カテゴリー「文化・芸術」の74件の記事

《善光寺出開帳》両国の回向院で

 善光寺の出開帳が、両国の回向院で開催される。いってみれば「善光寺」の仏さまの東京出張である。江戸時代に4回、明治時代と昭和初期に各1回しか開かれていない。実に73年ぶり。東日本大震災の被災地を支援するため、長野・善光寺の仏像を公開する。

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 江戸時代の安永七年(1778)には60日間の開帳に、1603万人が参詣したそうだ。その頃の「善光寺如来御開帳之図」が残っている。(墨田区提供)

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 此度、江戸ゑかうゐん(回向院)ニおいて、六十日のあいだ御かいてう(開帳)有、わざわざしんしう(信州)までさんけい(参詣)の人々もあるなかに、如来の御方よりけちゑん(結縁)にあ(会)いたてまつ(奉)るといふハ、まことにありがたきこと(事)なり。まい(参)るべし。しん(信)ずべし。

 わざわざ信州へ行かなくても、如来の方から縁を結びにきてくれるのでおまいりすべきである。信じるべきである。なるほど!

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《貴婦人と一角獣》

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 国立新美術館で《貴婦人と一角獣》展が開催されている。絵画ではなく「タピスリー」といって室内装飾用の織物で壁掛けなどのこと。英語では「タペストリーtapissery」といい、フランス語ではタピスリー(tapisserie)という。

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 フランスを出るのが約40年ぶりとのことで、珍しい。しかも全部で6点も出品されているようだ。《貴婦人と一角獣》は、The Lady and the Unicornである。500年以上も前に制作されたようだ。時間があれば、ぜひ見たいものだ。

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アールヌーヴォー《ミュシャ》

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 チェコスロバキアのグラフィックデザイナー、アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha18601939)の展覧会が開かれている。花や宝石の中の女性を描いたミュシャの作品は、実にシュールだ。

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 没後174年も経つのに、古さを感じないのはなぜだろう。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その15】最終回

◆日本橋北橋詰

 魚河岸が近く、群衆でごった返している様子。

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 徳川家康の関東入国の後、上方の摂津から漁師が佃島に移り住み、幕府の膳所に供するために漁業を営んだ。その後、毎日上納する鮮魚の残り分を、舟板の上で並べ、日本橋のたもとで売るようになった。これが魚河岸(魚市場)と呼ばれた。日本橋魚河岸の始まりといわれる。

 この日本橋魚河岸は、関東大震災で壊滅して現在の築地に移転されるまで、300年以上にわたって、日本橋北詰の江戸橋との間、本船町から本小田原町にかけての一帯にあった。江戸から東京の台所として、活気にあふれていたわけだ。

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 いまのように冷蔵・冷凍技術のない時代、鮮度の落ちやすい魚をどう扱ったのか。これは素朴にして最大の疑問である。

たとえば、房総沖でとれたサンマは、その場で軽く塩を振って、すぐに高速船に積み込み、日本橋の魚市場へ運んだ。そして早朝を目安に陸揚げされた。

1日波に揺られている間に、塩かげんがほどよくなじみ、天下一品の淡塩(あわしお)サンマになったという。江戸っ子は、これを「ハンジヨ(半塩)」と呼び、焼いて食べていた。「半塩」は、淡塩がほどよくなじんだサンマのことで、脂がのった最高の味加減で食べていたことになる。

 また鮮度を保つために、江戸時代の日本橋周辺では養殖も盛んであり、鯛・平目・海老の生け簀が多くあったそうだ。

 生の魚を遠方から運ぶために、帆走高速船がつくられた。「押送船(おしおくりぶね)」である。漕走併用の小型の高速船で、江戸周辺の伊豆、相模、房総などで漁獲された鮮魚類を江戸へ輸送するために使用された。

 高速航行を行うために、細長い船体と鋭くとがった船首を持つのが特徴。文化十年(1813)の史料では、全長385寸(11.7m)・幅82寸(2.5m)・深さ3尺(0.9m)の船体で、3本の着脱式のマストと7丁の櫓を備えていたそうだ。また、一般の帆走船では艪を使用するのは無風時に限られるのに対し、押送船では、帆のほか常に櫓も使って漕走した。船体の片方に4人ずつ、計8人で力を合わせて櫓を漕いだ。

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(広重 押送船)

 押送船は東京湾などを航行する海船であるが、積荷を魚問屋へ陸揚げするために、江戸市中の河岸までも進入するので、法的には川船役所の監督下に置かれた。他方、積荷の鮮度を保つために、江戸へ入る船舶を監視する浦賀番所で検査を受けずに通航できる特権が与えられていた。

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(日本橋に到着後、魚を荷揚げする押送船、『熈代勝覧』より)

 ところでこの船のスピードだが、約100kmの距離を最短8時間で運んだとされる。平均時速は12.5kmとなり、現在の船の速度単位では8ノット弱ということになる。和船としては速い。当時江戸小田原間は一泊二日の行程であり、房総半島南部にある館山日本橋間なら三泊四日の行程とされていたが、この船は1昼夜である。

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(魚売りの棒手振り 『熈代勝覧』より)

 鮮魚が日本橋の魚河岸に水揚げされ、新鮮な魚を客に届けるために活躍したのは、「棒手振り」と呼ばれる魚の行商人たちだった。朝早く魚河岸に出向き、仲買人から水揚げされたばかりの鮮魚を仕入れる。魚は水を張った平たい桶(盤台:ばんだい、たらい)に入れ、天秤棒で担いで町に駆け出して行く。日頃の得意先回りで、朝仕入れた新鮮な魚をなんとかお昼までに売り切る。鯉、どじょうなどの川魚や蛤、あさり、しじみなどの貝類は、生きたまま運んで売る棒手振りがいた。ちなみに固定店舗の「魚屋」では、鮮魚ではなく干物や塩漬の魚が売られた。これが江戸の魚介類の流通形態である。

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 さて、江戸時代にはどんな魚が獲れたのだろうか。

江戸前の魚介類では、キス・サヨリ・ギンポウ・アジ・コチ・スズキ・ボラ・シラウオ・コハダ(コノシロ)・アナゴ・シャコアカガイ・ミルガイ・アオヤギ・トリガイ・ハマグリなど。相模灘や銚子沖ではタイ・サバ・ブリ・イワシなど。浅草・佃島・深川・品川ではウナギも獲れた。

 そういえば、江戸時代の「初物買い」の話がおもしろい。鰹(かつお)の話題である。

初鰹を食べることが、どんなに嬉しいことであるかがわかる。(略)鰹は「勝魚」に通ずると、武士は大いに賞味したという。門出の祝い肴や贈答品として価値のある魚であった。旧暦四月(現在の五月)ともなると、黒潮にのって伊豆沖でとれたものが小田原や鎌倉などに水揚げされて、馬による陸路または船による海路で江戸に送られてくる。

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(日本橋界隈での鰹売り)

 将軍家への献上分が除かれて、残りを競うようにせり落とし、料理屋や豪商が持っていき、その残りは威勢のよい魚売りがまな板と包丁をかかえて、市中に飛び出して行く。そして庶民も大枚をはたいて粋な心意気を示すためにも鰹を買い、からし、醤油で舌鼓をうったのである。

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(日本橋界隈、鰹を調理してくれる魚売り)

 1812(文化九年)三月二十五日に入荷した17本の初鰹に、1本二両一分から三両という値がついたという話は有名である。うち六本は将軍家へ、八本は魚屋が仕入れ、三本を料理屋として名を馳せた八百善が買った。そして魚屋から一本を役者の中村歌右衛門が三両(現在の10万円ほど)で買ったという。江戸のグルメの一端をみる話である。(引用:『江戸のファーストフード』大久保洋子著、講談社)

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(鰹の刺身 4月勝浦産 いさりびで)

 「鰹」の旬は二回ある。4月から8月の初夏に、黒潮にのって三陸沖まで北上するものを「初鰹」、「のぼり鰹」と呼ぶ。さらに夏から秋にかけて10月から11月頃、南下するものを「戻り鰹」、「くだり鰹」という。後者の鰹の方が、脂がのっていてうまいが、初鰹も脂こそ少ないがねっちりした食感がよい。“目に青葉 山ほととぎす 初鰹”といわれるように、季節を運んで来る魚として、とくに「初鰹」は江戸時代には人気があった。現在、国内での鰹の漁獲量は、気仙沼(宮城)・勝浦(千葉)・石巻(宮城)がベスト3である。

 もうひとつ、おもしろいのが江戸時代の魚介類のランク付けである。江戸時代の料理書の中で、魚介類の格付けをした最も詳細な記載のあるのが「黒白精味集(こくびゃくせいみしゅう)(宝暦14年または明和元年、1746)だ。上中下の魚を3例ずつ記している。どうやら魚の格付けは重視されていたらしい。

                 中        下

アカガイ・シラウオ アイナメ  イワシ

アマダイ・スズキ  アサリ   カド(ニシン)

アユ・タイ      アジ   カニ

アワビ・タラ     アラ   クジラ

アンコウ・フナ   イカ    コノシロ

イセエビ・マス   イシモチ  サバ

カキ         ウナギ   サメ

カレイ        カツオ   シマアジ

キス         サザエ   ドジョウ

クルマエビ      タコ    ハゼ

コイ         タニシ   フグ

サケ         ナマリ   ブリ

サヨリ        ハマグリ  マグロ  

サワラ        ヒラメ   ムツ

シジミ        ボラ  

 よく知られているが、江戸時代には「マグロ」は下位にランクされていた。収穫量が多く、マグロの俗称が「シビ」であり、「死」を連想させるため、忌み嫌われていたようだ。赤貝、白魚、アマダイ、スズキ、鮎、鯛などが上位なのは、若干現代とは違うように思う。

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 さて『熈代勝覧』に描かれた魚売り。初夏の風物詩である鰹が多いが、赤い鯛も見える。ひらめのような平たい魚も売っているようだ。春から初夏の魚が混在して描かれているのも興味深い点である。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その14】

◆室町一丁目(さらに続き)

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●小間物問屋(日光屋七郎兵衛) 

 ここも黒塗り土蔵造である。屋根から下がる黒地に白文字の看板には「痎(咳)一通請合(せきの妙薬)」と読める。薬も扱う小間物問屋だが、店の中には黒い陣笠も見える。はたして小道具も扱っていたのか。

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 『江戸買物独案内』に、室町一丁目、小間物問屋として「日光屋七郎兵衛」の広告がある。横棒三本、中央に丸の独特の商標(商号)である。

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●八百屋

 店の前には「室町一丁目」と書かれた防水桶が置かれている。店内には木箱に入った野菜が何種類か置かれている。

 

野菜は収穫の時期が決まっていて、旬のものを食べていたわけだが、江戸時代でも賢い人がいるもので、一部では促成栽培される野菜もあった。当然、本来出回らない季節に、野菜を売れば、高く売れる。天保十三年(1842)には、そんな促成栽培を禁止するお触れが出ているのがおもしろい。

 

 その季節にならないうちに売り買いしてはならない。近頃、初物を好む傾向がエスカレートし、ことさら料理屋、茶屋などでは競い合ってそんな促成栽培の野菜を仕入れて客に高く提供する。たとえば、きゅうり、茄子、いんげん、ささげやもやしなどだ。部屋の中で炭火を焚き、暖かくして野菜を速く育てて売っている。この種の不埒(ふらち)な行為を禁止する。(参考:『江戸のファーストフード』大久保洋子著、講談社)

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●酒問屋(亀田屋)

 店の中には酒樽が3個見える。左から九曜紋、山印、山一印の樽である。このうち「九曜紋」は伊丹の酒造であろう。「山印」は、上方大坂は池田の大和屋庄左衛門の銘酒・山印だろうか。いずれも人気の酒である。

 

 上方で生産され、大消費地江戸へ輸送され消費されるものを総じて下りものという。「下り酒」も下りものの典型的な商品であった。上方でも 摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)という地域の酒蔵で、造られる酒は味も品質も良く、江戸でも定評があった。

 ちなみに摂泉十二郷は、摂津国の中で酒蔵の集中していた上方の十一の地域、すなわち大坂・伝法・北在・池田・伊丹・尼崎・西宮・今津・兵庫・上灘・下灘に、和泉国の堺を加えたもの。まだまだ関東近郊の酒は、上方にはかなわなかったようだ。やはり上方の酒の品質がよかったわけだ。元文五年(1740)には、伊丹酒の『剣菱酒造』が将軍の御膳酒に指定されていることからもわかる。

 江戸時代は樽にお酒を入れて運搬し、はかり売りをしていた。杉の四斗樽(72リットル入り)が運搬・販売容器の主流であった。上方でつくられた上質の酒は、大型船「弁才船(べさいせん)」により約600kmの海路を運ばれた。

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●八百屋・乾物屋(叶屋)

 黒塗りの屋造である。店の横から店内がのぞける。

 

 さて江戸の食は、地産地消がこの時代の基本である。野菜は「四里四方」といわれ、およそ8kmから16km圏内でとれた野菜を食べていた。

「寺島茄子」の墨田区寺島は、日本橋から6.6km、「小松菜」の江戸川区小松川は約8km。「滝野川ごぼう」の北区滝野川は8.8km、「練馬大根」の(練馬区)練馬は約13kmで、「井荻うど」の杉並区井荻で日本橋から17kmである。いずれも早朝に江戸へ運べば、その日のうちに売り切ることができた。

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 ところで大通りには、野菜の行商、青物売りの姿が多い。近くの神田市場で仕入れたものや近在の農家から出向いてきた者もいたらしい。絵によれば、おそらく大根、にんじん、筍(タケノコ)、ごぼう、里芋、ねぎなどの野菜が売られているようである。

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 しかし厳密に考えると、野菜の季節が合わない。《熈代勝覧》に描かれた「十軒店の雛人形市」は2月の終りから3月上旬である。この時期、大根は出回っているが、にんじんはない。筍も45月が旬であるし、里芋は夏から冬場、ねぎも冬である。たぶん《熈代勝覧》は、特定の時期ではなく、春先から初夏あたりの季節が混在している。(これは後述するが、鰹がたくさん描かれ、日本橋の河口で水遊びをするこどもの姿も描写されていることからも明らかである)

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その13】

◆室町一丁目(続き)

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●塗物問屋(伊勢屋利助)

 黒塗土蔵造の店舗。店内では店の主人が算盤をはさんで客におじきをしているようだ。

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 『江戸買物独案内』に、室町一丁目、塗物問屋として「伊勢屋利助」の広告がある。

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●味噌問屋(太田屋)

 店の中には味噌の樽が、いくつか見える。店先の大きな板看板は「上赤味噌大安売り 太田屋」読める。

 屋根には黒い木枠で固定された二つの甕(かめ)が見える。味噌甕らしい。店の前では、味噌の積荷だろうか、大きな荷を馬の背から降ろしている様子。

 

 徳川家康の命を受け、江戸初期から中期に誕生したのが「江戸甘味噌」である。米麹をたっぷり使う一方、塩分は少なめの香りが芳醇な赤味噌。将軍家の出身地・三河「八丁味噌」の旨みと、京都「白味噌」の上品さを兼ね備えた味噌として開発された。通常の辛口味噌の塩分が、12%前後なのに対し、江戸甘味噌は6%程度と半分に抑えられ、この低塩分から、特有のしっとりとした柔らかな舌ざわりが生まれるそうだ。

 この味噌が持つ本来の甘みやうまみが、素材の味を引き立てるだけではなく、江戸甘味噌に多く含まれる糀が、肉や魚の臭みを押さえる働きをし、塩分が少なく通常の味噌より沢山の量を使えるため、料理が「こく」のある深い味わいに仕上がるという。どじょう汁、鯉こく、かきの土手、鍋煮込み料理、鯖の味噌煮、田楽味噌などに最適である。

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●八百屋・乾物屋

 店先で腰掛けたご隠居が、店番をしている様子だ。土間には、木箱に入れた野菜が何種類か、並んでいる。奥には引き出しがいくつも見える。のれんには、八百屋のほか、「かんふつ(乾物)」の文字も読める。

 

 ところで江戸時代にもブランド野菜があった。いまの東京23区内の産地直送野菜である。

 

駒込ナス(文京区)、亀戸大根(江東区)、寺島ナス(墨田区)、谷中ショウガ(荒川区)、三河島菜と枝豆(荒川区)、小松菜(江戸川区)、葛西蓮根(江戸川区)、足立の水ゼリ(足立区)、足立の夏菊(足立区)、金町コカブ(葛飾区)、千住ネギ(葛飾区)、下千葉小カブと糸ミツバ(葛飾区)、中野甘藍(葛飾区)、本田ウリ(葛飾区)、雑司ヶ谷ナス(豊島区)、滝野川ニンジンとゴボウ(北区)、東京大越ウリ(中野区)、クリの豊多摩早生(杉並区)、井荻ウド(杉並区)、高井戸節成キュウリ(杉並区)、陸稲の藤蔵糯(世田谷区)、居留木橋カボチャ(品川区)、品川ネギとカブ(品川区)など。

(参考:「江戸・東京の農業」JA東京中央会)

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●紙問屋(越前屋)

 店の中には紙が積まれている。どうやら人の姿は見えない。

 江戸時代になると、紙の需要は急増した。公家や僧侶、武士たちの記録などに使い道が限られていた紙が、江戸時代の中心・町人たちによって、飛躍的に消費された。とくに出版文化の発展は、紙の需要を大きく伸ばすことになる。浮世草紙が 元禄年間に隆盛をきわめ、 洒落本、人情本、滑稽本、談義本、黄表紙などが流行し、京都に始まった出版業は江戸、大坂へと移り、さらに発展し、紙の需要を拡大させていった。また、庶民の生活様式の変化もある。障子紙、ふすま紙をはじめ、鼻紙やちり紙までもが生活必需品になっていった。

 

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●小道具問屋(伊勢屋)

 町を歩けば「伊勢屋」である。2階の屋根から下がる看板が二つ。「平生 産前 清婦湯」と「神仙巨勝子圓」とある。向かって右側の屋根から下がる算盤型の看板。左側には兜と陣笠の絵が描かれた看板である。小道具を扱い、薬種も扱っていたようだ。

 「清婦湯」は、産前産後はもちろん、通常でも婦人特有の血の道に効果がある薬である。血行を良くし、自律神経を安定させ、新陳代謝を旺盛にする。女性特有の症状であるヒステリー、生理不順、頭痛、のぼせ、めまい、耳鳴り、冷え性、産前産後におこる病気などを改善するという。

 

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 「神仙巨勝子圓 」は、大阪日本橋堺筋北三丁目の若林宗哲(御薬調合所)の家伝の薬で、江戸では市ヶ谷田町一丁目の大阪屋彦兵衛が販売している。(『江戸買物独案内』)

 ごまをハチミツで固めて丸薬にしたものを「巨勝子丸」と呼ぶ。つまり食用にされているゴマの乾燥したもの。虚弱体質や高齢者・病後・腸燥便秘に効く。詳しくわからないが、精力をつけ、万病に効く長寿の薬という説もある。別名を益壽丹という。

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●結納品問屋(万屋)

 店の中には、スルメ、昆布、二匹の鯛(双鯛)、鰹節、酒樽に白木の三方が見える。屋根には、「御結納へんきん(現金)安うり(安売り)室町万屋」の大きな看板。この看板には「結納屋」のシンボル、赤い双鯛の絵が見える。

 

 江戸時代になり、裕福な大店などの商家で結納や結婚式の儀式がおこなわれるようになった。庶民の間に結納の儀が普及するのは、明治時代以降である。

 結納の品には、この万屋(よろずや)の店にもあるように各種の縁起物がある。(地域によって一部異なるが、代表的なものを挙げる)

 

・長熨斗(ながのし):のしアワビ。元来はアワビをたたいて伸ばした(のした)もので、長寿をイメージし、おめでたい贈り物の象徴である。海産物の中でも最高級の品。

・勝男節(武士)(かつおぶし):鰹節。男性の力強さをイメージしている。実際に魚を贈ることもあった。

・寿留女(するめ):スルメ。末永く幸せを願うため。

・子生婦(こんぶ):昆布。子孫繁栄を表す。

・友白髪(ともしらが):白い麻繊維。白髪になるまで夫婦仲良くという謂れ。

・末広または寿恵廣(すえひろ):本来は男持ちの白扇と女持ちの金銀扇子の一対。省略されて白い扇子一本の場合もあった。末広がりの繁栄を願う。

・家内喜多留(やなぎだる):酒樽。(実際に樽酒を贈っていた)家内に喜びが多くとどまるという家庭円満をイメージ。(酒肴を振る舞う代わりに出すご祝儀金である)酒料の場合もある。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その12】

◆室町一丁目

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●蒲鉾屋

大きく開いた店内では、三名の職人さんが「かまぼこ」作りに没頭している。やはり日本橋、河岸に近く新鮮な材料も手に入る。当時は冷蔵技術や保存料などはなかったから、すぐ売らなければならない。

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 材料はサメ類、スケソウダラ、タラ、イトヨリ、タラなど白身魚。白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走だった。贈答品としても用いられ、おせち料理にも利用される。なお、かまぼこが商品として販売されるようになったのは江戸時代以降とされる。

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 いまでも日本橋にあるのが、元禄元年(1688)、日本橋で創業した神崎屋。現在は蒲鉾と半ぺんの名店「神茂(かんも)」(東京都中央区日本橋室町1-11-8)である。実に365年、江戸の味を伝えている。

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●下り雪踏・下り傘・小間物諸色問屋(嶋屋)

 黒塗りの土蔵造。店先の大きな日除けのれんには、商標があり「せつた 傘品々:の文字。上方の雪踏や傘を扱っていたようである。また「諸色問屋」とは米、油、綿を扱う問屋である。屋根から下がる看板には「仙方宗傅 痰妙薬」とある。痰(たん)の薬も扱っていたようだ。

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●薬種問屋(西村屋)

 屋根から下がる黒地に白字の看板には「粒甲丹」の看板。どうやら眠り薬、睡眠薬らしい。

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●小道具問屋・下り傘・下り雪踏・草履問屋(松田屋)

 黒塗り土蔵造の店舗。のれんには、「枩田(松田) まつた」とあるので松田屋。店の中には、馬の鞍(馬具)や弓、陣笠なども見える。

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 しかし、『江戸買物独案内』には、室町一丁目にこの店の商標である大きな四角に大、下に横棒のマークと同じ店がある。店名は「遠州屋圓蔵」で、下傘問屋である。

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●小道具問屋(高嶋屋)

 黒塗り土蔵造で隣の松田屋と同じ建物である。下げ看板は、「兜陣笠」の絵らしい。

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小道具問屋(伊勢屋)

 店内には、道具らしきものが見える。小道具問屋の並ぶ一帯でもある。

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●菓子屋(常陸屋)

 店の中で売っているのは、和菓子、餅菓子のようだ。大福もありそうである。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その11】

 文化二年(1805)頃の日本橋絵巻《熈代勝覧(きだいしょうらん)》の世界である。

 

◆品川町通り

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●八百屋

店先には長ネギや大根、里イモだろうか、何種類か野菜が並ぶ。大通りに面する間口は狭いが、横丁の品川通り沿い側の奥行があるようだ。

 

 江戸時代には、野菜は「青物(あおもの)」と呼ばれていた。『守貞謾稿』(1853)には、瓜や茄子など一、二種だけを売り歩く者を江戸では「前菜売り(ぜんさいうり)」と呼び、数種を売る者を八百屋と呼ぶとある。(参考:松下幸子、『江戸食文化紀行』№55「江戸の野菜」)

 

 当時の野菜は、大根、かぶ、茄子、菜っぱ類が主であったようだ。江戸市中に出回っていた青物を季節ごとに並べてみると、つぎのようになる。

 

春)

正月:山の芋、うど、なずな、生椎茸

二月:蓮根、三つ葉、せり、木の芽、生姜、みょうが、春菊

三月:ふき、新ごぼう、わらび、あさつき、わけぎ、いんげん、筍(たけのこ)

 

夏)

四月:きゅうり、そらまめ、自然薯、糸三つ葉、初茄子、青ずいき

五月:茄子、白瓜、ささげ、いんげん豆、枇杷

六月:まくわ瓜、西瓜、桃、生姜、糸瓜(へちま)

 

秋)

七月:ずいき、なた豆、秋桃、唐唐子、冬瓜、長茄子、唐茄子

八月:枝豆、葉しょうが、秋茄子、しそ、初茸、松茸、梨、柿、葡萄

九月:大根、さつま芋、栗、美濃柿、八つ頭芋、しその実

 

冬)

十月:ねぎ、沢庵用干し大根、根せり、焼き芋

十一月:ほうれん草、切干大根、かんぴょう、かぶ菜、漬け菜

十二月:つくし、よめ菜、水菜、もやし三つ葉、紀州みかん

(『実見 江戸の暮らし』石川英輔、講談社文庫より)

 

 以上、季節が現代と若干ずれているのは、旧暦だからである。いまのように年中同じようにすべての野菜があるわけではなく、きっちりした旬があるのがわかる。それにしても、キャベツやじゃがいも、トマト、たまねぎもない。白菜もなかった。

 

 ちなみに「キャベツ」は、「紅夷菘(おらんだな)」と呼ばれ江戸時代に日本へ伝わったが、いまのような丸いキャベツの栽培は、明治時代。

 

「じゃがいも」は、江戸時代初期にオランダ船により長崎に渡来したが、明治時代後期に北海道で本格的に栽培されるようになった。

 

「トマト」も江戸時代に日本へ渡ったが、はじめは観賞用。食用としての栽培は、明治以降で、一般家庭に普及したのは、第二次世界大戦後である。

 

「たまねぎ」も江戸時代に長崎に伝わったが、本格的な栽培は明治以降である。

 

「白菜」が日本に渡来したのは、江戸末期。しかし球状で栽培されるようになったのは、大正時代から昭和のはじめ頃からである。

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●笠屋(万屋)

 店の中に笠が積まれているのが見える。

●(伊勢屋)

屋号の伊勢屋は読めるが、商売内容はわからない。店の戸をあけて女性が通りを眺めている様子。

●紙屋(屋号は不明)

店の中には、紙類が積まれているようだ。

●仕立屋(屋号は不明)

着物の仕立てであろう。

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その10】

◆室町二丁目続き

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紺のれんの木屋が4軒続く。木屋本店(本家)は普請中(建て直し中)である。

木屋本店の初代・林九兵衛は、当初大坂(大阪)で豊臣家の御用商人を務める、薬種商であった。その後、徳川家康に招かれ、当主の弟が江戸へ下り、本町二丁目に店を開いた。大阪の店と分かれたため、姓の林を二つに分けて木屋を名乗った。江戸での創業は、天正元年(1571)。明暦の大火(1657)後に、室町一丁目に移り、将軍家をはじめ諸大名家に出入りして繁盛し、のれんを分けた店々など数店舗が並び「(日本橋)室町に花咲く木屋の紺のれん」とうたわれた。当時は、打刃物木屋、三味線木屋、化粧品木屋、文房具木屋、象牙木屋などがあったそうだ。(参考:日本橋木屋「木屋の歴史」)

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●小間物問屋・打物(打刃物)問屋(木屋伊助) 

 店の中には「火打石品々 水戸石」の看板が読める。この木屋伊助は、寛政四年(1792)に奉公先の本家・木屋九兵衛からのれん分けし独立したと伝わる。実は、現在でも刃物の名店「日本橋木屋」として営業中である。井桁の中に木の商標は、現在も変わっていない。

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(江戸時代の商標)井桁に木

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(日本橋木屋 現代の商標)

 火打石は生活必需品。材料は石英、メノウ、玉髄、黒曜石、チャートなどで、鋼鉄と打ち付け合って火花を飛ばした。江戸時代、江戸で人気があった石は、見た目が白くてきれいな「水戸火打石」(水戸石)であったそうだ。現在の茨城県の「奥久慈」地方(県北部久慈川の上流地帯、福島県・栃木県との県境)が産地のメノウ(瑪瑙)である。

 なお、上方での火打石は、京都・鞍馬山近辺のチャートが人気であった。そのほか、水晶の産地で有名は甲州一円も産地。仙台・伊達家御用達の産地は、宮床近辺だった。

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(小間物問屋 木屋伊助)

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(打物問屋 木屋伊助)

 『江戸買物独案内』(文化七年1824)には、井桁の中に木の商標のほか、本家と同じ丸に木の商標を示す打物問屋としても紹介されている。この2通りの商標の使い分けについては、現日本橋木屋の説明を引用する。

 本家木屋には「暖簾分けは許すが、本家と同じ商品を扱うことは許されない」と言う しきたりがあり、その為打刃物を扱うようになったと言われていますが、文政七年(一八二四)刊行の 「江戸買物独案内」現在の買物ガイドブックには小間物問屋と打物(打刃物)問屋と二つの木屋伊助の広告が載っています。本店の商号は丸に木の印ですから、本店と同じ小間物については遠慮して井桁に木の印を用い、本家の扱わない刃物については本店と同じ丸に木の印を使ったものと思われます。

(日本橋木屋「木屋の歴史」より)

 

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●小道具問屋(木屋久右衛門)

 店先の屋根から下がる看板には、「兜(かぶと)と陣笠」の絵が描かれ、「陣笠 かぶと卸」と読める。店の中には、笠や黒い陣笠、そしてシュロの箒(ほうき)が見える。

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(木屋久右衛門の商標)

『稀代照覧』では山に木、『江戸買物独案内』では丸に久と小丸。

この商標の違いについての理由はわからない。

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(木屋久右衛門 小間物問屋)

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●算盤問屋・草履問屋?(木屋市兵衛)

 店の中の様子がわかる。客と算盤片手に商いをする主人の姿か。店内には陣笠や笠らしき商品も見える。向かって右に算盤型の看板が架かかっている。算盤問屋らしいが・・・。

『江戸買物独案内』(文化七年1824)では、「草履問屋」となっているが、この絵(『稀代照覧』)が文化二年(1805)頃の作とすると、まだ草履の商いをはじめていなかったのかもしれない。

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(木屋市兵衛の商標)

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(木屋市兵衛 草履問屋)

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●塗物・下り蝋燭・小間物問屋(木屋九兵衛幸七)木屋本店※普請中

 絵にあるように建て替え中である。

普請之内 蔵ニ而商売仕候 木屋幸七」“普請の内、蔵にて商売仕(つか)まつり候(そうろう)”の札を掲げている。意味は、「工事中ですが、裏の蔵で商売をしています」である。なかなかの商魂である。ほかの木屋と比べても、裏に蔵を所有する大店であったことがわかる。

 

 『江戸買物独案内』では塗物問屋ならびに下り蝋燭問屋と紹介されている。また(昭和の)戦前まで、木屋林九兵衛商店として、同所で「塗物・漆器専門店」を営んでいたことが知られている。

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(木屋九兵衛幸七 鳶職人)

 絵では、地固め(地形、ヨイトマケ作業)のために、重い槌(柱)を数人で上げ下げする様子である。木屋本店出入りの10名の鳶職。背中を向けている鳶の着物(はっぴ)の背中に、丸に木の字の木屋本店の商標がある。大八車で運んだたくさんの基礎石が見える。さすがに本店の建て替えである。

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(木屋九兵衛の商標)

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(木屋九兵衛 塗物問屋)

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(木屋九兵衛 下り蝋燭問屋)

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《熈代勝覧》江戸時代、日本橋の店舗模様【その9】

◆室町二丁目

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●墨筆硯問屋(中村屋忠兵衛)

 店の前の建て看板には、硯の絵があり、「中村 忠兵衛」とある。またこの看板の下に筆の絵が描かれている。荷下ろしを終えた馬と馬子がいる。

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●上絵師

 冠婚葬祭の和装式服・七五三・宮参りの初着などに、家紋を手描きにより描きあげることを「上絵」といい、その技術者を「紋章上絵師」という。白い障子には、家紋と共に「上絵」と「うハゑ」の文字が読める。

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●書物問屋(須原屋市兵衛)

 店の前には、どーんと箱看板が置かれている。「書肆 須原屋 市兵衛」、「本屋」と書かれている。のれんのところに広告札が掛かっていて「御絵そうし(絵草紙)」、「狂哥(狂歌)集」、「南郭先生詩文集」とある。

 

 南郭先生は、服部南郭(はっとりなんかく)で江戸時代中期の日本の儒者・漢詩人・画家である。荻生徂徠の高弟であった。

 

 須原屋市兵衛は、江戸時代の出版業界の最大手であった須原屋茂兵衛からのれん分けをした店である。安永3年(1774)に杉田玄白、前野良沢の『解体新書』を出版したことで知られる。そのほかには、平賀源内、貝原益軒、大田南畝、賀茂真淵、林子平、森島中良などの著作を出版していた。人気の出版元。蔵を保有していなかったため、文化三年(1806)の「文化の大火」により、大きな被害を受けたと伝わる。その後、市兵衛は文化八年(1811)に死去し、家業は徐々に衰退していったようである。

(このあたりの事情は、平凡社ライブラリー『江戸の本屋さん』今田洋三著、に詳しい。江戸時代の出版業界を丹念に調べた平易な書物である) 

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●小道具問屋(長嶋屋)

 散らかっている店内が見える。どんな小道具を商っているのかはわからない。

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●小道具問屋(屋号不明)

 

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(巡礼)

小道具屋前の通りには、二人の巡礼者。坂東札所巡りの途中だろうか。「笈摺(おいづる)」という白装束が見える。また、天秤棒を担ぐのは、どんぶり(容器)売りだろうか。

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(どんぶり売り)

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●下り雪踏・下り傘・小間物諸色問屋(河内屋)

 黒塗りの土蔵造りの立派な店である。大きく開かれた店内には、どうやら雪踏が見える。「下り雪踏」、「下り傘」だから、関西から船などで江戸に下ってきた品物。

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