カテゴリー「書籍・雑誌」の22件の記事

【にっぽん海外交流史】日本初サムライの英語教師《マクドナルド》

 幕末の黒船来訪時、江戸時代の唯一の海外窓口であった長崎に配置された通詞(通訳)がいた。当時は日本とアメリカの交渉事では「オランダ語」が共通語であった。日本→オランダ語→英語、英語→オランダ語→日本といった複雑な翻訳システムであった。しかしペリーが二度目に浦賀に現れた時点では、日本語と英語で直接的に交渉することができた。その時活躍したのが、森山栄之助である。長く続いた鎖国の中で、森山はどのようにして「英会話」を学ぶことができたのだろうか。調べてみると日本の英語史・英語教育史には、驚くべき事実があった。

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 実は長崎にいた森山は、ネイティブ・アメリカンのレナルド・マクドナルド(Renald MacDonald)から直接、英会話を学んでいた。マクドナルドには『日本回想記』という書物がある。“Japan, Story of Adventure of Renald MacDoanald, First Teacher of English in Japan”が原題である。マクドナルドは嘉永元年(1848)、日本近海で操業していた捕鯨船の乗組員であったが、密かに北海道の焼尻島から利尻島に渡り、身柄を拘束される。幕府によって、利尻島、宗谷、松前と送られ、最終的には長崎に送還。長崎では監禁生活を強いられた。

 利尻に漂着後の約十カ月、長崎に拘留された約七カ月の間、江戸時代の唯一の海外窓口であった長崎に配置された通詞に英語を教えた史実があった。マクドナルド自身の回想によれば、彼の教え子となった通詞は、14名いた。通詞たちは、それまで書物でしか知らなかった英語をマクドナルドの前で、音読する。発音のおかしいい個所があれば訂正してもらう。当時の「英語」は、いうまでもなくオランダ人から教えられたオランダ訛りのものであったようだ。したがって生きた英語に接する機会が、マクドナルドであった。

 その後、サムライ達に日本で初めて英語を教えたマクドナルドは、長崎からアメリカ船で送還され、紆余曲折を経て、アメリカへ帰る。別れる際、彼は「SAYONARA MY DEAR SAYONARA」と語ったそうだ。(さようなら 私の親愛なる仲間たちよ さようなら)あまり歴史の表舞台には登場しないが、心あたたまる英語教師がいたのだ。

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(参考:マクドナルド『日本回想記』、刀水書房)

 また、森山栄之助については、次の機会に紹介したいと思う。

※10月24日、マクドナルドの利尻島上陸や滞在期間を訂正しました。

 

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《星野くんの二塁打》を読む③【原文】

 郡内少年野球選手権大会の日どりは、さしせまっていた。だから、星野たちのチームは、自分の地区からの出場権をかくとくした試合のあくる日も、練習を休まなかった。選手たちは、定められた午後一時に、町のグラウンドに集まって、やけつくような太陽の下で、かたならしのキャッチボールをはじめた。

 そこへ、監督の別府さんがすがたをあらわした。選手たちは、別府さんのまわりに集まって、めいめい、ぼうしをぬいで、あいさつをした。

 キャプテンの喜多は、いつものとおりに、打撃の練習をはきめるものと思って、バットを取りにいった。別府さんは、喜多からバットを受け取ると、

「みんな、きょうは、少し話があるんだ。こっちへきてくれないか。」

といって、大きなカシの木かげにいって、あぐらをかいた。

 選手たちは、別府さんのほうを向き、半円をえがいて、あぐらをかいた。

「みんな、きのうは、よくやってくれたね。おかげで、Rクラブは待望の選手権大会に出場できることになった。おたがいに喜んでいいと思う。ところで、きのうのみんなの善戦にたいして、心からの祝辞をのべたいのだが、どうも、それができないのだ。」

 補欠も入れて十五人の選手たちの目は、じっと別府さんの顔を見つめている。別府さんの、おもおもしい口調のそこに、何かよういならないものがあることを、だれもがはっきり感じたからである。

 別府さんは、ひざの上に横たえたバットを、両手でゆっくりまわしていたが、それをとめて、静かにことばを続けた。

「ぼくが、監督に就任するとくに、きみたちに話したことばを、みんなはおぼえてくれているだろうな。ぼくは、きみたちがぼくを監督としてむかえることに賛成なら、就任してもいい。町長からたのまれたというだけのことでは、いやだ。そうだったろう、喜多くん。」

 喜多は別府さんの顔をみて、強くうなずいた。

「そのとき、きみたちは、喜んで、ぼくをむかえてくれるといった。そこで、ぼくは、きみたちとそうだんして、チームの規則をきめたのだ。いったん、きめたいじょうは、それを守るのが当然だと思う。また、試合のときなどに、チームの作戦としてきめたことには、ぜったいに服従してもらわなければならない、という話もした。きみたちは、これにもこころよく賛成してくれた。それで、ぼくも気持ちよくきみたちと練習を続けてきたのだ。おかげで、ぼくらのチームも、かなり力がついてきたと思っている。だが、きのう、ぼくはおもしろくない経験をしたのだ。」

 ここまで聞いたとき、「これは自分のことかな。」と、星野はかるい疑問をいだいた。けれども、自分が、しかられるわけはないと、思いかえさないではいられなかった。

 -----なるほど、ぼくは、きのう、バントを命じられたのに、かってに、打撃に出た。それはチームの統制をやぶったことになるかもしれない。しかし、その結果、ぼくらのチームが勝利を得たのではないか・・・・・・。

 そのとき、別府さんは、ひざの上のバットをコツンと地面においた。そして、ななめ右まえにすわっている星野の顔を、正面から見た。

「まわりくどいいい方はよそう。ぼくは、きのう星野くんの二塁打が気にいらないのだ。バントで岩田くんを二塁へ送る。これがあのとき、チームできめた作戦だった。星野くんは不服らしかったが、とにかく、それをしょうちしたのだ。いったん、しょうちしておきながら、かってに打撃に出た。小さくいえば、ぼくとのやくそくをやぶり、大きくいえば、チームの統制をみだしたことになる。」

「だけど、二塁打を打って、Rクラブをすくったんですから。」

と、岩田がたすけぶねを出した。

「いや、いくら結果がよかったといって、統制をやぶったことに変わりはないのだ。

・・・・・・いいか、野球は、ただ、勝てばいいのじゃないんだよ。健康なからだをつくると同時に、団体競技として、協同の精神をやしなうためのものなのだ。ぎせいの精神のわからない人間は、社会へ出たって、社会を益することはできない。」

 別府さんの口調が熱してきて、そのほおが赤くなるにつれて、星野仁一の顔からは、血の気がひいていった。選手たちは、みんな、顔を深くたれてしまった。

「星野くんはいい投手だ。おしいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチームの統制をみだした者を、そのままにしておくわけにはいかない。」

 そこまで聞くと、思わず一同は顔をあげて、別府さんを見た。星野だけが、じっとうつむいたまま、石のように動かなかった。

「ぼくは、こんどの大会に星野くんの出場を禁じたいと思う。とうぶん、きんしんしてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。しかし、それはやむをえないことと、あきらめてもらうよりはしかたがない。」

 星野は、じっと、なみだをこらえていた。

 ----別府さんのことばは、ひとつひとつ、もっともだ。自分は、いままでいい気になっていたのだ。

 かれは、しみじみと、そう思わないではいられなかった。

「星野くん、異存があったら、いってくれたまえ。」

 別府さんのことばに、星野は、なみだで光った目をあげて、はっきりと答えた。

「異存ありません。」

 別府さんを中心とした少年選手たちの半円は、しばらく、そのまま、動かなかった。

 ぎらぎらする太陽の光線が、人かげのないグラウンドに、白くはねかえっていた。

 *****************************************************************************※吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)作、『星野くんの二塁打』大日本図書より

 チームの「統制」を破った星野くんは、ペナルティーとして選手権大会への出場は禁止された。「団体」の中で「統制」を乱す者は許されない。「団体・チーム」のために、個人は「犠牲」になることもある。このあたりが、ポイントだろうか。

著者の吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)氏は、明治生まれの、一時代前の児童文学作家、英文学者である。(1894~1957)中学教師から明治大学の教授になった。

内容が「戦争」の時代を思い起こすような部分も多分にあるように思う。はたして、いまの時代に「どうなのか」とも思う。

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《星野くんの二塁打》を読む②【原文】

 Tクラブの投手は、なかなか投げない。バッテリー間のサインは、しんちょうをきわめた。

 やっと、サインがきまって、投手がプレートをふんだ。

 ランナーの岩田は足の早い選手ではなかった。だから、なるべく塁からはなれて、走塁に有利な態勢をとろうとした。

 投手は、ランナーのほうにも、じゅうぶん、注意をはらっている。

 ランナーは、じりじりと、塁をはなれはじめた。

 あっ、少し出すぎた・・・・・・。バッターボックスにいる星野がそう思うのと同時に、投手は一塁へ矢のような球を送った。あぶない。岩田は、すなけむりをあげて、塁へすべりこんだ。

 塁しんは、手のひらを下にして、両手をひろげている。セ-フ!あぶなく助かったのだった。一塁のコーチャーが、大声でランナーに何かいっている。

 岩田のはりきった動作を見ているうちに、星野の打ちたい気持ちが、また、むくむくと頭をもたげてきた。

 --------打てる。

 きっと打てる。

 確実にヒットが打てさえすれば、むりにバントをするにはおよばない。

 かれは、しせいを少しかえた。心もち、またを大きく開いて、左足を、ちょっとまえへ出した。とたんに、投手が第一球を投げこんできた。予想どおりのつりだま。しかし、星野のもっともすきな近めの高い直球・・・・・・。

 星野は、大きくふった。

 当たった・・・・・・。バットのまん中に当たったボールは、ぐうんとのびて、二塁と遊撃の間をぬくあざやかなヒットになった。中堅手が転てんするボールを追って、やっと、とらえた。そのまに、ランナーは、二塁、三塁。

 ヒット!ヒット!二塁打だ。

 R町の応援団は総だちになった。ぼうしを投げあげる気の早い者もある。

 ボールは、やっと、投手のグローブにかえった。

 星野は、二塁の上に直立して、両手をこしに当てて、場内を見まわした。だが、このとき、星野は、別府さんがにがい顔をして、ベンチからかれのほうを見ていることには、気がつかなかった。

 星野の一撃は、Rクラブの勝利を決定的にした。九番打者の氏原が、右翼に大飛球をあげ、それがぎせい打になって、岩田がホームインしたからである。

 Rクラブの郡内野球選手権大会出場は確定し、星野仁一は、この試合の英雄となった。

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*****************************************************************************※吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)作、『星野くんの二塁打』大日本図書より

 原文をたどってみると、自分が小学生の頃、教科書で読んだ「星野くん」の話が、実はかなり綿密に場面描写をしていることを知った。監督の指示に従わず、センターの頭を抜くツー・ベース・ヒットだ。そうか、星野くんは、ピッチャーだったのか、しかしバッティングは得意だったのか。次の打者が、ライトに犠牲フライを打って、岩田選手がホーム・インしたわけだ。

 何よりも「星野くん」は、星野仁一というフルネームだったのだ。

 さて、試合には勝ったが・・・、この話のクライマックスは、どう展開していくか。

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《星野くんの二塁打》を読む①【原文】

 当たりそこないの飛球が、ふらふらと遊撃手の頭上をこえていった。左翼手が、もうれつないきおいでつっこんできた。だが、球は、その一メートルばかりまえにポトリと落ちた。

 R町の応援団は、「わあっ。」と、わきたった。

 まったく、ひろいもののヒットである。

 R町の少年野球団、Rクラブは、一回に一点、二回に一点を入れて、二点の勝ちこしのまま、相手の、T市少年野球団、Tクラブを六回まで無得点におさえてきた。ところが、七回の表に、いっきょ、その二点を取りかえされ、同点に追いこまれてしまった。こうなると、Rクラブの選手たちは、追われる者の心ぼそさを感じないわけにはいかない。延長戦に持ちこまれそうな不安をいだきはじめていた。

 そこへ、七回のうら、Rクラブの最後の攻撃で、最初の打者、岩田が、安打で一塁に出たのだ。応援団が色めきたったのもむりはない。

 よし、ここで一点。その一点で、勝敗がきまるのだ。Rクラブの選手たちの顔は、急に明るくなった。郡内少年野球の選手権大会の、出場チームになることができるかもしれない。

 八番打者、投手の星野が、先のほうを四分の一ほど黒くぬった愛用のバットをさげて、バッターボックスへはいろうとした。だが、そのとき、伝令がきて、かれはベンチへよばれた。

 一塁では、ランナーの岩田が足をそろえて、ぴょん、ぴょんと、はねている。足ならしをして、走塁の準備をしているのだ。

 星野は、それをちらっと見て、ベンチへ行った。キャプテンの喜多と、監督をしている大学生の別府さんが、かれを待っていた。

「星野、岩田をバントで二塁へ送ってくれ。氏原に打たせて、どうしても確実に一点かせがなければならないから。」

 別府さんは、正面から星野の目を見て、はっきりといった。

 別府さんがそういうのもむりはなかった。きょうの星野は、投手としてはかなりできがよかったけれども、打者としては、ふるわなかった。投手ゴロひとつ、三振ひとつ、という不景気な成績だ。だが、星野は元来、よわい打者ではなかった。当たれば、そうとう大ものをかっ飛ばすほうだった。だから、かれは、この三回めの打撃で、名誉を回復しようと、ひそかにはりきっていたのだ。こんどは、きっと当たる。なんとなく、そういう予感を持っていた。それだけに、かれは、別府さんのことばにたいして、「はい。」と、すなおな返事がしにくかった。

 「打たしてください。こんどは、打てそうな気がするんです。」

「『打てそうな気がする』くらいのことで、作戦を立てるわけにはいかないよ。ノーダンなんだから、ここは、正攻法でいくべきだ。わかったな。さあ、みんなが待っている。しっかり、やってくれ。」

 ぐずぐずしているわけにはいかなかった。

「はあ。」

 あいまいな返事をして、星野がひきかすうしろから、キャプテン喜多のひくい声が、追っかけてきた。

「たのんだぞ。星野。」

 星野は、明るい、すなおな少年だった。人の意見にさからって、あらそうようなことは、このまなかった。しかし、きょうのバントの命令にだけは、どうしても服しにくかった。安打が出そうな気がしてならないのだ。バントのぎせい打でアウトになるのは、もったいない気がする。

 だが、野球の試合で、監督の命令にそむくことはできない。星野は、別府さんの作戦どおり、バントで岩田を二塁へ送るつもりでバッターボックスにはいった。

*****************************************************************************※吉田甲子太郎(よしだ・きねたろう)作、『星野くんの二塁打』大日本図書より

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《日本一江戸前鮨がわかる本》書評

 「本当に旨い鮨の話」という帯に惹(ひ)かれて、《日本一江戸前鮨がわかる本》を読む。早川光著、文春文庫2009年6月刊。著者の早川光(ひかり)は、映画監督であり、著述家である。いってみれば、鮨(すし)のウンチク本だ。

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 本の構成は

第一章      江戸前鮨の楽しみ方 基本編

第二章      江戸前鮨の楽しみ方 実践編

第三章      江戸前鮨 基本のネタを知る

第四章      江戸前鮨の名店案内

第五章      真説・江戸前鮨の歴史

と、いったものだが、東京中心の鮨の高級店ガイドにページを多く裂いている。「江戸前鮨の楽しみ方」については、広範囲に分析しわかりやすい。興味深いのが、すし職人と客との緊密で近い距離感を利用して、職人さんと仲良くなることだそうだ。仲良くすれば、自分好みに合った鮨を握ってもらえる。これが鮨屋の醍醐味だ。最終的には客の好みやその日の体調にマッチしたもの、つまり究極のオーダーメイド料理として、鮨を食することができる。ところがそこに至るプロセスが、一筋縄ではいかないのだ。

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 鮨屋とつき合うには、続けて通い、季節の移り変わりによる「鮨ダネ」の変化とそのおいしさを知ることだ。客は「鮨舌」を強化しなければならない。

 また、鮨屋と鮨職人を評価する四つのポイントがあると、著者はいう。「魚の目利き」、

「シャリ(鮨飯)の味つけ」、「握りの技」、「酢〆の技術」だそうだ。

 私がもっとも納得させられたのが、つぎのような記述である。

“職人に薀蓄(うんちく)を披露するのも、まったくムダです。そもそもプロ相手に魚の産地や旬を語ったところで、向こうのほうが詳しいに決まっています。仮にあなたのほうが詳しかったとしても、それをひけらかすのは相手のプライドを傷つける結果にしかなりません。”

 そして握りが一人前15,000円も20,000円もする名店では、もう少しお手頃なランチタイムを利用して、鮨屋の職人の技術をみればよいそうだ。もちろん夜とはネタが違うが、きちんとした鮨屋は、お昼のメニューでも決して手を抜かないそうだ。確かに勉強になる本である。

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《隅田川の向う側》-私の昭和史【書評】

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 著者の半藤一利(はんどう かずとし)について、同書から一部を引用する。

1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋に入社。「週間文春」「文藝春秋」編集長、取締役などを経て作家。”

文芸に造詣が深く、自分の生きてきた昭和史を証人の目で綴るエッセイは、至極である。実は半藤の『幕末史』を読み始めたところだが、今回は《隅田川の向う側》-私の昭和史(2009年3月、創元社刊、1,500円税別)を紹介する。

第一章      

隅田川の向う側

第二章      

わが雪国の春

第三章      

隅田川の上で

第四章      観音堂の鬼瓦

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書名にもなっているが、第一章の「隅田川の向う側」の主題は、半藤が1930(昭和5)

年に「浅草側」から見て「隅田川の向う側」の向島に生まれ、多感な少年時代を過ごし、昭和20年の東京大空襲で焼け出されるまでの自伝的な随筆になっている。別にどこから読んでも構わないのだが、最初は向島の大スター・世界の王貞治少年も登場する。それから「長命寺の桜もち」や「三囲神社」については、地に足がつくシュールな描写だ。

なるほど、われわれよりも世代が上だと痛感するのは、昭和20年3月の空襲の記述。著者は、大変な時代を生き抜いてきたのに、さらっと戦争の空しさを書く。

 第二章では、焼け出されて疎開した新潟の長岡での旧制中学の時代。山本五十六、上杉謙信、小林一茶(貞心尼)もモチーフとなっている。新潟出身の会津八一も出てくる。私も敬愛する歌人だが、“おほてらの もろき はしらの つきかげを つちに ふみつつ ものをこそおもへ”の句まで、取り上げてあり、うれしい限りだ。

 著者は、長岡から旧制浦和高校、東大へと進むが、ボート部に所属し、隅田川で学生生活を送る。これが第三章の「隅田川の上で」となる。昭和26年頃までの話だ。

 第四章は、27年から29年(1954)までの「浅草」界隈を主題としている。社会に出て、生まれ育った川向うを見る。大人の生活の基盤は、「浅草」になっている。当時の老舗の数々や仲見世の土産屋の紹介もあるが、とくに感心した箇所を引用したい。

 浅草生まれの女優サン沢村貞子さんがうまいことをいっている。浅草のよさは春の淡雪みたいな気がすると。

「ここがいいんですよって手のひらにのせてみると、溶けちゃうんですね。だって人の情でしょう。情っていうものは、そうやって見せるもんじゃない」

 なんだが、ずいぶん「いい話」に出会った気がした。おもしろいエッセイである。

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《すし屋の常識・非常識》書評

 『書を捨てよ、町に出よう』(寺山修司)という本があったが、この《すし屋の常識・非常識》は、読んでから「すし屋」に行くには最高の参考書である。(朝日新書、重金敦之著、朝日新聞出版2009年2月)

 単なるウンチク本ではなく、すし屋の社会学、すし職人と客にまつわる社会心理学の名著だと思う。この本のエッセンスは、新書につく帯を見れば、おおかた見当がつく。

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薀蓄(うんちく)はあるが邪魔にならない

情報はあるがおぼれることはない

店の名前はあるがガイドではない

カウンターで対決する職人の「プライド」とお客の「わがまま」

無性に「すし」が食べたくなる

古風で伝統的なすしに固執するつもりはないが、いま流行の「なんでもあり」の

すしニューウエーブには、一抹の寂しさを感じる。

志賀直哉から、向田邦子、俵万智まで「すし文学誌」をひもときながら、江戸前ずしの来し方行く末を、すしだねの旬とともに追いかけてみたい。

「すし空間」を引き立てる客と職人の「会話術」

すしというのは不思議な食べ物だ。祝儀・不祝儀、老若男女、上戸・下戸の別を問わない。この日本人のソウルフードが、今や「SUSHI」として世界を席巻している。

すしを食べるとき、知っておくと楽しい「ちょっとおいしい話」。

 構成は、つぎのようになっている。

第一章      すし屋がたどって来た道

第二章      すしだねの四季

第三章      すし屋のプライドとお客のわがまま

第四章      すし屋は何処へ行く

 第一章では、江戸前すしの歴史をたどりながら現代の「すし屋」を分析する。そもそも「屋台」で始まった「すし」は、堅苦しいマナーにとらわれない気ままな雰囲気が魅力のはずだ。それがいつのまにか、日本料理の板前割烹のようになり、茶碗蒸しや煮魚、焼き魚、吸い物をだすようになった。和食の会席コースを食べ、締めに、握りずしを5、6貫つまむというスタイルになりつつある。しかも現在では、著者がいうところの「なんでもあり」になった。すし屋の「しきたり、伝統、習慣、約束事、常識といったものはみんなどこかへ飛んでいってしまった」ようだ。

 どうしてもすしの高級店であれば、一人15,000円や20,000円は覚悟する必要がある。だから、すし屋でさりげなく振る舞うのは、結構難しい。いつかはすし屋のカウンターに座って、「お好み」で食べるのが夢、と思い続けていた人も多いはずだ。実際には、値段が明示された「お任せ」が登場。酒の肴と握りをセットにしたメニューである。

まったく著者の言うとおりで、私などいまだに接待以外で「お好み」のすしを味得あった経験がない。もっぱらセットメニューの「お任せ」である。気楽に味わえる。

 第二章では、気持よくさらっと、すしの旬を閲覧できる。マグロ、初ガツオ、コハダ、白身魚、貝類、イカ、アナゴ・シャコ、ウニ、(海苔、しゃり、ワサビ)など、この部分は、豊富な経験によるウンチクにあふれていて、大変参考になる。

 本書で圧巻なのは、やはり第三章である。すし屋職人と客の心理を細かく描写し、「心理学」的に分析する。“どんな順序に(すしを)食べるのか”という記述は、とても興味深い。

握りずしの華であるマグロから食べるべきだ、と主張する人も多い。(略)いや、締めたコハダから始めて、白身、貝をはさんで、マグロ、アナゴへいくべきだ、という人もいる。これも魅力的だ。だいたいのすし屋は「お客さんのお好きなようにたべればよいのです」という。(略)淡白な白身の魚から始めて、コハダやアジ、カスゴなど、酢で締めたものに移り、マグロを流れの中心に持っていくのもいい。(略)マグロをトップバッターに置くか、四番打者にするかのいずれかだろう。

アナゴのような濃厚で甘いたねを一番打者に起用する人はあまりいないはずだ。アナゴは締めのご飯の位置に置くのが適所かもしれない。最後に、「かんぴょう巻き」か「カッパ巻き」に玉子焼きを頼む人が目につく。

著者は、要するにお客がお金を払って食べるのだから、好きなような順序で食べればよいと結論する。あたり前の話だが、すし屋でその日、最良のバッティング・オーダーを組むのは、結構至難の技である。

第四章の「すし屋は何処へ行く」では、昨今のミシュランガイド東京版での、すし屋の格付けについての描写がおもしろい。星が付いた店に予約が殺到し、ひと月もふた月も先でないと予約が取れなくなった。だいたい2ヶ月先にすしを食べる予定など、立てるのもおかしい。フランスの三ツ星レストランといえば世界中からお客が集まる。石油産出国の富裕層や王侯貴族、新興国の政府関係者、国際企業の経営者などが外交や商用などに使用する。

そこで日本のすし屋は、ミシュランでランク付するレストランとはいえない。本来のすし屋は、カウンター席に一人で行くものだ。本質的に商談、接待には向かない所なのだ。これは同感。著者にいわせれば、すし屋は「課長が部下を引き連れて説教を垂れるところではない」し、「幼児を連れてくるところでもない」そうだ。

しかもすし屋は、客と主人が向かい合うパーソナル・コミュニケーションの形態である。また初めて入った店で味わう客の心理について、つぎのように記述されている。

お客同士が知り合いで、初めての客をいかにも闖入者(ちんにゅうしゃ)という目で見る。そんな店は、やはり店主のお客への教育が足りないのだろう。(略)常連と初めてのお客とを区別しないのが、すぐれたすし職人ということで、職人の人柄も味のうちに含まれているのだ。

まったくとの通りである。これからすし屋に行く前に読んでほしい良書だ。

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《絶滅食堂で逢いましょう》なぎら健壱著【書評】

 サブタイトルが“なぎら健壱が行く東京の酒場・食堂・喫茶店”。おもしろい本である。

おねえさん~ もう一杯もらおうか!

今、訪れておかねばならぬ店がある。今、呑んでおきたい人がいる。

だからほら、アナタも行かなくちゃ。(本の帯)

 と、いうわけで、なぎらさんがたどる一昔前の「東京」の飲食店が、実に25軒も紹介されている。明治、大正、昭和に創業し、いまも残るレトロな店ばかりだ。これらの店は、後継者不足やその土地の再開発の波に取り残され、グラグラしながらも青息吐息で、なんとか営業を続けている。このブログでも書いた、浅草の焼きそば《福ちゃん》や神田のラーメンのうまい《栄屋ミルクホール》も登場する。残念ながら自分で行ったことがあるのは、5軒しかなかった。まだまだ勉強不足である。

 さて「あとがき」で、なぎらさんは主張する。

 

ここのところ、いい顔つきの飲食店がどんどん消えてしまっている。いい顔つきの店とは、時代が感じられる店。経年と共にうらぶれ、末枯(すが)れてきた店。どこか懐かしいメニューのある店。場末のニオイがする店等々。またその空間には“和める”という文字が付きまとう。

 これが(略)『絶滅食堂』なのである。絶滅食堂と言ってしまうと、悪い意味に捉えられがちだが、それは違う。絶滅食堂という呼び方には、愛すべきという言葉が付随している。(略)そして重要なのは庶民の味方である、ということではなかろうか。三ツ星が付く店など、庶民とは縁遠いところにある。(略)

 さらに、この種の店が次々に消えていく中で、なぎらさんは

 今この時期。そうした店を覚えておかなければならない。絶滅してからでは遅過ぎる。人の心から絶滅させてはいけない

----ここにある飲食店は、そんな店たちです。

 フォーク・シンガーであり、タレントのなぎら健壱さんは、独特の下町感覚をもつ。有名人でありながら、ただの酔っ払いのおやじでもある。だからこの本は、説得力があるといえる。ある意味で東京のガイドブックである。

2008年10月発行、徳間書店ISBNコード: 978- 4-19-862626-6)

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ご近所散歩 ちょいと浅草・元祖《来々軒》を捜せ!!【その2】

 《来々軒》(來來軒)については、『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子著、講談社+α文庫)に詳しく紹介されている。現在出版されている「ラーメン本」のほとんどが、日本のラーメンの歴史を語るとき、この小菅先生の著作を丸写しであるほどだ。

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 この本の第二話「来々軒物語」の箇所に、東京ラーメンの元祖として、綿密な取材のもとに東京ラーメンの歴史が語られている。このブログでも何度か取り上げたが、来々軒が開店したのは明治43年(1910)、当時東京で一番の賑わいを見せていた浅草公園。浅草新畑町(しんはたまち)三番地、すしや横町の一角に開店した。創業者は尾崎貫一さんという、元税関の役人だった。

 来々軒が評判を呼んだ秘密はなんといっても本場の味、広東料理にあった。当時の店の写真を見ると、「広東料理」と銘打ち、看板には「シウマイ、マンヂウ、シナソバ、ワンタン」と、いわゆる「点心」を宣伝している。この「シナソバ(支那蕎麦)」が、ラーメンである。営業時間は、11:00から23:00と伝わる。大変な繁盛をし、正月には浅草寺の初詣客が詰めかけたのだろう、1日に2,500名のお客さんが来店したそうだ。

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 もちろんこの「シナソバ(支那蕎麦)」は、鶏ガラ、豚骨、野菜で「だし」をとった醤油味のスープで、「東京ラーメン」の原型である。麺は当初、手打ちで後に機械製麺となるが、自家製。ラーメンの具材は、焼き豚、チナチクに刻みネギとシンプルであったそうだが、焼き豚(チャーシュー)やシナチク(メンマ)にも、十分に手をかけ仕込みに時間をかけていた。残念ながら、元祖《来々軒》(來來軒)はすでに閉店しているが、その「東京ラーメン」の味をいまに伝えるのが、唯一、千葉稲毛区の《進来軒》なのである。(以前、紹介済み)

 以上、この書物は1998年刊で絶版になっているが、古本屋さんなどで見つけることはできる。ぜひ、一読をすすめる。

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六本木のカリスマ鍼師《鍼師 川井健董 治さなければ患者は来ない縁と運》書評

 難病、現代病と壮絶な真剣勝負を繰り広げる

六本木のカリスマ鍼師(はりし)、波乱の治療人生四十年

多くの人に恵まれた「縁と運」

努力と感謝の半世紀(岡田幸夫著、2008年、郁朋社刊)

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Photo  群馬県桐生在住の文筆家・岡田幸夫の最新作を読む。彼の竹馬の友である、六本木のカリスマ鍼師・川井健董(かわいけんどう)の半世紀を描いた作品である。

場所柄からか多くの著名人、芸能人との「縁」も取り上げられている。

 一流の人とは、多くの人々から愛され、そして多くの人々のために生きてこられた方ばかりである。そうした人たちに接すると、人間の生き方について教えられる。

現代美術の村上隆、俳優の勝新太郎、中村玉緒、元総理大臣・小泉純一郎、女優・栗原小巻、女性代議士・加藤シズエ、娘の加藤タキ。

川井の究めた「鍼灸道」に賭ける哲学、ものの考え方、治療法の奥義などが披露される。人生論、人生哲学として読んでみてもよい。示唆に富む人生訓でもある。とくに小泉元首相の座右の銘を紹介する箇所は、示唆に富んでいる。

小泉さんが総理大臣になったとき、川井は色紙をいただいた。『無信不立』である。

論語の『民無信不立』が出展だそうだ。

 弟子の子貢が政治について、孔子に訪ねた。孔子曰く、

 「食料を十分にし、軍備を十分にして、人民には信頼を持たせることだ」

 子貢が、止むを得ず捨てるとしたら、どちらが先かと問うと、

 「軍備を捨てる」

 さらに残った二つのうちではどちらかかと問うと、

 「食料を捨てる」

と、答えた。その理由を問われて、

 「食料がなければ人は死ぬが、昔から誰にも死はある。人民には信頼がなければ安定しない」

政治にもっとも重要なことは、人民(国民)からの信頼だということである。

 確かに小泉さんのやり方には賛否両論あるが、「文字通り実践し抜いたという点で」実績を残している。さらに川井が小泉さんから聞いた座右の銘は、幕末の思想家佐藤一斉の言葉であった。

 「わかくして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」

 これは川井にとっても人生の指針になっているそうだ。なかなか含蓄のある名言である。また、加藤シズエさんが九十九歳のときの会話も興味深い。人間は一日に十回「も感動していれば、年はとらないそうだ。「感動」の具定例としてつぎのような事例も紹介される。

 ---昇る朝日、頬を流れるさわやかな風。草花の葉の朝露、道端に花を咲かせるタンポポ、花から花に舞う蝶。目と目が合うと、「おはようございます」と大声で挨拶をしてくれる子どもたち---。

ふつうの心を持っていれば、感動できることはいくらでもあり、感受性を豊かにして生きていれば、百歳でも青春を持ち続けることができる。

川井は東洋鍼灸専門学校在学中から、マッサージの治療院を開き、有名スポーツクラブに掛け合い、治療院を開業し、仲間に呼ばれハワイに渡ったこともあった。バブルがはじめ、スポーツジムもつぶれ、ハワイではビザの関係で強制送還される経験ももつ。浮き沈みに中で、長年治療を続け、多くの人と出逢い、より多くの縁と運に恵まれた。どんな病気も治すという強い意志は、カリスマ鍼師そのものである。

著者は「あとがき」でいう。

彼(川井)が立派だと思うのは、この道に進んだら全く後ろを振り返らず、全力投球で懸命の努力を重ね、多くの人たちとの縁と運に恵まれ、鍼灸療を天職としてしまったことである。普通の人は、大抵どこかで言い訳をして妥協し、ひとつの限界線を引いてしまう。この範囲の中で出来るだけの努力をしようとする。ところが川井の場合、この限界線がない。(略)

人はその人生に迷うことは、たびたびある。自分のいまの「仕事」が天職だと、自信をもっていえる人が、何人いるだろうか。大きな壁にぶつかったとき、この本に出会えることができたなら、もっともっと人は幸せに生きられる、そんな気がして読み終えた。

若い人にも中年のサラリーマンにも、おすすめの人生指南書である。

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《日本ベンチャー史 零戦から超LSIへ》書評

 岡田幸夫著、《零戦から超LSIへ》(2001年鳥影社刊)を読む。

群馬県太田市にある、いまの富士重工の工場や同大泉町の、三洋電機東京製作所が、かつて日本の航空機産業のパイオニアであった「中島飛行機株式会社」の工場の跡地であった。実際に大田や大泉に行ったことがあるが、現在の工場の敷地も広大である。昨今ではブラジルの日系人も労働者として多数、近辺に在住し、コミュニティさえ出来ている。Zerosen_2

著者は昭和45年(1970)、この大泉の東京三洋電機、半導体事業部に入社した。やがて先輩たちの話から、会社の敷地や建物が、戦前から中島飛行機という日本で最大の航空機生産工場であったことを知る。「ひとつの町であれ、工場であれ、時間を軸にした歴史の因果関係の先に今日が存在する」という認識をもつようになる。つまり今日まで面々と続く歴史がここにあった。そこで著者は自分が「取り組まなければならないひとつの歴史の課題がある」ことに気づく。いいかえれば、岡田自身がプロローグで本書の執筆の意図をつぎのように述べている。

三洋電機に勤務する一社員である著者が、戦前・戦中は飛行機生産工場として、そして戦後は電機工場として、いわば二つの顔をもつ工場の歴史を、それに関する技術開発史、ベンチャー起業史のような意図でまとめたものである。

本書の構成は、中島飛行機、松下電器、三洋電機の創業からの歴史を軸にして、その後の流れを描写する。とくに、中島飛行機の創業者「中島知久平」の生い立ちから、大正末期の中島飛行機の創立、欧米の技術移入から国産化そして昭和の戦前・戦中のトップメーカーとしての同社の存在が、前半の山場となっている。

後半は、電機メーカー大手各社の技術開発や会社としの浮き沈みの歴史を展開していく。恥ずかしい話だが、本書を読むまで三洋電機の創始者・井植歳男が松下幸之助の義理の弟であり、松下を支えていた存在であったことなど、知らなかった。

やはり後半部については、トランジスタ、ラジオ、テレビ、IC、半導体、電卓、パソコン、LSIと、現代では欠かせないキーワードが、たくさん出てくる。おそらく超LSIへ続く起業家たちの大切な業績なのだろうが、あまりにも各種エピソードを詰め込み過ぎの感は否めない。残念ながら、飛行機や松下電器などの創成期の歴史を雄弁に語る前半部とやや饒舌な後半部とでは、読みやすさが違う。極端にいえば、飛行機生産と松下・三洋の部分に特化した歴史でもよかったのではないだろうか。したがって、全体としてはエンジニアや技術系の方々には、当然のように評判がよくても、われわれ素人には、労作ではあるけれど、どうにもわかりにくい本である気がしてならない。

個人的には、私の兄も大手電機メーカーの技術系研究者である。難解な専門書も数冊出版し、学会で発表している。いまでも世界各国を飛び回っている。また東京八王子出身の85歳になる母は、女学校を出てから立川にあった「中島飛行機」の、恐らく出張所で働いていたそうだ。亡き父は、第二次世界大戦に出征し、復員後は進駐軍のいた羽田飛行場(空港)で飛行機や車の整備関係の仕事についていた。本書を読んでいくと、そんな身近な縁を感じ、ある種の親近感で読了できたのかもしれない。

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庄内武士の歩んだ糸の道《気節凌霜道はるかなり》書評

 《気節凌霜(きせつりょうそう)道はるかなり》は、前作の《西の西陣 東の桐Photo_2 生》正・続と合せ、岡田幸夫の「織物三部作」と呼ばれる作品だ。(郁朋社刊)サブタイトルに

「庄内武士の歩んだ糸の道」とあるように、庄内(山形県)の武士たちが幕末から明治時代を通して、養蚕にかけた歴史を小説にしたものである。「松ヶ岡開墾場」が舞台である。松ヶ岡には、戊辰戦争に破れ賊軍の汚名を着せられた旧庄内藩士三千名が、広大な原野を開墾し、桑を植え、蚕室を建設し、養蚕業に取り組んでいった史実がある。

 庄内には養蚕のための技術がなかったため、上州の島村(群馬県伊勢崎市)へ実習生を派遣する。養蚕の道具については、島村から職人を呼び寄せる。器械製糸業の導入には、指導を受けるため富岡製糸場から人を招く。さらには欧米への輸出用の羽二重の生産。主人公の庄内藩士・五十嵐文太郎とその次男吉助の生き方を通じて、著者は詳細な時代背景の描写も忘れない。自分たちの利益、私利私欲のためではなく、近代国家建設のために、たゆまぬ努力を重ねていったのだった。武士の魂が生き続けていた。

 開墾の本義は、徳義を基にして不毛の地を開墾、報国のために産業を振興し、賊軍となった国辱をそそぎ、武士の見本、天下の模範となる

そして岡田幸夫は、本書のあとがきで執筆の動機を明らかにする。

養蚕・製糸・織物は、日本人が有史以来かかわってきた主要な産業であった。ほとんど文化といってよい。また、幕末の開国以来、これらの産業がどれだけ日本の近代化に貢献してきたのか、どれほど評価しても過ぎることはないであろう。

また、この本を読んで最大の発見は、西郷隆盛と庄内の結びつきであった。書名の「気節凌霜」とは西郷隆盛が、原野を切り開こうとする旧庄内藩士を元気づける(叱咤激励する)ために贈ったことばに由来する。“気節凌霜天地知(きせつ・りょうそう・てんち・しる)”という。「艱難辛苦(困難)に直面してもそれを凌(しの)ぐ強い心意気・意志があれば、天は見ていますよ。必ず苦労に、こたえてくれるものです」といった意味だろうと思う。詳しくは、本書をぜひ読んでほしい。

庄内に旅をしたことがある。おもに酒田と鶴岡そして湯野浜温泉と温海(あつみ)温泉を訪ねた。「松ヶ岡開墾記念館」や「映画『蝉しぐれ』資料館」も見学した。いまも残る大きな木造の養蚕用の建物が五棟、事務所であった本陣もあった。庄内藩主の末裔・酒井天美(あまみ)さん[酒井家奥方、松岡物産社長]と娘の酒井賀世(かよ)さんに案内していただいた。もしその当時、《気節凌霜道はるかなり》が出版されていて、読むことができていれば、どれだけ歴史の感動に出会えたことか。芋煮汁を肴に酒田の駅前の居酒屋で飲んだ、地酒「初孫」のうまさもきっと倍増していたに違いない。

(写真:松ヶ岡開墾場 鶴岡市観連盟提供)

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桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その2】

 桐生織物の技術と歴史の変遷を描いた続編、《続・西の西陣 東の桐生》(岡田幸夫著、上毛新聞社刊)である。前書に続いて、(続)では、江戸時代末期・幕末から明治維新、明治・大正・昭和の時代をたどっている。構成はつぎのとおりだ。

1 生糸こそ国の繁栄の道でございます     Photo

2 職人たちが切り開いた近代化

3 立ち上がった起業家たち

4 着物ブームの到来

5 伝統の継承と新境地

 続編はまず「ペリー提督」の艦隊が浦賀に姿を見せるところから始まる。例によって、背景となる大きな歴史の流れを押さえ、各論として織物技術に貢献した人物を取り上げていく手法だ。徳川幕府はペリー来訪により大混乱の中、嘉永七年、日米和親条約を締結。さらに安政五年、日米修好通商条約を結ぶ。

もはや「鎖国」ではない。アメリカとの貿易が開始される。当時の日本からの輸出品の79%が「生糸」であり、花形商品となった。この生糸を早くから商っていたのが、横浜に出た上州商人・中居屋重兵衛であった。重兵衛は、外国奉行を訪ね、“「これから諸外国へどしどし生糸を売らねばなりますまい。生糸こそ国の繁栄の道でございます」と説いた。”実際に上州は、横浜に比較的近く、利根川水運を利用し、輸出用生糸シエアの半分を占めたそうだ。

 さらに明治新政府は“蚕糸業(さんしぎょう)を振興することによって外貨を獲得し、富国強兵策の財源にあてようと”する目的で、日本で最初の「富岡製糸場」を建設する。

わが国“最初の近代化事業”の施設としたのである。

この本を読んで、驚いたのが富岡製糸場の様子である。この工場の勤務体制だが、仕事は一日八時間労働、週六日制。工女たちは全員寄宿寮に入ったが、一部屋(六畳)四人、工場内には病院もあり、フランス人の医師もいた。断じて、「あゝ野麦峠」の《女工哀史》の世界ではなかったようだ。

それもそのはず、明治のはじめに富岡で紡績技術を習得した彼女たちは、出身各地に帰り、絹織物の指導者になったそうだ。この富岡製糸場は、明治五年の開業(1872)以後100年余、現役の製糸工場として働き続け、近代日本の曙を担ったのだった。

 二章では、日米修好通商条約批准のために、安政七年(万延元年1860)、日本ではじめてアメリカを公式訪問した「遣米使節団」の話が取り上げられる。一行はアメリカの軍事施設や造船所などを訪問し、度肝を抜かれる。その中に「小栗忠順(おぐりただまさ)=上野介(こうずけのすけ)」がいた。小栗は「もはや攘夷の時代ではない。近代的造船所が日本にも必要である」と強く認識する。帰国後、勘定奉行の任につくと、小栗は反対論の多い中、資金面ではフランス公使と交渉し、「生糸」を輸出する見返りに204万ドルの借款を得て、建設を進めた。だが、しかし徳川幕府の崩壊と共に、追われる身となった小栗は、領地の上州権田村で斬首されてしまう。明治四年(1871)の造船所完成を見ることはできなかった。その後、明治・大正・昭和に渡り、造船王国日本を支えてきたのも、この横須賀造船所であり、“小栗はまぎれもない、時代の先覚者だったのである。”

 ここで著者の筆が冴える。“語る場所も機会も与えられず、歴史に殉じて死んでいった人たちの心に思いをめぐらさなければ、歴史を読み誤るだろう。”とても含蓄あることばである。

 さらに「殖産興業・富国強兵」の道を進む日本。近代化を進める中で、西陣から海を渡り、フランスで修行をした職人(職工)も数人いた。やがて帰国すると、彼らは習得した織物の最先端である「ジャカード機」などの技術を日本へ紹介。さらに国産機械の製作へと進む。桐生で最初に生産した「羽二重」も輸出品となっていった。

 “織物史をひとつの生地にたとえるならば、時代や環境を経糸(たていと)として、横糸は人と人の出会いや運命という赤い糸で、変化に富んだ模様に彩られている思いを強くするのである。思えば人の絆(きずな)という文字も、そうしたことを暗示しているように思えてならない。”この表現が、たまらく好きだ。

 さて本書は「西陣」と「桐生」を対比させながら絹織物の近代史をたどっていく。根本に流れるのは、“日本における織物産地の王者、横綱はやはり西陣である。”といった基本理念だ。“西陣の心ある織元たちは、いつも高い目標を持ち、それに挑戦を続けている。新しい技術の開拓と進歩が西陣を伝承する方策だと信じている。そこから、染み出してきた技法が、西陣織にまた新しい息吹を与えている。”

それは、著者がいうように、いつの日か、西陣を支持してきた「日本人の美意識や本物志向(粋、心意気)」が消えてしまうと、文化の衰退という意味で、西陣も過去のものになってしまうことへの警告でもある。

本書の表題《西の西陣 東の桐生》は、対決の図式ではない。桐生の織物は“少しでも西陣に近づこうと努力してきた。明日は檜(ひのき)になろうとする、いわばあすなろ精神である。”その意味で、この表題は“桐生人たちの心意気”をあらわしている。

桐生における織物の歴史経過を正当に評価し直すために、それぞれに活躍してきた人々を取り上げ、まとめることが、著者・岡田幸夫の執筆意図ではなかろうか。

 過去を見つめ、明日を、未来を、「桐生」という「地方」から考えてみるきっかけになる本である。

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桐生織物の歴史《西の西陣 東の桐生》書評【その1】

 群馬県桐生市は、浅草から東武線の特急「りょうもう号」で1時間50分程、伝統的な上州の織物の町である。桐生近辺には渡良瀬川沿いに観光スポットがある。足尾銅山、草木ダムに富弘美術館などへは、何度か足を運んだ。また、やや山奥だが、梨木(なしき)温泉もあり、入浴して名物のキジ鍋を食べた旅もあった。自然な山々と季節に応じた景色が楽しめる場所である。

 桐生は平成17年6月、近隣の新里村・黒保根村を吸収合併し、人口128,000人の町。江戸時代頃から西の西陣に対し、「東の桐生」という心意気で、織物産業を発展させてきた。そんな桐生の「織物」の歴史や郷土の人々に焦点をあて、丹念に調べ、書き起こした書物に出会った。《西の西陣 東の桐生》(正・続)、岡田幸夫著、2006年上毛新聞社刊である。

 ほとんど一般的ではない地方の歴史や文化を知ることは楽しい。《西の西陣 東の桐生》は、つぎのような構成になっている。

1 新町の創設 

2 天下の西陣

3 昇竜の発展期

4 田舎絹から名産地へ

5 桐生新田屋

6      崋山の見た桐生

大きな日本史の潮流や時代背景をきちんとおさえてから、その地方の「織物」に関わる歴史やポイントとなる人物を取り上げる手法で書き進む。だから本当に読みやすい。ちょうど江戸時代の幕末近くで、二部作の(正)が終わる。とくに各章末のコラム(エッセイ)が親切である。これは絹織物の作業工程をたどるもので、「繭、糸、織、染、文、新」と続く。

「繭」の項では“蚕(かいこ)は桑の葉をどんどん食べて育つ。(略)一月足らずのうちに、体積で千倍、重量で一万倍の大きさに成長する。(略)しかもものすごいスピードで桑を食べ、その音がザワザワと雨音のようだ。”と教えてくれる。

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内容では「5 桐生新田屋」がおもしろい。吾助という架空の人物(おそらく桐生では何人も実在したであろう事業家の一人)を主人公にしたミニ小説なのだが・・・。

“どのような産業も、優れた製品をつくることだけでは産業にならない。商品に見合った販売があってはじめて成り立つ。桐生の織物においては、販売は買継商(かいつぎしょう)と呼ばれる人たちがあたった。”

桐生新町に育った吾助は、十五歳で買継商に奉公に出る。店の主人の好意で寺子屋にも通わせてもらい、吾助は熱心に勉強もし、もちろんまじめに働く。将来は自分で店を持ち、江戸に出たり日本全国を行商に歩きたいと夢を抱く。奉公して三年を経過したころ、商売で江戸へ行かせてもらった。桐生織物の大きな市場は、花のお江戸である。浅草の雷門から、浅草寺へ行く。お参りが目的ではなく、集まってくる江戸の人たちが、どんな着物を身につけ、はたまた流行はなんだろうと、調べるのだった。大事なことは、消費者の求める着物、売れる商品を織ってもらい、流通にのせることだった。

やがて信用を得て、五年が経過、吾助は主人から京都・西陣へ修行に行くように命じられる。京都の問屋での修行が始まる。少し慣れてくると、桐生と西陣の格の違いに気が付く吾助。“考えてみればそれは無理からぬことであった。西陣には1000年、日本の都で織物を生産してきた長い歴史がある。桐生は、西陣から技術を学び、中級以下の織物を生産しているだけだ。”

“織物の材料や道具は(西陣も桐生も)変わりはしない。違いは人の姿勢であり。”吾助は気づく。その後、桐生に戻った吾助は、独立し、機屋(はたや)を始める。気配りのできる嫁をもらい、益々、事業は伸びていった。“(織物は)製造ありきの発想ではなく、どのような商品がお客に受け入れられるか、いわばマーケットイン型の商品企画が”必要なことは、京都の問屋での経験で知っていた。そして吾助は、“西陣を超えるもの”をつくることになる。帯が、将軍の「お召し」の品となったのである。(御用達というところだろうか)続きは本書でどうぞ。

 著者の筆が、ぐいぐい読者を引き寄せる本である。

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《旭山動物園》について考える

 旭山動物園は確かに魅力がある。東京から、全国から高い航空運賃を払ってでも、行きたい施設になった。大人が、行っても十分に楽しめる。しかも真冬の氷点下でも行きたいと思う。

 この動物園の「復活物語」は、ここ数年、テレビや雑誌で嫌というほど、宣伝されているから、知らない人はいないほど、人気動物園になった。

 自分自身でも二度、入園した。前にも書いたが、2年前に行った時の方が、園内で誘導するボランティア職員の方々が、親切だった。いまは、入園者が飛躍的に増加したためか、人をさばくので精一杯の様子。なんとなく動物たちも同じように、以前より人間たちに、観光客に「慣れた」ような気がした。

 この動物園に関する書物をいくつか読んだ。最初に手にしたのが、小菅園長の書いた『<旭山動物園>革命』(角川書店)。この本は、「夢を実現した復活プロジェクト」とサブタイトルがついている。どん底の状況から、アイデアを出し合い、「行動展示」の新しい動物園をつくっていく過程が熱意をもって描かかれている。一般社会にも参考になるようなビジネスモデルとして読んでもよい。

 『旭山動物園の奇跡』(扶桑社)は、「日本最北の弱小動物園が日本一になった感動秘話」とある。いまや『あらしのよるに』など、絵本作家と人気のあべ弘士(あべひろし)さんが、旭山の飼育係であった時に残した、動物園の未来像をかいた「14枚のスケッチ」の話も載っている。本書は、エピローグで「地道な努力を続けてきた旭山動物園の理念は、本物志向の現代になって、ようやく時代が追いついたのかもしれない。旭山動物園の奇跡は、まだ終わらない。」と結論する。写真もふんだんにあり、や各施設の紹介も丁ねいな本だ。

 いま読んでいるのが、『戦う動物園』(中公新書)で、旭山の小菅正夫園長と北九州の到津(いとうづ)の森公園(動物園)の岩野俊郎園長の口演や対談を、サル学者の島泰三がまとめたものだ。二つの動物園の「復活」への歴史が語られる。

 以上、最近のブログのコメントにお答えする形で、今回は書いたつもりだ。決して単純な思いつきで《旭山動物園》について語ったわけではない。実は、2年以上前から気になっていたネタである。

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《恋するフェルメール》有吉玉青著、白水社刊

 《恋するフェルメール》「36作品への旅」と題して、寡作な画家・フェルメールの作品を訪ね歩いた作家のエッセイである。昨年出版された『フェルメール全点踏破の旅』 (集英社新書ヴィジュアル版、朽木ゆり子)と同系統の書物といってしまえば、それまでだが、《恋するフェルメール》は、フェルメールに対する有吉さんの素直な気持ちや思い込みが随所にあらわれ、「読物」としておもしろい。

 それにしても驚いた。有吉さんはこの本の中でも紹介しているが、オランダのハーグで開催された「大フェルメール展」をみるツアーに参加して、一挙に23点のフェルメールをみている。実はそのときの添乗員が私である。

 有吉玉青(たまお)さんは、大物作家・有吉佐和子の一人娘だ。早稲田の哲学科を出て、東大の美学藝術学科に学士入学して卒業。その後、ニューヨークに留学。母親ほど多くの作品は、書いてはいないが、エッセイには、不思議な魅力がある。

 正直なところ添乗中は、彼女が大作家の娘とは知らなかった。そのころ、彼女はすでに結婚されていて、苗字が違っていた。しかしきれいな人だと思った。しかもオランダでは、美術館のショップで流暢な英語を使い、南フランスでは、きれいなフランス語で食事の注文をされていたのを目撃し、ただものではない、と直感。帰国するやいなや文学好きの、わが妻に「○○玉青さんというきれいな人が、お客さんにいたよ」と話題にすると、すぐさま、「有吉玉青さんでしょ」と妻は、坪田譲治文学賞をとった『身がわり 母・有吉佐和子との日日』の作家であると断言した。(妻の話では、たまに雑誌で対談をしたり、短いエッセイを書いているという)

 そんな玉青さんに、三年後、添乗中、函館国際ホテルのロビーで偶然お会いした。再会である。彼女はちゃんと「フェルメールのときの添乗員さん」を覚えていてくれた。雑誌の取材で来ていたようだ。やはりきれいな人だ。

 そしてさらに八年後、《恋するフェルメール》「36作品への旅」に出会った。

なんと、この本の「あとがき」にこんな一節がある。(フェルメール作品に対して述べているのだが・・・)

旅をする中では、はからずも再会したものもあり、そのたびに発見があった。

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《ハワイの歴史と文化》矢口祐人著(中公新書)

 東京から人気のハワイ・ホノルルまで6,216km、飛行機なら約7時間で行く。時差があり、ハワイは日本より19時間遅れである。夕方から夜、成田を出発しても時差の関係でホノルルに到着するのは、「同じ日」の朝になる。なんだか得をしたような気分になるが、帰りは逆に日付変更線を通過するため、午後1時頃ホノルルを出発すると、約8時間のフライトだが、成田到着は翌日の午後4時過ぎとなる。

 いまや第一級のリゾート地として、南国の楽園の代表格のハワイだが、実は私たちの知らないハワイの実像がある。観光ガイドブックでしか、知りえなかった「ハワイ」について、いうなれば「ハワイ学」といった新しい切り口を示唆してくれる本がある。Photo_185

 《ハワイの歴史と文化》(2002年刊)は、「悲劇と誇りのモザイクの中で」というサブタイトルがついている。著者は、この本を執筆するにあたり、“バカンスを楽しむリゾート地というイメージばかりが強調され、ハワイ社会をより広い意味で知ろうとする努力はあまりされていないのが現状だ。”といった“問題意識に立ち、ハワイ社会の歴史と文化に焦点をあてる”本書の趣旨は“世界の政治・経済の流れから無縁の、浮世離れした「楽園」というイメージとは異なる”ハワイ像を提供することにあると、著者はいう。(同書プロローグより)

 論の進め方としては、“ハワイを主に日本との関係のうえで考え、19世紀以降のハワイの歴史を移民戦争観光という三つの流れのなかで捉える”という手法だ。なぜなら“これら(三つの流れ)は過去150年ほどのあいだ、ハワイにもっとも大きな影響を与えてきた事項”であるからである。これらを“時系列的に”論じ、最後に“ネイティヴ・ハワイアンの歴史と文化”について、取り上げている。

 内容は前述のように四つの章で展開されている。

第1章 移民たちのハワイ(サトウキビとピクチャーブライド、移民到来、日本人移民の生活、戦後の日系アメリカ人)ハワイ移民史全般の紹介をしている。

第2章 リメンバー・パール・ハーバー(パール・ハーバー攻撃の日、戒厳令下のハワイ社会、戦時下の日系人、戦争の言説)加害者側の行為とその意味、ハワイにとっての第二次大戦の意味、ハワイと軍事の関係について考える。

第3章 「憧れのハワイ航路」(日本からのハワイ観光、ハワイ観光団、バブルとハワイ観光、観光王国ハワイ)観光地としてのハワイがどのように形成されてきたか。観光がハワイにもたらす影響と今後のハワイ観光について考える。

第4章 これからのハワイ(南の島のハメハメハ大王、ハワイ小史、;あらたな「伝統」)

ネイティブ・ハワイアンの歴史を概観しながら、変容していくハワイ社会を考える。

(※各章のコメントはたろべえ要約)

 

 なかなか読み応えのある本である。とくに、移民史は私も興味をもっていた映画

「ピクチャー・ブライド」を軸に取り上げ、話をすすめていくあたりは、わかりやすかった。(しかし映画をみていない人にとっては、理解しにくいかもしれない)

 さらに新書版のため、内容も凝縮されてしまうのだろうが、白檀貿易、捕鯨、砂糖きび産業、パイナップル産業、軍需産業、観光産業といった19世紀以後の「ハワイ産業史」が、もう少し整理されていれば、よかったと思う。これからのハワイといった視点の将来展望についても具体的な提言がされていれば、なおよかったのだが、このあたりはわれわれ観光業にたずさわる者の使命かもしれない。おすすめの1冊である。

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《山本勘助》に出会う 「信濃路の風林火山」山本勘助とその舞台(信濃毎日新聞社)書評

 このブログでもたびたび「風林火山」あるいは「山本勘助」関連の書物を紹介してきた。先日、長野で購入した1冊は、至極の出来である。現地にしっかり根をおろす、信濃毎日新聞社の本である。《信濃路の風林火山》というタイトルだ。1,260円。中身は、長野県内の信玄および勘助ゆかりの地の丹念な取材に裏打ちされている。諏訪、上伊那、佐久、小諸そして上田。松本、安曇、木曽ときて、川中島で締めくくる関連史跡の紹介がおもな内容だが、他書にはない詳しい現地の紹介は、すばらしい。Photo_161

 とくに「あとがき」で“ロマンを秘めた人物――山本勘助は何者であったか?”は印象深い。少し長くなるが、この本の本質をついているので引用する。

 

歴史的には謎の人物とされる勘助。(略)江戸時代には有名なヒーローだった。多くの軍記ものにも登場し、伝説も生まれた。(中略)

 『甲陽軍鑑』に描かれる勘助の活躍は、ただ一人の人物に集中される話というより、多くの武将たちの生きざま、活動を集約したような印象を受ける。たくさんの勘助的な人物がいて、武田信玄を支えていた、その代表格として勘助という人物が描かれた、と解釈することも可能である。

 山本勘助は、戦国時代に生きたさまざまな人々に光を当てる、そんなヒントを与えてくれる人物だったのではあるまいか。武田信玄という実在した英雄の活躍を太い縦軸にして、無名の人々が織りなす歴史全体について、不思議なロマンを感じてもらえれば幸いである。(金子万平)

 金子さんの書いてあるとおりだと思う。山本勘助は、確かに平和な江戸時代につくられた英雄だったかもしれない。史実の裏付けが少ないかもしれないけれど、こんなユニークな人物がいても、まったく不思議はない。むしろ太平天国であった江戸の時代には、一見、風貌も悪い、破天荒な勘助的人物が登場する待望論があったのではないか。

 

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《藤沢周平》に凝っています

庄内(鶴岡)と《藤沢周平》

 「たそがれ清兵衛」や「蝉しぐれ」、そして最近映画化された「武士の一分」などの原作として人気の作家・藤沢周平(1927年~1997年)は、山形庄内の出身である。

山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市高坂)の農家に生まれた藤沢は、苦学して県立鶴岡中学の夜間部を出て、山形師範学校(現山形大学)に進み、卒業後は地元の中学の社会と国語の教師になった。だが、まもなく肺結核を患い東京の病院で5年間の療養後、業界新聞の記者として数社を転々とする。作家デビューは、ほぼ40歳後半頃といわれ、オール読物新人賞受賞後、1970年直木賞をとり、時代小説家として認められる。

 歴史小説の舞台は、ほとんどが庄内藩をモデルとした「海坂藩(うなさかはん)」である。藤沢の描く物語は、登場人物が英雄でもなく偉大な業績を残したヒーローでもない。名もなき下級武士や体制の中で必死に生き抜く人々に焦点を当てている。どうしても人間として、忘れてはならないものや失ってはいけない大切な心を追求し、多くの作品を世に残したことで知られる。それは、時代小説の枠組みを超え、テレビドラマや映画の映像化によって、ますます人々に共感を与えている。

『蝉しぐれ』

 牧助左衛門の養子文四郎は十五歳である。午前中は居駒塾で経書を学び、午後は石栗道場に通うのが日課だ。初恋の相手、隣家の幼なじみ「おふく」と夏祭りに出かけ、親友たちに冷やかされ、悪童たちには、日頃の秀才ぶりがねたまれ、したたかに殴られたりした。

 平凡な日々が過ぎていくある時、文四郎の父助左衛門は藩に反逆した罪で切腹を余儀なくさせられる。百人町の龍興寺は、耳にひびくほど蝉の鳴き声に満ちていた。文四郎は父の遺体を引き取り世間の冷たい視線の中、荷車を引いて、組屋敷の家まで帰る。

 家の前まで来た時、ふくが一緒に涙を流しながら梶棒を引いて手伝ってくれた。蝉しぐれの中だった。

 そのふくもやがて江戸の藩邸に奉公に出て行った。断絶は免れたが、家禄を減らされ、文四郎は母とともに長屋に移る。さらに剣術と勉学に励んだ。そして父が藩の内紛に関係して切腹せざるをえなかった事情がわかり、次席家老・里村左内から牧家の復縁の沙汰が出る。文四郎は剣の腕を上げ、秘剣村雨の極意を受ける。

 ふくは、そのころ藩主のお手つきとなるが、藩の世継ぎ騒動に巻き込まれ、海坂藩金井村の欅御殿に戻され出産する。(お福となる)里村次席家老一派は、お福母子の抹殺を計画し、その刺客に文四郎を指名するのだった。そのために牧家を復縁したのだ。陰謀を知った文四郎は、元首席家老の助けで窮地を脱し、お福とその子を里村一派から救う。

 二十年後、領内の湯宿で尼になろうとしている「お福」と郡奉行に出世している牧助左衛門(文四郎)は、若かかりし頃の青春時代から抱き続けていた想いを果たすことができた。やはり、蝉が鳴いていた。

「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」

「それができなかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」

「ほんとうに?」

「・・・・・・」

「うれしい。でも、きっとこういうふうに終るのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから。はかない世の中・・・・」

しばしの時が過ぎ、お福は

「これで、思い残すことはありません」

(参考文献:山形新聞社編『藤沢周平が愛した風景』祥伝社刊、会話文は『蝉しぐれ』文芸春秋社文春文庫より)

    DVD『蝉しぐれプレミアム・エディション』4,935円税込みSemi_jk

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《山本勘助》に出会う 山梨日日新聞社刊『山本勘助』書評

 最近、山梨日日新聞社から「勘助探求の決定版」と銘打った本『山本勘助』が出版された。山梨県内の限定発売?のため、さっそく同新聞社の出版局へ問合せをし、送っていただいた。Photo_131

本の帯には【第一線の武田氏研究者が史実を開明。山梨、静岡、愛知、長野・・・。伝承する人々の思いを取材。「謎の軍師」の実像に迫る。】とある。

主な内容は、第一章が「勘助を追う」と題し、山梨日日新聞の平成18年10月31日付から12月10日付連載コラムを載せてある。第二章の「勘助を継ぐ」は、月刊誌『ザやまなし』の18年1月号から11月号までの記事を加筆・編集してあり、付章では、「勘助を歩く(資料編)」となっている。

 とくに第二章では、山梨をはじめ、山本勘助ゆかりの地を丹念に現地取材して、わかりやすくまとめている点は、見逃せない。写真も豊富で読みやすい。

歴史、ことにある人物に焦点を当てて、その人を語る場合、古文書などの文献に、まずあたり、次に実際にその人物の生い立ちや生涯でしるした足跡を調べることは不可欠ではないだろうか。その地へ行くと、書物では決して見えなかった「風景」やその人物を育てあげた「風土」に触れることができるように思う。いわば机上の学問ではなく、生きた思想に出会う。

 ちなみにこの本の表紙の写真は、山梨県甲州市塩山三日市場・小屋敷の「勘助不動」である。おそらく、現在に伝わる「山本勘助」のイメージやキャラクターそして勘助関連の伝承は、江戸時代の甲陽軍鑑版木本、数々の軍記物そして歌舞伎と人形浄瑠璃によって、つくれたものである。しかし、400年以上もの間、人々の心に面々と生き続けるのも「謎の軍師・山本勘助」だ。それだけ庶民を魅了し続けている。近年では、小説、映画、テレビドラマも同じ流れである。これだけ考えてみても、価値ある人物に間違いない。ぜひ、おすすめの1冊である。

    山梨日日新聞社刊『山本勘助』平成18年12月31日初版第1刷発行

    電話055-231-3105

    1,333円(税別

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《山本勘助》に出会う 「山本勘助」平山優(講談社現代新書)書評

《山本勘助》に出会う 「山本勘助」平山優(講談社現代新書)書評

 おそらく現在出版されている「山本勘助」関連の一般向書物では至極の出来である。本の帯に“戦国最強、風林火山。その礎を築いた「軍師」が武田信玄に授けた哲学を初めて克明に再現する決定版!”とある。Photo_117

 いままでの先学達の山本勘助研究を丁寧にたどり、それでも『甲陽軍鑑』に拠り所を求め、丹念に調べている姿勢がみえる。おまけに『市川文書(市河文書)』に関する記述も詳細でわかりやすい。何より感心するのは、これまであまり紹介されていなかった「勘助」の兵法や城取り・縄張り(築城術)について、図解を交え、解説している点である。

 さらに『市川文書』については、その当時の武田方の情勢分析や市川藤若の時代的位置までも言及する。

 「市川文書」の発見の衝撃(序章)の項では、市川家の歴史的バックボーンを説明する。市川家の祖先は、信濃国高井郡市川谷(長野県飯山市)に勢力をもっていた国衆(豪族)であり、弘治2年(1556年)武田信玄の誘いに応じ、市川孫三郎が武田方にくだり、領地を拡大した。その後、家督を相続した、市川藤若は、第三次川中島合戦による長尾景虎(上杉謙信)の攻勢により、市川谷、野沢(野沢温泉三浦)などの木島平の領地を失う。しかしながら、武田方の支援のもと、なんとか領域を死守する。

 武田家滅亡後、上杉景勝に従属し、景勝の転封とともに会津に移住。関が原の戦いの敗北により、上杉家が東北、米沢に移されると、市川家も米沢藩士として江戸時代を過ごす。その後、明治維新の廃藩置県により、身分を失い、市川家は「屯田兵」として、北海道へ渡る。このような関係で釧路の市川家には、武田・上杉両家の古文書が保管されていた。(米沢の本間美術館には、市川文書が多数残されている)

 そんな中で昭和44年、「山本菅助」文書が発見された。上杉方の攻略に対し、市川藤若は(武田方の北の)最前線をなんとか守り抜いた。さもなければ、武田の領地は一気に川中島まで押し戻されてしまっていた。そんな状況下での書簡であった。重要な指示には、必ず「使者」がいた。文字通り、信玄の意図を正確に伝えるための、重要な使者が勘助であった。この本は、歴史を体系的に理解する意味でも、ぜひおすすめである。

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《山本勘助》をめぐる三冊の本 書評

 書店に並ぶ風林火山や山本勘助関連の書籍がふえた。最近、読んだ中で若干コメントをしてみたい。たろべえは、大学時代、文学部哲学科で「日本思想史」を専攻した。机の上の空論ではなく、実証的な学問の仕方を学んだつもりだ。そこで今回、三冊を紹介する。Vfsh0209_edited

○ 『山本勘助』上野晴朗(新人物往来社)

真実の山本勘助を描いた唯一の歴史書と、帯にある。さすがに勘助研究の第一人者といわれる上野先生の基本が「フィールド・ワーク」で、生誕地から墓所まで、勘助の活躍ぶりを『甲陽軍鑑』のエピソードに焦点を当て、実に丹念に現地調査をおこなって、調べて書いている。北杜市蔵原の山本道鬼(勘助)の屋敷墓の発見もある。

「一等史料のほとんど存在しない、伝記的要素の歴史を書くということは、自己自身に対する告白のようなものである。」
「(略)本書は物語ではなく、あくまで歴史書である。歴史をさぐるドキュメントとして書いた。(略)」(あとがきより)読み応えがある。

○ 『山本勘助はいなかった』(「風林火山の真実」)山本七平(ビジネス社)
本の帯に“「M&A時代」のトップリーダーは武田信玄の「乱世の帝王学」に学べ!!”とある。山本七平といえば、キリスト教や聖書にも造詣が深く、独特の歴史観で西洋と日本の文化を比較文化論で分析する手法だ。しかし。この本はタイトルにだまされた。実は、1988年発刊の「山本七平の武田信玄『乱世の帝王学』(徳間文庫)」を焼き直したものだ。しかも本人がことわっているが、信玄の領国経営に関する記述は、上野晴朗氏の各種資料を参考にしたものである。
 山本勘助に関する記載は、第6章のみ。おもな主張はこんなところだ。

「信玄の側近に影のごとく付き添って補佐していた人物がいたとすれば、それは情報、謀略活動の機密要員だったはずである。従って勘助は一人ではなく、五人も十人もいてよいのである。」
 ただし、「武田騎馬軍団」に関する記述は、山本氏の太平洋戦争従軍経験から
(山本氏は大砲を馬にひかせて移動する任務の部隊)実に興味深く、分析されていておもしろい。映画やテレビドラマと違って、鎧兜(よろいかぶと)の重装備の武士を乗せ、馬は走れないそうだ。軍馬の最大の効用は、山間部での兵と物資の輸送であったそうだ。しかも甲斐・信濃には馬の食料「牧」も豊富にあり、兵農分離以前の農民兵士は、短命な馬とのつき合い方も心得えていたそうだ。総合的には「だまされた」が、内容はビジネス書でおもしろい。

○ 『軍師 山本勘助』(語られた英雄像)笹本正治(新人物往来社)
山本勘助を理解する根本史料『甲陽軍鑑』を読み、勘助の実像に迫り、戦国時代の実態をつかむ目的で書かれた。帯には“山本勘助とは何者か 武田氏研究の第一人者による、待望の書き下ろし”とある。『甲陽軍鑑』における勘助の記述に丹念にコメントされていて、読んでいて勉強になった。また上野晴朗氏の説への反論もある。

「『甲陽軍鑑』に記された山本勘助は魅力的であるが、描かれた活動の事実については否定的立場に立たざるをえない。一つ一つの事績を当時の歴史事実、社会現象から検討すると、ほとんどが史実と合致していないのである。
 (略)市河藤若宛武田信玄書状に見える「山本菅助」の存在が事実でも、彼を『甲陽軍鑑』の山本勘助と同一人物、あるいはそのモデルだとすることには躊躇を覚える。」(あとがきより)

山本勘助に関する、いい加減な雑誌や文庫本を読むのであれば、この三冊を読み比べていただきたい。(もちろん、まだまだ内容のある関連本は多数あるが)

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