授かる。いってみれば、神様の乗物である移動式の小型の神社が、「みこし」であり、「山車(だし)」や「屋台」の始まりであった。

P5150044

三社祭の「花川戸丁目」町会の「神輿」を見ていただきたい。屋根には縁起のよい瑞獣で、四霊の一つ「鳳凰」がいる。鳳凰(ほうおう)は、雌雄(しゆう:オスメス)一体の陰と陽の対立があえて調和を示す陰陽思想からくる、きわめてめでたい鳥である。さらに鳥居がある。屋根には、鳳凰のほか、宝珠と呼ばれる「葱花(そうか)」が飾られることもある。(日本武道館の葱花を想像していただければよい)神社の建物と同様に胴の部分にも細工や彫刻が施されている。したがって構造的には、神輿は屋根と胴、そして台輪(台座)からつくられており、まさに英語の“Portable Shrine(ポータブル・シュライン:移動式神社)“である。

また神輿が村々(町内)を練り歩くことを「渡御(とぎょ)」という。さらに神輿が休憩をとる場所を「御旅所(おたびしょ)」といい、神酒所ともいう。なるほど、担ぐ人は、酒に酔いながら棒につかまるわけだ。そして、祭りの早朝、神社から神輿が出発

することを「宮出し」といい、社に戻ってくることを「宮入り」という。

| | コメント (2)
|

會津八一と《日吉館》【その2】

會津八一(あいづやいち1881~1956)は、奈良をこよなく愛し、常宿の日吉館(ひよしかん)》のご主人に自作の和歌を贈っている。

おほてらの まろきはしらの つきかけを 

つちに ふみつつ ものをこそ おもへ (秋艸道人しゅうそうどうじん)

Photo

 実際には唐招提寺で詠んだ歌である。おそらく秋の夜、大きな寺で月の光を見て、心をうごかされた情景だろう。

さて、會津八一と《日吉館》といえば、やはり日吉館の看板を抜きには語れない。屋根の上にあった横書きのものと、入口にあった縦書きの看板は、八一の書である。私が日吉館に通っていた頃でも、まだまだ木の看板が大手を振って飾ってあった。

昭和4年、八一はこの看板の元になる書を認(したた)めた。日吉館の文字を揮毫するにあたり、三日がかりで、30枚近く書き損じた。墨も三合あまり使った。彫刻師には、勝手に大きさを変えず、八一の書をそのままの大きさで彫らせるように指示を出している。このときの(右からの)横書きの「日吉館」が玄関上の屋根に置かれ、「ひよし館」と平仮名で書かれた縦書きの看板は、入口に向かって右側に飾られた。私が泊っていたのは、昭和50年代だから、これら木製の看板がつくられてから50年近くもたっていたことになる。

Photo_2

看板の文字には、最初白いとのこが埋められたいたようだが、長い年月、風雨に耐えたためか、白い色か消えていた。現在では、この横看板は早稲田大学に保存されている。

(参考:『奈良の宿・日吉館』太田博太郎編、講談社、日吉館前の八一の写真も同書より)

_edited_2 

| | コメント (0)
|

會津八一と《日吉館》【その1】

會津八一(あいづやいち・秋艸道人しゅうそうどうじん1881~1956)は、奈良をこよなく愛した歌人であり、書家であり、美術史家であった。八一の奈良での定宿が、私にとっても忘れられない《日吉館(ひよしかん)》であった。

Photo

八一は、明治14年(1881)、新潟市に生まれ、同39年(1906)、早稲田大学英文学科を卒業。故郷で英語教師をつとめ、後に早稲田中学の教員、さらに早大英文学科の講師となる。その頃から古都奈良への思い入れが深く、大正10年から常宿として日吉館に宿泊。大正14年には早大付属高等学院の教授、さらに昭和元年(1926)には早大文学部で東洋美術史の講座を担当する。昭和13年(1938)、早大文学部哲学科の芸術学専攻主任教授になる。まさに奈良の仏像や寺社の美術史的研究をはじめ、度々の古都への旅行で多くの歌を詠んだ。昭和31年(1956)、76歳で亡くなるまで、学問と趣味に生きた人物といってよい。

そんな八一が、晩年(73歳)、自分の歌集『鹿鳴集(ろくめいしゅう)』に、自ら解説と注釈をつけた『自註鹿鳴集』を出した。この中に《日吉館》が登場する。

奈良の宿にて

をじか なく ふるき みやこ の さむき よ を

いへ は おもはず いにしへ おもふ に

奈良の宿 作者(八一)は明治41年(1908)の第一遊には、東大寺転害門外の「対山楼」といふに宿れりしも、その後は登大路町の「日吉館」を常宿とす。

 【牡鹿鳴く古き都の寒き夜を 家(故郷)は思わず 古(いにしえ)思う】

 漢字に書き換えてみると、意味はわかりやすいが、會津八一独特のやさしいリズムと少し離れてしまう気がする。さて、私の学生の頃(昭和50年代)確かに日吉館に泊っていると、すぐ裏の庭まで奈良公園の鹿が入ってきた。角を生やした牡鹿が、鳴くのもきいたことがある。八一の時代から80年近くも、日吉館の歴史は止っていたのだろうか。

 ここで私の大好きな八一の一首を紹介する。薬師寺東塔を詠んだ一首だ。

すゐえんの あまつおとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな

(水煙のあまつ乙女が、衣での 暇にも住める 秋の空かな)

Photo_2

 東塔の最上部に「水煙(すいえん)」がある。そこには、天女が衣を着て舞う姿が彫刻されている。まるで秋の真っ青な空に、住んでいるかのようにすがすがしく舞い踊る姿が美しい。そんな情景である。

(イラスト:たろべえ 写真:薬師寺東塔by flicr)

| | コメント (0)
|

【にっぽん旅の文化史】渡辺崋山《游相日記》を読む「その6」②

Kazan612  小薗(小園)村→国分宿→海老名→相模川(厚木の渡し)→厚木宿

 小園村は、土が赤黒く砂が混じっていて上等な土地柄ではない。田んぼは少なく畑が多い。憧れのお銀様と感動的な再会をした崋山は、厚木に宿をとるため歩き出した。

 相模川をわたる。此川大凡三四丁もありぬらん。清流巴をなして下る。香魚甚多。厚木に到。萬年屋平兵衛が家を主とす。厚木の盛なる都とことならず。家のつくりさまは江戸にかはれども、女男の風俗かはる事なし。

 相模川である。おおよそ川幅3、400mもあろうか、渦を巻いて流れる清流だ。鮎(香魚)が多い。厚木宿に到着。萬年屋に宿泊する。厚木が栄えている様子は、江戸の都と比べても引けを取らない。家々の造りは、江戸とは違っているが、人々の風俗はかわらない。

Pc220079

 「相模川」は江戸との水運輸送に利用されていた。「舟運(しゅううん)」という。この地方からは、醤油、魚類、干鰯(ほしか、肥料)など、江戸からは米、繭、木材、薪、炭等の物資が運ばれた。

さて鮎は、独特の香りがすることから「香魚」と呼ばれる。また、秋に河口近くの浅瀬で生まれ、海で冬を越し、春になると川を上って成長し、再び秋に川を下って産卵をするため1年で生涯を閉じることから「年魚」とも言われる。いまでも厚木の名物とされ、天然ものの「鮎料理」は、解禁時期の6月から10月中旬まで提供されている。(厚木市観光協会)もちろん厚木の旅籠・萬年屋の夕食では、崋山一行には鮎料理も提供されることになる。

現代の厚木の町を歩くと、残念ながら「宿場」の面影はまったくない。車の交通量の多い街道筋には、ひっそりと「渡辺崋山滞留の地」の石碑が、旅籠・萬年屋跡に建っている。(写真 厚木の渡し/萬年屋跡地に建つ崋山滞留の地/幕末の厚木宿・ベアド撮影)

Pc220074 Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

【にっぽん 旅の文化史】《黒船の晩餐メニュー》その1幕府からペリーへ

 嘉永六年(1853)、ペリーが軍艦4隻を伴い、浦賀に来航。その後、紆余曲折(うよきょくせつ)があり、幕府は翌嘉永七年(1854)、「日米和親条約」を結ぶことになる。このあたりの事情は、以前ブログに書いた。

《日米和親条約》オランダ語が共通語?黒船「日本海外交流史」 http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_3ab5.html

黒船の通詞・数奇な一生《堀達之助》ストーリーその1

http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/1_dc09.html

 さて、今回紹介したいのは、この条約締結前後、日米で、交互に晩餐会が開催され、それぞれの宴に供された食事のメニューである。1854年3月8日、横浜で日本とアメリカの代表団の第一回公式会談が開かれた。その際、江戸幕府は、アメリカ側一行300名を接待したそうだ。もちろん伝統的な会席料理(本膳料理)で、当時の有名料亭、江戸「百川」や浦賀の「岩井屋」が仕出しをしたと伝わる。

一、長熨斗敷紙三賓(ながのししきさんぽう)一、盃内曇土器三ツ組 一、銚子

【酒饌膳】酒宴のための前菜(一之膳)

一、 吸物(鯛、ひれ肉) 一、干肴(松葉するめ、結び昆布) 一、中皿肴(はまぐり、魚目、青山椒)一、猪口(唐草かれい、同防風、山葵線)(二之膳)一、吸物(花子巻鯛、篠大根、粉山椒)

一、 硯蓋 お土産用(紅竹竹輪蒲鉾、伊達巻鮨、うすらい鮨、花形長芋、綿昆布、九年母、河茸線)一、猪口(土佐醤油、いか酒、辛子、味噌)一、刺身(平目生肌身、めじ大作り、鯛小川巻、若紫蘇、花山椒)(三之膳)一、すまし 吸物(ささい、あん掛平貝、富貴の頭線)一、うま煮 丼(車海老、押銀杏、粉松露、目打白魚、しのうど、鶏卵葛引、肉寄串海鼠、六ツ魚小三木)一、大平(生椎茸、細引人参、火取根芋、露山椒)一、鉢肴(鯛筏、友身二色蒸、風干ほうぼう、菜の花、自然生土佐煮、土筆麹漬、酢取生姜)一、茶碗(鴨大身、竹の子、茗荷竹線)

【本膳】〔二汁五菜本膳〕 (一之膳)一、膾なます(鮑笹作り、糸赤貝、白髪大根、塩椎茸、割栗、葉付金柑)一、汁(米摘入、千鳥午房、布袋しめし、二葉菜、花うど)一、煮物(六ツ花子、煮抜豆腐、花菜)一、香の物(奈良瓜、花塩、味噌漬蕪、房山椒、しの葉菜)

(二之膳)一、蓋 (小金洗鯛、よせ海老、白髪長芋、生椎茸、揃三ツ菜)一、猪口(七子いか、鴨麩、しの牛蒡 )一、汁(甘鯛背切、初霜昆布)一、台引(大蒲鉾)一、焼物 (塩鯛)

(三之膳)一、吸物(吉野魚、玉の露)一、中皿肴(平目作り身、花生姜)一、盃一、銚子一、飯鉢一、通ひ一、湯一、水 Img_edited  「酒饌膳しゅせんぜん(酒宴のための酒の肴)」がつき、本膳料理の大変豪華なもの。魚介類が主体で「鯛」や「平目」、「蛤」、「海老」など、祝いの膳である。だがしかし、ペリー一行の口にあったのかどうか、疑問である。(参考:『ヨコハマ洋食事始め』草間俊郎著、雄山閣刊 『なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?』山田順子著、実業之日本社 写真イラストは草間氏の同書より)

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

江戸時代の屋台様々《東都名所高輪廿六夜待遊興之図》

 広重の天保12年から13年(18411842)の作といわれる《東都名所高輪廿六夜待遊興之図(とうと・めいしょ・たかなわ・にじゅうろくやまち・ゆうきょうのず》がある。この二十六夜待というのは、江戸時代のお月見のひとつ。中秋の名月とは違って、旧暦の七月二十六日(新暦では8月後半から9月半ば)、深夜から明け方に出る逆さ三日月のことで、庶民は夕方から繰り出し、本来は念仏を唱えながら月に浮かぶ「阿弥陀三尊」を飲めやうたえやで、待ったそうだ。(高輪は、目の前に広大な海が開け、海原から上がる月を眺めるには絶好の場所として、有名な月見の名所であった)

Photo_2

 江戸時代のファーストフード、食物屋の屋台が、たくさん出ている。左から「汁粉(おしるこ屋)」、「ほおずき屋」、「だんご(団子)屋」、「麦湯(麦茶)屋」、「天麩羅(天ぷら)屋」、「イカ焼き屋」、「水売り屋」、「寿し(すし)屋」、「水かし(水菓子)屋」。海に近い屋根付の店は、茶屋である。

 この絵で興味深いのは、庶民の男女が太鼓、鼓(つづみ)、三味線、拍子木を持ち、「宴会」に備えている仕草である。また、だんごの屋台では、串をくわえている男もいれば、「二八蕎麦」の屋台裏では、どんぶりを抱えてソバをすすっている男も。江戸前の新鮮な魚介類を素材にした天ぷらや寿司の屋台は、手づかみで食べる。右端の「水菓子屋」は、くだものを売っている。この当時のフルーツといえば、「マクワウリ」が王様。スイカもあった。

 このように江戸後期になると、屋台は一般的になり庶民の胃袋を満たしていく。とくに天ぷら屋などは、火を使うため、川べりや橋のたもとで商売をすることが多かったそうだ。(画像はクリックで拡大)

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

【江戸 食の文化史】《寿司・鮨・鮨・すし》

_edited_2 

近世風俗史の決定版といわれる書物に《守貞謾稿(もりさだまんこう)》がある。岩波文庫から『近世風俗志(守貞謾稿)』と題して、全五巻本で出版されている。最近の江戸文化を扱う書物には、必ず参考文献として登場するほど、江戸時代(後期)の庶民の文化について詳しく書かれたものだ。天保八年(1837)から30年間を要して書かれた、まさに「百科事典」。喜田川守貞著。

鮓 すしと訓ず。愚按ずるに、鮓は近来の俗字なり。(略)江戸はいつごろよりか押したる筥鮓(はこずし)廃し、握り鮓のみとなる。(略)

 江戸、今製は握り鮓なり。鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまゝなり。【寿司のイラスト】

Photo_2 Photo

以上。大略、価八文鮓なり。その中、玉子巻は十六文ばかりなり。これに添ふるに新生薑(しんしょうが)の酢漬、姫蓼(ひめたで)等なり。また隔て等には熊笹を用ひ、また鮓折詰などには下図のごとく熊笹を斬りて、これを置き飾りとす。(略)

 江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり。鮓屋、名あるは屋体見世を置かず、普通の見世は専らこれを置く。また屋たいみせのみにて売るも多し。江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓と云ふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す。

東両国元町与兵衛鮓。

へつつい川岸毛抜鮓は、一六文にて各々笹巻にす。巻きて後、桶に積み、石をもつてこれを圧す。

深川横櫓小松鮓。(『近世風俗志五(守貞謾稿)』P岩波文庫107~P110参照)

 江戸時代の貨幣価値は、年代によって大差があるようだが、ここは1文=10円として、当時の「握りすし(鮓)」は、おおむね8文(約80円)。ただしタマゴ焼きは高価で16文(約160円)といったところだ。だから庶民がちょいとつまむには手頃であったし、その1個(1貫)の大きさも現代の倍という話もあり、2、3個で事足りた。ガリ(生姜)もある。「姫蓼(ひめたで)」は花をつける植物だが、食用であったらしい。

 鮨詰の折箱には、「熊笹」を仕切りに使っていた。これもうなづける。江戸市中には、寿司屋が多く、1町(約3,000坪)に1、2軒あったようだ。屋台の店が非常に多かったが、当時から店舗を構える有名店もあった。

○松の鮓(すし)〔松が鮨・松の鮨・松鮨〕 

本所阿武蔵(深川安宅六軒堀:現在の東京都江東区新大橋)に、文政13年(1830)開店。歌川国芳の錦絵『縞揃女弁慶 松の鮨』では握り寿司が描かれている。天保年間には、浅草第六天前(現在の東京都台東区蔵前3丁目榊神社前)に移転。呉服橋(現在の東京都中央区八重洲1丁目)に支店を出した、とある。握り寿司の元祖との説もある。

06_2_ph

○与兵衛鮓〔華屋〕※外食チェーンと同名だがまったく無関係

文政7年(1824)頃、東両国の回向院前に「華屋与兵衛(はなやよへい)」が開業したとされる。与兵衛が握り寿司の創業者であるとの説もある。江戸時代の狂歌にもこの店の繁盛ぶりをうたったものがある。(『武総両岸図抄』)

 こみあひて待ちくたびれる与兵衛鮨 客ももろてを握りたりけり

○毛抜鮓〔笹巻けぬきすし〕

こちらは「握り」ではなく、「押しすし」の系統で、元禄15年(1702)、現在の東京都中央区日本橋富沢町、竃(へっつい)河岸で創業。『守貞謾稿』に調理方法が記載されているが、すしダネを酢飯にのせて笹で巻き、桶(おけ)に入れて上から重しの石を置くとある。仕込みの段階で、「毛抜き」を使い、魚の小骨を丁ねいに抜いてたことから「毛抜すし」と呼ばれたわけである。熊笹には、殺菌作用があることが知られているが、保存食にもなったようだ。材料には、鯛・コハダ・アジ・サヨリなどの旬の魚やたまご・海老・おぼろなどが使われた。驚くべきことに、このお店は、現在でも東京都千代田区神田小川町2丁目に《笹巻けぬきすし総本店》として、300年続く「江戸の味」を守っているそうだ。

※残念ながら、『守貞謾稿』で紹介された深川横櫓小松鮓(ふかがわ・よこやぐら・こまつすし)については、調べがつかなかった。Img_edited

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

ご近所散歩 ちょいと浅草《久米平内堂(くめのへいないどう)》

雷門から一直線に続く仲見世を抜けると、宝蔵門(仁王門)。正面は観音様の本堂である。宝蔵門の手前右手に、浅草寺境内の縁結びの神として知られる久米平内堂がある。

「浅草うまいもの会」さんが緑の“のぼり”を立てているので、すぐ目につく。元来、良縁を望む若い娘さんが、想いを込めた手紙を、この堂にある木々に結びつけたのが始まりだが、いまは絵馬を奉納すると願いがかなうといわれている。

 《久米平内(くめのへいない)》は、江戸時代前期の伝説の武士であった。天和三年(1683)に亡くなった。本名を兵藤長守、通称を平内兵衛という。九州出身の浪人で、江戸赤坂に住み。剣術に秀でており千人斬りを志し、多くの人をあやめてきた。晩年、悔い改め、その供養のため、禅宗・鈴木正三(すずきしようさん)の門に入り、二王禅の法を修めた。また罪のつぐないのため、自分の石像を刻んで、人通りの多い浅草寺仁王門(現宝蔵門)外に置き、通行人に踏み付けさせたという。

Photo_2 Vfsh0147 

踏み付けが「文付」となり、願掛けの文を奉納する者が多くなり、縁結びも神とされ、平内堂にまつられた。(参考:広辞苑、「浅草寺 今むかし」金龍山浅草寺刊)

今でも縁結びの御利益を求めて、この久米平内堂を訪れる人は多い。まさに浅草寺境内は、観音様の広いご慈悲の心のためか、実に多くの神や仏など、民間信仰の祠(ほこら)やお堂がある。「神仏のデパート」といあわれる由縁だが、時間があればゆっくり散歩をしてみていただきたい。

Vfsh0148 (※写真:たろべえ撮影、カット:江戸名所図会)

Vfsh0146

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

浅草・伝法院通りで《ねずみ小僧》を見た!!

 浅草を散歩していたら、《ねずみ小僧》(鼠小僧)の人相書きを発見。伝法院通りにある「やまとみ呉服屋」店先に指名手配の高札があった。しばらく行くと、今度は角の今昔着物店「胡蝶(こちょう)」の屋根に、なんと千両箱をかついだ《ねずみ小僧》がいた。あたりは騒然としている。通行人が大騒ぎする中で、ねずみは右手を挙げ、ポーズをとる余裕である。さすがに人気者だ。

145 144

Photo  ねずみは《鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう じろきち》という。寛政九年(1797)生まれ、建具職人の後、鳶(とび)職になったという。江戸の大名屋敷や悪徳商人の屋敷を専門に荒らし、人を傷つけることなく盗んだ大金を貧しい人や長屋に投げ込んだという「うわさ」の義賊(ぎぞく)である。実在の人物だが、実際には、庶民がつくり出したキャラクターが、講談や歌舞伎に芝居そして現代では映画、小説などを通じて出来上がったスターだろうと思う。

 両国の回向院(えこういん)には、しかし本当に《ねずみ小僧》の墓がある。先日、墓参りに行ってきた。戒名は『教覚速善居士』、俗名は「中村次良吉」。天保三年(1832)、日本橋浜町で捕まり、江戸市中引き廻しのうえ、鈴が森で処刑され、さらし首になった。

史実からすると、盗んだ大金は、博打(ばくち)や酒と女性につぎ込んだらしい。

 《ねずみ小僧》の墓石を削り、身に着けていれば、“難関をするりと抜ける”といった意味から、受験生の合格祈願や賭け事のお守りとして、ご利益があるという。そのため、回向院境内の本来の墓石の前には、「削り用」の小さな石が建っている。

(写真:たろべえ撮影)

■やまとみ呉服店 東京都台東区浅草1-37-8 TEL:03(3845)5291

■リサイクル着物・胡蝶 東京都台東区浅草1-39-11 TEL03(3843)7606

■回向院 東京都墨田区両国2-8-10 TEL03(3634)7776

JR総武線・都営地下鉄大江戸線「両国駅」から徒歩5分

138

137 

| | コメント (4) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧