カテゴリー「書籍・雑誌」の26件の記事

スペンサー・ジョンソン《頂きはどこにある?》【書評】

 10年前『チーズはどこへ消えた?』というベストセラーを書いた著者の最新作である。前著では、2匹のネズミと二人の小人を主人公に、幸福の象徴である食料のチーズの存在をテーマとして、環境の「変化」にどのように対応していくかを主題に、仕事や人生の指針を再確認することができた。この『頂きはどこにある?』も混迷する社会の中で生き抜いていくヒントを多く与えてくれる。原作の英文によれば“Making Good And Bad Times Work For You---At Work And In Life”とある。「仕事や人生でのいいときや悪いときの対処法」といったところだろう。

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「山と谷の物語」が始まる。The Story of Peaks and Valleys

著者が描く要点はつぎのとおりだ。

●どこでも、誰にでも 仕事でも私生活でも 必ず山と谷がある。

●山と谷は ただ順境と逆境のことを いうのではない。

外部の出来事を 心の中でどう感じ どう対応するか ということである。

●山と谷はつながっている。

今日の順境で 過ちを犯せば 明日の逆境をつくり出す。

そして、今日の逆境で 賢明なことを行えば 明日の順境をつくり出す。

●山とは、自分が持っているものに 感謝するとき。

谷とは、失ったものを 求めるとき。

●外部の出来事は 必ずしも思いどおりにはならない。

しかし、心の中には山と谷は 考え方と行動しだいで 思いどおりになる。

●谷から出る道が 現れるのは 物事に対する見方を 変えたときである。

●逆境にひそむ利点を見つけ それを活かせば 谷を山に変えることができる。

●山と山の間には かならず谷がある。

谷にどう対処するかによって いかに早く次の山に たどり着けるかが決まる。

●高原は 休息し、熟考し 元気を回復する期間になる。

●順境に感謝し 賢明に対処すれば 逆境はほとんど経験しなくてすむ。

●山からすぐに落ちてしまう 一番の理由は 傲慢である。

それは見せかけの自信にすぎない。

谷からなかなか出られない 一番の理由は 恐怖心である。

安楽そうに見せかけてはいても。

●次の山に到達するには 自分の具体的なビジョンに したがうことだ。

きわめて具体的で、綿密で 喜んで実現する努力ができるような よりよい未来を満喫している自分を 思い描こう。

●谷の苦しみは それまで無視してきた真実に 気づかせてくれる。

●谷とは 恐怖心だ。

●山にいるときには 物事を実際よりも よく思ってはならない。

谷にいるときには 物事を実際よりも 悪く思ってはならない。

現実を味方にすべきである。

●心の山とは 恐怖心に 打ち勝つことである。

●自分なりの 具体的なビジョンに 真にしたがえば 山をつくり出すことができる。

恐怖心は消え去り 心穏やかになり うまくいくようになる。

●自分のエゴを捨てれば すぐに谷から 抜け出すことができる。

仕事では より有用になることによって

私生活では より愛情深くなることによって。

 谷に住む若者は、誰もが夢見るが決して行こうとしない山へ旅立つ。多くの苦難の末、やっと山へ、そして頂き(頂上)へたどり着く。そこで出会う、成功者の老人との会話や谷と山との間にある休息の場所・高原の存在など、仕事社会や人の生き方で迷ったりくじけそうになったりしたとき、元気づけてくれる示唆に富む内容だ。

 いまこの本の原著をイギリスから取り寄せて読んでいる。平易な英文で勉強になる。

(『頂はどこにある?』スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳、扶桑社刊、2009年9月)

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《ある明治女性の世界一周日記-日本初の海外団体旅行-》を読む【その3】

 主人公・野村みちの含蓄ある記述を続けて紹介する。

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○青年諸君、故国に執着せず、海外に出よ

 “ああ、本国の青年よ。あなたたちは少し学問をかじると労働を卑賤(ひせん:人として品位が低い)の業と考えます。労働をいとわない人がいても、相変わらず故国に執着します。学問の素養がある人間こそ結局は永遠の成功者となれるのに、そのことを知らずに狭苦しい日本であくせくし、むなしく生活難を嘆いています。実に愚かの極みではないでしょうか。天は限りなく高く、地は広いものです。「人間至る所青山あり」、男子たるものこの心意気あってこそ成功できるのです・・・!”

 明治の女性とは思えない発言だ。実に進歩的。こせこせした日本にいて、うじうじするなら、広い世界へ飛び出すことも方法論としては理解できるところである。だがしかし現実のきびしさが、また青年の前途に重くのしかかってくるのも現実なのだが・・・。

○アメリカの「台所の清潔さ」に思う

 アメリカで個人の邸宅(スポルディング氏)に招かれたとき

“応接間、居間、食堂などどこも美しいのですが、ことに台所です。整然として掃除が

行き届き、塵一つありません。一家の主婦の人となりがしのばれる清潔さです。(略)毎日油ものを扱っているとは思えない清潔さがあります。これでこそ料理を快く味わえるものです。”

 もちろん当時の日本では、アメリカのように蛇口をひねればお湯が出ることはなかったため、すぐに真似することはできないとわかっている。だが将来的には、日本もアメリカ同様に設備も整い、台所も改善されるべきだとみちは述べている。なるほど主婦の観察眼である。

○西洋美術と裸体

 “アメリカ以来どの博物館や美術館の油絵も彫刻も、裸体を描いていないものはありません。初めのうちこそ、女性の身で裸体を直視するのは少々辛いものがありましたが、慣れてくるとそれほど違和感がなくなって、今では「実にいい作品だわ」と仔細に見入ることさえあります。(略)我が国で裸体の絵画や彫刻についてとかく議論があるのは、そうしたものを今まで見慣れていないせいですから、咎めるべきことではありません。(略)風俗教化の上では、裸体の美術品よりも、胸をはだけて歩いている人のほうがずっと害が大きいでしょう。”

 まさにその通りだと思う。これまた明治女性・野村みちの目は、厳格な中にも柔軟性があふれている。こうのように「海外旅行」は、その人の視野や価値判断基準を広くできるものだ。

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《ある明治女性の世界一周日記-日本初の海外団体旅行-》を読む【その2】

 横浜で外国人相手の古美術商を営んでいた主人公・野村みちの含蓄ある記述をいくつか紹介してみたい。

○船客のボーイへのチップについて

 “この船客の中でチップを多くくれるのは日本人だそうです。部屋付きのボーイに対し、多いもので二十円、少ないものでも十円を下らないとか。(中略)思うに、日本人は海外旅行に慣れておらず外国語のできない人も多いので、失策を恐れるあまり、驚くほど多額のチップを与えてしまうのでしょう。外国人であれば、報酬は労力に見合ったものを与えるという価値観が強くありますし、旅慣れてもいますから、ボーイの働きぶりに応じた金額を航海の終わりに与えるに違いありません。”

 まさに野村みちさんのおっしゃる通りだと思う。当時の貨幣価値だと、「二十円」は十万円、「十円」でも五万円近くなる。もちろん豪華客船の一等船室を利用する客ならば、その程度のチップをはずんでもおかしくないのかもしれない。しかし、長い船旅ならば、サービスに見合った額を別れ際に渡すのも理にかなっているといえる。

○船旅での外国式マナーについて

 “船室での声高のお喋りは慎むべき。(略)男性が女性の部屋に入るのをそれほど失礼だと思っていないことや、だらしない服装で甲板をうろついていること、食事中の不作法の多さなど、(略)冷や汗をぬぐう場面が多々あります。これからは西洋の人々との付き合いがますます増えることでしょう。母親たるもの、外国式の礼儀を一通りは心得ておき、子どもたちに幼い頃からそれを身につけさせることもなすべき育児の一つでしょう。”

 明治41年に書かれた内容が、いまでも通じる。現代の若い女性にはまったく理解されないだろう。つぎの、この旅ではじめて上陸した、最初の訪問地「ハワイ」で、最高級のホテル(ホノルルにあったアレキサンダー・ヤングホテル)に宿泊して、みちは述べる。

○外国人用ホテル

 “我が日本は今や世界が環視する中心であり、来日する外国人も年々増えています。それなのにホテルの設備がこうした変化に対応できていません。ただいたずらに目の前のわずかな利益にばかりあくせくとして、その先にある将来の莫大な利益のことを考えていないのは、いつもながらまことに恨みの多いことでございます。”

 開国から約50年、横浜で商売をしていた野村みちの目は、広く海外に向けられていた。日本を訪れる外国人客を受け入れる本格的なホテルの必要性を、当時から思い描いていたことは、すばらしい発想であった。

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《ある明治女性の世界一周日記-日本初の海外団体旅行-》を読む【その1】

 「日本初の海外団体旅行」というキャッチに思わず手にして知った1冊である。本の帯には“日本初の世界一周団体旅行に参加した横浜の古美術商・サムライ商会の野村みち ハワイ、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ヴァチカン、スイス、ドイツ、ロシア、中国・・・96日間のハードスケジュールを綴る”とあった。

 さらに「表」表紙折り返しには、“母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と英語という新しい教育を受けた明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、真摯に、率直な心情を綴った旅行記。”と紹介されている。

(神奈川新聞社刊)

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 明治41(1908)年三月、一人の女性が横浜港から96日間の世界一周旅行に出発した。彼女は32歳、夫は横浜で外国人相手の古美術店を営んでいた。そしてこのツアーは、朝日新聞社が主催した「世界一周会」会員募集の旅行団であった。日本で最初の一般人が参加する海外団体旅行である。

 旅行費用は2,340円。当時の大卒初任給が40円程度であったようで、現代ならおおよそ1170万円という驚異的なツアー代金ということになる。募集旅行であったが、主催の朝日新聞社は(50人の募集に対し80人近い申し込みがあったため)参加者の選考を実施した。いまでは考えられないことだが、申込者の「地位、職業、身体健康状態、教育等」を選ぶ条件にしたようだ。結局、54名の参加者に2名の新聞社社員が随行役(添乗員)として同行した。

 96日間世界一周の旅行コースは、つぎのようなものだった。

3/18モンゴリア号横浜港出発→10日間船中泊→3/27ハワイ・ホノルル(アレキサンダー・ヤングホテル1泊)→3/28ホノルル発→7日間船中泊→4/3サンフランシスコ(フェアモントホテル2泊)→4/5鉄道車中泊→4/6ソルトレイク(ナッツフォールドホテル2泊)→4/8車中泊→4/9シカゴ(オーデトリアムホテル2泊)→4/11デトロイト(フーリア邸1泊)→4/13車中泊→4/14ボストン(ブランズウィックホテル1泊)→4/15車中泊→4/16ワシントン(ショーラムホテル3泊)→4/19ニューヨーク(パークアベニューホテル4泊)→セドリック号乗船→10日間船中泊→5/2イギリス・リバプール→ロンドン(セントアーミンスホテル10泊)→5/12フランス・パリ(ウィンザーホテル5泊)→5/17車中泊→5/18イタリア・ジェノヴァ(サヴォイホテル2泊)→5/20ローマ(コンチネンタルホテル3泊)→5/23ナポリ(ヴェスビオホテル2泊)→5/25ローマ(コンチネンタルホテル1泊)→5/26ヴェネチア(ロイヤルホテルダニエル1泊)→5/27ミラノ(グランドホテル1泊)→5/28スイス・バーゼル(1泊)→5/29車中泊→5/30ドイツ(ハプスブルグホテル3泊)→6/2車中泊→6/3ロシア・サンクトベテルブルグ(ホテル・ド・フランス2泊)→6/5車中泊→6/6モスクワ(スラビヤンスキーバザールホテル1泊)→シベリア鉄道車中泊→12日間(途中、中国東北部通過)→

6/18ウラジオストック(船中泊)→6/21敦賀着

 各都市では、昼間は公式訪問や視察があり、夜には必ず大使館や在留邦人の晩さん会があり、歓迎式典、歓迎音楽会、観劇もあった。船での長旅はまだしも、大陸では鉄道の移動が多く、車中泊も大変多い。かなりハードな旅行である。

 32歳の主婦・野村みちは、明治女性らしい視点でしっかり西欧文化を見て、自分で消化し、振り返って日本について考えをめぐらす。実に興味深い記述も多い。このあたりは、次回にゆっくり紹介したい。

 なお、この世界一周旅行については、『日本初の海外観光旅行/96日間世界一周』

(小林健著、春風社刊)という本も出ているが、3名しかいなかった女性参加者の日記には、正直な旅の印象が書かれていて含蓄に富んでいておもしろい。

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【にっぽん海外交流史】日本初サムライの英語教師《マクドナルド》

 幕末の黒船来訪時、江戸時代の唯一の海外窓口であった長崎に配置された通詞(通訳)がいた。当時は日本とアメリカの交渉事では「オランダ語」が共通語であった。日本→オランダ語→英語、英語→オランダ語→日本といった複雑な翻訳システムであった。しかしペリーが二度目に浦賀に現れた時点では、日本語と英語で直接的に交渉することができた。その時活躍したのが、森山栄之助である。長く続いた鎖国の中で、森山はどのようにして「英会話」を学ぶことができたのだろうか。調べてみると日本の英語史・英語教育史には、驚くべき事実があった。

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 実は長崎にいた森山は、ネイティブ・アメリカンのラナルド・マクドナルドRanald MacDonald)から直接、英会話を学んでいた。マクドナルドには『日本回想記』という書物がある。“Japan, Story of Adventure of Ranald MacDoanald, First Teacher of English in Japan”が原題である。マクドナルドは嘉永元年(1848)、日本近海で操業していた捕鯨船の乗組員であったが、密かに北海道の焼尻島から利尻島に渡り、身柄を拘束される。幕府によって、利尻島、宗谷、松前と送られ、最終的には長崎に送還。長崎では監禁生活を強いられた。

 利尻に漂着後の約十カ月、長崎に拘留された約七カ月の間、江戸時代の唯一の海外窓口であった長崎に配置された通詞に英語を教えた史実があった。マクドナルド自身の回想によれば、彼の教え子となった通詞は、14名いた。通詞たちは、それまで書物でしか知らなかった英語をマクドナルドの前で、音読する。発音のおかしいい個所があれば訂正してもらう。当時の「英語」は、いうまでもなくオランダ人から教えられたオランダ訛りのものであったようだ。したがって生きた英語に接する機会が、マクドナルドであった。

 その後、サムライ達に日本で初めて英語を教えたマクドナルドは、長崎からアメリカ船で送還され、紆余曲折を経て、アメリカへ帰る。別れる際、彼は「SAYONARA MY DEAR SAYONARA」と語ったそうだ。(さようなら 私の親愛なる仲間たちよ さようなら)あまり歴史の表舞台には登場しないが、心あたたまる英語教師がいたのだ。

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(参考:マクドナルド『日本回想記』、刀水書房)

 また、森山栄之助については、次の機会に紹介したいと思う。

※10月24日、マクドナルドの利尻島上陸や滞在期間を訂正しました。

※学会の定説で読み方は「ラナルド・マクドナルド」です。

 

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《星野くんの二塁打》を読む③【原文】

 郡内少年野球選手権大会の日どりは、さしせまっていた。だから、星野たちのチームは、自分の地区からの出場権をかくとくした試合のあくる日も、練習を休まなかった。選手たちは、定められた午後一時に、町のグラウンドに集まって、やけつくような太陽の下で、かたならしのキャッチボールをはじめた。

 そこへ、監督の別府さんがすがたをあらわした。選手たちは、別府さんのまわりに集まって、めいめい、ぼうしをぬいで、あいさつをした。

 キャプテンの喜多は、いつものとおりに、打撃の練習をはきめるものと思って、バットを取りにいった。別府さんは、喜多からバットを受け取ると、

「みんな、きょうは、少し話があるんだ。こっちへきてくれないか。」

といって、大きなカシの木かげにいって、あぐらをかいた。

 選手たちは、別府さんのほうを向き、半円をえがいて、あぐらをかいた。

「みんな、きのうは、よくやってくれたね。おかげで、Rクラブは待望の選手権大会に出場できることになった。おたがいに喜んでいいと思う。ところで、きのうのみんなの善戦にたいして、心からの祝辞をのべたいのだが、どうも、それができないのだ。」

 補欠も入れて十五人の選手たちの目は、じっと別府さんの顔を見つめている。別府さんの、おもおもしい口調のそこに、何かよういならないものがあることを、だれもがはっきり感じたからである。

 別府さんは、ひざの上に横たえたバットを、両手でゆっくりまわしていたが、それをとめて、静かにことばを続けた。

「ぼくが、監督に就任するとくに、きみたちに話したことばを、みんなはおぼえてくれているだろうな。ぼくは、きみたちがぼくを監督としてむかえることに賛成なら、就任してもいい。町長からたのまれたというだけのことでは、いやだ。そうだったろう、喜多くん。」

 喜多は別府さんの顔をみて、強くうなずいた。

「そのとき、きみたちは、喜んで、ぼくをむかえてくれるといった。そこで、ぼくは、きみたちとそうだんして、チームの規則をきめたのだ。いったん、きめたいじょうは、それを守るのが当然だと思う。また、試合のときなどに、チームの作戦としてきめたことには、ぜったいに服従してもらわなければならない、という話もした。きみたちは、これにもこころよく賛成してくれた。それで、ぼくも気持ちよくきみたちと練習を続けてきたのだ。おかげで、ぼくらのチームも、かなり力がついてきたと思っている。だが、きのう、ぼくはおもしろくない経験をしたのだ。」

 ここまで聞いたとき、「これは自分のことかな。」と、星野はかるい疑問をいだいた。けれども、自分が、しかられるわけはないと、思いかえさないではいられなかった。

 -----なるほど、ぼくは、きのう、バントを命じられたのに、かってに、打撃に出た。それはチームの統制をやぶったことになるかもしれない。しかし、その結果、ぼくらのチームが勝利を得たのではないか・・・・・・。

 そのとき、別府さんは、ひざの上のバットをコツンと地面においた。そして、ななめ右まえにすわっている星野の顔を、正面から見た。

「まわりくどいいい方はよそう。ぼくは、きのう星野くんの二塁打が気にいらないのだ。バントで岩田くんを二塁へ送る。これがあのとき、チームできめた作戦だった。星野くんは不服らしかったが、とにかく、それをしょうちしたのだ。いったん、しょうちしておきながら、かってに打撃に出た。小さくいえば、ぼくとのやくそくをやぶり、大きくいえば、チームの統制をみだしたことになる。」

「だけど、二塁打を打って、Rクラブをすくったんですから。」

と、岩田がたすけぶねを出した。

「いや、いくら結果がよかったといって、統制をやぶったことに変わりはないのだ。

・・・・・・いいか、野球は、ただ、勝てばいいのじゃないんだよ。健康なからだをつくると同時に、団体競技として、協同の精神をやしなうためのものなのだ。ぎせいの精神のわからない人間は、社会へ出たって、社会を益することはできない。」

 別府さんの口調が熱してきて、そのほおが赤くなるにつれて、星野仁一の顔からは、血の気がひいていった。選手たちは、みんな、顔を深くたれてしまった。

「星野くんはいい投手だ。おしいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチームの統制をみだした者を、そのままにしておくわけにはいかない。」

 そこまで聞くと、思わず一同は顔をあげて、別府さんを見た。星野だけが、じっとうつむいたまま、石のように動かなかった。

「ぼくは、こんどの大会に星野くんの出場を禁じたいと思う。とうぶん、きんしんしてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。しかし、それはやむをえないことと、あきらめてもらうよりはしかたがない。」

 星野は、じっと、なみだをこらえていた。

 ----別府さんのことばは、ひとつひとつ、もっともだ。自分は、いままでいい気になっていたのだ。

 かれは、しみじみと、そう思わないではいられなかった。

「星野くん、異存があったら、いってくれたまえ。」

 別府さんのことばに、星野は、なみだで光った目をあげて、はっきりと答えた。

「異存ありません。」

 別府さんを中心とした少年選手たちの半円は、しばらく、そのまま、動かなかった。

 ぎらぎらする太陽の光線が、人かげのないグラウンドに、白くはねかえっていた。

 *****************************************************************************※吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)作、『星野くんの二塁打』大日本図書より

 チームの「統制」を破った星野くんは、ペナルティーとして選手権大会への出場は禁止された。「団体」の中で「統制」を乱す者は許されない。「団体・チーム」のために、個人は「犠牲」になることもある。このあたりが、ポイントだろうか。

著者の吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)氏は、明治生まれの、一時代前の児童文学作家、英文学者である。(1894~1957)中学教師から明治大学の教授になった。

内容が「戦争」の時代を思い起こすような部分も多分にあるように思う。はたして、いまの時代に「どうなのか」とも思う。

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《星野くんの二塁打》を読む②【原文】

 Tクラブの投手は、なかなか投げない。バッテリー間のサインは、しんちょうをきわめた。

 やっと、サインがきまって、投手がプレートをふんだ。

 ランナーの岩田は足の早い選手ではなかった。だから、なるべく塁からはなれて、走塁に有利な態勢をとろうとした。

 投手は、ランナーのほうにも、じゅうぶん、注意をはらっている。

 ランナーは、じりじりと、塁をはなれはじめた。

 あっ、少し出すぎた・・・・・・。バッターボックスにいる星野がそう思うのと同時に、投手は一塁へ矢のような球を送った。あぶない。岩田は、すなけむりをあげて、塁へすべりこんだ。

 塁しんは、手のひらを下にして、両手をひろげている。セ-フ!あぶなく助かったのだった。一塁のコーチャーが、大声でランナーに何かいっている。

 岩田のはりきった動作を見ているうちに、星野の打ちたい気持ちが、また、むくむくと頭をもたげてきた。

 --------打てる。

 きっと打てる。

 確実にヒットが打てさえすれば、むりにバントをするにはおよばない。

 かれは、しせいを少しかえた。心もち、またを大きく開いて、左足を、ちょっとまえへ出した。とたんに、投手が第一球を投げこんできた。予想どおりのつりだま。しかし、星野のもっともすきな近めの高い直球・・・・・・。

 星野は、大きくふった。

 当たった・・・・・・。バットのまん中に当たったボールは、ぐうんとのびて、二塁と遊撃の間をぬくあざやかなヒットになった。中堅手が転てんするボールを追って、やっと、とらえた。そのまに、ランナーは、二塁、三塁。

 ヒット!ヒット!二塁打だ。

 R町の応援団は総だちになった。ぼうしを投げあげる気の早い者もある。

 ボールは、やっと、投手のグローブにかえった。

 星野は、二塁の上に直立して、両手をこしに当てて、場内を見まわした。だが、このとき、星野は、別府さんがにがい顔をして、ベンチからかれのほうを見ていることには、気がつかなかった。

 星野の一撃は、Rクラブの勝利を決定的にした。九番打者の氏原が、右翼に大飛球をあげ、それがぎせい打になって、岩田がホームインしたからである。

 Rクラブの郡内野球選手権大会出場は確定し、星野仁一は、この試合の英雄となった。

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*****************************************************************************※吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)作、『星野くんの二塁打』大日本図書より

 原文をたどってみると、自分が小学生の頃、教科書で読んだ「星野くん」の話が、実はかなり綿密に場面描写をしていることを知った。監督の指示に従わず、センターの頭を抜くツー・ベース・ヒットだ。そうか、星野くんは、ピッチャーだったのか、しかしバッティングは得意だったのか。次の打者が、ライトに犠牲フライを打って、岩田選手がホーム・インしたわけだ。

 何よりも「星野くん」は、星野仁一というフルネームだったのだ。

 さて、試合には勝ったが・・・、この話のクライマックスは、どう展開していくか。

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《星野くんの二塁打》を読む①【原文】

 当たりそこないの飛球が、ふらふらと遊撃手の頭上をこえていった。左翼手が、もうれつないきおいでつっこんできた。だが、球は、その一メートルばかりまえにポトリと落ちた。

 R町の応援団は、「わあっ。」と、わきたった。

 まったく、ひろいもののヒットである。

 R町の少年野球団、Rクラブは、一回に一点、二回に一点を入れて、二点の勝ちこしのまま、相手の、T市少年野球団、Tクラブを六回まで無得点におさえてきた。ところが、七回の表に、いっきょ、その二点を取りかえされ、同点に追いこまれてしまった。こうなると、Rクラブの選手たちは、追われる者の心ぼそさを感じないわけにはいかない。延長戦に持ちこまれそうな不安をいだきはじめていた。

 そこへ、七回のうら、Rクラブの最後の攻撃で、最初の打者、岩田が、安打で一塁に出たのだ。応援団が色めきたったのもむりはない。

 よし、ここで一点。その一点で、勝敗がきまるのだ。Rクラブの選手たちの顔は、急に明るくなった。郡内少年野球の選手権大会の、出場チームになることができるかもしれない。

 八番打者、投手の星野が、先のほうを四分の一ほど黒くぬった愛用のバットをさげて、バッターボックスへはいろうとした。だが、そのとき、伝令がきて、かれはベンチへよばれた。

 一塁では、ランナーの岩田が足をそろえて、ぴょん、ぴょんと、はねている。足ならしをして、走塁の準備をしているのだ。

 星野は、それをちらっと見て、ベンチへ行った。キャプテンの喜多と、監督をしている大学生の別府さんが、かれを待っていた。

「星野、岩田をバントで二塁へ送ってくれ。氏原に打たせて、どうしても確実に一点かせがなければならないから。」

 別府さんは、正面から星野の目を見て、はっきりといった。

 別府さんがそういうのもむりはなかった。きょうの星野は、投手としてはかなりできがよかったけれども、打者としては、ふるわなかった。投手ゴロひとつ、三振ひとつ、という不景気な成績だ。だが、星野は元来、よわい打者ではなかった。当たれば、そうとう大ものをかっ飛ばすほうだった。だから、かれは、この三回めの打撃で、名誉を回復しようと、ひそかにはりきっていたのだ。こんどは、きっと当たる。なんとなく、そういう予感を持っていた。それだけに、かれは、別府さんのことばにたいして、「はい。」と、すなおな返事がしにくかった。

 「打たしてください。こんどは、打てそうな気がするんです。」

「『打てそうな気がする』くらいのことで、作戦を立てるわけにはいかないよ。ノーダンなんだから、ここは、正攻法でいくべきだ。わかったな。さあ、みんなが待っている。しっかり、やってくれ。」

 ぐずぐずしているわけにはいかなかった。

「はあ。」

 あいまいな返事をして、星野がひきかすうしろから、キャプテン喜多のひくい声が、追っかけてきた。

「たのんだぞ。星野。」

 星野は、明るい、すなおな少年だった。人の意見にさからって、あらそうようなことは、このまなかった。しかし、きょうのバントの命令にだけは、どうしても服しにくかった。安打が出そうな気がしてならないのだ。バントのぎせい打でアウトになるのは、もったいない気がする。

 だが、野球の試合で、監督の命令にそむくことはできない。星野は、別府さんの作戦どおり、バントで岩田を二塁へ送るつもりでバッターボックスにはいった。

*****************************************************************************※吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)作、『星野くんの二塁打』大日本図書より

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《日本一江戸前鮨がわかる本》書評

 「本当に旨い鮨の話」という帯に惹(ひ)かれて、《日本一江戸前鮨がわかる本》を読む。早川光著、文春文庫2009年6月刊。著者の早川光(ひかり)は、映画監督であり、著述家である。いってみれば、鮨(すし)のウンチク本だ。

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 本の構成は

第一章      江戸前鮨の楽しみ方 基本編

第二章      江戸前鮨の楽しみ方 実践編

第三章      江戸前鮨 基本のネタを知る

第四章      江戸前鮨の名店案内

第五章      真説・江戸前鮨の歴史

と、いったものだが、東京中心の鮨の高級店ガイドにページを多く裂いている。「江戸前鮨の楽しみ方」については、広範囲に分析しわかりやすい。興味深いのが、すし職人と客との緊密で近い距離感を利用して、職人さんと仲良くなることだそうだ。仲良くすれば、自分好みに合った鮨を握ってもらえる。これが鮨屋の醍醐味だ。最終的には客の好みやその日の体調にマッチしたもの、つまり究極のオーダーメイド料理として、鮨を食することができる。ところがそこに至るプロセスが、一筋縄ではいかないのだ。

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 鮨屋とつき合うには、続けて通い、季節の移り変わりによる「鮨ダネ」の変化とそのおいしさを知ることだ。客は「鮨舌」を強化しなければならない。

 また、鮨屋と鮨職人を評価する四つのポイントがあると、著者はいう。「魚の目利き」、

「シャリ(鮨飯)の味つけ」、「握りの技」、「酢〆の技術」だそうだ。

 私がもっとも納得させられたのが、つぎのような記述である。

“職人に薀蓄(うんちく)を披露するのも、まったくムダです。そもそもプロ相手に魚の産地や旬を語ったところで、向こうのほうが詳しいに決まっています。仮にあなたのほうが詳しかったとしても、それをひけらかすのは相手のプライドを傷つける結果にしかなりません。”

 そして握りが一人前15,000円も20,000円もする名店では、もう少しお手頃なランチタイムを利用して、鮨屋の職人の技術をみればよいそうだ。もちろん夜とはネタが違うが、きちんとした鮨屋は、お昼のメニューでも決して手を抜かないそうだ。確かに勉強になる本である。

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《隅田川の向う側》-私の昭和史【書評】

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 著者の半藤一利(はんどう かずとし)について、同書から一部を引用する。

1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社。「週間文春」「文藝春秋」編集長、取締役などを経て作家。”

文芸に造詣が深く、自分の生きてきた昭和史を証人の目で綴るエッセイは、至極である。実は半藤の『幕末史』を読み始めたところだが、今回は《隅田川の向う側》-私の昭和史(2009年3月、創元社刊、1,500円税別)を紹介する。

第一章      

隅田川の向う側

第二章      

わが雪国の春

第三章      

隅田川の上で

第四章      観音堂の鬼瓦

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書名にもなっているが、第一章の「隅田川の向う側」の主題は、半藤が1930(昭和5)

年に「浅草側」から見て「隅田川の向う側」の向島に生まれ、多感な少年時代を過ごし、昭和20年の東京大空襲で焼け出されるまでの自伝的な随筆になっている。別にどこから読んでも構わないのだが、最初は向島の大スター・世界の王貞治少年も登場する。それから「長命寺の桜もち」や「三囲神社」については、地に足がつくシュールな描写だ。

なるほど、われわれよりも世代が上だと痛感するのは、昭和20年3月の空襲の記述。著者は、大変な時代を生き抜いてきたのに、さらっと戦争の空しさを書く。

 第二章では、焼け出されて疎開した新潟の長岡での旧制中学の時代。山本五十六、上杉謙信、小林一茶(貞心尼)もモチーフとなっている。新潟出身の会津八一も出てくる。私も敬愛する歌人だが、“おほてらの もろき はしらの つきかげを つちに ふみつつ ものをこそおもへ”の句まで、取り上げてあり、うれしい限りだ。

 著者は、長岡から旧制浦和高校、東大へと進むが、ボート部に所属し、隅田川で学生生活を送る。これが第三章の「隅田川の上で」となる。昭和26年頃までの話だ。

 第四章は、27年から29年(1954)までの「浅草」界隈を主題としている。社会に出て、生まれ育った川向うを見る。大人の生活の基盤は、「浅草」になっている。当時の老舗の数々や仲見世の土産屋の紹介もあるが、とくに感心した箇所を引用したい。

 浅草生まれの女優サン沢村貞子さんがうまいことをいっている。浅草のよさは春の淡雪みたいな気がすると。

「ここがいいんですよって手のひらにのせてみると、溶けちゃうんですね。だって人の情でしょう。情っていうものは、そうやって見せるもんじゃない」

 なんだが、ずいぶん「いい話」に出会った気がした。おもしろいエッセイである。

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